第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【前半】

2018年7月27日 16:00
音楽評論家 吉見佑子氏

今回の「Musicman's RELAY」は株式会社フジテレビジョン 三浦 淳さんのご紹介で、音楽評論家 吉見佑子さんのご登場です。実家への反発から若くして芸能の道を志した吉見さんは、大阪での芸能活動を皮切りに歌手やディスクジョッキー、声優など幅広くご活躍され、音楽ライターとしての活動が加わると、その驚異的な「人と出会う能力」を存分に発揮。忌野清志郎、坂本龍一、小室哲哉、YOSHIKI、SEKAI NO OWARI等々、多くの若き才能たちと出会い、あるときはライターとして、あるときはプロデューサーとして後押ししていきます。そんな常に新しいものを追い求めてきた吉見さんにじっくりお話を伺いました。

 

自立するには歌手か俳優くらいしか思いつかなかった


――前回ご出演いただきましたフジテレビ 三浦淳さんとはどのように出会われたんでしょうか?

吉見:フジテレビ『HEY!HEY!NEO!』を観て「こんな面白い番組を作っている人がいるんだ。すごく会いたいな」と思ったんですよ。そのときもコムアイ(水曜日のカンパネラ)や峯田和伸(銀杏BOYZ)といったクセの強い人ばかり出ていて、「こんな番組を作る人がフジテレビにいるんだ」と思ったんですよね。それで色々な人に「あの番組をやっている人、誰?」と聞いたら「三浦さんだ」と。その後、レコード会社の人が紹介してくれて、すぐ仲良くなったんです。私も“フェスおばさん”って呼ばれているくらいフェスばっかり行っているから話も合って。

私は昔のテレビもよく知っていますけど、こんな珍しい人はいなかったです。ちなみに彼の上司の平野雄大さんは、私がテレビの仕事をしていた頃のADですし、一番最初にフジテレビの番組に出た頃はきくち伸さんがADだったんですよね。もちろんテレビもどんどん変わっていくわけですが、三浦さんはすごくテレビっぽくない人だと思います。

――三浦さんって全然プロデューサーっぽくない人ですよね。

吉見:ねぇ。しかも信じられないくらい音楽ファンなんですよね。でも、そこは彼なりにきちんと一線を引いていて、彼個人で追っかけているバンドが有名になれたら、ちゃんと番組に出すだろうけど、そうならないバンドは単にファンとして接するという人です。三浦さんのような人が出てくるぐらいテレビも弱くなったんだなぁと思いますね。

――(笑)。

吉見:三浦さんのやり方は昔だったら絶対許されないですからね。

――本当に肩で風を切るイメージのプロデューサーとか昔はいたじゃないですか。僕らも「そういう人がプロデューサーだ」と思っていて、三浦さんにお会いしたときは衝撃を受けました。

吉見:彼は風なんかどこも切ってないですよね(笑)。

――空気抵抗もなしって感じですよね(笑)。ここからは吉見さんご自身のことをお伺いしたいんですが、大阪のお生まれで、ご実家は杵屋だとお伺いしております。

吉見:そうなんですよ。母親が三味線の先生でした。でも、その世界だけには行きたくないと思っていました。

――お稽古はしていたんですか?

吉見:してないですよ。三味線も一切触りませんでした。母の弟が家元の娘と結婚したんですが、「あらー、奥様」みたいな露骨な建前が本当に嫌で。

――その頃からすでにパンクな精神が?

吉見:そうですね。「お前は別れた父親に似たんだ」と母は怒っていましたけどね。その頃から「絶対にこの世界には行かない」「どう考えたってこんなの続くわけがない」という感じでした。

――聴くのも嫌だった?

吉見:興味がなかったです。抵抗だけがあったって感じかな。反抗と抵抗だけ。

――少女時代は何に関心を持たれていたんですか?

吉見:宝塚に惹かれたことはあったんですけど、お金もかかるし身長も足りないし「これはちょっとダメだな」と思って、そこから分かりやすく芸能に興味を持ちました。で、母親の世界には行かないとすると、父親はいなかったから一人で生きていくことを考えて、「家を出ていかなくちゃ」と中学くらいから思っていました。そうなると歌手か俳優くらいしか思いつかなくて、日本テレビの歌番組『味の素ホイホイ・ミュージックスクール』の関西編オーディションを受けたら、15人くらいに残ったんですよね。

で、そこからピックアップされて、タケダ胃腸薬のCMソングとかを作曲した小倉靖さんの住む京都までレッスンで通っていました。これには裏があって、小倉さんはCMソングのデモテープを歌う子を育てていたわけですが、レッスン料は無料だったし、定期券だけ親に買ってもらって京都へセーラー服を着て通っていました。

――仮歌を歌うわけですか?

