第143回 伊東 宏晃 氏 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長

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2017/01/31 (火) - 03:00
第143回 伊東 宏晃 氏 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長

伊東 宏晃

エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長  

 

今回の「Musicman's RELAY」は与田春生さんからのご紹介で、エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長 伊東宏晃さんのご登場です。厳格なお父様のもとで育った伊東さんは、中学1年でエレキギターを購入し、東京へ転校後はバンド活動にのめり込みます。一般企業からクリエイティブマックスへ転職後、trfやhitomiの仕事を経て、ある日突然、小室哲哉さんのマネージャーに就任。アメリカ移住も含め約2年、小室さんとともに併走されます。帰国後、エイベックスの作家マネジメント創設の指揮を執り、エイベックスのクリエイティブの根幹を構築。レーベル事業を経て現在はマネジメント部門を統括される伊東さんに、ご自身のキャリアから小室さんとの思い出、そしてマネジメントを含むエンタテインメントという仕事の魅力までお話を伺いました。

 

2017年1月30日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

プロフィール
伊東 宏晃(いとう・ひろあき)
エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長


昭和40(1965)年9月2日生
平成06 (1994) 年01月 (株)クリエイティブマックス入社
平成07(1995)年08月 (株)ホワイト・アトラス(現:エイベックス・プランニング&デベロップメント(株))入社
平成11(1999)年07月 (株)アクシヴ(現:エイベックス・プランニング&デベロップメント(株))取締役 マネジメント事業部長
平成16(2004)年09月 エイベックス(株)(現:エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社)取締役
平成17(2005)年04月 エイベックス・エンタテインメント(株)取締役 tearbridge production部長
平成18(2006)年06月 エイベックス(株)(現:エイベックス・グループ・ホールディングス(株))取締役退任
平成22(2010)年04月 エイベックス・エンタテインメント(株)執行役員 音楽事業本部 tearbridge production部長
平成22(2010)年05月 エイベックス・マネジメント(株)執行役員 クリエイティヴ本部長
平成23(2011)年12月 同社 執行役員 第6カンパニー カンパニー長
平成24(2012)年05月 同社 執行役員 伊東カンパニー カンパニー長
平成25(2013)年10月 エイベックス・マネジメント(株)代表取締役社長(現任)


1. 長男としか話さない厳格な父親


−− まず、前回ご紹介いただいた与田春生さんとは、どのようなご関係なのでしょうか?

伊東:与田さんのお名前は昔から存じ上げていましたし、素晴らしい実績の数々も知っていましたが、仕事でご一緒させていただいたことは一度もなくて、今回弊社のBeverly(ビバリー)というアーティストで初めて一緒にお仕事をさせて頂いています。

私は社内の政策発表会で「2020年までに必ずグラミーを獲るアーティストを創る!」と宣言したんですが、それを知ったグループ内のスタッフが「僕も一緒に目指したいです、彼女の歌を聴いてください」と教えてくれたのがBeverlyで、歌を聴いて即「契約したい」と思いました。で、そのBeverlyを紹介してくれたのが与田さんで「与田さんって、あの与田さん?」みたいな話になったんですよね。で、与田さんとお会いした瞬間「この人なら一緒にやれる」みたいな感覚になったんです。

音楽業界やエンタメ業界には色々な人がいますが、「本気で音楽を世界へ創り伝えようとしているか?」というところがすごく大事だと思っているんですね。与田さんは会った瞬間に音楽に対する情熱を強く感じたんです。それで、Beverlyに会いに一緒にフィリピンへ行きまして、どういう方向性で音楽を創ろうかと話したときも、見ている方向が一緒だったので、音創りに関して与田さんに全権を委ねようと思いました。

−− Beverlyさんは昨年のa-nationで初お披露目だったんですよね。評判はどうでしたか?

伊東:a-nationの味の素スタジアムは既に人気のあるアーティストがメインなので、その合間に新人が歌えるコーナーがあるんですが、その時間になると当然ですが興味がないのでみんなトイレに立っちゃったり、椅子で休んだりするんですね。

−− ブレイクタイムになってしまう。

伊東:そうです。しかも今回はすごく雨が降っていて、状況的に最悪だったんですが、土砂降りの中で彼女が出てきて、声を出した瞬間にみんな動きが止まって、ステージに釘付けになったんですよ。それで歌い終わった瞬間にもの凄い拍手が起こりました。それは新人に対しての反応ではなくて、一瞬で興味を引き寄せちゃった彼女の凄さを感じました。でも、もっと嬉しかったのは、そこで初めて見た弊社のスタッフが「伊東さん、Beverly素晴らしい」って何人も言ってきてくれたことですね。本来はお客様に対してのプレゼンの場だったんですが、グループ社員に対してもアーティストの素晴らしい才能を共有できた事は本当に良かったですね。

−− 与田さんの取材時にBeverlyさんご本人にお会いしたんですが、とても小柄で、あんな凄い声を出す子には思えなかったです。

伊東:彼女は歌うと一瞬にしてスイッチが入るんですよね。本当に歌うためだけに生まれてきたような子です。とにかく歌を歌うことが大好きで、他に欲しいものは何もないし、歌ってないと死んじゃうんじゃないか? くらいの子なんです。

−− 今後のご活躍が本当に楽しみですね。ここからは伊東さんご自身の事をお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

伊東:福岡の小郡市で生まれました。小郡は久留米の隣の、田んぼしかないような田舎町だったんですが、今は住宅街というか、博多に通勤するベッドタウンになっています。

−− お父様は何のお仕事をされていたんですか?

伊東:父親は製薬会社に勤めていました。小郡の隣が佐賀県の鳥栖という所で、そこに本社があったんですが、昭和一桁生まれの厳格な人で、父に対して家族、親戚全てが未だに敬語です(笑)。

−− 未だに、ですか?

伊東:はい。いわゆる星一徹みたいな父親なんですよ。実際に怒ってお膳をひっくり返していましたしね(笑)。古いしきたりですとか、躾といったものにうるさかったです。私たちの世代で昭和一桁の父親ってたくさんいると思うんですが、その中でも異質だと思います。例えば、父は授業参観や運動会といった学校行事には一切参加しませんでした。私が部活をやっていても応援に来ないですし、そもそも何部に入っているかも知らなかったです。

−− お子さんに感心がなかった?

伊東:私は五人兄妹の真ん中で上に兄と姉がいるのですが、父親は一子相伝というか兄としか話さないんです。下には妹と弟がいるんですが、食卓を囲んでも兄以外とは基本喋りません。兄は「お前は伊東家の跡継ぎ」と言われ続け、勉強や生活態度など全部チェックされるんですが、残りの4人は関係なしです。「お前等が何しようが俺は知らんばい」と。

−− お父様はお兄さんの学校には行くんですか?

伊東:それも行かないです(笑)。行かないけれど、チェックはするんです。だから、兄は福岡でも進学校へ行って、早稲田に行って、上場企業へ。他の4人がどこの学校、会社に入ろうと全く興味ない。

−− 逆にのびのびやれたんじゃないですか?

伊東:外ではのびのびですね。家の中は星一徹ですから(笑)。いつ鉄拳が飛んでくるかわからない緊張状態で、早く家を出たい、早く独立したいという思いが強かったです。

 

2. 東京への転校で受けたカルチャーショック〜野球から音楽へシフト

 


−− 幼少時代はどんな遊びをされていましたか?

伊東:田舎だったので遊ぶことって、田んぼでたこ揚げするとか川で魚釣りするとか、あとは野球しかない時代ですよ。男は野球、女はバレーボールみたいな感じでしたね。

−− 音楽は聴かれていましたか?

伊東:音楽は好きでしたね。兄が実は音楽好きで、その影響もありました。兄は父親に隠れてディープ・パープルやレッド・ツェッペリンとかを聴いていて、私も兄が買ってきたレコードをこっそり聴いていました。でもね、親父にバレるんです(笑)。「なんか?これは?こげなキチガイ音楽ば聴きよるけんお前たちは成績が悪かったいっ!」バゴーンって殴られてね。そのあと引越しの時に押入れから親父のダンボール箱が出てきて中からドーナツ盤がごっそり、エルヴィスプレスリー、チャックベリー、フランクシナトラ、クレイージキャッツ・・・何だよ!って(笑)。

−− (笑)。楽器とかはされていたんですか?

伊東:兄がポール・マッカートニーが好きでベースをやっていたので、家にベースがありましたし、私も中1のときにエレキギターを買いました。ただ、田舎なので情報もないですし、雑誌も『ロッキンf』くらいしかなくて「ギターってどこで買えばいいんだ?」みたいな(笑)。で、実家が学校に縦笛とかを卸す楽器屋の同級生がいて、その店にも実物は展示してなくて「エレキ欲しいんだけど」と言ったら、一番安い当時3万8千円ぐらいのヤマハのストラトのカタログを取り寄せて見せてくれたんですよ。それで「3万8千円貯めるのにはどうしたらいいか?」を考えて、これまた同級生の牛乳屋さんで、野球部の朝練の前に牛乳配達をしました。バイト代は1ヶ月やって1万円。それを4ヶ月ぐらいやって4万円貯めて、エレキギターを買いました。

−− 勤労少年ですね。

伊東:(笑)。その頃、ギターを買ってもケースが付いてなくて、ソフトケースはまた別売り。だから、引っ越し用のプチプチでくるんでもらったのを自転車でヘルメットかぶって片手運転で持って帰った記憶があります。でも、エフェクターもない、アンプもないので、音はシャリシャリで「え、全然違うぞ・・・あの音どうやって出るんだ?」みたいな。それで友人の家へ行って、キーボードアンプに挿すんですが、シャリシャリの音がそのまま大きくなって出るだけで、「どうやらエフェクターっていうのが要るらしい」と(笑)。そういったことを1個1個独学で学んでいきましたね。

そうそう、でも良く見たらヤマハのストラトじゃなくてびっくり!El Mayaっていう神戸のロッコーマンという会社が出していた日本のギターで、楽器屋のおばちゃんに聞いたら「伊東くん、その金額じゃヤマハは買えんばい」って・・・最初に言ってよ(笑)。まぁいまも大事に持ってますよ。

−− お父様にギターのことはバレなかったんですか?

伊東:そうですね、ずっと隠して。見つかったら大変ですから。

−− でもアンプがあったら大変じゃないですか?

伊東:もうアンプまで買うお金がない(笑)、だからラジカセに繋ぐんですよ。ラジカセのマイクのところに繋いで、録音ボタンを押すとディストーションっぽい音が鳴るんです。音を大きくするとより良い歪みが、タオルやティッシュでスピーカーの音量を押さえて。それがアンプ替わりでした。

−− 高校も小郡の高校へ進まれたんですか?

伊東:いえ、高校は東京です。中学3年生の2学期に東京へ転校してきました。

−− それはお父様が転勤されたんですか?

伊東:そうです。親父は東京と福岡を仕事で行ったり来たりでしたから。野球は中3の夏の大会までやっていて、そのまま野球の強い福岡の高校へ行くつもりだったんですよ。それが親父の転勤が決まり、「家族一緒じゃなきゃダメだ」と東京の学校に中3の2学期から放り込まれました。私は坊主頭でつんつるてんの学ランだったのに、東京へ来たらクラスメートみんなジャニーズ事務所のアイドルみたいに都会的でお洒落(当時本当にそう思った)だし、学校で普通にたばこ吸っているし、みたいな。もう全然カルチャーショックでしたね。リアル金八先生ですよ!頭の中は中島みゆきの「世情」が常に流れてました(笑)。

−− 転校先はどこだったんですか?

伊東:杉並の中学です。それで高校は野球が強い学校へ行こうと思って、駒大付属高校へ進学しました。駒澤大学は昔から野球が強かったですし、その年の甲子園は都立国立高校が出場したんですが、東京都大会の決勝でその国立に負けたのが駒大付属だったんです。それで「ここなら甲子園が近いんじゃないか?」と思ったんです。

−− 野球は本気だったんですね。

伊東:意外と。今だとインターネットとかで一発で実力もわかっちゃいますけど、当時はそういうのがなかったですからね。ただ夢だけ追いかけて野球やろうみたいな感じでした。で、野球部に入部したら、あの時代はみんなそうかもしれないですけど、始発で登校し終電で帰宅、ボコボコに殴られるし、蹴られるし、ケツバットは日常茶飯事だしで、1年はボールさえ触らせてくれないんですよね。新玉川線の電車の中で素振りさせられましてね(笑)、乗客に通報され学校でめちゃくちゃ怒られるみたいな・・・。

−− 暴力すごかったんですか?

伊東:もうね、今では高校野球あるあるみたいに笑える話ですが「シタッ!」とか「チャスッ!」とか「チワーッ!」とかもうなんだか野球とかの前にやることいっぱいあって(笑)、バッティング練習をこの暗号みたいな号令かけながら投げる方も打つ方もするんですが「チャスっ、1球目お願いします!」「チャスっ、1球目投げます」「チャスっ、1球目ありがとうございました!」なんて、それで3球しか打たせてくれない(笑)、掛け声喋らずどんどん打てば少なくとも20球は打てるのに(笑)、嘘のような本当の無駄な伝統が多くてね・・・中学時代に元々バンドをやっていましたから、徐々に音楽にシフトしていきました。

 

3. ヴォーカル&ギターとしてバンド活動に邁進

 

伊東 宏晃 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長
−− バンドをやる目的の一つに「女の子にモテたい」みたいな気持ちがあると思うのですが、伊東さんはどうだったんですか?

