プロデューサー 〜伊藤 八十八 氏スペシャル・インタビュー

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2006/08/25 (金) - 02:45

プロデューサー 〜伊藤 八十八 氏スペシャル・インタビュー伊藤八十八インタビューメイン 先日お送りした伊藤八十八氏"卒業"記念パーティー「真夏の夜のジャズ」のレポートに引き続き、プロデューサー 伊藤八十八氏のインタビューをお送りします。日本フォノグラムに入社以来、アルバム・プロデュース作品は国内外を合わせ約350点、洋楽編成時代に担当した作品は約3,000点を超えるという伊藤氏に、今までのキャリアを振り返って頂きつつ、今後の抱負を伺いました。

[2006.8.24 ソニー・ミュージックスタジオにて]
プロフィール
伊藤 八十八(いとう やそはち)

 
1946 年岐阜県生まれ。早稲田大学在学中、ニューオルリンズ・ジャズ・クラブに在籍、その頃からJAZZに傾倒する。大学卒業後、入社した日本フォノグラムにて洋楽ポピュラー編成部に8年間所属し、ポール・モーリア、ニュー・シーカーズ、スコット・ウォーカーなどのポピュラー・アーティストを担当。また、イースト・ウィンド・レーベルを設立し、ザ・グレート・ジャズ・トリオ、渡辺貞夫、日野晧正らのプロデュースを手掛ける他、ジョー・サンプルなどのアルバム「ザ・スリー」では、ダイレクト・カッティングを行うなど、オーディオ・ファイルな作品を多数世に送り出す。1978年にCBS/SONYへ入社。当初は洋楽企画制作部に所属し、マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、ウェザー・リポートといったJAZZ系のアーティスト、一方ではザ・スクエア、マリーン、笠井紀美子等、国内のJAZZ/FUSION系アーティストのプロデュースを担当する。その後、邦楽制作部門へ移り、久保田利伸、大滝詠一、松田聖子を始め数多くのJ-POPアーティスト達の制作部門を担当する。 95年に洋楽部門に復帰し、レガシー&ジャズとアジア・マーケティング部を担当。コンピレーション・アルバムMAXシリーズの企画に携わる一方、ケイコ・リー、TOKU等を育成。また、Puffyやラルク・アンシエルといった国内アーティストのアジア戦略を計画推進する。なお、99年より録音グループ本部長を兼務し、次世代のSACD(スーパー・オーディオCD)の開発やSMEの新スタジオ(乃木坂)設計、管理に携わる。現在に至るまでのアルバム・プロデュース作品は、国内外を合わせ約350点。洋楽編成時代に担当した作品は約 3,000点を超える。 1. 太鼓のリズムとブラスバンドに触発された少年時代伊藤八十八インタビュー4 --先日のパーティーは感動しました。

伊藤:ありがとうございます。何よりもみなさんの演奏が素晴らしかったですよね。

--気持ちがこもっていたと思います。

伊藤:トップ・バッターのナニワ・エキスプレスが飛ばしましたからね。

--その後の坂田明さんの歌にも驚きました。

伊藤:坂田さんの『別れの一本杉』とマッチングするのは、ナニワ・エキスプレスしかないかなと(笑)。あの曲を最初に持ってくると会場が和むと思ったんですよ。

--あの曲の裏にも伊藤プロデューサーがいらっしゃったわけですね(笑)。

伊藤:そうです(笑)。前半でやったほうがみんなリラックスしていいんじゃないかなと。僕自身もとても楽しかったし、会場もリラックスして楽しんでくれたと思います。

--主人公が楽しんでいると、みんな楽しくなってきますからね。

伊藤:そうですね。お客さんが入ってくるときにバート・スターン撮影による『真夏の夜のジャズ』の映像を流していたんですが、あれは構成を担当してくれた高平(哲郎)君のアイディアです。また、最後に『SOMEONE TO WATCH OVER ME』をやったのも彼のアイディアで、ケイコ・リーがピアノでイントロを弾いてディスクに変わる。キーは合わせておいてね。そういった細かい演出はしました。

