第124回 志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー

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2014/11/04 (火) - 21:00
第124回 志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー

 

志村 明 氏


(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー

今回の「Musicman's RELAY」は、プロデューサー / ミックスエンジニア Goh Hotodaさんからのご紹介で、(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー 志村 明 氏のご登場です。幼少の頃から日本とアメリカを行き来され、両国の文化を体感された志村さんは、帰国後、バンド活動と共にPAエンジニアとしても活動されるようになり、以後、坂本龍一、YMO、ディック・リー、アンディ・ラウ、Mr.Children、TM NETWORK、宇多田ヒカル、EXILE、桑田佳祐など数多くのビッグアーティストのステージで手腕を発揮されてきました。現在は「サウンド・デザイナー」としてライブの音響設計に携わる志村さんに、ご自身のキャリアからPAの現状、そして今後の夢までお話を伺いました。

 

[2014年8月21日 / (株)スターテックにて]

プロフィール
志村 明(しむら・あきら)
(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー


 


1957年東京に生まれる。幼少の頃をニューヨークで過ごし、早くから音楽に目覚める。
日本大学芸術学部放送学科に通うかたわら、本格的にバンド活動に専念し、ブリティッシュ・ハードロックバンドジューダス・プリーストの日本公演の前座を勤めたこともある。その頃からパートタイムでPAや来日アーティストのPAの通訳をしていたことからミキサーを志すようになる。
1979年に学友らとPA会社を設立、コンサート及びレコーディングのミキシングを担当。
1990年、プロデューサー久保田麻琴氏の推薦でディック・リーをはじめ、サンディー・ラムなど数多くのアジアのアーティストのミキシングを手掛けるようになる。
同年、エンジニア集団(株)スーパーソニックを設立。(代表取締役)
坂本龍一、大貫妙子、高野寛、等を手掛ける。
1993年、東京ドームにおけるYMOの「再生」コンサートを手掛ける。
香港の四大天王の一人Andy Lauを担当し、ホンコン・コロシアム公演(20公演)及びアジアツアー(北京、上海、広州、深川、重慶、台北、シンガポール、22公演)を担当。
1994年に更なるステップアップを目指して、サウンド・エンジニアリング会社スターテックを設立。
同年、東京ドームにおけるTMN「終了」コンサート及び、坂本龍一“sweet revenge world tour” (日本16公演、香港2公演、ヨーロッパ14公演)を担当。
1990年代から坂本龍一、Mr. Children、globe 、SPEEDなどの大規模ライブのサウンドデザイン及びオペレーションを担当。
近年はEXILE、Mr.Children、桑田佳祐、宇多田ヒカルなど、日本のトップ・クラスのコンサートのサウンドをデザインする一方で、毎年開催されているap Bank Fesでは自らミキシング・エンジニアとしても活躍。スターテック所属の12名のミキシング・エンジニアのリーダーである。
いち早くコンサート音響にデジタルシステムを導入し、最新システムへの意識の高さと理論に裏付けされた技術、さらに豊富な経験を兼ね備え、アーティストやイベント制作スタッフからの信頼が厚い。


1. 「アメリカン・グラフィティ」のような世界にカルチャーショックを受ける


−−前回ご出演いただきましたGOH HOTODAさんと最初にお仕事されたのはいつだったんでしょうか?

志村:GOHさんと初めて一緒に仕事をしたのは、YMOの「TECHNODON LIVE」という東京ドームでのライブです。GOHさんはステージ上でYMOの後ろに卓を組んで効果音を足したりして、ライブでリミックスをしたんです。YMOの「TECHNODON」というアルバム自体GOHさんのミックスだったんですね。シーケンサーで実際にレコーディングで使ったシンセとかを鳴らしたんですが、GOHさんのミックスを私がライブで再現するということで、色々コミュニケーションを取りながら現場を作ったんですが、結構大変でした(笑)。

−−そこからは頻繁にお仕事をご一緒されているんですか?

志村:そうですね。それから坂本さんのプロジェクトが一緒で、その後、2000年にGOHさんから「宇多田ヒカルをやってくれないか?」と連絡を頂きました。

−−志村さんとGOHさんはアメリカで育ったとか、共通点もありますよね。

志村:ですから気が合うというか、ヒカルさんの現場だと、ヒカルさんも含めて3人英語で会話したりしていました(笑)。

−−ここからは志村さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれは東京だそうですね。

志村:ええ。小学生までは世田谷区の深沢に住んでいて、それで父親が転勤になって、2回ほどアメリカで暮らしたんですね。帰ってきてからは武蔵小金井の近くで過ごしました。

−−お父様はどんなお仕事をされていたんですか?

志村:セメントやプラスチックを作るメーカー勤務で、海外輸出担当でした。

−−それで海外赴任が2回あったんですね。両方ともニューヨークですか?

志村:はい。ほとんど同じ地区に小学校1年から3年と、6年から中学2年まで居ました。時代としては1962年から66年、1969年から72年です。

−−フラワー・ムーヴメント全盛期の頃ですね。

志村:そうですね。街の中心地にヒッピーがいて、座って葉っぱ吸っているような感じでしたね。2回目のときはベトナム戦争真っ盛りで。

−−2回目くらいの年齢のときが一番英語を覚えやすかったんじゃないですか?

志村:実は小さいときの方が英語は上手くなるんですよ。でも、逆に日本語を忘れちゃうんです。言っていることはわかるんですが。母親曰く、母が日本語でしゃべって、私は英語で返していたそうです。2年くらいでそうなっちゃうらしいですね。

正直、何が起こっているのかよくわかっていなかったですね。いきなりニューヨークの小学校に入れられて、初めの頃は毎日泣いていました(笑)。幸い、現地で生まれた日本人の男の子と女の子が同じクラスにいて、その子たちに面倒をみてもらいました。

−−やはり強烈な体験だったんですね。

志村:当時の日本は東京オリンピックの前で、まだドブがあるようなところから、車がいっぱい走っている「アメリカン・グラフィティ」のような世界にぽっと入れられたので、当時のことはけっこう覚えていますね。LA経由でニューヨークに行ったんですが、父親が空港へ車で迎えにきていたんです。東京では運転してなかった父が、日本では見たことないような大きな車で現れて(笑)。それでハリウッドに泊まって、翌日ディズニーランドへ行ったんですが、日本にはまだありませんでしたから衝撃ですよね。

−−きっと、そのときの経験が今に大きく影響していますよね。

志村:まず、音楽がすごく好きになっちゃいましたね。父親は音楽が好きというほどではないかもしれませんが、レコードを買ったり、あとオープンリールの4トラックのテープがあったんです。それは会員に毎月何本か送ってくるパッケージのサービスで、それが送られてきては、私が先に聴いちゃうみたいな感じでした。

−−何を聴いていたんですか?

志村:クラシックやポップス、映画音楽、カントリーとかですね。恐らく父はアメリカの文化に馴染もうとしていたんだと思うんですが、ミッチ・ミラー楽団やアンディ・ウィリアムス、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、エルビス・プレスリーといった人たちの音楽を聴いて、音楽がすごく好きになりました。それで、だんだんと自我を持つようになって、小学校3年くらいのときだったと思うんですが、ビートルズの『ハード・デイズ・ナイト』を買ってもらったんです。

−−ビートルズをアメリカで聴いていたんですね。

志村:そうなんです。友達の間でもすごく流行っていたので、”ビートルズシャンプー”とか、グッズまで買ってもらった記憶があります。今にして思えば「取っておけばよかったな」って思いますけどね(笑)。ビートルズは子供たちにとってもアイドルだったんです。それで私も髪の毛を伸ばし始めて、小学校の担任の先生に”ジャパニーズ・ビートル”ってあだ名を付けられました(笑)。実はアメリカではコガネムシのことを“ジャパニーズ・ビートル”って言うんですよ。

 

2. 二度のアメリカ生活と音楽

 


−−小学校3年までいて、一度日本に帰ってくるわけですよね? そのときはどういう感じだったんですか?

志村:もう日本語を忘れているわけですよ(笑)。アメリカにいるときに週に一度日本語の補習校があったんですが、子供でしたから行く理由がわからないんですよ。それで、あまり勉強にも身が入らなくて。そうすると、九九もできない、漢字も書けないまま帰ってきちゃって、帰ってきたら、日本の勉強がすごく難しくて大変なんですよ。

−−学校の勉強以外のカルチャーショックも当然あるわけですよね? 例えば音楽でも。

志村:帰ってきたときはグループ・サウンズが流行っていました。ザ・スパイダース「夕陽が泣いている」とか好きになって、近所のお兄ちゃんのところに聴きにいかせてもらって。

−−ビートルズからグループ・サウンズにはすんなり移れたんですか?

志村:移れましたね。ブルー・コメッツとか大好きでしたね。やっぱり上手いなぁって(笑)。

−−その頃、音楽以外にはどんなことに興味があったんですか?

志村:音楽メインというわけではなくて、普通にみんなと遊んでいました。言葉とか慣れるのに半年くらいかかりましたけど。海外からの転校生は珍しいので、みんな興味をもってくれて、友達はたくさんできました。

−−それで、4年生、5年生と日本で過ごして、またニューヨークに行くんですよね?

志村:そうですね。日本では毎日家庭教師を付けられて、やっと日本語ができるようになって、勉強にもついていけるようになったのに、またアメリカですよ(笑)。

−−家庭教師というのは国語のですか?

志村:国語もですけど、算数もカリキュラムが違うんですよ。

−−それは大変ですね・・・人の2倍頑張らないといけないわけですよね。

志村:それで勉強が嫌いになったんです(笑)。その後またアメリカで勉強ですから。アメリカでは英語の先生のところに通わされて。

−−2度目のニューヨークでもカルチャーショックはあったんですか?

志村:ありましたね。そのくらいの年になると少し差別みたいなことも体験したりしましたしね。世の中的にも病んでいた時代というか、ニューヨークも危険な時代だったんですよ。ハーレムとかは絶対に近寄っちゃダメと言われていましたし、日本人駐在員の方が危ない目にあったという話をときどき聞きました。

−−でも、2回目の渡米は英語のベーシックができていたからよかったですよね。

志村:そうですね。2回目のときは日本から来た同じような仲間がいっぱいいたんですが、最初に行ったときは日本人が少なくて、ニューヨークでも日本の食材を売っているスーパーが2軒しかない時代なんですね。で、2回目に行ったときには、駐在員の数も増えて、生徒の数も全然違いました。

−−わずか数年で。

志村:いわゆる高度成長期に入るか入らないかのときだったので。

−−でも。当時はあらゆる意味でアメリカの方が圧倒的に進んでいた?

