第141回 松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー

サイトリニューアルにともない、過去の記事にて表示くずれが発生する場合があります。
ご覧のみなさまにはご迷惑をお掛けしますが、順次対応を行っておりますのであらかじめご了承ください。

2016/09/12 (月) - 21:00
松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー

 

松崎 澄夫


音楽プロデューサー

 今回の「Musicman's RELAY」は酒井政利さんからのご紹介で、音楽プロデューサー松崎澄夫さんのご登場です。渋谷の富ヶ谷、ワシントンハイツのそばで生まれ育った松崎さんはアメリカ文化を肌で感じ、その後、渡辺プロダクションと専属契約をして、アウト・キャスト、アダムスのメンバーとして活動。バンド解散後、渡辺音楽出版へ入社し、音楽プロデューサーとして、キャンディーズやアン・ルイスなど多くのアーティスト、ヒット曲を手掛けられたました。その後、大里洋吉さんの誘いでアミューズへ移られ、2005年には代表取締役社長に就任されます。アミューズから離れられた現在も、音楽の制作現場に立ち続ける松崎さんにじっくりお話を伺いました。

 

2016年9月12日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
松崎 澄夫(まつざき・すみお)
音楽プロデューサー


 


1948年(昭和23年)生まれ
1965年 専属ミュージシャンとして渡辺プロダクションと契約
1966年(昭和41年)堀越高卒
1971年 渡辺音楽出版入社
1988年 アミューズ入社 アミューズ常務取締役(1991年)、専務取締役(1999年)を経て 2005年4月、代表取締役社長に就任
2010年4月 株式会社エフミュージック代表取締役
グループサウンズ「アウト・キャスト」のボーカルとして活躍。
渡辺音楽出版時代には人気グループ「キャンディーズ」の音楽プロデューサーなども務めた。
 


1. アメリカ文化をいち早く体感した少年時代


−− 前回ご登場頂いた酒井政利さんと最初に出会われたのはいつ頃ですか?

松崎:深い付き合いが始まったのは、キャンディーズの最後の頃ですね。酒井さんは僕が仕事を始めた頃には、すでに大変有名なプロデューサーでした。キャンディーズの解散が決まって、ソニーの中が大混乱したんですが、その当時トップだった酒井さんが混乱を収めてくれましてね。酒井さんとの繋がりはそこからですね。

−− 『微笑がえし』の頃ですか?

松崎:そうです。スタジオのレコーディングは全部僕がやっていたんですが、最後のアルバムタイトルを『早春譜』と付けたり、そういう秀逸なアイデアがポンポン出てくる酒井さんはすごいなと思っていました。僕たちと考える視点が全然違うんですよね。プロのプロデューサーだなと思いましたね。

−− 松崎さんから見ても、やはり酒井さんはすごかったですか?

松崎:それはもう。酒井さんは良い意味で毒のある言葉を使ったり、人とは違う見方をしますからね。酒井さんのようにいつまでも現役で、現場で仕事ができるっていうのは羨ましいことですし、それを常に思い続けている、世の中を見続けている酒井さんはすごいなと思いますね。

−− ここからは松崎さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは渋谷の富ヶ谷と伺っております。当時の富ヶ谷はどんな雰囲気だったんですか?

松崎:ちょっと行けばワシントンハイツ(現在の代々木公園)ですから、雰囲気はもうアメリカです。実家の周りにも将校の家とかいっぱいありましたから、うちの兄貴は英語を覚えたくて、将校の子どもたちと仲良くなっていました。アメリカの独立記念日はワシントンハイツが開放されて中に入れるんですが、まるで映画の中の世界でした。でもワシントンハイツの端っこのところは子ども同士の喧嘩の場所で、向こうは芝生、僕たちは砂利道に立って向かい合ってね。でも石を持っているのは僕たちなんですよね。

−− それはアメリカ人の子どもと喧嘩しているんですか?

松崎:そうです。アメリカ人の子どもは石がなくなると白旗と箱を持って、下に降りてくるんですよ。「攻撃しちゃいけない」なんて言って(笑)。

−− (笑)。あの時代に、そういった環境で育ったことは、後々、松崎さんに大きな影響を与えましたか?

松崎:そうですね。アメリカ文化を誰よりも早く受け入れられたかもしれませんね。一番上の兄貴が大学でジャズバンドをやっていたので、メンバーがうちに来て練習していましたから、自然と音楽を聴くようになりました。それですぐ上の兄貴とは一緒にアルバイトをやって、秋葉原で買った部品でステレオを作って、一番最初に聴いたのがエルヴィス・プレスリーの『ブルーハワイ』です。僕はそのアルバムの曲を全部覚えました。そこから歌をどんどん覚えたくなって、学校に行っても英語の歌ばかり覚えていました。

−− それは小学生のときですか?

松崎:いや、中学生ですね。小学生のときは学校が終わって、掃除の時間になって机を後ろにやるともうそこがステージで、友達と箒を持ってバンドごっこしたりしましたね。僕が一番最初に覚えた英語の歌が、ヘイリー・ミルズとモーリン・オハラの映画『罠にかかったパパとママ』の主題歌で、それを遠足のバスの中で歌うんです(笑)。あと、男子の中で唯一鼓笛隊に受かって、アジア大会の鼓笛隊とか全部出ていました。そういうことだけは積極的にやっていましたね。勉強は全然積極的ではないんですけど(笑)。少し目立ちたがり屋だったのかな。

−− ちなみに松崎さんは何人兄弟なんですか?

松崎:5人兄弟です。一番上と一番下は女性で、僕は三男です。ですから兄貴たちが聴いていたものを僕も聴いて楽しむ、みたいな感じでしたね。それで、ものすごくアメリカに憧れて、「アメリカ人の食事を真似しなきゃいけない」とか、小さい頃はそんなことばっかり考えていましたよ。

−− 映画はどうでしたか?

松崎:映画もかなり観ました。その頃の僕は音楽よりも映画だったかな。音楽はもうスタンダードジャズとか兄貴たちのレコードがあったので、生活の一部みたいな感じでした。

 

2. 高校時代からバンド活動〜渡辺プロダクションと契約

 


−− 高校ではどのような学生生活を送られたんですか?

松崎:初代ジャニーズの4人(真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦)のうちの一人、中谷くんが堀越学園の同級生だったんですよ。それで彼と一緒に遊ぶようになったんですが、ある日、誘われてウエスタンカーニバルを観に行ったら、そのジャニーズがトリなんですよ。それで日劇が揺れるくらいに盛り上がる様を見て、「すごいなあ」とうらやましく思いました(笑)。

−− (笑)。同級生であるジャニーズを見て「こいつにできるなら俺にもできるかも」と思われた?

松崎:単純にそう思いました。「なんでこんなに人気あるんだろう?」って。もちろん全く同じことができるとは思わないですし、「一緒に遊んでいるのに一体どこで努力しているんだ」とも思いましたけどね。

−− 松崎さんは高校に入った瞬間からバンドを組んでいたんですか?

松崎:ええ。僕の中学校の友達が、まだできたばかりの都立町田高校へ行って、そこでバンドをしていたんですが、その彼が「俺の友達に歌の好きなのがいるんだよ」って呼んでくれたんですよ。当時の町田はまだ赤線があったり、かなり荒れた土地だったんですが、僕たちはアメリカ軍のキャンプがある相模原へ行ったり、町田のダンスホールで外国人相手に演奏していました。

−− 高校時代にすでにそういうところで演奏なさっていたんですか。

松崎:でも、そのときはお金をもらっていなかったですからね。それで、一緒にバンドをやっていたギターの水谷公夫くんがバンドから抜けて、渡辺プロに入ったんです。で、水谷くんのステージを観に行こうかと、新宿ACBに行ったら水谷くんに呼ばれて、「バンマスが『ちょっとステージに立ってみないか』って言っている」と水谷くんの派手なシャツを着させられて、ステージで1曲歌って、次の日に池袋に呼ばれて行ったら、その場で「一緒にバンドやらない?」と誘われて、当時のお金で3万円くれたんですよ。

−− それはお幾つのときですか?

松崎:17歳のときです。「その金で洋服買ってこいよ。明日から名古屋だから」って言われて(笑)。それで名古屋のグランドキャニオンというところへ連れて行かれて、帰ってきたら渡辺プロのマネージャーの人が来て「渡辺プロに入らないか?」と。それで学校に見つかったらまずいなと思って、仕方ないのでおふくろに頼んで学校に言ってもらったんです。すでに中谷くんが活動していましたから、学校もそんなにうるさくはなかったですけどね。要は仕事があったりすると、午前中で学校を出なくてはいけないので、そういうことができるようにしなくてはということで、学校にきちんと了解を得て、渡辺プロに入ったんです。

−− 堀越学園ってその頃から生徒の芸能活動に理解があったんですね。

松崎:でも、芸能コースができたのは僕たちが卒業した後ですよ。

−− たまたま同級生に中谷さんがいてくれたから許された?

松崎:そうですね。彼はもう月に1、2回くらいしか学校に来ないですから(笑)。

−− (笑)。

松崎:ブルージーンズを抜けたベースの方がブルー・エースというバンドを作って、僕と布施明さんと望月浩さんの専属バンドみたいことをやっていたんですが、その頃は望月浩さんが大アイドルで、彼は独立して、次に布施さんが『これが青春』でデビューして抜けていくんですよ。それで「ブルー・エースはもうやめようよ」と言って、新たにアウト・キャストを作ったんです。

 

3. 渡辺音楽出版入社で制作の道へ

 

松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー
−− 松崎さんはいわゆるタレント契約をしていたんですか?

松崎:そうですね。僕はバンド契約じゃないんです。

−− もしかしたら松崎さんはバンドで売れていたかもしれないわけですよね。

松崎:でも、売れていたら自分の人生はこんなになってないですから(笑)。いつもアウト・キャストのメンバー同士で言うのは、「売れなかったから今みんな良い仕事ができているんだ」と。僕たちは木の実ナナさんのバックをやったりだとか、色々な人のバックもやったんですが、結局何が良かったって、そこで譜面を全部勉強できちゃったことなんですよね。渡辺プロのマネージャーに感謝です。

−− でも、バックバンドとなると楽器の人はいいですけど、松崎さんのようなボーカルの人は微妙な立場じゃないですか?

松崎:そう、だからバンドにゲストが来て、ゲストが3曲くらい歌って、あとは僕がアタマとケツを締める、みたいな感じで。

−− 自分のバンドを貸すみたいな感じでしょうか?

松崎:いや、そんな感覚はないですよ(笑)。リーダーは自分じゃないし。でも、その頃から僕が歌う曲をメンバーに渡すと、みんなアレンジして譜面を作って持ってきました。それで僕以外は全員スタジオミュージシャンとしてナンバーワンになりましたからね。やっぱりバンド活動はものすごく勉強になったと思います。

−− その後、渡辺音楽出版に入社されますが、これはどういった経緯だったんですか?

松崎:バンドを止めて青山のクラブのバンドで歌っている時に、渡辺プロの制作本部長に「松崎、お前は真面目だから渡辺音楽出版に入れ」と誘われたんです。「ここでレコードディレクターみたいな勉強も全部できるぞ。渡辺プロの楽曲は全部ここで作っているんだ」と。それで入社しました。なんとなく周りを見ながら仕事を覚え、伊丹幸雄の『青い麦』でディレクターデビューしました。

−− では、ご自分の意志で制作の方に行ったわけではなかった?

松崎:いや、何をやりたいかと聞かれたときに「レコード会社で音楽を作りたいんです」と言ったら、「レコード会社へ行く前に渡辺音楽出版で勉強しろ」と。それで面倒を見てくれたんですよ。

−− 松崎さんご自身がアーティストとして活動された期間というのは何年間だったんですか?

松崎:6年で終わりましたね。アーティスト活動はすぐやめようと思ったんです(笑)。なぜかというと、沢田研二さんや布施さんを見ていて「上手いな」「格好いいな」って思っていましたし、彼ら以上のことは絶対にできないと思ったからすぐやめたんですよ。それで裏方としてアーティストと一緒に作品を作っていこうと。今でもその決断は良かったなと思っていますし、渡辺プロがあったからすぐそういう仕事もやらせてもらえたわけで、運が良かったなとも思います。

−− それは自分を客観視できていたからこそですよね。

松崎:ある意味、これ以上みじめにもなりたくなかったですし、どうせだったらまともに働いたほうがいいやって。でも、会社勤めなんてしたことがないですから、電話が鳴るのが怖かったり、たくさんある会社の名前も分からないし、「これは会社生活に慣れなくては」と思って、会社の就業時間が11時から20時までだったんですが、最初の半年間は始業時間の15分前に来て、20時15分まで会社にいるようにしました。

それで会社生活にだんだん慣れてきて、もともと仲の良かった渡辺プロのマネージャー連中とタレントの話をしながら一緒にライブを観て、「こうしたほうがいいんじゃない?」とか色々アドバイスするようになると、タレントも自分のところに集まってくるんですよね。それで一緒にアイデアを出し合ったりするようになったんです。大里さんは「そういうことをアミューズでもやってくれ」と、僕に声をかけてくました。最初は「アミューズのアーティストのレコーディングに顔を出してくれればいいから」って話だったんですよ。「何をやってくれるんだ」じゃなくてね。「レコーディングに顔を出してくれ。分かるやつがいないから」という感じだったんですよ。

 

4. キャンディーズは仕事の基礎を作ってくれた「仲間」

 


−− 大里さんとは何のお仕事でお知り合いになられたんですか?

松崎:大里さんがキャンディーズの担当になって、付き合いが始まりました。自分たちで色々な方法を考えて、お金を算出して、その舞台に注ぎ込むことを繰り返すことで、どんどん発想が大きくなる。そういう環境が渡辺プロにありましたし、今のアミューズも全く一緒です。BEGINも食えないときに、サザンとか先輩の売上で食わしてもらっていたわけで、大御所がいる間に若手が考えチャレンジできる環境がアミューズの中にもあるんですよね。

−− 渡辺プロ時代、大里さんは何期先輩になるんですか?

松崎:1期です。年齢も一個上。大里さんたちが8期で僕が9期。でも渡辺プロ在籍で言うと僕の方が先輩です。僕がバンドをやっている頃に8期は新入社員として挨拶に来ていましたから(笑)。でも僕たちは学生バンドあがりなので、僕たちが年下って分かった途端に全然態度が変わるんですよ、あの8期っていうのは(笑)。

−− (笑)。でもアーティストを6年やって、止めてもまだ大卒と同じ年齢だったとなると…キャリアが長いですね。

松崎:長いですよね。アーティスト活動は上手くいきませんでしたが、多分、勉強はしていたんでしょうね。僕がアーティスト活動を終わらせたいなとはっきり思ったのはアダムスとしてCBSソニーからデビューしたときで、「なんでこんな歌を唄わなきゃいけないのかな?」とかそういう不満がすごくあって、それでもうやめようと思っていたんですよね。アウト・キャストのときは売れなくても自分たちのオリジナルをやっていましたし、今でも全然嫌な曲じゃないんです。

−− アウト・キャストがアダムスになってCBSソニーと契約したんですか?

松崎:そうです。アウト・キャストの僕と水谷くんが残って、新しいメンバーを入れてアダムスというバンドを作って。デビュー曲は村井邦彦さんの『旧約聖書』という曲で、これがなんか嫌だったんですよね。

−− アダムスはどれくらいの期間活動されていたんですか?

松崎:2年くらいじゃないですかね。でも、ウエスタンカーニバルにずっと出られたというのは勲章ですね。俺たちより100倍売れている連中でも、ウエスタンカーニバルには出られない中で、マネージャーの力があれば渡辺プロは絶対出られるっていうのがありましたから。マネージャーのおかげです。

−− 渡辺出版時代の松崎さんの一番の宝っていうのはやはりキャンディーズですか?

松崎:キャンディーズは自分のものをつくる方向性とか、会社に対してきちんと売上を立てることとか、自分がこの業界で何十年生きてこられた基礎を作ってくれた仲間だと思いますね。自分が音楽をここまでやってこられたのは彼女たちとの仕事があったからこそだと思います。

−− キャンディーズを手掛けたとき、松崎さんはまだ制作マンとしてはまだ駆け出しだったわけですよね。

松崎:そうです。僕も若いから、体力だけはありました。4小節のコーラスを5時間教えたり。普通の地ハモはいいんですけど、他の部分が慣れてないとできなくてね。

−− 普通4小節に5時間って耐えられませんよね。

松崎:若いからできたんです(笑)。キャンディーズだと最初は3人で歌詞を全部朗読させるんですね。そうするとブレスの入る位置の違いでズレるんですよ。で、何度もやり直しさせると3人のブレスが合ってくる。このユニゾンができなかったら、ハーモニーなんてやっても意味がないんですよ。最初のユニゾンが合っていれば、ハーモニーも全部キレイに聞こえるからって言い聞かせていました。

−− なるほど…。

松崎:キャンディーズの仕事でピアノも覚えたんですよ。コーラスを教えないといけないですから。バンドをやっていた頃に渡辺プロの発声の先生に教えてもらって、コードを弾いたりはしていたんですけどね。でもそれが歌を教えるときには一番役立ったかな。作家には「俺がピアノで教えるんだから、簡単なコードにしておいて」って言ってね(笑)。

 

5. アン・ルイス『六本木心中』大ヒットのおかげで海外録音が実現

 

松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー
−− キャンディーズの他に渡辺プロ時代に印象に残っているアーティストは誰ですか?

松崎:アン・ルイスとの仕事も大きかったですね。キャンディーズでは忙しすぎて個人的にやりたかったことが何もできなかったんですが、解散して、「次売れたら海外録音したい!」と思っていたら、アン・ルイスが『六本木心中』で売れて、「それいけ!」って(笑)。

−− 『六本木心中』は松崎さんが担当されていたんですか?

松崎:そうです。僕は山下達郎さんが曲を書いた『恋のブギウギトレイン』から担当ですね。『六本木心中』以降は7年間、毎年ロンドンへ行っていました。佐藤 準さんを連れて「1日1曲リズムだけでいいから。で、準はキーボードをメインに考えるな」って言って(笑)。そういうやり方をしながら7年間楽しみましたね。

−− キーボードを使わない佐藤 準さんですか(笑)。

松崎:ロックですから、キーボードメインにはしないようにと心掛けていました。それはアンが一番嫌がるんですよ。ロンドンに来た時くらいは、リズムとリフをメインに考えてやって欲しいと。彼はそれをきちんと受け入れてくれました。歌謡ロックの始まりです。

−− 実際の様子を見たことはないですけど、松崎さんの現場はミュージシャンたちがやりやすそうな雰囲気がありますよね。

松崎:みんな仲間でしたからね。「あの曲のイメージでどう?」とか、それで伝わっちゃいますからね。

−− ミュージシャン同士の共通言語があるんですね。

松崎:はい。「あの曲のあのフレーズだったら、この部分に合わないかな?」とかね。昔、宮川泰さんが東京音楽祭のためにザ・ピーナッツのオリジナルを作ったんですが、スタジオに入ってきた宮川さんの手にしているスコアが真っ白なんですよ(笑)。それで宮川さんと話し合って、僕がミュージシャンたちに「イメージはキング・クリムゾンの『エピタフ』!」って言うと、みんなバーンと演奏しだして、宮川さんが「それだー!」って(笑)。僕たちは宮川さんにすごく可愛がってもらったんですが、宮川さんも若いミュージシャンのセンスを吸収しようとしていましたよね。僕たちは宮川さんのことをすごく尊敬していましたが、そういう関わり方ができたのはものすごく嬉しかったですね。

−− また、松崎さんはご自身がボーカリストですから、歌って示すことができるわけですよね?

松崎:それは結構大きかったですね。自分で歌えるのは楽でしたね。僕は歌い手を盛り上げるのは長けていると思います。すごく怒ったりもしますが、多分誉めるときのタイミングが良いんだと思うんですよね。アン・ルイスは歌ダビングでお互い苦しむんですけど、最後には「マッツアン、ありがとうね」で終わりますから。

−− 渡辺晋さんとの思い出は何かありますか?

松崎:渡辺晋さんとの企画会議はものすごく勉強になりましたね。渡辺晋さんは常に「大衆音楽」という言い方をするんですよ。「大衆に対して表現がロックでもいい。歌い手によってお前たちがロック系にするのはいい」と全然否定はしないんです。でも「あくまでも流行歌であって、常に大衆を意識しろ」と。キャンディーズの『アン・ドゥ・トロワ』は最初イントロが揺れる感じで「気持ちいいね」って言っていたら「ダメ」と言うんですよ。「もっとインテンポにしろ」って。で、しょうがないからインテンポにしたものをシングルにして、揺れたイントロの方はアルバムに収録しました。

−− 渡辺晋さんは曲作りにかなり関わっていたんですね。

松崎:結構うるさいですよ。やはり音楽が好きですから、何か言いたいんですよね。毎週金曜日に会議があるんですけど、どんなに海外出張があっても、その会議が終わってから成田に行きますからね。それで必ず会議の前の日に帰ってくる。で、会議に出て、「お前サビなおせって言っただろう」と怒られたり(笑)。そういうチェックは好きなんですよ。僕たちもこのチェックをいかに通るか挑戦している感じでした。ある意味では「大衆の線」を通れるか、通れないかというね。

−− 渡辺晋さんを納得させないと世の中にも受け入れられない?

松崎:恐らくね。

−− では「晋さん対策」みたいなものもあったりしたんですか?

松崎:ありますよ(笑)。渡辺晋さんはやっぱり元ベーシストだから「ベースが小さくないか?」とか言うんですよ。それで「社長、マスタリングで直しますから」って言うんですが、それが続くと「またお前マスタリングでごまかそうとして」とかこういう言い方するわけです(笑)。でも、そういうやりとりは楽しかったですね。

 

6. アミューズ 大里洋吉氏の図抜けた力量〜ONE OK ROCK、Perfume、BABYMETAL

 


−− 松崎さんは最近、木崎賢治さんとレーベルを作られたそうですね。

松崎:「BOGUS RECORDS」というレーベルをテイチクエンタテイメントの中に作りました。木崎さんは今でも現役で制作を続けているし、僕の感覚も変わらないので「一緒にやろうよ」と。今後、僕も若いアーティストを持ってくるかもしれないけれど、今は木崎さんの好きなアーティストをやろうと思いました。今の若いバンドのメロディの作り方とかコードの持っていき方、歌詞の選び方とか、そういうものを若いアーティストと一緒にできるのは、僕の世代だと木崎さんだけしかいないって思っているんです。

僕自身も木崎さんとやることで、今までとはまた全然違う人間関係が作れるのが面白いなと思っています。今は結構ライブハウスに行ったりしていて、若いバンドを観ていると自分でもなんとなく分かってくるんですが、それ以上に木崎さんは話ができるのがすごいなと思いますね。僕もアミューズのときに若いアーティストたちとたくさん話しましたが、その前に現場マネージャーたちが一生懸命そういう人間を集めてくるわけですね。僕は途中20年くらい現場を離れていましたしね。でも、好きなBEGINだけはずっとやっていて、それを大里さんは許してくれていました。

やっぱり大里さんの力は非常に大きいんですよ。ONE OK ROCKもPerfumeも大元は大里さんなんです。Perfumeとして広島のダンススクールの子どもたちを繋いだのも大里さんですし、男の子のダンサーを募集して、小学生の頃からずっと面倒を見ていたんですが、高校になって解散して、その中の2人がバンドを作り、彼らが森進一さんの息子を呼んでできたのがONE OK ROCKというね。

−− すごいですね…。

松崎:アーティストに対する愛情の持っていき方とか、それこそ叱咤激励するタイミングとか、大里さんはものすごく上手いです。

−− ONE OK ROCKのTAKAさんはやはりお父さんの森進一さんの遺伝子を感じますよね。

松崎:2つの遺伝子が成功するなんてそんなにないですよ。TAKAは遺伝子を受け継いで、それ以上の声になったと思います。世界に通じますからね。ジョン・アンダーソンの録音を東芝のスタジオでやったときに「世界基準の声ってこういうものなんだな」って思ったんですよ。あんなに年齢がいっている人があれだけ声が出るのを目の当たりにして「世界で通用する声っていうのはこういう声か」と。TAKAの声にも同じものを感じますね。

−− BABYMETALもアミューズですよね。

松崎:そうです。さくら学院というグループがいるんですが、そのマネージャーがBABYMETALを作ったんです。僕は彼に「自分のアイデアでこんなことをやったんだから好きなだけやれ」と言っています。「お前は今、強気になって好きなことをとことんやらなかったら損するぞ」って煽っているんです。でも、逆にそれをやることで、上は発想することを許すんですね。それで成功すれば完全に自分で1つのセクション持てるようになりますし、そこからまた新しい感覚のアーティストが出てくるかもしれません。

−− アミューズは世界を抜けていくアーティストが増えていますよね。

松崎:SEKAI NO OWARIも「世界に行くためにアミューズと組みたい」と言って来たそうです。YKIKI BEATもアミューズだったので驚いてます。

−− 若い人たちも分かっているということですね。

松崎:分かっています。世界に出るにはアミューズと組んだ方がいいって。

−− 松崎さんは、今、アミューズから離れていらっしゃるんですか?

松崎:はい、もう完全に。でも、なんだかんだアミューズのアーティストやマネージャーとの関係で何かあるときには相談にのったり、手伝ったりします。アミューズには好きなことを最後までやらせてもらいましたし、大里さんにはお世話になりましたからね。

 

7. 楽しいものを作られるように心は豊かでいたい

 

松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー
−− 松崎さんのようにアーティストから一部上場会社の社長までの経験って普通はできませんよね。

松崎:そうですね。「アミューズの社長をやれ」と言われたとき、絶対に嫌だったんですが、弁護士から「松崎さん、一部上場会社って日本で3,000社しかなくて、そこの一人なんだから面白いですよ。やってみませんか?」って騙されたんですよ(笑)。上場への流れも理解していましたし、多分一瞬はできるだろうと。

でも、こんなに疲れる仕事はないです。就任して即身体を壊しましたからね。今までそんなことはなかったですから。僕は部下とかをつけずに好きなことをやって結果を出す方が向いているんですよ。それは渡辺音楽出版の頃からそうですね。

−− 現場にいたい、と。

松崎:そう。僕はできれば現場にずっといたいタイプなんです。

−− 酒井さんも全く同じことを仰っていました。

松崎:酒井さんのように、あれだけ色々な物の見方とか発想を今でも持っている人は、やっぱり現場が楽しいと思いますよ。そういう能力をもっと発揮できる場があれば、僕は歌謡曲とか流行歌ってまだまだ出てくると思うんですけど、悲しいかな、もう胸を張ってできる状況ではないんですよね。でも、やり続けなきゃ面白くないから僕もやるんですけどね。もうレコードを出したからって金を取れる時代だとも思っていませんし、それを前提に色々やっているとまた意識が変わってきて、なかなか面白いんですけどね。

木崎さんが「洋服のように1、2年ごとで切り替えるのは、音楽も一緒だ」という話をしていて、そうやって切り替えていくことで自分の感性も時流に近づくんだって言うんです。その話を聞いてから、僕は着るものとか変わっちゃったんですよね。全然履かなかったジーパンも履くようになって、クラブに行ったり、ライブハウスに行ってね。木崎さんはライブハウスへ行っても前の方でしっかり観るんですよね。それが偉いなと思ってね。僕なんかどうも端っこの方にいちゃうんですけど(笑)。でも、自分の好きなバンドを見つけたら、多分前に行くんだろうなって思うんですけどね。

−− 素晴らしい。完全に現役ですね。

松崎:いやいや。もう楽しむしかないんですよ。楽しいものを作って楽しい場所でみんな笑えるのがいいかなって。

−− それは音楽制作マンとして素晴らしい歳のとり方だという気がします。

松崎:アミューズにいられたことですごく良い勉強になったんだと思いますし、運も良かったんだと思います。うちの娘にも「俺は運が良かったんだよ」って言うんですよ。「でも運を引き込めるやつと、運が来ているのに逃しちゃう奴がいるっていうことは、その運を掴める感性を持っているかどうかで、その感性を持っているやつはどこかで努力しているんだよ」と。

僕は最初、本当に音楽のことが分からなくて、高校1年で水谷くんに会ったときに「キーはなんなの?」って聞かれて、その意味が分からなかったんですよ。そこから音楽の勉強を始めたんですが、渡辺音楽出版に入ったときに、今度はスタジオでプロのミュージシャンと譜面で話をしなきゃいけないときに、僕はスコアが次どこに行くか分からなかったんです。それから半年間、毎日レコーディングが終わってからスコアを持って家に帰って、テープを聴きながらスコアの動きを全部確認していましたから。ずっと勉強してきているんですよね。それは今もそうです。

−− 最後になりますが、音楽業界で仕事をしている若い人たちへメッセージを頂きたいのですが。

松崎:今の若い人たちは新しい音楽を作ろうという意欲はすごくありますよね。これからは、昔は絶対通じないと言われた英語圏にも、日本語の歌がどんどん広がっていくでしょうし、ネットなどによって世界共通の音楽やアーティストが日本からも出る時代になると思いますから、失敗を恐れずに新しいことにどんどんチャレンジして欲しいですね。

例えば、BABYMETALなんかヨーロッパ&アメリカツアーも日本語でいいんですものね。お客さんはそれで喜ぶわけですから。僕らが小さいときは、英語が分からなくてもメロディが入っていけば洋楽を覚えたわけで、BABYMETALはその逆とも言えますし、加えて彼女たちは映像で見せることができるのも大きいと思います。彼女たちの世界進出はあの映像があってこそだと思います。アニメもそうですが、ヴィジュアルが重視される時代なんでしょうね。

−− そうなるとプロモーションの仕方から何から変わるのは当たり前ですよね。

松崎:そうですね。どれが正解というのがないから、今の若い人たちは試行錯誤しているわけで、僕はそこに乗っかる音楽を一緒に作れたらいいなと思いますし、今まで蓄積したもので何かアイデアを与えられたら若い人たちとも一緒に仕事ができるかなって思うんですよね。自分が中心になってとかではなくてね。

無から音楽が生まれる楽しさはずっと変わらないと思いますし、その音楽を世の中の人が聞いて、また楽しんでくれたら最高ですよね。そのためには僕自身も楽しく生きられることをやっておかないと、楽しいことは考えられないじゃないですか? やっぱり心は豊かでいたいって思っています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。松崎さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif