第131回 遠藤 ミチロウ 氏 ロックミュージシャン

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2015/09/25 (金) - 21:00
第131回 遠藤 ミチロウ 氏 ロックミュージシャン

 

遠藤 ミチロウ 氏


ロックミュージシャン

 

今回の「Musicman's RELAY」は大友良英さんからのご紹介で、ロックミュージシャン 遠藤ミチロウさんのご登場です。日本のロックシーンに衝撃を与えた伝説のパンクバンド、ザ・スターリンの中心人物として82年 アルバム『STOP JAP』にてメジャーデビューした遠藤さんは、過激なライブパフォーマンスとともに、その強烈な存在感とカリスマ性で圧倒的な支持を集めます。バンド解散後はソロアーティストとしてアコースティックギターを抱え、全国各地を精力的にツアー。東日本大震災以降、大友良英さんらと「プロジェクトFUKUSHIMA!」を発足させ、復興支援に尽力されました。今年4月には10年ぶりにソロアルバム「FUKUSHIMA」と詩集「膠原病院」をリリースされた遠藤さんにじっくりお話を伺いました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
遠藤 ミチロウ(えんどう・みちろう)
ロックミュージシャン


 


1950年11月15日生まれ。福島県二本松市出身。学生時代よりイベントを企画し始め、大学卒業後、東南アジアを放浪。帰国後バンド活動をスタートし、ザ・スターリンの中心人物として82年にアルバム『STOP JAP』にてメジャーデビュー。過激なステージが話題となった。ザ・スターリン解散はソロプロジェクトを開始。数々のミュージシャンと共演し、多くの作品を残している。東日本大震災以降、大友良英らと「プロジェクトFUKUSHIMA!」を発足させた。


1. 「FUKUSHIMA」という言葉をプラスのイメージに変える


−−前回ご出演いただきました大友良英さんと深く関わられるようになったのはやはり「プロジェクトFUKUSHIMA!」からですか?

遠藤:そうですね。震災の年に一緒にやることになってからですね。最初はNPOとかそういうことではなくて、被災した福島を見て、何かやらずにいられなかったんですね。そのとき、誰に声をかけようかなと思ったときに、当然福島出身だったり、福島にゆかりのあるミュージシャンに声をかけようと思って、真っ先に浮かんだのが大友さんでした。

−−「プロジェクトFUKUSHIMA!」には若いミュージシャンもたくさん集まりましたよね。

遠藤:集まってくれましたね。震災直後はみんなボランティア的に援助したり、手伝うことしかできなかったんです。そうじゃないことというか、特に福島の場合は津波の被害だけじゃなくて、原発の問題もあって「これからどうなっちゃうんだろう」というような状況で、メディアから色んなニュースが流れてくるんですが、そこに住んでいる人がどういう思いで、どういう生活しているかは見えてこないんですよね。だからそれを福島から発信したいなと。それはどうやったらできるだろう? と大友さんと考えて、福島でフェスティバルをやろうと決めました。

ただ、僕も大友さんも東京に住んでいるので、福島に住んでいる人と一緒にやらなくては意味がない。そうしたら福島に住んでいる和合亮一さんという詩人の方が、震災からTwitterで詩をツイートしていて、話題になっていたんですよね。僕たちもその詩を読んでいて、「福島にいる」ということがリアルに伝わってきたんです。それで大友さんが福島に行って和合さんに会って、フェスのことを話したら、実は最初ちょっと否定的だったんですよ。「今はできないんじゃないか?」って。そうしたら、その話をしていた居酒屋の親父さんが、「今、福島は元気ないからぜひやってくれ!」みたいな感じだったので、「じゃあやろうか」と(笑)。それが2011年4月ですね。だから立ち上げて4ヶ月後には福島で野外イベントやったんですが、とにかく大変でしたね。

−−ただ気持ちだけでやり遂げた感じでしょうか。

遠藤:そうですね。最初の資金は言い出した僕と大友さんが出さないといけなかったし(笑)。

−−その後も「プロジェクトFUKUSHIMA!」は継続して開催されていますね。

遠藤:1回きりじゃなくて、続けていこうということで、次の年にはNPO法人を立ち上げて、今年が4年目です。この趣旨というのが、経済的な支援じゃなくて、震災以降、福島という言葉がカタカナだったりアルファベットだったりして、広島と同じになっちゃったんですよね。広島がカタカナとかアルファベットになると、「NO MORE HIROSHIMA」のように原爆の象徴みたいになっちゃう。震災直後も特にヨーロッパあたりで「NO MORE FUKUSHIMA」みたいになったんですよ。

だから、福島という言葉が原発事故そのものみたいになって、マイナスイメージで有名になっちゃった。福島に住んでいる人の心も「福島」という言葉にマイナスのイメージを持っちゃって自信をなくしていたから、それをプラスに変えたかったんです。例えば、HIROSHIMAと言ったときに、核廃棄の象徴になれば、希望のある言葉になるじゃないですか。FUKUSHIMAという言葉が放射能に打ち勝ったというプラスの言葉になれば、そこに住んでいる人にとっても自信になると思うんですよ。ですから、福島から震災後に新しい文化が生まれて、それが新しい未来に向かっていく一つのきっかけになるようなことをみんなでやりたいなと思っています。

−−福島に帰る頻度がすごく増えたんじゃないですか?

遠藤:増えましたね。5年に1回くらいしか帰らなかったのが、毎月帰るようになったりとか(笑)。2年目は色々試行錯誤だったんですけど、「プロジェクトFUKUSHIMA!」のイベントだけじゃなくて、自分でも色々試みたんです。その中で、浪江町という放射能の汚染が特にひどかった街があるんですが、その浪江町は僕の実家の二本松市の隣町で、浪江町の人たちがたくさん二本松に避難してきていて、二本松には仮設住宅がいっぱいあるんですよ。僕はその仮設でも歌ったんですけど、主催してくれた浪江町の若い子たちと話したら、二本松の安達運動場の仮設は広くて体育館もあると。その体育館を使って何かやれないかなと、2012年の2回目の「プロジェクトFUKUSHIMA!」をやった2日後に「浪江音楽祭」というイベントをやったんです。

それはアコースティックコンサートだったんですが、僕と浪江町の若い人たちが主催で遠藤賢司さんやカルメン・マキさんに出演していただきました。それと、仮設の人たちが「盆踊りをやってほしい」と言うので(笑)、盆踊りとのど自慢大会、民謡大会をやりました。原田直之さんという浪江町出身の有名な民謡歌手に来ていただいて、僕と原田さんでのど自慢大会の審査員をやったり(笑)。みなさん僕なんかより上手いんですよ(笑)。そのときにやった盆踊りが、みんななんだかしんみりと踊っているんですよね。故郷にいつ帰れるかわからない、帰れるかもわからない。でも盆踊りをやると、いつもの夏祭りの光景が浮かんでくるのか、黙々と踊るんです。それを見て、悲しいような苦しいような、でも感動的な、なんとも複雑な気持ちになりました。

それで、その次の年、3回目のフェスティバルで何をやろうかというときに、盆踊りを提案したんです。そしたらみんなに反対されて(笑)。僕は浪江町の盆踊りを見たときに、盆踊りがそこに住んでいる人たちの支えになっていると思いましたし、普通、盆踊りってお年寄りと子供しか参加しないんでしょうけど、若い人たちも参加したくなるような新しい盆踊りをやろう、みたいな提案をしました。

−−説得できたんですか?

遠藤:ええ。いろいろ話し合ってるうちにだんだんみんなその気になって(笑)。新しい盆踊りにするためには新しい盆踊りの歌を作ろうということで、みんなで「ええじゃないか音頭」を作りました。作曲を大友さんにやってもらって、歌詞はプロジェクトのメンバーがそれぞれ出したものをまとめて、ボーカルは僕と長見順さん。それが一昨年なんですが、思った以上に成功したんですよ。人も集まったし、色んな盛り上がりがありましたね。

 

2. X線技師だった父親からの文学的影響

 


−−先ほどお生まれは福島の二本松とおっしゃっていましたが、ご両親は現在も二本松にいらっしゃるんですか?

遠藤:はい。父はずっと前に亡くなっていますが、母と弟が住んでいます。

−−ご兄弟は弟さんだけですか?

遠藤:姉と弟の3人兄弟で、姉は神奈川の海老名に住んでいます。弟は医療技師で病院勤務なので震災以降は3ヶ月休みがなかったらしいです。

−−ご自宅も被害にあっているんですか?

遠藤:実家の地震の被害は大したことはなかったんですよ。二本松は地盤が強かったみたいで。ただ放射能の汚染は二本松はかなりひどいです。

−−どのようなご家庭だったんですか?

遠藤:父は公務員で、X線技師として保健所や県立病院で働いていました。戦前からX線技師だったので、もうかなり被爆していますよね。戦前のX線の機械なんていい加減だからって、父も言っていました。それで生まれたのが僕ですからね。ある意味被爆二世ですよね。だから子供のときから、親父が原因不明の鼻血を出したりしていると、「放射能のあれかな」とか言っていて、子供心に「放射能って怖いなぁ」と思っていたんですよ。

−−音楽に繋がるような小さい頃の想い出は何かありますか?

遠藤:どちらかというと文学でしたね。父親がすごい文学青年だったらしくて、石川啄木が大好きで、戦前は東京の日赤病院で働いた後、岩手の松尾鉱山の診療所で働いていたらしいんですが、そこは石川啄木の故郷の近くなんですよ。だから、知らない間に父親の文学に対する思想の影響は受けていますよね。

−−すごくロマンチックなお父さんですね。

遠藤:どうなんですかね。松尾鉱山は硫黄の鉱山で火薬を作るために採掘していたんですが、ものすごい大きな鉱山なんですよ。だから何かつてがあったんだと思うんですけどね。それで、その鉱山に秩父宮様がいらしたことを記念して「松尾鉱山音頭」という歌を作ることになって、この作詞が一般公募で、うちの親父が応募したら採用されたんです。曲は武田忠一郎さんで、歌は有名な民謡歌手の人が歌っていて、ビクターからレコードが出たんですよ。そういう意味では、僕より先に親父がレコードを出しているんですよ(笑)。

−−(笑)。では幼少期は文学少年で、家で音楽を聴いて育ったというわけではなかったんですね。

遠藤:ないですね。中学校のときにビートルズが来日して、やっぱりクラスにはほうき持ってエレキの真似したりする奴はいましたけど、僕はそこまで熱中しませんでした。高校に入ってグループサウンズがわーっと盛り上がった時期があって、そのときからですね。

−−グループサウンズで好きなバンドは何でしたか?

遠藤:ブルーコメッツですね。その影響でフルートを吹いてみたりとか(笑)。僕は福島高校という高校に通っていたんですが、生徒の98%が大学へ行く進学校で、3年に1回しか文化祭がないんですよ。ちょうど僕が3年のときに文化祭の年で、3年生なんか受験を控えているから誰も文化祭に参加しないのに、僕とか不良連中がフォークグループを作ってライブをやったんですが、そのときもフルート吹きましたね。

−−でも、進学校に通われていたということは、勉強はできたんですね。

遠藤:入学したときはできたんですけど、2年生のときに、学年に550人いるんですけど、550人中530番ぐらいでした(笑)。どんどん成績下がって(笑)。全然勉強しなくて、もう午後は学校にいないんですよ。単位足りないから追試を受けてやっと進級してみたいな感じで。そうしたら2年生後半の進路相談で親が呼ばれて、「大学進学は難しい」と言われて、親父もショックを受けて、僕も大学行かないとまずいなと思ったんですが、親のお金では行きたくなかったんですよ。そうすると国立に入るしかない。でも国立入るには、550人中最低でも100番以内に入らないと無理だろうと言われて、それから急に勉強を始めたら、最終的には20番くらいまでいったんですよ。

−−それはすごいですね!

遠藤:これならもう大丈夫だろうとことになったんですが、僕の受験の年に東大の安田講堂事件があって東大の入試が中止になったんですよ。そうしたら東大を受験するはずだった人が他の国立大学を受験したので、レベルがぐっと上がって「やばい!」と(笑)。それでもまだ合格圏内だったので安心していたら、受験のとき色々と失敗しちゃって、第一希望の北海道大学に結局落ちちゃったんです。それで山形大学に行ったんです。

 

3. 歌の基本はラブソング〜失恋をきっかけに歌い始める

 

遠藤 ミチロウ 氏
−−やはり音楽に熱中したから高校時代は成績が急降下したんですか?

遠藤:いや、女の子に熱中して(笑)。当時は男子校だったので、暇さえあれば。電車通学だったので、電車には他の学校の女の子がいっぱいいるじゃないですか? そればっか追いかけていて(笑)。

−−若気の至りですね(笑)。

遠藤:そう(笑)。でも、音楽にはまっていったのも高校時代ですね。ちょうどグループサウンズがわっと盛り上がったときにザ・カーナビーツっていたじゃないですか? ザ・カーナビーツのベースの人が福島出身なんですよ。だから凱旋公演をやって、それを観に行ったら、超サイケデリックショーなんですよ。頭とお尻にヒット曲をやって、その間は洋楽みたいな曲ばっかりで、それにカルチャーショックを受けました。それからロックに傾倒して、行き着いたのがドアーズです。ジム・モリソンの影響を思いきり受けて。

−−ギターを始めたのはその頃からですか?

遠藤:大学入った頃にフォークブームが始まって、小遣いためてアコギを買ったんですよ。大学に入ったら同じようなやつがいて、そいつらと一緒にバンドを作って、ジャックスが好きだったので、ジャックスのコピーバンドをやりました。でもあんまり活動してなくて、自分で歌うよりも、コンサートを主催したり、プロデュースばかりやっていたんですよ。それで友部(正人)さんやエンケン(遠藤賢司)さんとかと知り合いました。

−−在学中にロック喫茶のマスターもされていたんですよね?

遠藤:そうですね。僕は大学に6年いたんですけど、大学4年のときにロック喫茶のマスターを1年だけしていましたね。

−−それは一から遠藤さんが作ったお店だったんですか?

遠藤:もともと通っていたロック喫茶のマスターが、「明日夜逃げするからお前マスターやらない?」って言うから、次の日から僕がマスターになって(笑)。内装のお金だけ払ってレコード以外全部譲ってもらって。

−−お店の営業は順調だったんですか?

遠藤:そんなに儲かりはしないんですけど、まあ普通に。僕はジェスロ・タルが好きだったんですが、お店が『ジェスロタル』という名前だったんですよ。僕がつけた名前じゃないんですけど、結局1年やって。でも、僕はしょっちゅう旅をしていて、ちょっと暖かくなると、大学1年のときからずっとヒッチハイクで全国回っていたんですよ。でも、お店やっている間は旅に出られなかったから、「こういうのより旅している方がいいや」と思って1年で店は辞めて、それから1年ぐらいして東南アジアへ旅に行ったんです。

−−それは在学中ですか?

遠藤:卒業と同時ぐらいですね。

−−東南アジアのどちらに行ったんですか?

遠藤:タイ、ネパール、それからマレーシア、インドネシア、ラオス、またタイに戻ってきて日本に帰りました。ちょうど行った年がベトナム戦争が終わった直後だったのでベトナムは入れなかったんですよ。それでラオスに行ったんですが、ラオスはまだ戦争が終わってなくて、ビエンチャンにしか入れなかったです。

−−まだとても安全とは言えないような混沌とした時期になぜ東南アジアへ行こうと思ったんですか?

遠藤:僕は学生のときピッピーみたいでしたから。ヒッピーの聖地はネパールじゃないですか? だからネパールに3ヶ月いたんですよね。

−−ネパールの3ヶ月間含めて、東南アジアをどれくらいの期間回っていたんですか?

遠藤:1年ぐらいですね。

−−言葉の壁とかあまり気にならない方なんですか?

遠藤:全然平気ですね(笑)。身振り手振りでOK!みたいな(笑)。国内でしたけど、ずっと旅していたから、旅先での人との出会いとか、家に泊めてもらったりとか慣れているんですよね。アジアに行ったときはほとんど1泊50円とかの虫が出るようなホテルでしたけど、全然平気でしたよ。

−−その1年は楽しかったですか?

遠藤:楽しかったです。帰る気なかったんですけどね(笑)。最初は2ヶ月だけの予定だったので、当時同棲していた彼女に「2ヶ月ネパールに行ってくる」と言ったまま1年帰ってこなかったので、日本に戻ったら、彼女は友達の男とできていて、振られました。

しょうがないよなーっと思いつつ(笑)、結構ショックで、失恋の詩を書いて、それをライブで歌うようになったんです。それまで色々とやっていたんですが、そのときに「自分で歌う方がいいな」と思ったんですよね。だから僕は失恋がきっかけで歌うことになったんですよ。それがなかったら、ミュージシャンになっていないです。

−−ミチロウさんはキャリアのスタートが比較的遅いですよね。

遠藤:裏方をやったり、旅をしたりして、積もり積もって最後にミュージシャンです。例えば、僕と同じ歳の三上寛さん、友部正人さん、友川かずきさん、PANTAさん、CHABOさんとか、みなさん20歳前後からキャリアをスタートしています。僕は30歳前後から始めたので、年下でもミュージシャンとしては大先輩なんですよ。みんなファンだった人ですし、寛さんとか特に大ファンだったので、作品的にも影響はものすごくあります。

−−普通の仕事に就くことはあまり考えなかったですか?

遠藤:「将来何になりたい?」と言われて、何も出てこないんですけど、やりたくないことははっきりしているんですよね。だから、取りあえずやりたくないことはやらない。それだけを徹底しようと思ったら、「就職したくない」という(笑)。

−−(笑)。

遠藤:ネクタイしたくない、就職したくない。働きたくないというのが、基本的にある(笑)。それをずっとやって来ている。やりたくないことを避けていったら、ミュージシャンになったということですね。

−−分かりやすいですね。

遠藤:子どもの頃は建築家になりたかったんですよ。大工仕事が良いなと。もう少し大人になると、ちょうど東京オリンピックのときが中学生だったから、丹下健三みたいな建築家が良いなと思いました。いつの間にかそれもなくなっちゃいましたが、今でも大工さんに対する憧れはありますよ。

−−憧れは残っている。

遠藤:大工さんと、あと板前は良いなと。すごく料理も好きなので。でも、一番好きなことを職業にしない方が良いと言われますしね。

−−遠藤さんに一番影響を与えたものを一言で言うと、「女性」じゃないですか?(笑)

遠藤:そうですよね。僕の歌のきっかけがラブソングじゃないですか。僕にとって歌って何ですかと言ったら、基本はラブソングなんですよ。失恋の、振られた方のラブソングですけどね。僕にとって歌はラブソングが根本にあります。メッセージがどうのこうのという以前にね。

 

4. 世界で一番嫌われている名前「スターリン」をバンド名に

 


−−パンクに傾倒するきっかけは何だったんですか?

遠藤:スターリンを始める前の年の大晦日に「ウッドストック」の映画をやっていたんですよ。それを観ていたんですが、僕は「ウッドストック」に憧れてヒッピーになったのに、観ているうちに妙に嫌になっちゃって、「お気楽だなあ」みたいなイメージができちゃったんですよね。その瞬間「よし、パンクに行こう」と、髪をバッサリ切って(笑)。

−−(笑)。やはりイギリスのパンク・ムーブメントの影響があったんですか?

遠藤:そうですね、ピストルズとか。スターリンをやりだしたときはもうピストルズは解散して、P.I.Lになっていて。でもやっぱりピストルズみたいなバンドをやりたかったんですよね。

−−そして80年にスターリンを結成されるわけですが、初めてこの「スターリン」というバンド名を聞いたときは、すごくスキャンダラスに感じました。

遠藤:僕は山形大学でヘルメットを被って学生運動をやっていたんですよ。ただ、セクトが嫌いで、入りたくありませんでした。もうアナキスト集団ですよね。といっても、アナキストだから組織をはっきりさせない。1人1人がやりたいことをやれるじゃないですけど。それで僕たち学生運動をやっていた人間にとって、「反帝・反スタ」ってくらいで、スターリンというのは最悪の人間の1人なんですよね。世界的に見ても、世界中で一番嫌われている人間は歴史的に見て誰だろうと言ったら、やっぱりヒトラーとかスターリンだろう、と。

−−バンド名に世界で一番嫌われている名前をつけたと。

遠藤:そう。それを名前に付けようと。というのは、バンドで世界進出しようみたいな魂胆があったので。やっぱり世界的に一番通用する名前「スターリン」で良いんじゃねえの? みたいな。そうすると当然若い人だけじゃなくて、僕たちくらいの世代の人間も「何だ?」って興味を持つようになるだろうみたいな気持ちがありました。

−−もはや伝説的になっているスターリンの過激パフォーマンスを行うきっかけは何だったんですか?

遠藤:最初、普通にライブをやったら全然ウケなかったんですよ。何かインパクトねえなと。それで、お店にあった残飯をぶちまけたんですよ。そうしたらお客は怒って帰っちゃって(笑)、でも次のライブをやったとき、客がワーッと増えたんですよ。その無茶苦茶やったライブが評判を呼んで、何だろうと恐いもの見たさでみんな集まってきて(笑)。やればやるほど客が増えるので、これは面白えなと思いましたね。

そのうち、スターリンという名前だから、そこと関連付けられないかなということで、ブタの臓物になったんですよ。ジョージ・オーウェルの小説『Animal Farm』はソビエトの未来を書いている作品で、共産党の幹部とか軍人みんながブタになっている話なんですけど、そのイメージがあったので、ブタの臓物を投げようかと、いつの間にか(笑)。

−−それってお肉屋さんに行って仕入れるんですか?

遠藤:肉屋じゃないですよ。肉屋じゃ売ってないですね。肉屋が仕入れる所ですよ。問屋。ツアーで地方へ行っても、地方の問屋を調べて。ないときはしょうがないからポリバケツの残飯をぶちまける。

−−そうするとどんどん客が増えていくんですか?

遠藤:そうですね。噂が噂を呼んじゃって。そうすると今度は、雑誌に載るようになって。あの頃は週刊誌にしょっちゅう載っていました。『女性自身』とか(笑)。大阪に非常階段がいて「東のスターリン、西の非常階段」みたいな。2大変態バンドと(笑)。要するに、パンクバンドじゃなくて、変態バンドとして取り上げられていたんです。だから、地方のおばちゃんでも名前は知っていて。

−−でも、どんな音楽をやっているバンドかは全然知らない(笑)。

遠藤:そうです。「あ、変態バンドだね」とか言われて(笑)。ステージでスッポンポンになって、おしっこもして。ウンコはしなかったですけど、やりたい放題ですよ(笑)。

−−よく捕まらなかったですね。

遠藤:いや、そこで捕まったんですよ。その捕まった記事が『FOCUS』の創刊4号でバーンと載っちゃって。それで家から勘当されました。

−−その後、ご両親とは和解されたんですか?

遠藤:親父が96年に死んじゃったんですよ。それも事故で。転んで怪我をして、脊髄がちょっとやられて入院したら、今度は院内感染で死んじゃったんですよね。もともと親父は公務員を定年退職した後はその病院に再就職して働いていたんですよ。最後はX線技師を辞めて、その病院の事務長だったんです。だから、自分が働いていた病院での院内感染だから文句も言えない。僕は直接話してないですけど、入院しているときに、親父が院長先生に「息子は勘当したんだけど許す」みたいなことを言っていたらしいんですよ。

−−人づてに聞いただけなんですね。

遠藤:そう。「許すと言っていた」と聞いて「そうですか」と。僕は全然どっちでも良かったんですが(笑)、死に際に許してくれました。

 

5. スターリンの影響力〜親子2世代のファンからアーティストまで

 

遠藤 ミチロウ 氏
−−スターリンとしては何年間活動していたんですか?

遠藤:色んなスターリンがあるんですよ。最初がザ・スターリンで、その次がビデオスターリン、その次が“ザ・”のないスターリンですね。それで、復活ライブをやったときがスターリンZ。最後の意味でZ。それで震災が起こっちゃったので、福島だけでやるスターリン、それがスターリン246。246=2時46分は震災があった時間で、そのスターリン246というのを去年までやっていました。でも、最初のザ・スターリンでいうと活動は85年までなので、実質5年ですね。

−−私にとってもその頃のスターリンは衝撃的だったんですが、ミチロウさんが1人で弾き語りをやっているという話を聞いたときも驚いたんですよ。

遠藤:それは92年からですね。だから、ザ・スターリンを解散してソロ、そして次はビデオスターリンというのを作って、それからザのないスターリン。その後弾き語りですね。

−−ビデオスターリンとはどういうバンドだったんですか?

遠藤:アマチュアバンドをやろうとしたんです。僕以外のメンバーは、高校を卒業したばかりの18歳とかで、3年くらいやったんですが、全国各地に行きました。それで、当時は8ミリビデオとか、ビデオが民生機でやっと使える時代で、レコードを出さないで、ビデオだけを出すバンドをやりたくて、それがビデオスターリンです。当時のビデオソフトは高かったんですが、それを僕たちはレコードと同じ値段にしたんですよ。ビデオ2時間1本を2,500円かな。だから、出せば出すほど赤字になる(笑)。

−−そのビデオは編集したものなんですか?

遠藤:編集したものです。井出情児さんに編集してもらって。1本目は新宿ロフトでやったデビューライブを撮ったもので、タイトルは「デビュー」。2本目はライブではなく、1曲1曲プロモーション・ビデオを作りました。

−−そのアイディアは早過ぎですね!

遠藤:全曲プロモーション・ビデオを集めたみたいなアルバムでした。その中で結構過激なことをやっているんですよ。丸尾末広さんのヤバイ絵を使って、絵の連続で映像を作るとか。

−−インディーズだからこそ、そういうことはできたんでしょうね。

遠藤:そうです。最初のスターリンが徳間で、その後しばらくキングレコードでソロをやって、ビデオスターリン、次はアルファレコードですかね。メジャーとメジャーの狭間は全部、自分のやっているインディーズレーベルに戻っている。メジャーが嫌になると、またインディーズをやってみたいな(笑)。さすがに最後のスターリンをやったときはメジャーが嫌になっちゃって、それ以降ずっと自分のレーベルですね。なんか、レコードを出すためにライブをやるみたいな関係が嫌なんですよね。逆だろうと。ライブがあって、それからレコードを出すんだろうと。それでメジャーはもういいやとなりました。

−−スターリンの熱狂的なファンがいたじゃないですか。それがギター1本になったときに、ファンは戸惑ったんじゃないですか?

遠藤:「何でフォークをやるんだ」みたいな反応はありましたね。しかも、活動が完全にインディーズになったので、今は何をやっているかメディアに情報が出なかったんですよね。だから、ミチロウが消えちゃった、みたいなことになっていて(笑)。それで、活動のことが出始めたら「何これ、アコースティックになっちゃったの? フォーク歌手になっちゃったの?」と。結構みんなに反発されましたよ。

でも、知ったことじゃねえや、みたいな。オレは1人でやるから、みたいな感じだったですけどね。だんだん、僕のやっている内容が分かるにつれて「1人でパンクやっているんだ」みたいな感じが伝わってきて。それでまた、みんな観に来るようになりましたけどね。でも、その世代の人というのは今50歳ですから。もう子どもがいる世代なんですよ。

−−新しいファンがどんどん生まれてきている?

遠藤:それはありますね。アコースティックになってからのファンもいるし、今度はスターリンファンの子ども、今は20歳前後の子が多いんですよ。2代目のファン。その人たちはアコースティックを聴いてからスターリンファンになったとか、親の影響で名前だけスターリンを知っていて、その子たちがスターリンのコピーバンドをやり始めたとか。面白いですよ。

結構僕のファンで多いのが、今、30〜40くらいの年代と、あとスターリンファンの子ども世代、20歳前後が結構多いんですよ。だから、普通僕たちの年代のミュージシャンの客って年寄りばっかりになっちゃうんですけど、僕のライブの客は幅広いですよ。50歳くらいの人もいれば、まだ高校生とかもいる(笑)。特に最近は20歳前後が多くなってきているので、親の影響ってでかいんだなと思います(笑)。最初は親と一緒に来たりするんですけど、そのうち親は来ないで子どもだけで来たりとか。

−−アーティストの中にもスターリンファンって多いですよね。

遠藤:僕らは見た目のインパクトが欲しいなと、ニューヨーク・ドールズのようなメイクバンドとか歌舞伎をヒントにメイクをしていたので、今でもヴィジュアル系バンドから人気があるんですよ(笑)。Dir en greyとかあのへんはみんな超スターリンファンで、僕のトリビュートアルバムというのを還暦になったときにソニーから出したんですが、その時にDir en greyやMERRYが参加してくれました。

あとはJUDY AND MARYのYUKIちゃんもですね。YUKIちゃんはもうスターリンが大好きで、テレビでKinKi Kidsたちをバックに「肉」を歌ってくれたんですよ(笑)。あとはグループ魂、銀杏BOYZ、BUCK-TICKとかファンだって言ってくれる人たちは多いですよ。

 

6. 試行錯誤の東ヨーロッパツアーと幻の野外コンサート

 


−−90年代に入ってからはヨーロッパでもライブをされていますね。

遠藤: 1989年12月8日 ベルリンの壁が崩壊したニュースを見て、「これはいかなきゃ!」と一週間後くらいに行ったんですよ。それで東ドイツとポーランド、チェコへ行って、ポーランドの放送局では「日本から来たんだ」と言って、番組に出させてもらって。

−−自分で売り込みに行った?

遠藤:そう、直接放送局まで行って。それで「日本から来たんだ」と言ったら、今ちょうどそういう番組をやっているから出ろと言われて、3時間くらい出ました(笑)。それで持っていったスターリンの曲とかをかけてもらって。そうしたら、放送局の人たちがポーランドのパンクバンドを紹介してくれて、そのパンクバンドの人たちが「ベルリンの壁が崩壊して、戒厳令的なものが緩んだから、来年、野外コンサートをやる。だから、お前ら出ろ」と言われたんですよね。

それで、翌年90年の夏の野外フェスにスターリンで出ました。その前の6月に川崎のクラブチッタで、まずこっちがベルリンの壁崩壊記念イベントというのをやって、頭脳警察や泉谷しげるさんとか色々出てもらったんですが、ポーランドのそのバンドも呼んで、ライブをやってもらって、その年の夏は僕たちが向こうのイベントに行って。

−−そういう交流も自分で切り開いていかれたんですね。

遠藤:試行錯誤ですよ。その東ヨーロッパツアーに行くのに、スポンサーを自分たちで探しました。エストニアでは、壁が崩壊するずっと前からアンチソビエトで、「ロックスンメル」という野外コンサートを毎年夏にやっていて、それに色んなバンドが出るんですね。たまたまジョニー・ロットンがP.I.Lで来日していたときに、宝島のインタビュアーとして彼にインタビューしたんですよ。そのときに彼が、その野外コンサートにP.I.Lで出たみたいで、「面白いからお前らも出ろよ」とか言われて(笑)。それで連絡先を調べて、電話が通じないので、直接手紙を書いてコンタクトを取ったら、向こうから「90年のロックスンメルにスターリンで出てくれ」という連絡が来たんですよ。

しかも、そのイベントが今まで2日間だったのが、「盛り上がっちゃったから今年は4日間やる」と。スポンサーもコカ・コーラとかがバーッとついたので、その4日間を全世界に中継するんだと。それでスターリンがその2日目か3日目のトリですよ。同じ日に出るミュージシャンで、スティービー・ワンダーとか名前があって(笑)。

−−すごい(笑)。

遠藤:トリ、スターリン(笑)。この一発でスターリンも世界的なバンドになれるなと思ったら、行く2週間前にソビエト軍が侵攻してきて、スポンサーが手を引いちゃったらしいんですよね。それで中止になって。

−−それは幻のコンサートになっちゃいましたね・・・。

遠藤:本当に幻のコンサートになっちゃったんですよ(笑)。でも、僕たちはエストニアだけじゃなくて、他にポーランドや東ドイツでやるライブも組んでいたので、そのツアー自体には行くことになったんですが、我々が集めたスポンサーも、そのエストニアのイベントがなくなっちゃったから、ちょっと手を引かれちゃって、資金が足らなくなったんです。しょうがないからレコード会社がそのツアーでビデオを出すということになって、足りない分を出してもらって、何とか行けるようになりました。こっちはレコード会社とか関係なく行くつもりでいたんですけどね(笑)。

それで行ったらやはり面白かったですよ。行くのが共産圏で、我々のバンド名はスターリンじゃないですか。向こうの人たちはみんなソ連のスターリンが大嫌いだから、行ったら「お前ら良い名前つけたな」と言われて。ちゃんとその皮肉を、パロディを、ブラック・ユーモアとして分かっているんですよね。「最高の名前だな」とポーランドで大人気で。すごいですよ、国営放送もいっぱい放送してくれるし。

−−最初に考えた「スターリンにしたら良いんじゃないか?」というのが当たりましたね(笑)。

遠藤:東欧へ行く予定はなかったけれど、後々考えるとそういうことですね。すごかったですよ、「外タレってこうなんだな」みたいな立場で。ステージからバスまで行くのに人がワーッと人が追っかけてくるし、「超アイドルだな」と思いましたね(笑)。それで「スターリン」「スターリン」と声を上げている。ここにいるのが僕ではなくて、本物のスターリンだったら、もうそのままじゃんみたいな。

−−共産国家のプロパガンダ映像のような(笑)。

遠藤:4万人くらいがやっているんですよ、「スターリン」「スターリン」と。この映像、最高だなと思いましたね(笑)。

−−ヨーロッパツアーはその1回ですか?

遠藤:そうですね。僕はまだロンドンとかパリとか、西ヨーロッパって行ったことがなくて。

−−さすがスターリンですね(笑)。

遠藤:そう、東ヨーロッパしか行ったことがないんですよ(笑)。その後で、ソビエトにもツアーで行くことになったんですよ。ウラジオストックかなんかで。そうしたら今度はエリツィンが失脚してどうのこうのなって、結局中止になったんです。

−−スターリンはアメリカツアーには行ってないんですか?

遠藤:ツアーはやってないんですけど、アメリカへ行ったときに向こうでメンバーを集めてライブをやったんですよ。雑誌『マキシマム・ロックンロール』の編集長がスターリンの熱狂的なファンで、僕がたまたまサンフランシスコへ行ったときに、その主催イベントがあって「出ない?」と言われました。それで急いでメンバーを寄せ集めて、スターリンの曲を無理矢理覚えさせてライブをやったんですよ。

そうしたら反応がすごくよかったんですよ。実はスターリンってアメリカで無茶苦茶人気あるんですよ。なぜかというと、アルバム『虫』のジャケが忍者だというので、異常に売れたらしいんです。だから僕がライブをやったら「ウワー!」と。終わったら、女の子が飛びついてきたり、とにかくすごかったです(笑)。ただ、東ヨーロッパの人はスターリンという名前に、「良い名前をつけたな」と言ってくれますが、アメリカは単純ですから、スターリンと聞いて「お前はコミュニストか?」と、それだけですよ。スターリンもクソもないんですよ。全部「コミュニスト」で一緒くた。

−−皮肉を分かってくれない。

遠藤:そうですね。

 

7. 震災、原発、福島そのものを表現する〜アルバム「FUKUSHIMA」&詩集「膠原病院」発売

 

遠藤 ミチロウ 氏
−−4月に出された10年ぶりのソロアルバムは「FUKUSHIMA」というタイトルですね。これはすべて福島に関する歌が収録されているんですか?

遠藤:曲のほとんどが福島絡みの歌で、絡んでいないのは「大阪の荒野」だけですね。

−−もし、震災が起こらなければ、やはりこういうアルバムは出さなかったんでしょうか?

遠藤:例えば、神戸の震災のときだとやっぱり、部外者というのは変ですけど、直接被災地に自分の実家があったわけじゃないし、そこにいたわけじゃないし、できることはカンパしたりすることくらいじゃないですか。でも、今度の場合は自分の実家が被災地で、自分もそこに育ったし、自分が当事者となってときに表現者として支援活動だけではなく、表現として、今度の震災や原発、そして福島のことを歌わなかったらしょうがないんじゃないかと思って、「FUKUSHIMA」を出しました。実は直接自分と震災のことを取り扱った作品というのは音楽であまりないんですよね。反原発の歌がちょこっとあるくらいで。

−−妙に避けたりしますよね。

遠藤:そうそう。あと応援歌だったりとかね。震災、原発、福島、そのものをどうなんだという作品がないんですよ。それはやっぱり自分がやらなきゃいけないなと思いました。

−−昔からそんなに素直な性格していたんですか?

遠藤:いやあ(笑)。帰りたくない実家にも帰るようになったしね(笑)。

−−スターリンというのもご自身の思いを素直に表現していたのかもしれない。

遠藤:何も変わらないですよ。「プロジェクトFUKUSHIMA!」だって別にやりたくて始めたわけじゃなくて、やらざるをえないというところから始まっちゃったらこうなっただけでね。それで今年から僕と大友さんと和合さんは「プロジェクトFUKUSHIMA!」の代表理事を辞めたんです。僕は病気になって、もう治らない病気なので、今までみたいな活動ができないので、そうなると「プロジェクトFUKUSHIMA!」の活動に支障をきたしますし、やはり若い人がやっていかないとね。いつまでも僕や大友さんが引っ張っていくんじゃダメだなと思ったので、世代交代しました。それで僕や大友さんはお手伝いするよと。

−−今、ご病気のお話も出ましたが、昨年ずいぶん長い間入院されていたそうですね。

遠藤:ええ。2月に一度、そして、7~8月に2ヶ月ほど入院していました。そのときに1日に1編詩を書いていたんですが、それを時系列でまとめた詩集をアルバム『FUKUSHIMA』と同時に出しました。その詩集のタイトルが『膠原病院』というんですよ。膠原病だったので。

−−不勉強で申し訳ないんですが、膠原病とはどのような病気なんですか?

遠藤:膠原病って色んな種類の病気があって、僕がなったのはSLE(全身性エリテマトーデス)というもので、内臓や血液が炎症を起こしちゃうんですよね。それは、免疫が乱れて狂ってしまうというか、コントロールできなくなって、免疫が自分自身を攻撃しちゃうんです。僕は10年前にリウマチになっていて、そのリウマチも仕組みは同じなんですよね。免疫がおかしくなって、自分自身の関節を攻撃することで、関節が炎症を起こして手や足がおかしくなっちゃうのがリウマチで、それが関節ではなくて内臓や血液にいくのがSLEです。これは治らない病気で、薬で暴れる免疫を押さえつけて、低いところでコントロールする。そういう病気なんですね。ですから一生薬を飲み続けなければならないんです。

−−治らないということは、原因も分からない?

遠藤:原因は免疫が狂い出すことなんですけれども、何で狂い出すかというのは分からないんです。狂い出さないようにできれば治療できるんですけどね。

−−ギターを弾いたりするのは大丈夫なんですか?

遠藤:いや、問題ありますよ。今はリウマチも薬で抑えていますが、SLEの後遺症で両足が今でも痺れているんです。長く正座していると痺れるじゃないですか? あれがずっと治らないような状態なんです。

−−それだと、アーティスト活動は制限されますよね。

遠藤:そう。だから、前みたいにあちこちツアーができないんです。それと紫外線に当たっちゃいけないので、日向に出られないから、野外コンサートなんか絶対にダメですよね。あとは免疫抑制剤とステロイドで免疫を押さえつけているので感染症にかかりやすい。リウマチの方だと、今の特効薬は抗がん剤なので、抗がん剤とステロイドと免疫抑制剤を飲んでいます。完全に薬漬けです。

−−もちろん体調第一ですが、これからも遠藤さんの激しい歌が聴きたいです。

遠藤:前みたいな活動はできないかもしれませんが、歌わないと食っていけないので、できる限りライブはやっていきますし、「プロジェクトFUKUSHIMA!」を中心でやっていたときはなかなか作品を作れなかったので、作品をどんどん作っていこうと思っています。

−−本日はお忙しい中、ありがとうございました。遠藤さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)