吉見:そうそう、仮歌です。でも、そこからどうにもならなくて、高校生のときにNHKの劇団研究生になりました。そこには一年いたんですが、千田是也俳優術とか教えてもらったときの挫折はすごかったですよ。「夕焼けを見ている演技をしなさい」と言われて、「ここスタジオだし、夕焼けなんか見られないのになぁ」とか思って演技をすると「見てない!」と言われて、何回もやっていると「あなたは夕焼けを綺麗だと思ったことがないでしょ!」って怒鳴られてね。「そういえばそうかもしれない」みたいな(笑)。そこで「役者は無理だな」って思ったんですよね。そうしたら、お笑いの菊田一夫先生から「漫才やらないか?」って話が来たんですよ。でも、私は台本があって面白いことが言えるタイプじゃないので、それもお断りして。結局、劇団員になれず、東京に出てくるんです。

 

 

北極と南極にいる人を瞬時に会わせる力


――上京は高校を卒業してからですか?

吉見:高校卒業後です。それまでも大阪ではいろいろな番組をやっていたんですよ。テレビ、ラジオで20本くらいやっていたんじゃないですかね。あと、テレビの生コマーシャルというのが当時あって、それをやったり。

――プロダクションに入っていたんですか?

吉見:ええ。プロダクションに入って、仕事があると行くみたいな。それでオーディションを受けるといつも私は2位だったんですよ。例えば、電通のオーディションでは「滅茶苦茶面白い」と言われても、スポンサーに会うと「これはダメ」ってなる。そういうタイプだったんですよね。

あるとき、薩めぐみさんという東芝EMIの歌手がキャンペーンで電通の人に連れられて大阪に来たんですよ。その電通の人と知り合いだったので薩めぐみさんたちとご飯に行ったら、なぜか彼女にすごく気に入られたんです。私はその薩めぐみさんにすごく影響を受けるんですよね。彼女に会ってなかったら今の私はないと思います。

で、薩めぐみさんの旦那さんになる人というのが芦野公昭という、本人はそう言われたくないでしょうけど、美術界の大物で、今でも私の一番の親友なんです。エリック・サティとかを教えてくれたのも彼ですし、もう本当に美術や建築のことにめちゃくちゃ造詣の深いエリートです。会ったときにはエルメスの洋服をオーダーしていましたね。

――それは吉見さんのために?

吉見:違う違う、彼自身のですよ。もともとエルメスってわからないような感じの服でね。同じ靴を10足とか、同じセーターを10枚買うような。彼は東京のおぼっちゃまの一つの形ですよ。その後、彼女たちはパリに行っちゃうんですが、めぐみさんから電話がかかってきて「吉見さん、東京に来たいって言っていたでしょう? 私パリに行くから、私が1万5,000円で借りているアパートに住まない?」って言ってきたんですよ。今だったら7、8万円くらいかな? しかも六本木。「これはチャンスだな」と思って、それで東京に来たんです。

――それはラッキーですね。

吉見:でも関西で番組をやっていて、「私、東京に引っ越すんです」と言ってもこっちの勝手だから「交通費は出さない」と言われて、関西で稼いで深夜バスで東京へ帰る生活をしばらく続けました。まぁ、稼ぐといったってプロダクションにとられるからたいしたことないですけどね。

それで「東京で仕事しなくちゃと色々なところに売り込みに行ったんですよ。私は関西でディスクジョッキーもやっていたので、雑誌『MEN'S CLUB』の編集者だった知り合いに「誌上DJをやるってどう?」と提案したら、「面白いんじゃない? じゃあ『mc Sister』に紹介してやるよ」と。それで即連載が決まって、しかも特別扱いで、蛇腹になって出てくるようなページがあったんですけど、そこを全部「書きたいように書いていいから」と言われました。原稿料はすごく安かったですけどね。

あとLF(ニッポン放送)とかに売り込みに行っても、きれいな人とかいっぱいいるから「私なんかに仕事回ってこないな」と思ったんですが、『オールナイトニッポン』に抜擢されるんです。何か面白がってもらって。

――それ何年ごろですか?

吉見:1973年とかそれくらいですね。

――最初はご自身で売り込みに行ったんですね。

吉見:最初は何もなかったですからね。それでさっき話した『MEN'S CLUB』の人が紹介してくれたのが写真家の浅井慎平さんで、東京で最初にできた知り合いが浅井慎平さんなんですよ。それで浅井慎平さんのお家でタモリさんと知り合ったり。

――次から次へとすごい出会いが続きますね。

吉見:そうなんですよね。タモリさんは私を覚えてないと思いますけどね、そんな昔のこと。浅井慎平さんのお家によく赤塚不二夫さんが来ていて、そこに連れてきたのがタモリさんで、モノマネとかお座敷芸を披露するんですが、タモリさんが来る前はそういったことは私がやっていたんですよ(笑)。雪村いづみとか吉永小百合のモノマネとか。それを面白がられてね。

――なるほど。

吉見:だから私が24歳のときに出した最初の単行本『ペパーミントは涙の味がする』って慎平さんが写真を撮っているんですよ。すごくラッキーなことが続いて、トントン拍子に来て、そこで大きい話が来るんだけど生意気にも断るんです。

――それはどういったオファーだったんですか?

吉見:「ニッポン放送の朝の帯番組をやらないか?」って言われたんですよ。でも「そんな早起きしたくない」とか言って断って。滅茶苦茶ですよね。

――それはもったいないですね…その頃ってすでに仕事がいっぱいあったんですか?

吉見:そうですね。アニメの吹き替えとかもやっていたんですよ。今でも『星の子チョビン』とか『ふしぎなメルモ』には名前が出ています。たいした役じゃないですけどね。青二プロにちょっといたりしたので。

――なぜ声優もやるようになったんですか?

吉見:グループ・タックという田代敦巳さんの会社に遊びに行っていたら、りんたろうさんや杉井ギサブローさんと友達になって、その縁ですね。ちなみに『ルパン三世』の主題歌(ルパン三世主題歌II)の歌詞って私が書いたんですよ。買い取りで4万円のバイト。田代さんは「あれ、印税にしとけばすごかったよね」って亡くなる前まで言っていました(笑)。でもそんなこと夢にも思わなかったし、やっぱり目の前のお金でしょう? 惜しいとか全然思わなかったですし、そのときは杉井さんたちと遊んでいるのが楽しかっただけなんですよね。

――なんの伝手もなくアパートだけをあてに上京されたわりにはすごい発展ぶりですね。

吉見:たぶん人と出会う能力だけはあったんじゃないかな? それは今も続いていると思います。昔、占い師に「北極と南極にいる人を瞬時に会わせる力を持つ」とか言われたりしましたけど、それだけで来たみたい(笑)。

 

 

才能がありながら売れない人への興味〜『シングル・マン』再発売実行委員会
 

音楽評論家 吉見佑子氏


――吉見さんはNHKの『若いこだま』のDJもやっていましたよね。

吉見:『若いこだま』もオーディションですね。私、NHKの放送記念日が誕生日なんですよ。それを言ったら受かったんですけど、NHKってすごく堅い人とめちゃくちゃな人と両方いるじゃないですか。で、受かったときにすごく堅い人に呼び出されて「あなたはオーディションに一番で受かりました」「私以外はみんなあなたがいいと。でも、その全員が『担当はやりたくない』と言いました。そこであなたにやる気があれば私がディレクターになりますが、それでもいいですか?」って言われたんですよ(笑)。もう「いいです」って言うしかない。その人の日がフォークだったので、吉田拓郎とか岡林信康とかたくさんのアーティストと知り合うことになります。

それで岡林信康のアルバム『俺らいちぬけた』にコーラスで参加したりしているうちに、ビクターからフォークでデビューすることになったんですね。「ふたしかな空」という自分で詞を書いた曲でデビューしたんですけど、もちろん売れない。で、そのときにふと「才能がありながら売れない人って結構いるんじゃないかな?」と思って見つけたのが忌野清志郎だったんですよ。当時の彼はどん底で、お客さんも3人くらいしか入ってなかった。

――清志郎さんとはどうやって出会われたんですか?

吉見:音楽の番組をやっていると音楽ライターの仕事も来るじゃないですか? で、井上陽水さんのライブ取材に行ったんですよ。忘れもしない1976年6月、郡山体育館でやったコンサート。その前座がRCサクセションで、取材だから一応観ていたんですが、客が「帰れ、帰れ」とすごいんですよ。でも、そのとき清志郎は「みなさんを喜ばせることがあります…次の曲で僕たちは終わりです!」ってまた挑発的なことを言うんですよ。私は「すごい奴だな」と思って、楽屋に行って、そこで知り合ったんです。その頃RCは『シングル・マン』というアルバムを発売していて、私はそのアルバムに感動して、すごく応援したけども全然売れなかったんですね。

その後、私がすごくRCを好きだったから事務所の奥田(義行)さんが私のところに「久しぶりにシングルが出るんで聞いてください」って来たんですよ。それで「ステップ!」「上を向いて歩こう」「雨上がりの夜空に」の3曲を聞かせられて、「どれがシングルに向いていますか?」って聞かれたので「これじゃあどれも売れないでしょう」って言ったんですけど(笑)、そのときに「そういえば『シングル・マン』ってどうなっているんですか? あれは最終的にどのくらい売れたんですか?」って聞いたら「もう廃盤になった」と。

――『シングル・マン』はそれだけ売れなかったんですね…。

吉見:そうですね。で、今は集英社の社長になっている堀内丸恵さんに「廃盤になっちゃったすごくいいアルバムがあるんだけど、なんとかしてもう一回世の中に出したい。彼らは絶対にすごいと思うんだ」と力説したんですよ。そうしたら「まず“『シングル・マン』再発売実行委員会”って名乗れ」と言うんですよ。「名乗ると言ったって電話もないし場所もないよ」と返したら、「大丈夫。まず名乗ることから始まるんだ」って言われてね。

でも、そんなの名乗ったところで、誰も知らないわけじゃない?(笑)だから「どうしようかな」と思っていたときに、さっきの芦野公昭さんがまた出てくるんですよ。その頃、彼は西武美術館の横にあった「アール・ヴィヴァン」という現代音楽を扱うお店をやっていて、「協力してもいい」と言ってくれた。あと、「パイドパイパーハウス」というレコード屋をやっていた岩永(正敏)さんも「吉見がそう言うなら協力するよ」と言ってくれました。現代音楽と洋楽しか売っていないところが協力すると(笑)。

――(笑)。

吉見:この『シングル・マン』はポリドール原盤、キティ発売とか色々ややこしい作品だったんですね。それでポリドールやキティに相談したら「1枚1万円」とか言うんですよ。「再発売なんてうっとうしい」みたいな感じだったと思うんですけど、「2,250円で売っていたのに1万円はないでしょう? どうなっているの? レコード会社」と思ったわけです。

例えば、冷蔵庫を買ったら、1年間アフターサービスとかあるじゃないですか。でも、レコード会社は自分たちが愛して発売したものを、アーティストの了承なく勝手に廃盤にできるんですよ。それで「もう一回聴きたいんです」と言った人に「帰れ」と言うのは、やっぱりおかしいと思いましたし、「会社の上に音の図書館とか作るべきだ」とそのとき思ったんです。少なくとも自分たちが出したレコードを聴ける場所を作るべきだと。でも、そういう考え方はなかったんですよね。それで私は燃えたわけですよ。結果的に1枚2,450円で300枚買い取りました。

――全てご自分で買い取った?

吉見:お金は協力し合って出したと思います。で、レコードも売る場所もあるんだけど、そのことを誰も知らないから、私は毎日「オールナイトニッポン」とかに行って、曲をかけてもらうようにプロモーションしたんですけど全然かからないんですよね。知らない過去のものですし。『シングル・マン』ってすごくお金がかかった作品なんですよ。タワー・オブ・パワーが内緒で参加していたり、いろんなことでお金がかかっていて、多賀(英典)さんもポリドールの原盤を「高くて買い取れない」と。そんないわくつきの過去のアルバム、誰も喜ばないんですよね。

それでも、色々なアーティストにインタビューするときは、枕詞のように必ずその話をするわけです。「ラジオ番組をもっているんだから曲をかけて応援してよ」って。それぞれいろんな反応でしたけど、やっぱり大きく取り上げてはくれない。それで最終的に「新聞だ!」と思って、スポーツ紙の人に会いに行って話したんですけど、「これ売れているんですか?」って言われて、「いや、売れてない。だって売りたいからやっているんだけど」って言ったら「売れてないと記事にできない」と。

――確かに話題にもなっていない作品を取り上げづらいですよね。

吉見:「そうか…」と思って帰って来たら、その人から電話がかかってきて「“廃盤”という切り口なら記事にできるかもしれない」って言ったんですよ。それで「“廃盤”ってなにか?」という記事がドーンと出たんですよ。「パイドパイパーハウス」の店員の女の子が『シングル・マン』を持った写真とともに。そしたらウワーッと話が広まって、ラジオの出演依頼が来たりしました。そのとき、ソニーの高久(光雄)さんから「アーティストがみんな協力して『応援する』と全員で署名したら一発で再発になるよ」って言われたんですけど「それもなんか違うかな」と思ってやりませんでした。

そうこうしているうちに清志郎たちがすごく頑張って、屋根裏のライブも人が入りきらない状況になってきた。とにかく毎日満員なんですけど、売れない時期が長かったから清志郎は「今日“は”満員だね」って言うんですよ。絶対に「今日“も”とは言わないのがすごく悲しかったんですね。その後もRCは動員を増やし続けて久保講堂まで辿り着いた頃に、「『シングル・マン』再発売実行委員会」は解散します。

――『シングル・マン』も正式に再発されましたよね。

吉見:ポリドールが『シングル・マン』を再発するときに私の名前をでっかく入れてくれたんですよ。たぶん奥田民生くんとかはそのアルバムを持っていてくれていて、それで私のロックなイメージができあがるんですけど、実際に会ってみると全然ロックっぽくなくて、みんなガッカリみたいな感じでしたね(笑)。

 

 

坂本龍一×忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」の誕生


――吉見さんはロックなイメージと違った?

吉見:私はロックが好きだったわけではなくてRCが好きだっただけでね。それで清志郎の次に好きになった人が坂本龍一。当時の坂本君はアルバム『SUMMER NERVES』や『Thousand Knives』をリリースしたり、あとYMOをやっていたけれど、私は彼のことを顔で好きになったんですよ。キーボードを弾く横顔を見て「わぁ、カッコイイ」と思って。それで坂本君に「清志郎、協力してよ」って売り込んだら「いいよ。なんでもするよ」って言ってくれて「い・け・な・いルージュマジック」に繋がった。

――清志郎さんと坂本龍一さんを結びつけたとは吉見さんだったんですね。

吉見:ええ。断っておきますけど「い・け・な・いルージュマジック」を資生堂のCMソングにしたのは牧村(憲一)さんのお仕事で、私じゃないです。私っていつも仕事はできなくて、発想だけしかないですから。で、坂本君と清志郎で記者会見やるんですね。そこで「どうして二人でやるんですか?」って質問されて、もちろん坂本君の方がYMOで売れているんですけど、清志郎は「アルバイトだぜ」って言ったの。そうしたら坂本君がその言葉にすごく感動しちゃって、その次の取材では「アルバイトだぜ」って言ったりして(笑)。それぐらい清志郎に影響を受けていましたね。坂本君って天才というよりも秀才で、清志郎は天才。それで坂本龍一という人はなによりも天才が好きなんですよね。

――そもそも坂本龍一さんとはどうやって知り合われたんですか?

吉見:坂本龍一という人にすごく興味があったので、音楽コラムを書いていた「平凡パンチ」の編集の人に「どうしても坂本龍一を取材したいんですけど」って言ったら「知らないなぁ」って(笑)。まだYMOが売れてなかったですからね。それで「そんなに会いたいなら行ってくれば?」と言ってくれて、取材して2ページ原稿を書きました。そのあと映画『戦場のメリークリスマス』を撮影していたラロ・トンガ島っていうところに行くんですよ。

――なぜラロ・トンガ島まで行くことになったんですか?

吉見:「い・け・な・いルージュマジック」が1位になったときに、坂本君が私を車で送ってくれたんですよ。それで私が降りるときに台本を見せてくれて「こんな話が来ているけど、どう思う?」って言ったんですよ。その台本は黒い表紙で『戦場のメリークリスマス』と書いてある。「誰が出るの?」と聞いたら「デヴィッド・ボウイとか、タケちゃん(ビートたけし)とか。監督が大島渚なんだよね」と。それで「一生役者をやらないんだったら断れば? でも、一生に一度でも俳優をやってみようという気持ちがあれば、これしかないんじゃない?」って言ったんですよ。そうしたら「わかった」と言ったので、「坂本君、万が一これを引き受けたときは、私をロケ現場に連れていくこと」と約束したんです。

そのときは「あぁ、いいよ」って軽い感じだったんですけど、これがなかなか大変で、デヴィッド・ボウイが取材を「ノー」と言ってくるんです。『戦場のメリークリスマス』はテレビ朝日やヘラルドが出資しているわけで、私も含めてマスコミがいっぱい行く前提になっていたのに、大島さんまで「ノー」と言ってきたんです。

それで私はラロ・トンガ島へすでに行っている坂本くんに電話して「行ってもいいですか?」と言ったら「勝手に来れば?」と(笑)。頭に来て「じゃあ、勝手に行きます!」って言ったんです。だって絶対に坂本君がヨノイ大尉をやるところを観たかったから。私はデヴィッド・ボウイなんかどうでもよかったんですよ。「郷ひろみとどう違うのかな」ぐらいの感じで(笑)。

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