--待ち時間もあまりなかったですし、全然退屈しませんでした。転換もとてもスムーズでしたね。

伊藤:楽器の転換に手間取ることを想定して、朝11時から夜11時まで、そのためのバイトを8人雇いました。

--やはり細かいところに手がかっているんですね…。

伊藤:そうなんです(笑)。そこまで綿密にやらないとスムーズには行かないんですよ。なにしろ、ドラム・セットだけで3台あるわけですからね。

--そうだったんですか…てっきりハウスドラムを使っているのかと思っていました。

伊藤:ナニワ・エキスプレスの力(東原力哉)が自分のドラム・セットを置くという話から始まって、T-スクェアも自分たちのを持ってくる。それで、渡嘉敷(祐一)にも「ハウス・ドラムにする?」と訊いたら、「いや、自分のを持っていく」と。結局みんな持ってくることになってしまって…(笑)。

伊藤八十八インタビュー3 --DVDで発売したいくらいですね(笑)。

伊藤:DVDは3カメで撮ったんですよ。それがちょうどあがってきて、今観ているんですが、かなりいいですよ(笑)。

--ここからは伊藤さんの今までのキャリアについてお伺いしたいと思います。大学時代に「早稲田大学ニューオルリンズ・ジャズ・クラブ」に入る頃から伊藤さんの音楽人生が始まったと思うんですが、音楽が好きになるきっかけは何だったんですか?

伊藤:実家は岐阜の田舎町なんですが、「太鼓祭り」というお祭りがあって、年に3回くらい直径1m50cmの太鼓が7台くらい練り歩くんです。そこで自分も太鼓を叩いていたんですが、太鼓という楽器に凄く触発されたんですね。それから、町の創立30周年記念で自衛隊のブラス・バンドが来て、パレードしたときに、子供心に凄く感動しました。そういうことが音楽との最初の出会いのような気がします。それから、楽器に興味を持って、中学校の時にブラス・バンドに入りました。

--パートは何だったんですか?

伊藤:バリトンをやっていました。高校はブラス・バンドがない学校で、当時絵も好きだったので美術クラブに入っていたんですが、隣の教室でコーラス隊がとても気持ちよさそうに歌っていたのを聴いて、結局コーラス部に入りました。そして、大学に入学してたまたま勧誘にあったのが、ニューオルリンズ・ジャズ・クラブの人たちだったんですよ。

--ニューオルリンズ・ジャズ・クラブを目指していたわけではなかった?

伊藤:そうです。学内の通りを歩いていたら、羽交い締めにされるような格好で勧誘にあっちゃって…(笑)。早稲田には「モダン・ジャズ研究会」という有名なクラブがあったんですが、そこはみんな演奏が凄く上手かったんです。一方、ニューオルリンズ・ジャズ・クラブは、楽器をやったことがない人たちも半分くらい入ってくるんです。

伊藤八十八インタビュー5 --ジャズを聴くのが好きな人とかですか?

伊藤:いや、ジャズが好きということもなくて、楽器をやったこともないアマチュアのクラブだったんです。かたやモダン・ジャズ研究会というのは、凄く上手い人たちがたくさんいて、例えば、同級生で言えば、増尾好秋とか、タモリもいたんです。それから一年先輩には先日のパーティーでベースを弾いて頂いた鈴木良雄さんがいました。
 音楽長屋の隣ではそういう人たちが演奏をしていたんですが、我々はニューオリンズ・ジャズという非常にシンプルなジャズをやっていたんです。つまり、原点からスタートしたので、ジャズを広く捉えられる土壌が自分の体の中にできたような気がしますね。

--大学に入学される前からジャズ好きだったんですか?

伊藤:ジャズは大学に入ってからです。ニューオルリンズ・ジャズ・クラブに入ったことによって、ジャズを体系的に理解できたのかもしれません。その当時、1960〜65年はモダン・ジャズの全盛時代ですから、早稲田でも、モダン・ジャズが隆盛を極めていたんですが、ニューオルリンズ・ジャズ・クラブはもっとプリミティブな感じだったので、ちょっと違っていたんです。

--大学でもバリトンを演奏されていたんですか?

伊藤:いえ、大学ではドラムを叩いていたんです。ところが、ピアニストがいなかったので、途中からピアノに転向しました(笑)。

--ドラムからピアノですか。凄い変化ですね(笑)。

伊藤:全てがそんな感じのクラブだったんですよ(笑)。2. 音楽関係に勤めようとは思っていなかった〜日本フォノグラム時代伊藤八十八インタビュー8 --大学卒業後は音楽関係に進もうと思われていたんですか?

伊藤:実は音楽関係に勤めようとは思っていませんでした。大学では美術専攻だったので、例えば、テレビ局の美術部とか、印刷会社とか、そういうところへ就職を希望していたんです。
 そうしたら、ビクターを二股かけて受けようとしていた先輩が、片方の機器の方に内定をもらったので、もう一方のソフト部門のフィリップス・レコード事業部を受ける必要が無くなってしまった。で、代わりにお前行って来いと言うんですよ。「アルバイトも募集しているし、行って来い」と(笑)。

--つまり代わりに受けられたわけですね。

伊藤:そうです。ところが、向こうはてっきり僕が入りたいものだと思いこんで面接をするわけです。しかも、「君は音楽が好きか?」と訊かれて、「はい、好きです」みたいな、通り一辺倒な受け答えをするわけじゃないですか?(笑) それで家に帰って2、3日したら「明日から出社せよ」という電報が来たので、会社に行ったんです(笑)。

伊藤八十八インタビュー10 --本当に行こうと思っていた方の会社はどうしたんですか?

伊藤:何社か受けたんですが、落ちたんです。それでフィリップス・レコード事業部にアルバイトで勤め始めました。そうしたら半年後くらいにフィリップス・レコード事業部が日本フォノグラムという会社になって独立することになり、そのときに「ちゃんと試験を受けて入らないか?」という話があったんです。

--そして、社員として入られた日本フォノグラムではどのような感じだったのですか?

伊藤:今から考えるとのんびりとしていましたし、いい時代だったような気がしますね。今は会議でOKをもらわなければ、何事も進められないところもあるんですが、結構みんな好き勝手にやっていた気がします(笑)。だから、僕は日本フォノグラムという中堅クラスの会社で色々と勉強させてもらったという感じですね。
 これはアドバイスですが、この業界に入る人は最初からメジャーに行かない方が仕事は覚えます。メジャーに入れば安定感はあるかもしれませんが、色々なことを覚えるには不都合ですね。

--日本フォノグラム時代は色々な仕事に携われたんですか?

伊藤:日本フォノグラム時代は洋楽にいながら制作をやっていましたし、契約書も自分で作ったりしていました。営業こそやりませんでしたが、宣伝までは一貫して仕事ができました。

--日本フォノグラム時代で印象深い出来事はなんですか?

伊藤:やはり、「イースト・ウィンド」レーベルですね。'75年にイースト・ウィンドというレーベルを鯉沼ミュージックと一緒に作ったんですが、あるときに7枚分くらいの録音をニューヨークでしようと大雑把にお金を持たせてもらって、ニューヨークへ行ったんですが、当初の予定よりも録音したものが4枚くらい増えてしまったんですよ(笑)。

--凄いですね…何故4枚も増えてしまったんですか?

伊藤:向こうに行くとホテルに売り込みがあるわけです。例えば、ジュニア・マンスから「聴いてくれ」と電話がかかってきたり…。

--現地で増えてしまったわけですね。

伊藤:そうです。だから1ヶ月に11枚を伊藤潔さんと僕と2人で作りました。

--そのときは、どんな毎日だったんですか?