伊東:野球をやっていたときは練習ばかりでしたし、坊主頭だったから全然モテなかったですし、練習練習でそんな時間もないじゃないですか。それでバンドにシフトして、駒大付属は当時は男子校なんですが学祭でライヴをやると、世田谷近辺の女子校が全部集まって、急にモテ始めるわけですよ。まだロックになる前のフォークロック時代のRCのコピーとかやってても他校にファンクラブができたり、ライヴハウスでライヴをやると、その人たちが来てくれるみたいな。「バンドってすげーな」って思いましたね(笑)。自分と清志郎が同一人物になっちゃったように勘違いしてね。

−− (笑)。

伊東:あと東京だと情報もたくさん入ってきますし、御茶ノ水に行けば楽器屋がいっぱいありますし、ライヴハウスもいっぱいあるじゃないですか。それこそセンター街にあった頃の屋根裏やロフトやルイードとかにライヴを観に行っていたんですが、たまたま同級生のお兄さんがパーソンズのギターの本田毅さんで、パーソンズがまだデビューもしていない頃のライヴをライヴハウスへ観に行って、もう衝撃受けて。P-MODELとかALLERGYとか、まだブレイク前のBOφWYもロフトで観てましたね。

それで高1、高2くらいにナゴムレコードに代表されるインディーズ・ブームが来て、ライヴハウス通いが頻繁になりました。一方で高3くらいになると同い年の尾崎豊がデビューしたりして、「あいつはすごい」みたいな情報が口コミで伝わって来るんですよね。「何高のあいつ、ギター上手いらしいよ」とか。で、僕らは僕らで学校のバンド仲間で一緒にライヴやったり、すごく楽しい時代でしたね。

−− オリジナルの曲をやっていたんですか?

伊東:オリジナルも作っていましたし、清志郎と「子供ばんど」のうじきつよしさんに憧れて、なんかあーいうムチャクチャなパフォーマンスのロックバンドをやってました。

−− 「よくぞ親父、東京に転勤してくれた!」みたいな感じですね(笑)。

伊東:そうそう(笑)。とにかく情報が溢れていましたからね。テレビ東京ではインディーズの番組をやっていましたし、あと、ラジオですよね。ラジオはすごくよく聴いていて、ハガキ職人みたいなことになっていました。文化放送の吉田照美のてるてるワイドとか、オールナイトニッポンとかね。オールナイトニッポンも、これから売れてくるバンドの人たちがパーソナリティやっていた二部の方をよく聴いていました。

−− 大学はそのまま駒澤大学へ進まれたんですか?

伊東:そうですね。大学ではずっとバンド、バンド、アルバイトの生活でした。

−− その頃の目標はプレイヤーだったんですか? それともアーティストデビューすることだったんですか?

伊東:私はヴォーカル&ギターで、アーティスト志望でした(笑)。当時ヤマハさんが主催していた「EastWest」というコンテストがあって、そのコンテストで優勝するとデビューするみたいなのが通常の流れだったので、毎回応募するんですが、全然残れなかったですね。

−− アマチュアとしては人気があったけれど。

伊東:そうですね。ライヴは人が集まるんですが、賞とかは全然貰っていないです。そうしたら、同じ学校の同級生でAUTO-MODでギター弾いてた友森昭一くんがレベッカに入るんですよ。古賀森男さんが辞めた後にオーディションがあって、「今度オーディション受けるんだよね」なんて言っていたんですが、渋谷屋根裏で私がライヴをやっていたら友森が観に来て、「今オーディション受けてきた」って。「でも、すごい人数が来ていたから無理だな」って本人言っていたら、友森に決まっちゃって、初めて自分の知っている身近な人がプロになったんです。で、今度はパーソンズの本田毅さんの弟の本田くんがG.D.FLICKERSというバンドに入って。そういうのを横目で見ながら、大学3年生になる頃には一緒にバンドをやっていた仲間も「就職するわ」ってどんどんバンドを離れていったんですよね。

−− レコード会社やプロダクションからデビューの話は一切なかったんですか?

伊東:見事なまでになかったですね(笑)。

−− 大学を卒業する頃は何を考えていたんですか?

伊東:音楽は趣味で続けていましたけど、「やっぱり就職しなきゃ」と思って、もちろんレコード会社とかも受けるんですけど、ことごとく落ちました。それで洋服も好きだったので最終的にMYCALという流通を展開していた会社に入って、洋服を売っていました。

−− 一度は音楽とは関係ない仕事をされていたんですね。どれくらい勤めていたんですか?

伊東:5年ですね。

−− けっこう長いですね。

伊東:バッチリ会社員やってました(笑)。最初は横浜のVIVREというビルの中に入っているお店で洋服を売っていて、途中から企画とかやらせてもらうようになりました。そこに「ライヴスクエアビブレ」というのがあって、そのライヴハウスの担当にもなるんですよ。「やっぱり音楽は面白いな」という気持ちになったんですよね。そうしたら「ライヴハウスは儲からないから、壊してゲームセンターにする」という話になって、私は当時の上司と「こういうものは儲かる儲からない関係ない! 街のシンボルだし、文化だから壊しちゃダメなんだ!」とケンカになって、結局会社を辞めちゃうんですね。あっ、その横浜VIVREのジーンズショップでアルバイトしてたのがDo As Infinityのギターの大渡亮君です(笑)。

 

4. trfとの仕事を皮切りに音楽業界へ

 


−− 会社を辞められて、その後どうされたんですか?

伊東:就職情報誌に、「ダンスミュージックを作っているエイベックスが面白いことやります。一緒に音楽作りませんか?」と3行広告みたいな小さな求人広告があって、そこがクリエイティブマックスという会社だったんです。実は初期の頃からエイベックスは知っていたんです、ダンスミュージックも好きで。「話だけでも聞いてみようか」と応募して面接を受けに行ったら、暗いマンションの1室で、面接官が千葉さん(現 Avex International Holding Corporation 代表取締役社長 千葉龍平氏)でした。千葉さんは当時28歳くらいだったんでしょうけど、風格があって48歳くらいに見えたんですよね(笑)。「何だ、この会社は」って思いましたね(笑)。

−− (笑)。

伊東:その面接が終わって、同時に受けていたポニーキャニオンさんからも内定が出たので「よし、レコード会社で働くぞ!」と思っていたら、クリエイティブマックスからも合格通知がきたんですよね。それで、辞退の電話をしたら一度電話は切れたんですけど、またかかってきて「いや困るんだよね、君しか採ってないから」って(笑)。それで「どこいくの?」って聞かれて「ポニーキャニオンさんに決まったので」と言ったら「職種は?」って聞かれて、「営業です」と答えたら「営業?音楽は作れないよ? うちへ来たら色んなものを0から作れるよ」って一気に言われて、なぜか「はい」って言っちゃったんですよね(笑)。

−− 今となっては正しい判断だったかもしれないですね。

伊東:どうなんでしょうね(笑)。「騙されたと思って1年通いなさい」って言われて「じゃあ明日から行きます」と言ったら、それが9月くらいだったんですけど、「明日から来られても困る。君を担当するスタッフがいないから年明けまで遊んでいてくれ」って言われて。