志村:ええ。エンパイア・ステート・ビルも当たり前のようにありましたから。

−−ラジオも放送局が多くて…

志村:日本は放送局が少なかったじゃないですか。FMもまだなくて、中学になって帰ってきて、FMファンとかで一所懸命エアチェックしたりして。音楽好きというよりも、音楽が常に回りにあった感じだったんですね。2回目に行ったときは、友達も色んな音楽をみんな聴いていました。当時はやはりロックですかね。

−−その頃は、まだご自身でバンドをやられてはいないんですよね。

志村:バンドは日本に帰ってきて高校生になってからですね。アメリカでガット・ギターは買ってもらったんですが、友達と弾いてたくらいで。今現在もキーボーディストとして活躍している清水一登はニューヨークで同級生だったんですよ。同じクラスで。彼は当時からすごくて、一回聴くと全部弾けちゃうんですよ。

−−そういう人いるんですよね(笑)。

志村:それでガット・ギターは弾けないですけど、ルートだけ教えてもらって、ベースの真似事をしていたんですよ。それがベースを弾き始めるきっかけみたいな(笑)。

−−そうだったんですね。では、アメリカから帰ってきたのが中学2年ですか。

志村:中学3年の始業式の前日に帰ってきたんですよ。それに合わせて。

−−日本語は大丈夫でしたか?

志村:日本語は大丈夫なんですが、アメリカで散々補習して、日本帰ってからも中学3年ですから受験で、1年間また月〜金で家庭教師という生活でうんざりしましたね。

 

3. 楽器屋でのバイトからPAの世界へ

 


志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー
−−その後、高校に入学されて、いよいよバンド活動をされるわけですね。

志村:ええ。ただ、入った高校には軽音楽部がなかったので、ブラスバンドに入ったんです。パートはフルートで将来的にはサックスもやりたいと思っていたんですが、先輩とケンカして半年でやめちゃうんですよ。そうしたらフルートが吹けるということで、キング・クリムゾンやシカゴをコピーしていたバンドに誘われたんですね。それでバンドに入ったら、ベースの空きが出たので、まだベースは弾けなかったけど「真似事はやったことある」と言って、そこではじめてベースを弾くようになりました。

−−高校時代はずっとバンドをされていたんですか?

志村:そうですね。国分寺のカシオ楽器という楽器屋さんに、放課後色々な奴が集まってきて、そこでバンドがいくつか生まれて、秋になるとお互いの高校の学園祭出たりしていました。ちなみに先輩に竹田和夫さんや和田アキラさんがいらっしゃったんですが、そこへ行くと音楽に出会えるというか、一種の溜まり場で高校2年ぐらいになると出席日数を計算しつつ学校に行っていました。

−−高校は公立ですか?

志村:いや、中大附属の高校なんですが、当時は出欠席にあまりうるさくなくて、3分の1まで休めたんです。それで3分の1ぴったり休むという(笑)。

−−その頃は自分の将来設計をどのように考えてらっしゃったんですか?

志村:バンドや音楽で身を立てたいと思っていました。それを父親に言ったら猛反対されて「お前は俺の息子だから絶対無理だ」と(笑)。なかなか良いこと言うなと思いました(笑)。

−−(笑)。でも、ご本人としたら他の仕事には全然興味がないわけですよね?

志村:そうですね。それで既成事実を作りたくて、本当は音楽専門学校かネム音楽院に行きたいと言ったんですが、「それだったら金は出さない。大学だったら金を出してやる」と言われました。で、そういった学校に一番近そうな大学は私にとって日大の芸術学部で、運がいいことに受かったんですよ。日芸の受験が英語と国語の2教科で、やはり英語は得意でしたから、私にとっては一番通りやすい試験だったんです。

−−運が良かったですね(笑)。

志村:それで大学に入ったときに国分寺の楽器屋さんの主任だった人が独立して、三鷹にフィルモア楽器を作ったんですね。それでフィルモア楽器でバイトすることになったんです。実はフィルモア楽器出身の業界人ってすごく多くて、例えば、TM NETWORKとかそうですからね。

−−そういえば日芸出身のミュージシャンも多いですよね。

志村:日芸もかなり濃い人脈ですね。レコードメーカーやテレビ制作会社も含めて、結構会います。

−−PAをやるようになったきっかけはなんだったんですか?

志村:フィルモア楽器の社長は楽器販売だけでなく、楽器レンタル、PAレンタルとマルチに展開していったんですね。加えて、楽器を買った人たちの発表の場もつくろうと、小金井公会堂や府中市民会館といった地域の公会堂を借りてコンサートを企画したり、何から何までやるようになっていったんですよ。店は少人数ですから、私も企画のチーフやPAのチーフもやるようになって。

−−それでPAの仕事も増えていった感じですか?

志村:ええ。最初はアマチュアバンド相手のPA仕事だったんですが、たまに大学の学園祭へ行くとプロの方とかもいたりしました。その頃のPAの内容はかなりひどいものでしたけど(笑)。機材もまだまだですしね。ただ一応JBLのスピーカーだったり、中古ですが当時まだ珍しかった大きなコンソールとかフィルモア楽器は持っていたんですよ。大きいといっても16chで、いわゆるボーカルアンプのミキサーよりちょっとハイグレードなものでした。

−−PAの仕事に関して、志村さんはすべて現場で覚えたんですか?

志村:PAをやるにあたって、やっぱりプロの仕事を見に行かないと分からないことだらけなんですよ。それで当時カルメン・マキ&OZをやっていたPAさんがいて、そこにアルバイトとして行かせてもらって、PAの仕事をすると同時に「お前英語できるんだって?」という話になって、外タレのときにアシスタント兼通訳みたいなことをしました。

−−ちなみにどんな外タレをやっていたんですか?

志村:そこはファーストというPA会社だったんですが、ユニバーサルオリエントという呼び屋さんの仕事をしていて、マーヴィン・ゲイやディオンヌ・ワーウィック、スタッフ、あとはウェザー・リポートとかやっていたんですよ

−−英語が活きましたね。

志村:そうですね。本物のショービジネスっていう感じでしたね(笑)。

 

4. 「PA機材を国産で作れないか?」日芸在学中に会社設立

 


−−プロフィールによるとほとんど大学卒業と同時に会社を作られていますね。

志村:はい。インターシティという会社を大学3年のときにつくっちゃったんです。当時、日芸の中で起業するのが流行っていたんですよ。

−−インターシティというのはPA会社だったんですか?

志村:インターシティは去年、社長の杉本が急死するまであった会社なんですが、機器メーカーだったんですよ。実はフィルモア楽器が技術者の募集をプレイヤー誌に出したときがあって、そこに応募してきたのが私の中学の後輩だった杉本なんです。彼とは中学の放送委員会で一緒だったんですが、放送室にあるものを全部直しちゃう天才的な少年だったんですね。で、杉本とフィルモア楽器で再会したんです。

当時、1ドル300円くらいの時代で、輸入物のPA機材、DBXのコンプとかべらぼうな値段で、「そういう機材が国産で作れないかな?」と思って、杉本に話したら「そんなの、何でも作れるよ」と(笑)。それで、製品を作っていこうと会社を作ったんですが、まず形から入る方なので渋谷の富ヶ谷に事務所を借りちゃったんですよ。

−−また立派なところに借りましたね(笑)。

志村:そうですね(笑)。それでシールドとかを作って日銭を稼ごうと思ったんですが、なかなか製品ができないんです(笑)。杉本はいいとこまでいくんですけど、完璧主義なので「こんな音じゃダメだ」と製品作りが進まない(笑)。仕方がないので、当時色々な楽器屋さんの修理の下請けをやっていました。例えば、アンプを作るんでも、板金に出すとやはり一週間ぐらいかかってしまうので、それを待っている間の時間をいかに有効に使うかが課題だったんです。

−−それで会社は成り立っていたんですか?

志村:ギリギリでしたね。杉本ともう一人社員がいたんですが、私は食費ぐらいにしかならなかったです。それで、どうにか製品ができても量は売れなかったり、売れても今度は製造が追いつかないんです。

−−量産できないんですね。

志村:ええ。量産できないという壁にぶち当たって。そんなときにメンテの仕事の流れで、あのねのねの事務所から「PA機材の管理をしてくれないか?」と依頼があったんです。というのも、あのねのねの事務所はトラックいっぱいの豪華なPA機材を持っていて、営業をPAありのパッケージで売り込んでいたんですね。コンサートツアーを自前の制作で、照明は現地でやってもPAやバックバンドの楽器は持っていきますと。PAもマネージャーがやっていたんですが、忙しくて手に負えなくなって、「こっちの仕事あるとき以外は、機材使っていいから」と。

−−ありがたい話ですね。

志村:悪い話じゃないです(笑)。うちの仕事で機材を使うときはいくらかお支払いしていましたけどね。とにかく機材がHIBINOさんから購入した立派なもので、魅力的だったんです。そのうちにあのねのねさんのPAもやるようになって、大阪へ早朝行き、放送局の前にPAを組んで朝の生放送みたいな仕事もするようになりました。

−−志村さんが行っていたんですか?

志村:毎週大阪に行っていましたね。

−−それって結構大変ですよね・・・。

志村:忙しかったです。しまいには、あのねのねのみならず、バンドのクロコダイルや清水アキラさん、バブルガム・ブラザーズのコーンさんがいたグループとか、その事務所所属の人たちもやるようになって。まあ、一生懸命やって。会社を潰すわけにもいきませんしね(笑)。

そうこうしているうちにインターシティの製品が売れ出して、軌道に乗ってきたんですね。それで杉本が本格的にメーカーをやりたいと。私はその頃PAの仕事を結構抱えちゃっていて、東京ロマンチカのPAとかやっていたんですが、東京ロマンチカって公演が年間130本あったんですよ。

−−130本! 3日に1本以上ですか。

志村:ええ。ロマンチカ号というバスに機材、衣装、楽器、あと雀卓まで積んで。

−−雀卓まで(笑)。130本全部PAをやっていたんですか?

志村:最初の半年くらいやりましたが、途中から忙しくなってしまったので、人を雇ったりしていました。

−−それをやっていたのがサウンドファイブという会社ですか?

志村:それらの仕事をインターシティとしてやっていたんですが、サウンドファイブに人もPA機材も引き取ってもらったんですね。でも、私はサウンドファイブに移って1年間くらいで辞めちゃうんです。みんなを残して。そのかわりサウンドファイブに持っていった仕事はもう触りませんからと。その後、私はスタジオに勤めたんです。それが日向敏文&大介兄弟が作ったAVRスタジオで、そこに誘われていたんです。

 

5. 久保田麻琴さんとの出会いからアジアへ

 


志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー
−−AVRスタジオは、いわゆるレコーディングスタジオですか?

志村:レコーディングスタジオです。それまで私はPAをやっていましたが、先生がいなくて、ずっと自己流だったんですね。それでスタジオみたいな環境で、ミキシングの勉強をちゃんとしないといけないなと思ったんですよ。

−−PAで死ぬほど忙しいのを投げ打って、一回自分の勉強のためにスタジオに行ったってことですか?

志村:そうですね。その当時バブルガム・ブラザーズの初期のツアーや杉山清貴さんの全国ツアーをやらせてもらっていたんですが、ものすごく自分に限界を感じちゃったんですよね。このままじゃダメだなと。自己流でやっていたこともありますが、技術的にそれ以上良くするにはどうすればいいか分からなかったんです。

−−ただAVRスタジオも先生がいたわけじゃないですよね?

志村:そうなんです(笑)。ただ鳴りとしてはかなりいいスタジオだったので、色々勉強にはなりましたね。

−−スタジオですから試行錯誤できますしね。

志村:ええ、マイキングでも何でも。AVRスタジオにはフルコンではないですがスタインウェイのピアノがあって、生を録る機会がすごく多かったので、すごくいい経験になりました。

−−AVRスタジオには何年いらっしゃったんですか?

志村:エンジニアでいたのは2年ぐらいです。ただ日向さんのアルバム3枚ぐらい関わっています。

−−それはもう完璧にレコーディングエンジニアとして?

志村:レコーディングエンジニアとして、ミックスは全曲私ではないんですけど。ただ彼らはアルファレコードだったので、アルファのスタジオAで録る機会もあって、スタジオAのときは、飯尾芳史さんがエンジニアをしていましたから、その作業を盗み見ていました。

−−そして86年にまた独立するわけですよね。

志村:ちょっと体を悪くしまして、一時期フルタイムで働けなくなったんです。スタジオではエンジニアもやりますが、そこに所属している人たちのマネージメントもやり、音楽出版社でもあったのでJASRACとのやり取りとかも全部私の仕事だったので、一杯一杯だったんですね。それで、スタジオを辞めて、次のエンジニアが入るまではプロジェクトがあると呼んでもらう形にして、新しいエンジニアが入ったところで、私は体力を見つつ、フリーのPAエンジニアとして拾いの仕事を徐々にこなしていった感じでした。

−−その頃に久保田麻琴さんとお仕事をされるんですか?

志村:久保田さんにお会いしたのはそれよりも前なんです。実はインターシティの時代に六本木インクステックにPAを入れる仕事をしたんです。AVRスタジオに入るきっかけもインクスティックで、そこに日向兄弟が出入りしていたからなんですが、インクスティックはアルファの¥ENレーベルのアーティスト、ゲルニカやサンセッツが出ていたライブハウスだったので、そこで久保田さんには会っていました。

−−久保田麻琴さんがアジアの方の仕事を紹介してくれたんですか?

志村:そうなんです。最初サンセッツのツアーとかをいくつかやらせてもらって、それでタイやオーストラリア、カナダ、ジャマイカとか行っていたんです。

−−久保田さんってそんなに海外に行っているんですか。

志村:あの頃は攻めていましたよね。その少し後に久保田さんはアジアのアーティストを色々とプロデュースするようになっていったんです。その中にディック・リーとかがいて、結構コアなアジアン・アーティストを発掘していたんですよね。今聴いても惚れ惚れするような作品が数多くありますが、そういったアーティストのPAも徐々に担当するようになりました。

−−ちなみに’92〜’93年頃の中国ってどんな感じだったんですか?

志村:当時の中国って、まだほとんど日本人のいないような感じで(笑)、外国人には特殊な通貨を渡される時代なんですよ。それで人民元は香港のプロダクション・マネージャーに売ってもらうんです。そんな時代に1ヶ月も行っていたんです。あと、ビザの関係で30日間中国から出られなかったり(笑)。それで1回出るとまたビザを取り直さないといけない。

−−そんな時代だったんですね・・・。

志村:ただ、当時のアジアを見られたというのは自分にとって大きかったですし、その後のアジアの音楽シーンと関わりが出てくるようになって、その頃の経験は生きましたね。仲間も多くできたので、それは未だに役立っています。

−−ちなみにPAに関してアジアのアーティストが求めているものと、日本のアーティストが求めているものって違うんですか?

志村:基本違わないんですが、昔は日本のお客さんってすごく静かでしたよね(笑)。今はそんなことなくてストレートなんですが。でも、中国というか特に香港のお客さんは、最初からすごく熱狂的でした。ですからアーティストの演出方法も直球ですし、求められるサウンドもいわゆる王道なんですよ。ですから、そういう音作りをするとものすごく喜んでくれるんですよね。

−−要するに照れがないというか。

志村:そうですね。バラードだったらスネアのリバーブを思いっきりパーン!とかけるとか、そういう感じなんです。それでファンはその歌の世界に酔いしれちゃう。

 

6. 数々のビッグアーティストたちとの仕事〜坂本龍一、TM NETWORK

 


−−その後、スーパーソニックを設立されていますね。

志村:スーパーソニックは、またこれも2年しか存在しなかった会社なんですが、当時もフリーのエンジニア仲間がいて、お互いに仕事の回しっこみたいなことをしていたんですね。それをちゃんと会社にしてやろうかと、エンジニア5人で作った会社なんです。これが結構上手くいったんですが、上手く行ったら行ったで、共同経営って色々と難しくて(笑)。社員5人で、出資者も5人。それで給料は均等だったんですよ。

−−あー、それは難しいですね(笑)。

志村:というのが当時の企画だったんです。それが2年で破綻しました(笑)。そこに在籍していた人はいまだにみんな現役でやっています。

−−離れれば友達だけど、毎日一緒にいると色々とトラブルが起こる・・・。

志村:私は社長だったので中立の立場で(笑)、なだめる方でしたね。

−−給料平等というのは難しいと思いますね(笑)。

志村:5人役員がいたので、役員報酬をどうするかと。歩合制にできないんですね。なので、じゃあ均等でと。そうするとやっぱり頑張った奴は頑張った分ほしいと思うし、頑張らないわけじゃないですけど、ゆっくりやりたい奴はそのペースで仕事をしたい。そこがぶつかるのを、私はずっと仲裁していたんです(笑)。

−−(笑)。

志村:そんなに言うんだったらもう1回みんな離れようかと。2年でなくしちゃった会社。これは株式会社で、作るのは簡単だったんですが、清算するのが大変でした。そこから1年かかりましたから。清算するのは私の担当で(笑)、ここまでが勉強の期間だったのかなと、自分の中では思いますね。

−−そして、満を持してスターテックを設立なさったと。

志村:そうですね。スーパーソニックが終わって、私はすぐにTOPという、藤井丈司さんや飯尾さんがいた会社に入れてもらったんです。それで、TOPの中で、今のスターテックを登記したんです(笑)。

−−TOPにはPA関係の人もいたんですか?

志村:いや、いないんです。居候させてくれたってことですね。

−−たった1人でスターテックを登記なさって、そこからもう何年ですか?

志村:丁度20年、あっと言う間でしたね。

−−でも、本当の意味での志村さんの快進撃はここから始まるわけですね。

志村: 90年代、良い時代を過ごさせてもらったというか。音楽業界も華々しい(笑)。

−−黄金の90年代ですね。

志村:黄金の90年代。素晴らしいアーティストたちの担当させてもらったというのは本当に良かったです。やはり色々な転機があるんですよね。クボタさんとの出会いもそうですし、全部繋がっているんです。例えば、あのねのねをやっていたから、バブルガム・ブラザーズをやって。杉山清貴&オメガトライブは東京ロマンチカの事務所の紹介ですし、私のいたバンドの2代目キーボードは小室哲哉さんだったり、色々繋がっているんですよね。

−−そうだったんですか(笑)。

志村:そうなんです。母親同士も仲良かったりとか、実は幼稚園の頃から小室さんとは友達というか知り合いだったんです。

−−すごいですね(笑)。

志村:地元も含めて全部繋がっているんですよね。今やらせてもらっているEXILEも当時小室さんの仕事を一緒にしていた佐野健二さんが紹介してくれたんです。

−−小室さんからEXILEへと繋がっているんですね。

志村:色々な流れがあるんですが、やはり一番の転機は、多分坂本さんの仕事をやることができたこと。これはなかなか尊いですよ(笑)。

−−坂本さんとの出会いというのはどういったものだったんですか?

志村:これもフィルモア楽器に通っていた石坂という仲間がいるんですけど、彼がディスクガレージにいて、ディスクガレージが坂本さんのコンサートの制作をやるようになったんです。そのときに「PAを探している」と連絡があったんです。

−−アメリカのフィルモアもすごいですけど、日本のフィルモアもすごいですね(笑)。

志村:(笑)。色んなラインがあるんですけど、流れとしては全て繋がっていると思います。ちなみにスターテックの会社として第1号の請求書がTM NETWORKの東京ドームでした。

−−いきなり大仕事ですね。

志村:ええ。それも石坂ともう一人フィルモアの仲間の立岡の二人が制作をやっているんですね。私はそれまでTM NETWORKの仕事はやっていないんですよ。その東京ドーム公演は解散コンサートだったんですが、内輪のスタッフでやりたいという小室さんの意向があったみたいで、まあ、みんな内輪みたいなものじゃないですか(笑)。それで彼らが「志村は去年YMOの東京ドームをやっていますよ」と小室さんに言ってくれたらしいんですね(笑)。そうしたら「それはバッチリじゃないか」と。同じ東京ドームですし。

−−なるほど・・・。

志村:TM NETWORKはそのコンサートで1回終了という話でしたし、その後どうなるか分からなかったわけじゃないですか。そういう場に一緒に立ち会えて、何て幸せなんだと思いました。それだけの実績と技術をつけられていて良かったと思いましたね。

 

7. PAの進化とプランニングの重要性

 


志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー
−−私も長年コンサートへ行っていますが、PA技術はこの十数年で格段に進歩していますよね。今はびっくりするほどクリアに聞こえるじゃないですか。

志村:東京ドームとかもそうですが、大きなコンサートを随分やらせてもらったので、やればやるほどノウハウがつくというのと、それだけではなく2000年を越えたくらいから、まずスピーカー・システムの進歩があったんです。それはラインアレイという新しい理論に基づいたスピーカー・システムが出てきた。スピーカー・システムの進歩とはどういうことかというと、それまでは実際に会場で音を出してみないと分からない部分ってあったんです。それがある程度予測できる、測定機能、技術進歩も相まってなんですが、そういう時代に入ってきたのが2000年以降くらいですね。もちろん、デジタル化も大きいです。

−−会場に入る前にある程度予測できるようになったと。

志村:そうですね。実は現場へ行ってのチューニングというのも大事なんですが、その前のプランニングというのがものすごく重要になって、いわゆる反響、反射する面にはできるだけ音を当てず、いかにお客さんへ効率よく音を届けるかという計算をして、最適な角度とスピーカーの量を計算するんです。今度はそれを正確に施工しないといけないわけですが、今はレーザーポインターだったり、ワイヤレスのアングル計やスラント計といった機材のおかげで、高い精度で施工ができます。極端な話をすると、東京ドームの一番上の席で椅子の上に立ち上がると音がスッと消える、というくらいの精度で施工していくんですね。

−−すごい精度ですね・・・。

志村:その上で、どうしても反響は出るので、反響が出た帯域をきちっと捉えて、それを切っていく作業もします。

−−PAエンジニアというネーミング自体が日本だけの呼び方だと思うんですが、志村さんはご自身を「サウンド・デザイナー」と名乗られていますね。

志村:そう言い始めたのは、この会社を作ってからですね。オペレーションももちろんしますが、色々なコンサートを突き詰めて考えていくと、コンサートを俯瞰でコントロールすることがすごく有効な現場に出くわす場面が結構あって、俯瞰で仕事をしていくスタイルというのをやり始めたんですね。やむを得ずやり始めたところもあるんですが、メリットもものすごく感じてきて、それを伸ばしていったというところはあります。もともと演劇の世界とかですと、「サウンド・デザイナー」って確立したポジションなんですが、コンサートだと今まで少なかったですよね。

−−今は卓の前に座ってらっしゃらないんですか?

志村:横には座っています(笑)。

−−フェーダーを直接いじったりとかはしない?

志村:そうですね、時々手は出すかもしれないですけど(笑)。

−−まずは設計段階が重要。

志村:重要ですね。あとミキシングの内容もそうですが、現場へ行ってから「これ、どうしようか?」と言っているようでは遅いんです。リハーサルの段階でこちらの作った音をすぐにアーティストに聴いていただいて、イメージをすり合わせられるようにしないといけませんから。

−−ツアーの場合、会場が変わるじゃないですか。そのときも同じサウンドを出すシステムを構築されているわけですか?

志村:今の我々のやり方は、どこへ行ってもスピーカー・システムをその環境に適応させるんです。つまりコンソールの中で行われていることはあまり変わらない。毎日、ドラムでさえEQ(イコライジング)はそんなに変えないです。

−−その会場会場を常にコントロールできると。

志村:そうですね。完璧ではないですけど、かなりコントロールできるようになりました。そうじゃないと「この会場はローが多いから、ミキシングでキックを下げよう」とか、そういう議論になるんですね。それと音楽は別ものですから。というかCDを毎日各会場で流して、同じ音で聴きたいじゃないですか(笑)。

−−そうですね。

志村:我々はCDではなくライブを作っているわけですが、決めたミックスが音楽というものが成り立たせているとしたら「ここは残響が多いからストリングスは下げる」とか、そんなことはしたくないですよね。

−−現在、日本のPAシステムは欧米のシステムとひけはとらないくらいになったとお考えですか?

志村:ええ、並んでいると思います。特に日本で行われているコンサートは外タレよりも日本人アーティストの方が音は良いと思いますね(笑)。ただ、日本へ来る外タレのアーティストは魅力的な人が多いですから(笑)。その部分でまた別ですけど。

−−(笑)。この先、海外のアーティストを手がけたいというお気持ちはおありですか?

志村:年齢も年齢ですし、自分がワールドツアーを回れるかというとそれは現実の問題として難しい部分もあります。会社もやっていますしね。ただ、希望としては日本人アーティストでワールドツアーを回りたいです。

日本の音楽がもっとグローバル化してほしいです。確かに今、海外へ行っているものもありますよね。語弊があるかもしれないですが(笑)、特殊なものだけではなくて、本当にグローバルな音楽業界の中で認められるような日本人アーティストが出てきてほしいなと思います。

特にアジアへ行くと、結構彼らってグローバルなんですね。特に香港のアーティストは、中国人メインの市場なんですが、彼らのマーケットってアジア圏で、常にツアーをやっているんですね。それもスタジアム規模のツアーをやっています。もちろん中国本土の中でもすごくたくさん都市があるので、もうスタジアムツアーが今や日常茶飯事なんですね。それで1回のコンサートで3万〜4万集まっちゃうんです。また、彼らはどこ出身だとかってあまり関係ないんです。コリアンのアーティストでもアメリカでツアーやったりしていますからね。

−−日本のアーティストもまずはアジアツアーが当たり前になったらいいですよね。

志村:そういう風にどんどん日本人のアーティストもアジアに出ていったら面白いと思うんですけどね。

−−アニメとかアイドルだけでなく。

志村:もちろん、そういうジャンルを発信していくのは全然アリなんですが、もっと直球勝負ができるようなアーティストが出てくればいいですし、そこを目指すアーティストがいないと、アジアの中で日本がどんどん取り残されちゃうような気がします。向こうは派手ですよ(笑)。香港や台湾、中国も頑張っていますからね。その加速度はすごいです。

 

8. ライブでの体験が、その人にとってかけがえのないものになってほしい

 


−−近年モニタリングがワイヤレスシステムになったじゃないですか。あれはやっぱりコントロールしやすいんですか?

志村:そうですね。ミュージシャンの方々は、自宅でも当たり前のようにProToolsを立ち上げて音楽作っていたりしていますから、そういうシステムの方が聞き慣れているというのがありますよね。ライブハウスからというタイプよりも、普段はずっとスタジオで仕事をしているような方の方が増えていますから。

−−似たような環境でライブもできてしまう。

志村:最終的にはスタジオのキューボックスのようなライブ・システムを今や提供できますし、そういうバランスで返してほしいと言われるアーティストが多いですね。つまりモニターとして偏ったバランスじゃなくて、音楽を全部聴いているような返しを求めるミュージシャンが増えています。そうするともう転がし(ステージ上のモニタースピーカー)では再現が難しい。

あと、イヤーモニターになったら、自分のアンプもイヤーモニターを通して聞こえると嫌になっちゃうんですよ。だからアンプを舞台袖に持って行ってくれとか。そういうアーティストもいます。

−−もうそこまでになっていたりするんですか。

志村:やっぱり音が濁っちゃうので。スタジオでもそうじゃないですか。アンプはブースに入れてって。ヘッドフォンできちっと聴きたいというのと似た感覚かもしれないですね。

−−何ヶ月か前にニューヨークへ行って、話のネタにブロードウェイ・ミュージカルを見てきたんですよ。それが、最前列だったのでオーケストラピットが覗けたんですが、全部セパレーションされていました。

志村:アクリル板とかで区切ってありますよね。ブロードウェイは、すごく生にこだわるじゃないですか。というか映画音楽とかもそうですけど、欧米は生にこだわるんですよね。例えばバラードだったら豪華なオケで録って、ちゃんと卓に立ち上げて(笑)、ミキシングして、それも複数のミックスを作って、アーティストの了解を得るという話も聞いたりします。日本ではたくさんのミュージシャンが参加している大規模なレコーディング・プロジェクトが減ってますよね。私もライブで使うためにマルチのデータをもらって、現場でそれをミックスしてライブ用にしたりするんですが、そうするとストリングスが小編成で(笑)、それを色んなエフェクターで広げていたりして、なかなか豪華なマルチが少ない(笑)。

−− (笑)。反対に、ダンス・ミュージックとか音源が生じゃないものが主体になった場合、それをドームとか大きいところでやるご苦労はありますか?

志村:結局ライブ用に全部デフォルメするんです。こっちはものすごく大きな音で再生しないといけないので、どこを聴かせるか、まあ本当にポイントポイントでミキシングし直すんですね。つまり、お客さんがCDで聴いて持っていた印象を聴かせるのは当たり前で、さらにそれが膨らんだものと言いますか、やはりイントロとか予想以上のものが流れたりすると、人間って高揚したりするんですね。

−−志村さんが仕事をする際に常に意識していることは何ですか?

志村:エンジニアとしては、アーティストが求めるものを実現できないとダメですよね。

−−それが最低限のレベルだと。

志村:そうですね。この人が求めていることはなんだろうと、それぞれのプロジェクトで常に想像して、お客さんに対してもそうですが、それ以上のものを提供できれば評価に繋がっていくのかなと思います。音楽というのは今、配信が多くなって、いつでもどこでも手に入るものになっているじゃないですか。私はその中でライブというものは、そのとき、その場にいなければ体験できない、貴重なものだと思っています。

−−ライブPAはレコーディングと違ってやり直しがきかないですから、責任重大ですよね。

志村:そうなんです。アーティストを活かすも殺すも、というような言い方もされるんですが、例えば、宇多田ヒカルさんの最後のコンサートは横浜アリーナ2Daysだったんですが、これは失敗できないです(笑)。

−−そういう大きな仕事の前というのは胃が痛くなったりとか、眠れなくなったりとか、そういうことはあるんですか?

志村:それはもうしょっちゅうです。未だにあります。でも、ライブってそういうものじゃないですかね。

−−志村さんにとって特別思い出深いコンサートはなんですか?

志村: YMOもそうですし、TMもそうですし、Mr.Children、宇多田ヒカルもそうですが、その時々で、感極まる瞬間というのは何回も経験させてもらっています。ですから、ライブの現場が未だに好きなんですね。あと、EXILEもそうですね。EXILEも去年のHIROさんの引退がありましたが、本当にその場に居られて良かったなと思いました。

−−一体感の頂点みたいな瞬間があるわけですよね。

志村:それはありますね。

−−それはちょっと得がたい経験ですよね。

志村:ですから、ライブをもっと盛り上げて、音楽業界自体も全体が盛り上がっていくような感じにしないといけない、イコール、作り手側にもものすごく責任があると思っています。

−−志村さんはその瞬間を提供する立場なわけですよね。

志村:わざわざ会場に足を運んでもらって音楽を体験してもらう。そこでより素晴らしい体験をしてもらうというのが目標ですよね。アーティストの方々ももちろんそうでしょう。ですから、そういった意味でライブの価値自体をもっと高めていきたいと思っています。そして、ライブに行って感じたことが、その人にとってかけがえのないものになってほしいという想いは、ライブに携わる者として常にあります。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。志村さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)