伊藤:まず、午前中にトラベラーズ・チェックを換金するという作業があるんですが、日本の銀行みたいにすぐに換えてくれないんです。70年代にアメリカの銀行で、しかも20代の日本人の若造が大金を換金するということ自体、大変なことだったんです(笑)。

--換金するのにどのくらい時間がかかったんですか?

伊藤:1〜2時間かかったと思います。トラベラーズ・チェックを持っていくと、「これをどこで発行してもらった?」と訊かれるわけです。当時フィリップスはシカゴに本社があったので、シカゴでトラベラーズ・チェックを切ってもらって、それを持ってニューヨークに入ったんですが、なかなか信用してもらえないんですね。わざわざ銀行がシカゴまで問い合わせるんです。その間、ずっと待ってなくてはいけない。こっちとしては日本の銀行みたいに窓口に行けばすぐに換金してもらえると思っているのに、別室に連れて行かれて、ずっと待たされるわけです。
 それで、やっと換金できたら、それを持ってヴァンガード・スタジオへ行って、午後のセッションが始まる前にギャラを半分キャッシュでミュージシャンたちに渡して、セッションを3時間やり、終わったらもう半分渡すと。そして夜にはまた別のセッションで3時間。また次の日に3時間のセッションを二回やって、2枚作るとか、そんな感じでした。だから、睡眠時間は毎日2〜3時間。

--凄いですね…。

伊藤:また次の日に同じ銀行に行ったら、今度は換金を拒否されちゃったんですよ。もう顔馴染みだからスムーズに行くかと思ったら、とんでもない。

--それは何故ですか?

伊藤:その当時、アメリカの銀行にはそんなにキャッシュを置いてなかったんですね。だから勘弁してくれと。仕方ないので、アメリカン・エクスプレスの本社まで行って、そこで5,000ドルくらい換金したんですよ。そうしたら100ドル札が全然なくて、1ドルとか5ドル紙幣ばかりだったから、とんでもない量になってしまって、さすがに怖くなり、すぐにタクシーに乗りました(笑)。 3. 常に感覚を新しくすること〜プロデューサーとしての努力 --イースト・ウインドで印象に残っている作品はなんですか?

伊藤:富樫雅彦の『スピリチュアル・ネイチャー』、『ザ・スリー』、ウィル&レインボーの『クリスタル・グリーン』、この3枚です。イースト・ウィンドが成功したきっかけというのが、富樫雅彦の『スピリチュアル・ネイチャー』なんです。これはスイング・ジャーナル誌主催のジャズ・ディスク大賞で金賞と日本ジャズ賞と録音賞の3つを獲りました。これがきっかけとなりイースト・ウィンドというのは成功の道を歩んだんです。
 実はそれまでレーベル運営が結構苦しかったんです。イースト・ウィンドはプーさん(菊地雅章)の『イースト・ウィンド』というアルバムからスタートしたんですが、セールス的にはそこそこしか行きませんでした。それが賞というものを獲ることによってレーベルの認知度も上がったため、売上にも跳ね返り、レーベル運営が順調になりました。
 また、ジョー・サンプル、レイ・ブラウン、シェリー・マンのピアノ・トリオで、『ザ・スリー』というアルバムをダイレクト・カッティングで作ったんですが、これがもの凄くヒットしました。ただ、OKテイクであるTake1の原盤がすぐ壊れてしまって、完売になってしまったので、Take2も発売したら、また売れたんですよ (笑)。そのあたりからジャズだけではなくてオーディオというものに対する関わりが出てきました。そういった意味では富樫雅彦の『スピリチュアル・ネイチャー』と『ザ・スリー』、あとスタッフの前身であるメンバーを起用したウィル&レインボーの『クリスタル・グリーン』、これが印象に残っていますね。

伊藤八十八インタビュー2 --ウィル&レインボーはなぜ印象深いんですか?

伊藤:当時、僕らは4ビート・ジャズやフリー・ジャズしかやっていなかったんですが、ウィル&レインボーで初めてフュージョンというか、クロスオーバー・ミュージックに出会ったんです。4ビート・ジャズやフリー・ジャズしかやっていない我々が、ああいった音楽に直面したときに最初は面食らうんですね。でも、そこを何とか理解しようとして聴いていくと、「なぜこの音楽がアメリカの若者にウケているのか?」ということがわかってきました。
 そのウィル&レインボーとの出会いがあったから、CBS・ソニーに移ったときに、最初のレコーディングをザ・スクェア(現 T-スクェア)でやろう思ったんです。そういった意味ではウィル&レインボーのアルバムも僕にとって、ターニング・ポイントだったと思います。

--ウィル&レインボーとの出会いがあったから、その後の展開があったと。

伊藤:そうですね。この前のパーティーで、僕が「エン・カウンターズ」と勝手に名前を付けたバンドがあったんですが、そのメンバーだった鳥山雄司や笹路正徳、T-スクェアの伊東たけしといった人たちに出会ったときに、最初僕は彼らの考えていることや、やっている音楽が実はよく分からなかったんです。
 そのときに僕がやったことは、例えばアメリカのTOP40や、新しいアルバムを聞き込んで、感覚的にトレーニングすることでした。そうすることで、次の機会にそのミュージシャンたちと話をしてみると、だんだん分かってくるんです。
 つまり、我々プロデューサーの感覚というのは、やはり年をとるんですね。だから常に新しい音楽を聴いて、勉強しないといけないんですよ。

--常にそういう努力をされていたんですか…。

伊藤:今もしています。感覚のギャップについていうと、若い頃は年に一回くらいの補正で済んだのが、年をとっていくと、半年…3ヶ月というように、そのサイクルが短くなってくるんです。

--時代もスピード・アップしていますし、ミュージシャンたちも絶えず先端を走っているわけですからね。

伊藤:そうです。だから、こっちも努力をして、新しいものを片っ端から聴いていくことによって、自分の感覚の古くなった部分を新しくしていくわけです。そういう努力をしないとプロデューサーとしては駄目だと思います。
 だから、今後出てくるプロデューサーの人には、自分の感性は信じても良いんだけども、やはり時代の流れというものはあるのだから、常に勉強しないと時代に遅れちゃうよと言いたいですね。自信だけでやっていると堅物になってしまい、その時点で、止まってしまいます。
 アマチュアだったらそれでもいいと思います。個人の趣味で、「俺の専門は○○だ!」と決めて、それ一本でやるとか、それはそれでいいんです。でも、プロデュースしようと思ったらロックでもジャズでも何でも同じですが、常に新しいものに接したり、そこに身を委ねておかないと対応できないと思いますね。 4. CBS・ソニーのプレッシャー --CBS・ソニーに移られてからのことをお伺いしたいのですが、CBS・ソニーの最初の部署は洋楽だったんですか?

伊藤:そうです。

--それもジャズ系ですか?

伊藤:そのときはジャズ系ですね。

--そのときは日本の制作ものは結構あったんですか?

伊藤:いや、ほとんどなかったです。笠井紀美子くらいで、僕が入ってから本格的にやりだしました。その最初がザ・スクェアだったわけです。

伊藤八十八インタビュー9 --T-スクェアとはソニーに移られる前に接触があったんですか?

伊藤:ありました。高田馬場駅前にあるBIGBOXの上にスタジオというか、養成講座みたいな学校をビクターが開いていて、僕はそこに週一回くらいディレクター・サイドの先生として行っていました。そのBIG BOXにステージがあって、そこにザ・スクェアが出て、僕に売り込みがあったんです。そのときは、さほど興味を持たなかったんですが、ドラムがマイケル河合になってから、またデモ・テープを持ってきて、それでもう一度BIG BOXのステージでライブを聴いたんです。それで「いいな」と思って、レコードを作ろうと申し入れたら、ビクターのビリー吉田さんのところでデビューする予定があるというので、一旦は諦めたんです。
 その後、CBS・ソニーに移る直前に、BIG BOX内にあった養成講座の責任者だった富田さんという人と電車の中でバッタリ会って、「そういえば、あのグループどうしました?」と訊いたら、「どうやらビクターではやらないみたいだよ」と。それでビクターに話をして、メンバーたちには「ビクターでデビューしないんだったら、僕はCBS・ソニーに移るから一緒にやらないか?」と持ちかけたんです。結局、彼らのアルバムが僕のCBS・ソニー最初の制作になりました。

--ザ・スクェアは日本のフュージョン・バンドのハシリですよね。

伊藤:そうですね。クロスオーバーからフュージョンと言われるようになった時代ですね。出会ったとき彼らはまだ学生でした。非常にさわやかな感じがして、好印象を持ったんですよね。

--その後、邦楽部門に移られていますが、それまでと勝手が違う部分がありましたか?

伊藤:それはありましたね。当時CBS・ソニーの邦楽というのは、凄く怖かったんですよ。

--何が怖かったんですか?

伊藤:CBS・ソニーという会社は傍から見るととても格好いいんですが、中に入ってみると凄くプレッシャーがありました。僕が洋楽部門にいたときもプレッシャーはありましたが、邦楽セクションに移ったらその比じゃないんです。例えば、酒井政利さん、若松宗雄さん、中曽根皓さん、須藤 晃さんと錚々たる方々がたくさんいるわけですよ。

--名物ディレクターがたくさんいましたものね。

伊藤:そうですね。そういった方々の中にいて、無言のプレッシャーがあるわけです(笑)。だから、他から入ってきても、そこに居たたまれなくなっちゃうといいますか、シュンとしちゃって、大抵はプレッシャーに負けてしまうらしいんですね。
 また、洋楽から邦楽に移ると、そのギャップがより生々しいんですよ(笑)。アーティストは身近にいるし、プロダクションも出入りしているし、色々な人がいるわけじゃないですか? そういう中へ洋楽のジャズ系から入っていったので、凄く違和感がありました。周囲の反応も「なぜ、伊藤がいるの?」みたいな感じでしたしね。
 そんな中でアイドルもやりましたし、何年かすると管理職にもなりますから、年末のNHK紅白歌合戦にも立ち会いました。ある時、近藤真彦のツアーについていったんですが、僕イコールジャズ、と思っている人たちは「なんでここにいるの?」みたいな不思議な顔をしているんですよ (笑)。でも、僕はアイドルの制作に携わったおかげで、ヴォーカル・フィックスという技が凄く上手くなりました。

--それはどのような技なんですか?

伊藤:それはマル秘です!

--レコード会社にはディレクターやプロデューサーと呼ばれる人はたくさんいますが、スタジオ・ワークやオーディオ系の知識とテクニックを持ち合わせている人はあまりいないように思います。そこはどのように勉強されたんですか?

伊藤:まず、音に対して興味を持つことです。僕は新しい器材が入ってきたら、エンジニアに質問したり、エンジニアのしていることも見続けてきました。例えば、ミキシングするときも、僕は必ず、立ち会うことにしています。今の人たちは現場に立ちあわなくて、出来上がってから聴きに来るじゃないですか? 僕が若い頃はエンジニアの後ろで、何も言わずにずっと見ていました。ミックスするときは、最初に大まかなイメージを伝えて、その後エンジニアが作り上げるまでは基本的に何も言いません。言わないけれど、その場にいて、自分の耳で確認します。どんなことでもイージーに考えたら駄目です。出来上がったところに行って、音を聴いて、良い悪いを判断するのではなくて、ちゃんとプロセスを見ないと勉強はできないと思います。

--それはデジタルでもアナログでも同じですか?

伊藤:そう思います。やっていることは同じですから、基本的に変わりません。まず、興味を持つこと。そして、努力をし、自分で考えて、オリジナリティー溢れるものを作ることが大切です。作るということは自分の独創性も必要ですが、最初は模倣で良いんです。模倣をし、勉強して、色々なところから盗むわけです。そして、それらを自分で作り上げれば、それはオリジナルです。最初から引き出しがないところに何かを作ろうと思っても、簡単にはいきません。そのためには色々な人を見たり、聴いたりして、良いところを盗る。それを自分の頭の中でコンポジションして、自分のスタイルを作っていけば良いんです。5. 21世紀のイースト・ウィンドを目指して〜Eighty-Eight'sレコード設立 --現在、「Eighty-Eight'sレコード」のプロデューサーとしてご活躍されていますが、このレーベルはどのような経緯で設立されたんですか?

伊藤:僕は'99年に録音技術本部へ移ってきて、ソニー・ミュージックスタジオを立ち上げて、ある程度落ち着いたところで、もう一度制作をやりたいと思っていました。そんなときにヴィレッジ・レコード(現 ヴィレッジ・ミュージック)社長の青木幹夫さんが「21世紀のイースト・ウィンドを作りませんか?」と誘ってくれたんです(笑)。彼はずっとT-スクェアのマネージャーをしていた人なんですが、70年代のイースト・ウィンドのファンだったんです。

伊藤八十八インタビュー7 --タイミングがいい話ですね!

伊藤:おっしゃるとおりです(笑)。ただ、その当時の僕のポジションが録音技術部長だったので、ちょっとやっかいだったんです。というのも、ヴィレッジ・ミュージックというのはソニー・ミュージックアーティスト(SMA)の子会社ですから、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)からすると孫会社になる。つまり、録音部とプロデューサー兼務という人事発令ができないんです(笑)。
 それで色々と考えて、現在SME代表取締役CEOの榎本(和友)さんや、SMA前社長の竹内(成和)さんに相談をしたんです。そうしたら「混沌とした時代だから、思い切ってやってみたらいいんじゃないか?」と賛同してくれました(笑)。それで、青木さんがSMEに要望書を出してくれて、レーベルをやる上で僕をプロデューサーとして雇いたいと。プロデューサー印税をヴィレッジ・レコードがSMEに対してプロデュース印税を払い、そのかわりに僕が派遣でプロデュース業務をするという、新しい形で業務提携したわけです。

--SMEを定年退職された後、ヴィレッジ・ミュージックとの契約はどうなるんですか?

伊藤:会社と会社の契約は切れますが、今度はヴィレッジ・レコードに直接雇われる立場になるので、プロデュースは続けられます。

--「Eighty-Eight'sレコード」の特色は何ですか?

伊藤:特徴としてはオーディオ・ファイル的な要素が高いことが挙げられます。スタート当初はCDとSACDとアナログの3種類出していたんですが、現在はCDとSACDのハイブリッドとアナログLPを出しています。
 ちなみにCDとSACDはDSD(Direct Stream Digital)という1ビットデジタルで録り、LPはアナログマスター・テープを使っています。また、カッティング・エンジニアも違いますし、マスタリング・エンジニアも違いますから、CD/SACDとLPでは音が全く違います。

--それは両方聴き比べをしたくなりますね。

伊藤:そうですね。曲順も違いますし、場合によってはLPには入っていて、CDに入っていない曲とか、そういうのもあります。それから、CDとLPでジャケットも変えたときもあります。

--それは楽しいですね!

伊藤:作っている方はとても楽しいですよ(笑)。扱っているジャンルがジャズなので、マーケット的には広いレンジを持っているわけではありません。ですから、一つの音源をできるだけ色々な形に変えて、ユーザーが持っているメディアに合わせた形で聴いてもらいたいと思っています。もちろんマジョリティーはCDだと思いますが、SACDという新しいフォーマットでも聴いて頂けますし、押入にアナログ・プレイヤーをしまっている人たちにも、もう一度アナログLPの良さを味わって頂きたいと思っています。また、イースト・ウィンド同様に印象に残るジャケット、心に残るジャケット、あるいは部屋に置いても、一つのディスプレイになるようなジャケット作りを心掛けています。
 そして一番大きなポリシーは、これはイースト・ウインドと共通する部分でもありますが、日本人の企画によるジャズ・レコードをワールドワイドに展開していきたいというマーケティングが根本にあります。イースト・ウィンドでも70年代当時、そういったことを大上段に構えて、ある程度成功しましたが、Eighty-Eight'sレコードもレーベル設立から2年目で海外発売ができました。

--先日のパーティーにビクターの小鉄徹さんもいらっしゃっていましたが、カッティングは小鉄さんがされているんですか?

伊藤:はい。小鉄さんにお願いしています。小鉄さんとは付き合いが長くて、実は小鉄さんの初仕事が僕の仕事だったんです(笑)。彼がビクターの機器の他部署からカッティング・ルームに配属されたときに、僕は日本フォノグラムにいて、ニューオリンズ・ラスカルズという大阪のアマチュア・バンドのアルバムを作ったんです。
 僕は学生時代にニューオリンズ・ジャズをやっていましたから、ニューオリンズ・ラスカルズはまさに得意分野だったわけです。ただ、ドラムが1850年代のラディックの大太鼓を使っていて、もの凄く低音が出るんです。低音のカッティングは技術的にとても難しいんですが、小鉄さんの初仕事にそのカッティングを与えちゃって・・今でも憶えているんですが、5回やり直してもらったんですよ(笑)。それが最初の出会いです。以来、ずっとお願いしています。ダイレクト・カッティングもビクター・スタジオで小鉄さんとやりました。その後、CBS・ソニーに移って、しばらくブランクがありましたが、Eighty-Eight'sレコードでまた一緒にやれて、嬉しいですね。6. どんな仕事もポジティブに取り組もう! --今後のご予定などお聞かせ下さい。

伊藤:今後もEighty-Eight'sレコードのプロデュースを引き続きやります。その他に、イースト・ウィンドをもう一回やらないかという話もあるので、ニュー・イースト・ウィンドのようなものをやっていくかもしれませんし、インディペンデントでも作品を作っていこうと思っています。色々なことを考えていきたいですね。

--プロデューサーは早い段階でフリーになる方が多いと思うのですが、伊藤さんは会社の中できっちり成果を出しつつ、定年まで勤め上げられて、活力を十分残しつつ、フリーになられたわけで、とても珍しいパターンですよね。

伊藤:定年退職まで制作に携わる人が少ないかもしれませんね。みなさん途中で管理職になられて、職種が変わったり、現場から遠ざかる方もいます。そういった意味で、社員でありながら、最後まで制作に携われたというのは僕にとっては非常にラッキーでしたし、会社に感謝しています。

伊藤八十八インタビュー6 --普通は多かれ少なかれ会社に対して不満な部分があって、それで「辞めてやる!」と飛び出す方もいらっしゃいますものね。

伊藤:今でこそ、このレコード・プロデューサーという仕事に、多少の自信や誇りを感じていますが、若い頃は自信がないわけです。本当にこの仕事に自分が向いているのかどうかわからない。日本フォノグラムからCBS・ソニーに移るときもプレッシャーがありましたし、会社の中でも洋楽部門から邦楽へ移ったり、その後アジア・マーケティングにも何年か携わりましたが、その度に「自分は向いてないのかな?」と思ったこともありました。ただ、どんな時でも、組織の中で与えられた仕事は一生懸命やろうという気持ちは常に持っていました。そうすることが、会社のためというよりも自分のためになったりするんです。
 つまり、何事もポジティブに取り組まなくてはいけないんですね。僕はできるだけ「NO」とは言わないようにしているんです。言われたことはできる限りやる。何でもその精神です。このビジネスはサービス精神みたいなものが旺盛じゃないと次に繋がっていかないんです。労を惜しまないことが大切だと思います。苦労したことが何年後かにビジネスとして実ることもあるので、何事もベストを尽くし、一生懸命、やった方がいいと僕は思っています。

--今日はお忙しい中ありがとうございました。今後のご活躍をお祈りしております。