−− 凄い(笑)。

伊東:「やばい会社入っちゃったなぁ」と思いましたね(笑)。それで年明けに出社したらスタッフ総勢15人くらいの会社で、trfのアーティストプロフィールが机に置かれていて、「それを読んでおいて」と言われました。朝9時に出社して10分くらいでそれを読み終わって、結局その日一日何の仕事もなくて「やっぱりこれはまずったな」と思いました(笑)。明日退職届を出して、ポニーキャニオンさんに電話して「本当に申し訳ないです。色々あって…」と謝って、もう一回採ってもらおうと思ったんです。

それで次の日、退職届を持っていったら、その日は朝から電通さんへ行ったり読広さんへ行ったり、大広さんへ行ったり代理店をまわって、trfの広告の仕事をやって、確かその日の夜がMステで、trfが初めてテレビに出るという日で、「誰も音楽のことわかるやつがいないから来てくれ」とリハーサルから立ち会いました。それでMステの立ち会いが終わって、本番になったら千葉さんが「じゃあ出るぞー」って。「え!本番観ないんですか?」って。それで近くのラーメン屋で二人飯を食いながら「どう?」って言われて。

−− 「どう?」ですか(笑)。

伊東:「何がですか?」「仕事」「全然わかんないですよ、なんすか、これ」って言ったら「俺も全てが初めてのことでわかんねーんだよなぁ」なんて言うんですよ(笑)。「今エイベックスと仕事していて、この会社はこれから絶対すごいことになるから色々頑張ってやっていこうぜ」って。そこから本当に毎日毎日新しいことが起きていくんですよ。

−− でも退職届はずっと持っていたんですよね?

伊東:そうなんですよ。結局出さずじまいで(笑)。その当時うちの会社は代理店の口座を借りてスポットを打たせてもらっていたんですね。とにかく自分たちが代理店に行って、挨拶して、説明して、そんな仕事だったんです。それからtrfの人気がじわじわ出だして、94年にチャート1位を獲ったあたりから目まぐるしく動き始めました。

−− 怒濤の日々が始まったと。

伊東:当時クリエイティブマックスには代理店業務とプロダクション業務の二つ事業部があったんですが、私は最初から「マネージャーは出来ません」と断ってたんですよ。それで代理店部門に配属されて、JTさんやムラサキスポーツさんをクライアントに持ってイベントを作ったり、テレビ番組を作ったりという仕事をさせてもらったんです。で、代理店業務として、エイベックスさんから仕事をもらってこいと。毎日朝、会社に行く前に松浦さん(エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長CEO 松浦勝人氏)のデスクの周りを掃除しろという指示だったんですよ(笑)。それで「仕事もらうまで帰ってくるな」と言われていて、朝行って掃除して松浦さんが来るのを待っていて、それで松浦さんが来ると「またお前か?邪魔だ、帰れ」って言われるので「千葉から仕事もらえるまで帰ってくるなと言われているのでお願いします」って毎日通って。

−− それは根気のいる作業ですね・・・。

伊東:その後、クリエイティブマックスのプロダクション部門がエイベックスと一緒になることになり、千葉さんに呼ばれて「今度trfとhitomiを連れてエイベックスに行くんだけど、代理店部門からこっちにきてくれない?」って言われるんですよ。「プロダクション部門ってことはマネジメントですか? マネージャーは私にはできません」「大丈夫、安心しろ。宣伝を担当してもらうから」って。いわゆるプロダクション側のアーティストの宣伝を担当してもらうからって言われて行ったわけですよ。

それで、trfとhitomiとあと2〜3組新人アーティストがいて、そのファイルを持ってメディアに挨拶にまわりしていました。それである日、hitomiがコンサートをやっていて、宣伝担当だから色々なメディアを呼んでいるので会場に向かっている途中に千葉さんから電話がかかってきて、「今どこにいる?」と聞かれて「hitomiのコンサート会場へ向かっています」「それ、もういいから会社に戻って。松浦さんと依田さんが呼んでいるから。行けばわかるから」って言われて青山の会社に行ったんですが、その当時依田さんとも直接お話したことないですし、「千葉さんから呼ばれて来たんですけど」って言ったら「君が伊東君? これから砧スタジオに行ってくれ。行けばわかるから」って・・・。

−− 「行けばわかるから」が続きますね・・・。

伊東:「なんだこれ」と思って砧スタジオへ行ったら、当時のtrfの担当ディレクターがいて、「今から◯◯ホテルに行って」って言われて、それで行ったらホテルのドア開けて小室さん本人が出てきてそこでまずギョギョッ!っですよ、「明日の朝6時にレンタカーを借りて僕を迎えに来て」って言われて。それで翌朝レンタカーを借りて小室さんを迎えに行って、小室さんに言われるがまま、軽井沢のスタジオに送り届けるんですね。それまで私は何も知らされてなくて、軽井沢のスタジオに着いたら、別の車で阿久津(現エイベックス・ヴァンガード代表取締役)がKEIKO(globe)を連れてきて、その後Marcが到着して、そこにスタッフもみんな集まってきて。それが1996年の2月末日でした。



5. 「僕のマネージャー決めました」突然、小室哲哉さんのマネージャーに

 

伊東 宏晃 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長
−− 伊東さんの役目としては小室さんをスタジオへ送り届けることだったわけですよね?

伊東:そうです。ですから小室さんを送り届けた段階で、仕事は終わりだと思っていたんです。そうしたら、みんながすごくピリピリしている。なぜかというとその日その場で初めて知ったんですが3月31日にglobeのアルバムを発売しなきゃいけないのに、2月末日の段階でできてなかったんです。

−− うわぁ・・・それは厳しい状況ですね。

伊東:それまで発売したシングル4曲しかなくて、残り最低でも6〜8曲を録らなきゃいけないんですが、世の中的には超売れっ子プロデューサーの小室さん、芸能関係者は「小室さんのスケジュールをおさえろ」と常に探しまくってる。それで東京では慌ただしくて作業ができないから、軽井沢のスタジオへ全員移って、そこで合宿して残りの8曲を作るぞということだったんです。私はそんな状況知らないし自分には関係なかったから本当に他人事で「みんな大変だなぁ〜」って心配していて(笑)。

−− まさに追い込み合宿ですね。

伊東:はい。そこへ行って約10日間でアルバムを完成させるというのが会社としての絶対命令で、3月31日の発売日は絶対死守!発売延期は許されない!みたいな。私はそこへ小室さんを連れて行くだけが仕事だったんですが、行ったら小室さんが「伊東くんも夜ご飯食べていきなよ」と。それで、多くのスタッフに混じってご飯を食べていたら、小室さんが突然「今日、僕のマネージャー決めました」って言うんですよ。

−− もしや・・・。

伊東:場がざわついて、みんな下向いてシーンとなったときに「伊東です」と。それで、みんな自分じゃなくてホッとして「うわー、伊東さんすごいじゃん。大抜擢!」と拍手(笑)。そもそも私はマネージャーの仕事をやりたくなかったわけですから、「いやいやいや」と言ったら小室さんが「だって今決めたから」って言うんですよね。それで「ちょっと千葉さんに確認します」と伝えて、千葉さんに「今、目の前で小室さんが『僕がマネージャーだ』と言っているんですけど・・・」と電話したら「じゃあ、そうなんじゃね?」と。それで「がんばれよ」と電話を切られちゃったんですよ。それで、松浦さんにも電話したら、やっぱり「じゃあ、そうなんじゃないの?」ガチャっと。

−− それってすでに決まっていた話じゃないんですよね?

伊東:真相は分からないです。それで「そこからもう帰ってこなくて良いよ」と言われました。結局、そのスタジオで寝泊まりして、10日間でアルバムを完成させました。それがglobeの1stアルバム『globe』で、予定通り3月31日に発売されて、当時350万枚売り上げて、当時の日本記録になったんですよね。

−− 本当に凄い話ですね・・・。

伊東:簡単に要約しちゃったから短いですけど、実はこれだけで本一冊かけちゃうくらいの本当に濃い10日間で、あの10日間は舞台や映画やミュージカルに出来るくらい奇跡的に進行して。1日1日色々な事件があって、本当に「この1日で曲ができなかったら終わる」とか「この日を取りこぼしたらもう間に合わない」とか、そんなことの連続でした。あと、同時期にジャケットも進行していて、そこでもクレジットが抜けていたりとかトラブル続きで、CDプレスも工場が足りない、どうするんだ? みたいな問題が次から次へと…。でも、どうにか間に合わせて。

−− お話を聞くだけで目眩がします。

伊東:私自身もそんな経験ないですし、「やれ」と言われたことをとにかく遂行するだけで精一杯でした。それで「やっと発売できたし、記録的に売れた。これで私の仕事は終わりだ」と思っていたんです。その頃もマネージャーの仕事なんて分かってなかったですから、この期間だけやれば解放されると思っていたんです。そうしたら4月の頭に、今度は飛行機のチケットを渡されるわけですよ。「はい、これ小室さんの分で、これは君の分」とロサンゼルス行きのチケットを。

−− (笑)。

伊東:「なんですか? これ」と言ったら、「君は本当に何も知らないんだね。今年から小室さんはアメリカへ移住だよ」と言われて、「移住は分かりますけど、俺関係ないじゃないですか?」って言ったら、「君、マネージャーでしょ?」と。

−− 「マネージャーなのに君は何も知らないんだね」ってことだったんですね(笑)。

伊東:そうです。その年から小室さんはロサンゼルスのマリブに自宅を購入して、活動の拠点を全部アメリカへ移すということだったらしくて、初日から一緒に行って、小室さんの家の屋根裏部屋をあてがわれて、豪邸の掃除、洗濯、犬の散歩、車の洗車、買い出し、毎日三食の料理、庭師、プール掃除だとか、全部やりました。

−− 書生 兼 マネージャーみたいな感じでしょうか。

伊東:書生って言い方はカッコ良すぎます(笑)。一人だったので大変でしたが、その生活が2年続くわけです。

−− 一応「小室さん担当」という人事命令なんですね?

伊東:人事なんですかね。名刺には「チーフ・マネージャー」と書いてありましたけど、一人ですからチーフでも何でもないんですよね(笑)。でも、その2年が、今の自分を形作っている、この世界で生きていくためのことを学んだ重要な時間でしたね。

−− 当時、小室さんの一番近くで生活されていたわけですが、素顔の小室さんってどんな方なんですか?

伊東:小室さんは、1対1で居るときは本当に音楽が大好きなお兄さんですよね。二人でずっと洋楽の話とか「あのアルバム良かったよね」とか「あのイントロは・・・」「あのギターが・・・」「この録音方法は・・・」とかコアな話ばっかりしてました。純粋に音楽でみんなを喜ばせたいと思ってる人です。

−− 当時の小室さんは周りのスタッフを試していた?

伊東:試していたという言葉では表現できませんが、“世の中を驚かせたい”という想いが根本にある人なので、ビックリさせるために難題を各スタッフに言って、それを成立させた人たちのところに仕事が来るわけじゃないですか。それが、だんだんエスカレートしていったというか。「ウチだったらこういうことできますよ」と。各レコード会社は小室さんプロデュースのアーティストを扱いたいわけですし、各プロダクションさんは自分の所属アーティストに曲を書いてもらいたいわけで、熾烈な争いがあったのは確かですね。私が判断してるわけではないのにクレームがほぼ全部私個人に集中して・・・もー、だからマネージャー嫌なんだっ!って(笑)。

−− クレームは全部伊東さんのところに来るってキツイ状況ですよね。

伊東:でも、そのアメリカでの2年で本当に色々なことを経験させてもらいましたし、実際にアメリカのエンタメビジネスも直接体感するわけじゃないですか。スタジオの隣の部屋でマイケル・ジャクソンがレコーディングしていたり、ベイビーフェイスがやっていたりという状況でしたからね。また、日本でもの凄いセールスをしていた小室さんのことをアメリカの人は誰も知らないわけで、当時「ガラパゴス」という言葉はなかったですが、今の日本は日本だけでしか売れていない音楽ばかりなんだなと実感しました。

−− 外から俯瞰して見ることで、それを実感したんですね。

伊東:ええ。小室さんもそこは気づいていて、映画『スピード2』のテーマ曲のリミックスを手掛けたりもしましたが、やはり音楽家としての小室さんの知名度は当時まだなかったですね。

 

6. 小室哲哉との2年のアメリカ生活「名曲が生まれる瞬間に立ち会えているのは自分しかいない」

 


−− 伊東さんにとっても小室さんとの2年のアメリカ生活は強烈な体験でしたか?

伊東:強烈でしたね。まだ独身だったからできたことだと思いますし、私は私ですごく焦っていて、当時30歳くらいだったので、同期は役職を貰ったりしている中で、「俺はなんで人のご飯を作ったり、下着洗ったりしているんだろう・・・?」と思っていました。

−− 「何やっているんだろう・・・」みたいな?

伊東:自分で自分に「お前、マネージャーやりたくなかったって言ってたじゃん!」って繰り返し問いて。でも、そんな気持ちを唯一切り替えてくれたのが、やっぱり音楽家・小室哲哉のスタジオの中で、ヒット曲が生まれていくところを真横で見ていて、「やっぱりこの人凄い、天才だ」と思っていましたし、「名曲が生まれる瞬間に立ち会えているのは自分しかいない」と納得させていました。

また、小室さんのマネージャー生活がこの先10年続くことはないだろうとも思っていました。いずれ向こうから使えなきゃ「クビ」と言われるか、何かのきっかけで私は離れるだろうなと。だったら、こんな環境に居ることなんてそうそう経験できないから、これはこれで楽しんじゃおうと気持ちを切り替えられたことが、続けられた要因かもしれません。でも、毎日「明日辞めよう」と思っていましたけどね(笑)。

−− (笑)。

伊東:最初の退職届はそのときもずっと携えていたので(笑)、「いつでも辞めてやろう」みたいな気持ちはありましたけど、それを上回るスーパースターのオーラというのが小室さんにはあって、やっぱり2人きりで音楽の話をしている時間は、私にとってすごく勉強になる時間でしたし、すごく純粋な気持ちで音楽について話している小室さんの姿を見て「自分は小室さんが喜ぶ顔が見たいんだな」と感じていました。

−− その頃には、自分がアーティストとして活動するということには何の興味もなかったんですか?

伊東:自分がやることには全く興味ないですけど、中1のときにギターを買ったときの想いとか、東京に来てバンドを見たりした時間というのが凄く役に立っています。あのときにロックだ、パンクだ、ジャズだ、クラシックだとジャンル問わず色々聴いたことが、小室さんと話したときに言葉として出てくるわけです。そうすると、小室さんも「伊東って奴はそういう時代を過ごしてきたんだ」と信頼とはちょっと違いますけれど、「同じ音楽をちゃんと面白いと思っている奴なんだ」という認識はあったと思います。

−− 要するに、小室さんが伊東さんのことをすごく気に入ったからマネージャーに指名されたということですよね。何か思うところがなければマネージャーには指名しないじゃないですか? ましてや海外で一緒に生活しているわけですから。

伊東:そうなんですかね。でも、そこに関しては1度も訊いたことがないので、未だに分からないです(笑)。

−− その後、小室さんのマネジメントを離れるわけですよね。

伊東:これも突然でした。小室さんの絶頂期で、私も自分なりに努力して小室さんの側近として一緒に生活していたんですが、97年の夏に千葉さんから電話がかかってくるんですよ。それで、何の説明もなく「今すぐ帰って来い」と言うので、「は? いきなりなんですか?」と答えたら「うるせえ、帰って来い」って言うんですよ。ただ、今帰れと言われても東京行きの飛行機はないんですよ。ですから「わかりました、明日の朝一で帰ります」と何の説明も訊かないで言ったんですよ。

−− 訊かなかったんですか?

伊東:訊かないです。でも、私としては、2年という短い時間でしたが、マネージャーとして努力してきたつもりだし、もの凄く学ばせてもらった良い環境であったことは間違いないです。ただ、小室さんの周りに色々な人が集まってきて、小室さんもどんどん色々な条件を言うようになっていました。だから、その要求に対して松浦さんや千葉さんが「このまま本当に小室さんとビジネスを続けるべきなのだろうか?」という判断をしたと思うんですよ。それを経ての電話だったんだと思います。ただ、その時の一瞬では分からないのですが、私のボスは千葉、松浦でしたので、「じゃあ明日帰ります」と。

それで、小室さんの所へ行って「実は…」と話を切り出したんですが、小室さんはそれ以前に千葉さんや松浦さんとのやり取りはあっただろうから、私が行ったときには「戻るんだろうな」と察したらしく、「もう聞いている。大丈夫だよ。伊東はすごく頑張ってくれたし、何も悪くない。お疲れさま」とだけ言ってくれました。それで荷物を全部置いたまま、次の日の朝一の便で帰国しました。

 

7. 俺が分からないことをどんどんやれ〜エイベックスの新たな挑戦

 

伊東 宏晃 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長
−− 伊東さんの帰国を境に、エイベックスは小室さんと距離を置くことになるんですね。

伊東:はい。大げさに言うと、当時エイベックスの売上の、半分以上は小室さんが作っていた、みたいなところがありました。でも、このまま小室さんだけにプロデュースを任せていたら、万が一小室さんが倒れたときに、エイベックスはどうする?という判断をしたんだと思うんです。その判断を、あの時点でした松浦さんや千葉さん、林さんは凄いと思うんですよね。その売上をなくしてでも、次の道へ進まなきゃいけないという経営判断ですよね。

それで帰ったときに言われたのが、「小室さんは凄い、天才だ。100年以内にこういうことができるプロデューサーは恐らく二度と現れない。だから『次の小室哲哉を探せ』と言っても無理なんだ。でも、小室さんがやってきたことを分業でやることは俺たちにもできる、だから『小室哲哉を組織化するとどうなるか』を徹底的に研究しろ」と。実際にそれまでのエイベックスというのは、小室さんに宣伝方法も教わっていましたし、こういうマーケティングをして、こういうところにプロモーションをしたら面白いよとか、ジャケットはこうやって撮るべきだとか、色々なことを教わってきて、それを吸収したエイベックスのスタッフがいるので、小室さんから教わったことをグループとして分業化していこうということですよね。

−− 手分けして小室さんのような仕事を自分たちでしてみようと。

伊東:もちろん、当時エイベックスには既に宣伝部がありましたし、マーケティングは外注でもできるんですが、小室さんがやっていた仕事の中で唯一「作詞・作曲をする」という部門がないということで、「伊東はクリエイティブ部を作ってくれ、まず作家が必要だ」と。そして「戦略と作る人間が有機的に重なってないといけない、クリエイティブ部門が一つの人格になってなくちゃいけない」という視点を共有して組織を創るというのが、私が小室さんから外れてから、エイベックスでの次の任務だったんですね。

作家を集めるときに、そのときに既に活躍していた作家先生とか、もう売れている人たちにお願いするのは意味がないと思っていました、新人をゼロから育てるんだと。最初にやったのはエイベックスの社内の中に捨ててあったデモテープを全部拾い集めてきて、もう1回聴き直しました。それで「これ、イケる!」と思った人を片っ端から会社に呼んで「こういう曲を書いてきて欲しい」とお題を出して、戻って来た作品をチェックして、ということを繰り返す中で見つかったり紹介されたりしたのが長尾大君や菊池一仁君、多胡邦夫君、大谷靖夫君、BOUNCEBACK達だったんです。

−− その後ヒットメーカーになる作家陣ですが、当時は全くの無名だったわけですよね?

伊東:ええ。何のヒット曲もないというか、メジャーで曲を出したこともなかったです。彼らのデモテープを私たちが聴いて、「良い」と思ったものからさらに厳選したものを松浦さんに直接渡していました。その中からEvery Little Thing、浜崎あゆみ、倖田来未、dream、hitomi、BoAなどにどんどん渡していって、それが売れていく。その作家たちが売れていくのを見て、また若い人たちが応募してきて、と会社が寺子屋みたいになっていきました。

当時はスタッフみんなが居る会社のデスクのオープンな場で曲を爆音で聴いて、もし良い曲があったら即「採用するぞ」という感じでした。それが作家のモチベーションになって、「伊東さんって人のところへ持って行けば聴いてくれるよ」とどんどん作家が集まるようになっていきました。それが最初のクリエイティブ事業部です。それで、BoAとか、hitomiとか、色々な所で新人の作家が出した曲がヒットしていくことで、作家のバリューが上がって、今度はバリューが上がった作家に対して「アーティスト活動をしていこうよ」と、長尾大を中心にDo As Infinityというユニットを作ったりしました。そのクリエイティブ事業部が、エイベックスの楽曲制作の軸になっていきます。その時期は私たちにとっては奇跡的な時期で、「最高のクリエイティヴを自分たちでも作れる!」という自信に繋がったと思います。

−− そもそも伊東さんがやりたかったことにかなり近い仕事ですよね。

伊東:そうですよね。結果論ですけど、音楽が好きでしたし、「売れる・売れない」の琴線と言いますか、そこを見極める作業は私の能力に合っていたかもしれません。もちろん小室さんの側で自然とヒット楽曲の法則なんてものをカラダで覚えていたこともあるでしょう。あの時期、作家のデモテープを毎日100曲以上聴き続けてそれを修正したりアドバイスしたりまた学んだり話し合ったり、本当に楽曲一曲の重さを学ぶ大切な時間を経験しました。その後作家やサポートミュージシャンをアーティストにしていくという流れの中で生まれたのが、センチメンタルバスやmihimaru GTで、センチメンタルバスはEPIC、mihimaru GTはユニバーサルでリリースさせてもらい、この頃から他社レーベルさんと共同でヒット曲創りをさせてもらったことも大きな経験です。

あと、ロードオブメジャーというバンドもやっていたんですが、これは絶対にメジャーでの売り方では厳しいなと思い、インディーズから出したんですよ。その時代はMONGOL800さんとかが大人気だったので、インディーズでの緻密なプロモーションでロングランで100万枚売ることができました。今までお話させて頂いて分かるかと思うんですが、私は小室さんというメジャーど真ん中の仕事をしていたんですけど、その後はそのメジャー感を外さない幅の中でのコアの追求といいますかどちらかというとエイベックスっぽくないものばっかりやるんですよ(笑)。SEAMOとかね。

−− 確かに我々がエイベックスと聞いてイメージするアーティストとはちょっと違いますよね。

伊東:今まで出会った才能あるアーティストらと、周りにこんな僕を支えてくれる優秀なスタッフたちがいたので、「tearbridge production」という作家マネジメントとレーベル、マネジメントと宣伝が混合のレーベルを作らせてもらって。ここでエイベックス直系のアーティストはもちろんですが、それ以外にもmihimaru GT、SEAMO、the pillowsやHi-STANDARDの難波さん、古内東子さん、スチャダラパー、TOKYO No.1 SOUL SET、TRICERATOPS、セカイイチとかメジャーとコアの融合というか本当に当時はエイベックスの王道じゃないものでのヒット創りをやらせてもらいました。木山裕策というサラリーマン歌手をプロデュースして紅白出場決めたり、それで、周りが思ってるエイベックスの概念を変えようと自分でやりたいことをやらせてもらってたんですけど、ふと「私は会社に貢献できているのか?」と一瞬迷いが生まれたときがあって、1度松浦さんに相談したことがあるんです。

−− 「本当にこれで良いのか?」と。

伊東:ええ。そうしたら松浦さんが「それで良いんだ。俺が出来ることをやってもらっても意味がない。それは俺がやるから、俺が出来ないことを他の人がやることによって、エイベックスはどんどん強くなる」とおっしゃったんです。自分に対してすごく自信にもなりましたし、自分が良いと思うものに対して軸をぶらさずにやるべきだと気付かされました。それ以降、スタッフに対しても「私が知らない、出来ないことをブレずにどんどんやりなさい」と言っています。

 

8. マネジメントを含めたエンタテインメントという仕事の面白さを伝えていきたい

 


−− 現在、伊東さんはマネジメント部門のお立場ですが、マネジメントというお仕事について、改めてどのように考えていますか?

伊東:やはりマネジメントというのは、エンタテインメントビジネスの中心にいて、今は360度ビジネスとか色々と言われていますが、最終的に全てのジャッジをするのはマネジメントが多いですよね。何をしたいのか、どこを目指すのか、誰と組むべきなのか、これでいいのか、ここと一緒にやろうとか、最終のジャッジを下すのは本当に答えがなく難しくシビれますね、だから面白い。

−− でも、若い頃はマネジメントを避けていましたよね(笑)。

伊東:避けてました(笑)。

−− それはどういうことだったんですか?

伊東:やっぱりそれは私の無知というか、マネージャーというのは鞄を持って、運転してという勝手なイメージを抱いていて、自分の意見が言える仕事だとは思っていなかったんですよね。

−− マネジメントというのは大変な仕事だということで避けていたわけではなかった?

伊東:いや、そこまで正直わからなかったんですよね、マネジメントの本質を。それで、マネジメントが大変というのは変わらないんですけど、すべての話をたどっていくと全部マネジメントに行き着くからこんな面白いことはないじゃないですか。CDを出そうが、コンサートをやろうが、マーチャンダイズをやろうが、何か出演するすべてに関してマネジメントが関わるわけですからね。

−− アーティストと一心同体になれるのは?

伊東:マネジメントって、ただ言われたことをやる、判断してはいけないと勝手に勘違いしていたんですが、実はマネジメントする側とされる側が対等に意見を言い合える環境でない限り、良いマネジメントにはならないと気付くわけです。マネジメントの立場が上でアーティストに「やれ」と言うのもおかしいし、アーティストが「あなたこれやりなさい」「あなたもういらないわ」という環境もおかしい。あくまでも対等な立場で「俺はこう思う」「あなたはどう思う?」というやり取りができる環境であるのが一番良い、アーティストとマネジメントの関係だと思っています。

私たちが目指すのはそこですし、かといってこれができるというのはそうそう簡単なことではないです。マネージャーとしての経験値も必要ですし、アーティストもある程度売れて、売れたことの経験と、うまくいかなかった経験、スタッフやファンへの感謝、両方を兼ね備えないとここに行き着かない。どっちかだけでは絶対に分からないと思うんですよ。私が二十数年この仕事をさせてもらって、すごくありがたいなと思うのが、担当させてもらったエイベックス第1号アーティストのTRFが今も第一線で活躍し、ライヴやフェスで観客を魅了し、新たにバラエティ界にも進出している。

−− 良い意味での進化を続けているということですよね。

伊東:それでいて、彼らは売れていない時期も経験しているわけです。小室プロデュースから離れたことで、自分たちが一番信頼していたプロデューサーがいなくなった。それで「これからどうする?」というときに、作家陣が曲を持ち寄ったり、みんなが「どうやってTRFを売ろうか?」と一生懸命考えました。その結果、新しい曲も売れ、ダンササイズみたいな別の商品が生まれたり、KOOちゃんがバラエティで活躍したりしたわけですが、これは運良くそうなったわけじゃなくて、そこに行き着くまでみんなが考えて、KOOちゃん自身も「自分がテレビで呼ばれるためには何が必要なのか?」と悩み考え、YU-KIさん、SAMさん、CHIHARUさん、ETSUさん、メンバー5人がそれぞれの立場でプロフェッショナルとしてものすごく努力した結果なんです。そこまでになった彼らが、今度は自分たちの後輩やスタッフに対して、本気でアドバイスをしてくれる立場になってくれていることが、私たちの強みです。

TRFや倖田來未など、弊社のアーティストたちは普段も会社によく来て、スタッフとコミュニケーションをとっています。彼らは自分が良ければ良いとか、自分のことだけやるんじゃなくて、さらに自分たちの環境を良くするためには一緒に働くスタッフも伸びてくれなくては困るし、そのためにはアーティストもマネージャーも切磋琢磨しながらそれぞれのレベルを磨き上げていかなくてはダメだなんだと理解してくれています。

今は「CDが売れないから」とか色々言われますが、私たちは全然後ろ向きじゃなくて、音楽は一番大事だと思っています。CDが売れなくても1曲の重みとか、1曲に込める魂とか情熱は引き続き作っていかなければいけないです。加えて、その曲や、そのアーティストと共に、世の中にどうやって面白いことを提示していくのかということを、考えられますから面白いんですよね。

−− ポジティブですね。

伊東:なんとなく世の中が「音楽が売れない」「制作費も出ない」「スタジオ代も出せない」「簡易なレコーディングで済ませちゃおう」みたいなことになっていますが、私はそれだとダメだと思っています。やっぱり、信じた楽曲にしっかり投資する。良いものを作るためにはきちんとお金をかけなければいけないですし、それはミュージック・ビデオもそうですし、コンサートもそうです。小室さんが90年代当時に作った音楽は、やっぱりレコーディングにお金をかけていましたし、今聴いても全く古くなっていないですよ。

だから、そこを音楽業界…音楽業界という言葉が本当にふさわしいかどうかすら分からないですが、エンタテインメントにかかわる人たちは、何かを生み出すことに対する投資をケチってはダメだと思います。良いものを作るためには、それなりのお金をかけて、お金をかけるからには、そこに情熱と想いを込めないとダメだと思うんですよ。

−− 伊東さんは全く萎縮していないと。

伊東:全然していないです。これからもっと面白くなるなと思っていますよ。やっぱり、ブレないということですよね。軸というか。後追いもダメですし、自分がやりたいことに対してブレずにやりつづけていることに対して、やっと時代が追いついてくることがあるじゃないですか。でも、時代が来たときに軸がブレて「あれヤメて今こっちやっているんだ」となると、信頼もチャンスも無くなっちゃうんですよ。

ピコ太郎も古坂大魔王という音楽プロデューサーがプロデューサー視点で音楽ネタとして自分のライヴで披露していて、それを面白いと信じるスタッフと一緒にやってきて。それが、YouTubeや9GAGやジャスティン・ビーバーとかに紹介されたことによって今世界で2億回以上(2017年1月現在10億回を超えている)再生されています。私たちが「そんなの音楽じゃねえよ」とか「そんなの面白くねえよ」とか「YouTubeに出したって無理だよ」って本人やスタッフにNGを出していたら今の状況はないですし、私たちは彼が面白いと思ってやり続けていることを理解しバックアップしたことで、こうやって花開いたわけじゃないですか。

−− ピコ太郎はエイベックスがやっていたんですね。

伊東:ええそうなんですよ。海外を含めた契約交渉、出演交渉、商品開発など、グループ全体のインフラを各担当が早いジャッジをすることでチャンスを最大に広げられたことがピコ太郎×エイベックスの強みですね、今はネットが全世界でこれだけ普及していますから、別にCD契約をしなくても、メジャー契約をしなくても、今日投稿したら世界中に知らせることができます。そう考えると、本当に色々な分野でヒットコンテンツが生まれてくる可能性がありますから、そういったものを探してきて、世の中に提示するのが私たちの仕事になりますが、そのときに「これはやるけど、これはやらない」とか決めてしまうと、可能性を狭めてしまいますからね。可能性の扉は常にオープンにしときたいです。

−− 伊東さんのお話を伺うとエンタテインメントの仕事って本当に面白いなと思うんですが、今後のエンタテインメントの未来についてはどのように考えていらっしゃいますか?

伊東:はい、今まではマネジメントの話を中心にしてきましたが、これからのエンタテインメントはもっともっとその仕事の境界がなくなって行く方向に向うのではないかと思います。ちょっと前まではレコード会社、事務所、ライヴ制作会社、ファンクラブ、マーチャンダイズ、デザイナー、スタジオ、などなど、各社が限られた業務の中でやるべきことだけをやっていた時代がありました。しかし先述のように時代は日々変化し、全世界的にもライヴ制作会社がアーティストマネジメントのプランニングをする、マネジメント会社がレーベルを管理する、マーチャンダイズのデザイナーがアーティストのクリエイティヴを一元管理するプロデューサーになる、ミュージシャンがプロダクツ会社のCEOなるような例はもう珍しくありません。

弊社でもMiracleVellMagicやまこみなは契約前にすでにSNSで1億再生のメディアを持っており、CDデビュー前にミュージカルや単独ライヴ、商品開発は定期的にやっていましたから、そうするとデビューって言葉自体どんどん無意味になってきますよね。

昨年発表したように、エイベックスは北米をハブに、アジア、日本との連携を強化し、アーティストやコンテンツ、ビジネスを生み出していくことにさらに力を入れているのですが、これからグローバルな戦いに向かう為にオールジャパン的視点で今まで競争してきた他社レーベルや、事務所同士の連携や協力がもっと必要になってくるでしょう。

例えば、弊社マネジメントに所属しているDa-iCEは、レーベルはユニバーサルミュージックさんと契約させて頂き、先日(2017年1月)初の武道館公演も成功することが出来ました。藤倉さん(ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO))を先頭に担当して頂いているユニバーサルミュージックのスタッフの皆さんとはチームとしての一体感も強いです。こういった業界内・業界外との繋がりの強化も世界ヒットを狙う為に必要なことだと考えています。

弊社グループは創業以来常に時代の流れとともに変化しコンテンツビジネスからインフラビジネスまで360°ビジネスを構築してきました。これからはさらにマネジメント、ライヴ、レーベル、デジタル、アニメ、ライフスタイル、スポーツなど全ての事業を横軸で繋ぎ、また業界内外の企業と組みながら世界に向けてヒットを生み出す総合プロデューサーのような人が、これから若い人達の中から生まれてくると思います、私はどこの会社にも属さない!みたいな。

あっ、「若い人達」というのは年齢が若い世代の人達はもちろんそうですが、時代の変化や流れに柔軟に対応できる感性の持ち主って意味の方が強いかな、実年齢関係なく。時代や仕組みが変化しても変わらないのはたった一人の情熱が大事ってこと、そろそろいろんな壁を飛び越えて一気に世界の音楽シーンのど真ん中にて活躍する人が出てくるでしょうね。
まだまだこれからもっともっと面白い時代になりますよ!

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。伊東さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif