第117回 大石 征裕 氏 マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長

2014年1月15日 19:00
第117回 大石 征裕 氏 マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長

マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長

 

今回の「Musicman's RELAY」は、(株)ドワンゴ/(株)ドワンゴコンテンツ 横澤大輔さんからのご紹介で、マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長 大石征裕さんのご登場です。学生時代からバンド活動と機械いじりに熱中した大石さんは、81年に21歳の若さで「デンジャー・クルー」を設立。44マグナムをメジャーデビューさせたのを皮切りに、インディーズをベースにラルク アン シエルを始めとする数多くのロックバンドを音楽シーンに送り出してきました。また、現在は音制連の理事長として、実演家とプロダクションが音楽制作、プロデュースに集中できる環境作りのために、様々な施策に取り組んでいらっしゃいます。日々お忙しい大石さんにご自身のお話から、音楽業界の今後までお話を伺いました。

 

[2013年11月27日 / マーヴェリック・ディー・シーにて]

 

プロフィール
大石 征裕(おおいし・まさひろ)
マーヴェリック・ディー・シー・グループ代表 / 一般社団法人日本音楽制作者連盟 理事長


1960年大阪生まれ。1981年「デンジャー・クルー」設立、1983年ムーンレコード、ユイ音楽出版との傘下で44マグナムをデビューさせる。1985年インディーズレーベル「デンジャー・クルー・レコーズ」を設立、2000年香港、上海に支社を設立し、本格的に海外事業展開を開始。同年、「㈱ジャパン・ライツ・クリアランス」 設立、取締役に就任【現】。2003年「(社)音楽制作者連盟」 理事就任 (現・一般社団法人日本音楽制作者連盟)。2007年「デンジャー・クルー」の名称を「マーヴェリック・ディー・シー・グループ」と変更の上、C.E.O.に就任【現】し、インディーズをベースに、ラルク アン シエルを始めとするロックバンドを輩出。「(社)音楽制作者連盟」(現・一般社団法人日本音楽制作者連盟)理事長及び「(財)音楽産業・文化振興財団」 理事に就任 【現】。2008年 「(社)映像コンテンツ権利処理機構」 顧問に就任 【現】。2009年 「SYNC MUSIC JAPAN 実行委員会」を設立し、委員長に就任 【現】。

 

 

1. 抵抗やコンデンサーを眺めて喜んでいた少年時代


−−前回ご登場頂いたドワンゴの横澤大輔さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

大石:横澤君の前に、まずドワンゴの川上量生さんとの出会いがあるんですよ。当時、ドワンゴは会社ができたばかりで、川上さんとある弊社所属のアーティストが仲良くして頂いていて、夜な夜な飲んでいたようで、「なんで人んちのアーティストと…」と私が怒っているらしいと川上さんの耳に入って。実際には怒っていなかったのですが、それが切っ掛けで川上さんと食事をしたのが最初の接点でした。

−−では、横澤さんとは川上さんを通じて出会われたんですか?

大石:そうですね。ニコ動とヴィジュアル系は親和性が高くて、その後、継続的に色々ご一緒させて頂いています。横澤君はとてもヴィジュアル系に精通していて、自分の仕事にもっとヴィジュアル系を活かしたいという強い意志を持っているようで、彼とは「ニコ動とヴィジュアル系で事を起こしたい」という話をよくします。

−−ここからは大石さんご自身のお話を伺わせてもらいたいのですが、大阪のご出身だそうですね。

大石:生まれた病院が吹田市であっただけで、その後、親父の転勤で鳥取県の米子市に転居した後、4歳のときに大阪に戻ったのが茨木市、対外的には学生時代を過ごした高槻市出身と言っています。

−−どのようなお子さんでしたか?

大石:一人っ子なので内向的だったみたいです。

−−今のお姿を見ると悪ガキの暴れん坊だったんじゃないか、と勝手に想像していました(笑)。

大石:それはないですね(笑)。あまりに内向的だったので、母親が心配して「この子はもうちょっと発表力をつけなくちゃいけない」と、小学校に入ったときに強制的にヤマハの音楽スクールに入れられました。男の子は私だけだったのですが、母親が無理矢理「やりなさい」って、私は泣きながら通わされてオルガンを習っていました。そのうち強制的にそろばんも習うことになり、これは好きになりましたけど。

−−今から考えると、全て今の大石さんの役に立っている習い事ですね。

大石:そうですね。数字の計算、音程、リズム…役には立っていますね(笑)。

−−お母さんのおかげで基礎はできたと。

大石:本当に母親のおかげですね。結果として14歳まで音楽レッスンは続けました。

−−音楽以外には?

大石:基本、今で言うオタクな少年でした。父親が機械いじりが好きで、見よう見まねで物を分解したり組み立てたりしていました。小学3年生の頃には大阪日本橋にある電子部品店へ毎週行って、抵抗やコンデンサーを眺めて喜んでいる少年でした(笑)。

−−(笑)。その頃、何か作りましたか?

大石:最初作ったのは真空管のラジオです。「初歩のラジオ」を読んで、その通りに作ってみたんですが上手くいきませんでした(笑)。結局、最初に完成させることができたのが、中学のときに作ったトランジスタのオーディオアンプ、25ワットのプッシュプルのアンプです。「SONY」って勝手にインレタで書いて(笑)。

−−(笑)。

大石:ラジオで思い出しましたが、当時、短波放送をラジオで聴くBCL(ブロードキャストリスナー)が流行ってたんです。例えば、オーストラリアの国営放送とか、ドイチェベレというドイツの放送局だとか海外のラジオ放送を短波ラジオで聴くんです。

−−私はソニーの縦型のやつを持っていました。

大石:スカイセンサー5800ですね。私もそれと三洋のラシーバをもっていました。住まいが団地だったので、屋上にアンテナを立てて、結構受信できるんですよ。それと、ラシーバに50ミリワットのミニトランシーバーが付いていて、団地にいるラシーバ仲間と電話じゃなくて無線で喋っていました。

そういうことが発展して、中学に入学した頃にCB無線機を手に入れ、ずっと知らないおじさんと話していました(笑)。その後更にエスカレートし、YAESUのFT-101というアマチュア無線機を27メガ帯に改造、最終的にはハイパワーで運用していました。違法と知らずに(笑)。

−−無線仲間の人たちは皆さん年上ですよね?

大石:無線仲間は面白い人が一杯いました。そのとき自分はまだ中学生だったんですが、交信相手はみんな社会人でした。普通に交信しているとわかんないんですね。コールネームで呼び合っていましたし、無線仲間がトラックで会いに来たことがあったんですが、「こんにちは」って私があいさつしたら「…中学生ですか?」って。海外の人とも交信していました。適当な英語でしたが(笑)。

 

 

2. 「バンドを手伝ってくれないか?」44マグナムとの出会い

 

 

−−バンドはいつ頃から始められたんですか?

大石:ある時、街中でハモンドオルガン演奏を偶然目にして、レズリーから伝わるその音に感動し、直ぐさまヤマハをやめて、ハモンドオルガンを習い始めたのですが、その頃NHKの「ヤングミュージックショー」で、ディープ・パープルの71年BBCスタジオライヴの模様が放送されたんです。そこでジョン・ロードがハモンドで「LAZY」のイントロを弾いているのを聴いて「これをコピーしよう」と。それからは習い事もやめてしまい、中二から多いときは7つくらい掛け持ちでバンドをやっていました。

−−どのバンドでもオルガンやキーボードを弾いていたんですか?

大石:いや、最初はドラムでした。実はオルガンのあとエレクトーンも習っていたんですが、エレクトーンが弾けるとドラムが叩けるんですよ。ちょうど同級生の弟がドラムを購入したので、私はそのドラムでずっと練習していました。セットを独占してしまい、その弟は結局叩けるようにならなかったんですが(笑)。最初に演奏した曲はキャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」です。そのバンドでは、チューリップ、ディープ・パープルのコピーをしていました。毎日「耳コピ」の日々でした。あとブラスバンド部のベースを弾いたり。

その後、高校に入り文化祭で先輩に「お前ちょっと手伝え」と言われ、その頃はまだ珍しいTeiscoのPS1000というボーカルアンプを借りてきていて、誰かが配線しなくちゃいけないんですが、誰もできないようなので、私がささっと配線したら「お前、説明書を見なくても分かんのか」と、次からもやるようにと言われました(笑)。

−−完璧なローディーですね(笑)。

大石:そうですよ(笑)。楽器も組んで。昭和51年、私が高校1年生の時、その地域の有志でコンサートが企画されたんですね。そこでも手伝ったのですが、さっきお話したPS1000が4対向と、8チャンネルの卓2台だったんですが、キャパ2,000名の高槻市民会館でアマチュアバンド22バンドでコンサートを開催しました。初めての経験でしたが、手作りコンサートはとても勉強になりました。コーラを売って収入にしたり。

−−そういうバンドの集まりみたいなものがあったんですか?

大石:まあ町のサークルみたいなものです。例えば、夏の祭り(高槻祭り)があるんですが、そこで野外ライヴを運営したり、学校の視聴覚室で、無断でコンサートを開いたり(笑)。その後、高校を卒業して専門学校には通っていましたが、アマチュアのバンドをやりながら、コンサートを企画するサークルの有志で機材を揃えました。音響機械周りを扱えるのが私だけだったので、その音響機材を高校の文化祭に貸し出す仕事をやろうかと、そのうち音響機器や楽器をトラックに積んで、アマチュアをターゲットとした市民会館でのライヴイベント企画を始めました。

−−PAとローディーすべてを一手に担っていた?

大石:はい。私も含めて三人でPAと照明とバンドの仕切りをこなして、バンドを10組くらい出演させて300円のチケットを手売りして。ひとバンド100枚ノルマで(笑)。

−−今、大石さんがやっていることと基本的に変わっていないですね(笑)。

大石:規模は小さいですが同じですね(笑)。その後、そのチームで興行も行いました。そうなるともう音響屋じゃなくて興行屋ですよ。高槻市民会館で「キャンディーズ公演」と「レイジー公演」。

−−プロモーターとして仕切った?

大石:仕切ったのは先輩ですが、実務はほとんど私がやっていました。あと印象に残っているのが「かぐや姫フィルムコンサート」。これも同じチームで仕切ったのですが、フィルムを東京から借りてきてチケットを300円で販売するという興行でした。

−−16㎜ですか?

大石:そうだったと思います。で、これは後でわかったんですが、そのフィルムを東京から運んできた方が当時ユイ音楽工房にいた糟谷銑司さんだったんですよ(笑)。

−−すごい偶然ですね!

大石:糟谷さんとフィルムコンサートの話になって、「高槻市民会館へは俺が行ったぞ」「受けたの俺ですよ」って(笑)。そんな感じで、19歳まで音響屋と町の興行師の手伝いみたいなことを無給でやっていました。

−−無給でやっていたんですか!?

大石:だってみんな楽しくてやっていましたから、お金なんてもらえませんよ。それに赤字ですし! 300円×1,700人で40万円くらいでしょう? その当時でも会場を借りるだけでも数十万しますから。

−−確かにそれでは儲かりませんね…。

大石:その機材を元に、その先輩と会社を設立しました。「舞台工房」という社名で、事務所を構えて、「音響、照明、レンタル、プロデュース」という打ち出しで事業を始めましたが、2年間で赤字になってしまい解散することになりました。そのときに先輩が「君は好きな道を行きなさい」と。ちょうどその頃、片手間にやっていたバンドのドラマー伊賀照幸が、活動を初めたばかりのハードロックバンド「44マグナム」に加入するのを切っ掛けに、その活動に引き込まれていきました。

ある日、伊賀の引き合わせで「44マグナム」のボーカル梅原達也(PAUL)から呼び出されて、心斎橋のライヴハウス「バハマ」で待ち合わせました。PAULは髪を緑色に染め、上下迷彩服を着て真っ黒なサングラスかけて「あ、梅原やけど」って(笑)。思わず本音で「怖いな!」って言ったのですが「そうか?」って、それがPAULとの最初の出会いです。「バンドを手伝ってくれないか?」と言われ、「俺はなにをやったらええんや?」と聞いたら「ええ音にしたいんやけど。お前の作ったデモテープ、ええ音してるやんけ!」と。私はコンサート音響の傍ら当時4トラックレコーダーで色んなバンドのデモテープを制作していて、梅原君はそれを聴いたんだと思います。結果、数日後、バハマを昼間無償で借りて、TASCAMの4トラックで10曲デモテープを録りました。まあ、マニアックな時代です。

−−「44マグナム」との関わりはデモテープ作りからだったんですね。

大石:そうですね。その後は運転手、エンジニア、経理、衣装も干すし、ギターのチューニングもするし、マーシャルのメンテもするし…本当に何でもやっていました。私個人所有の日産キャラバンにバンド機材を積んで、梅田バーボンハウス、バハマや枚方ブロウダウン、磔磔でライヴをやっているうちに、「ラウドネス」のボーカルの二井原が切っ掛けで東京の新宿ACB会館で「5X」の前座で東京初進出を果たしました。

東京では音楽評論家の大野祥之さんのおかげで、ライヴのブッキングも進み、東京での動員も順調に上がり、「関西殴り込みギグ」という滅茶苦茶なネーミングでその頃ライバルだった「アースシェイカー」と「44マグナム」で新宿ロフト2日間をソールドアウトしました。その頃、新宿ロフトには「暴威」や「アナーキー」などの関東のパンク系バンドが出演していましたね。

−−「暴威」ってあの「BOφWY」ですか?

大石:まだバンド名が漢字の頃だと思います。大野さんが「44マグナム」を気に入ってくれて、雑誌で紹介してくださったり、色々なレコード会社に「いいバンドだからデビューさせませんか?」と働きかけてくださって、最終的にアルファムーンから1stアルバムをリリースしました。

−−なぜアルファムーンからのリリースになったんですか?

大石:当初、大野さん経由であるメーカーのディレクターと知り合って、レコーディングは進んで行くのですが、いつまで経ってもリリースの日程が提示されなかったんです。当時、メジャーデビューの日程をいち早く決めたかったので、メンバーとも相当悩んだ結果、その頃バンドに興味を持ってくれたアルファムーンのプロデューサーに大野さんから打診して頂いたところ、日程が明確に提示されたことを切っ掛けにアルファムーンでのリリースとなりました。後日談として、当時のアルファムーン社内では音楽性の違いから、ハードロックバンド「44マグナム」との契約に関して反対意見があったようです。しかし、所属されていた先輩大物アーティストが後押しして頂いたおかげで、契約は成立したと聞き、メンバー共々本当にこのレーベルで良かったと話したのを覚えています。

当時、私はコンサートエンジニアやデモテープ制作を担当し、バンドのサウンドプロデューサーの役割に居ましたので、レコーディングエンジニアに対して意見を言い過ぎたのか、「これ、大石君がやった方がいいんじゃないの?」と。結果、共同でミックスをしたのが1stアルバム、2ndは私がエンジニア兼ディレクターを担当しました。それまで正式なレコーディングって経験したことはなかったんですけどね。それ以降のアーティストもその形態でスタジオに入ることになりました。

 

 

3. 恩師・後藤由多加氏と小杉理宇造氏との出会いから「ロックステリア」設立

 

 

−−デンジャー・クルーはいつ設立されたんですか?

大石:デンジャー・クルーは81年に高槻市に設立しました。私が21のときです。

−−考えてみれば若いですよね。

大石:そうですね。「44マグナム」のメンバーは一つ年下だったので、20歳のバンドと21歳のマネージャーという。「44マグナム」がデビューしたとき、デンジャー・クルーは自分とメンバーだけだったんですが、「どう考えてもこれは一人じゃ無理だ」と。当時、アルファムーンは田町のヤナセビルに入っていたんですが、小杉理宇造さんが社長で、小杉さんは普段はとても優しい人なんですが、仕事にはとても厳しいんです。ある時会議に遅れると「君は何を考えているんだ!」「すいません。新幹線に乗り遅れました」「関係ない! そんなんじゃ売れるわけないだろう!」と怒られて…。大阪住まいで、まだアマチュアだった私を怒って頂き、厳しさを感じると同時にハッと目が覚めた瞬間でした。

−−小杉さんからプロの厳しさを叩き込まれたと。

大石:アルファムーンのスタッフは、当時山下達郎さんなど一流のアーティストを担当している方々でしたし、当然、二十歳そこそこのエンジニア上がりのマネージャーでは無理があると、ジョインできる事務所を探すことで話し合っていました。

ちょうどその頃、「ラウドネス」や「5X」、「44マグナム」などが大阪厚生年金会館や渋谷公会堂でメタルのイベントを展開していたのですが、大阪のイベントに「Make up」が出演したことがありました。「Make up」はユイ音楽出版の岡崎さんがプロデュースしているバンドで、岡崎さんも一緒に大阪へいらしていたんです。公演後ある人に「44マグナムのマネージャーに話が聞きたい」ということで、挨拶に行ったところ、そこで「なんでも相談に乗ってあげるから、一度東京に来なさい。」と。翌日、藁をもすがる思いで東京の千駄ヶ谷にあったユイ音楽工房へ伺い、相談に乗って頂き、契約書を見せたりしたんですよ。まあ、良くある話ですが、その後、アルファムーン担当の吉澤さんに岡崎さんを会わせたところ、「何で勝手にユイと話した!!」と。私は一体何が起こっているのか全然分からなかったです(笑)。

−−吉澤さんとしては「勝手に話進めやがって!」ということだったんでしょうね。

大石:そうですね。最終的には岡崎さんと吉澤さんに話し合って頂き、結果、すごく仲良くなっちゃうんですけどね、二人は(笑)。それでユイ音楽工房の後藤由多加社長と小杉社長のご判断で、ユイ音楽出版とアルファムーンレコードの出資、後藤さん、小杉さん、大石の取締役3人の会社「有限会社ロックステリア」を設立して頂きました。そして「社長はお前だ」と突然(笑)。ですから、私の恩師は後藤さんと小杉さんなんです。

−−そのお二人がキーマンだったんですね。

大石:ええ。ただ、ここでもジャンルの問題がありました。ユイ音楽工房はフォークで大ヒットを飛ばしていた会社ですから、後藤さんからは「君達はロックだろう? ユイの中には馴染みづらいだろうから、外に会社を作りなさい」と設立されたのが「ロックステリア」です。

ユイグループは嬬恋をはじめとする、大きなコンサート、イベントを永きにわたり経験されてきたこともあり、PA機材は一流の物が揃っていたんです。卓なんてMIDASの02ですよ。その当時ではあり得ない高価な。しかし、周辺機器が大音量の楽器を用いて行われるロック仕様ではありませんでした。要するにゲートがない、コンプが少ない、アウトプットのスピーカーが揃わないなど。私は「44マグナム」の全国ツアーを進めながら、担当役員にお願いして徐々にロック仕様の物をそろえて頂きました。ちょうどデビュー2年目84年頃です。いろいろ苦労はありましたが、ご理解を頂きそのシステムが完成した頃に「BOφWY」がユイ音楽工房に移籍して来て、マネージメント部門もユイロックプロジェクトが構成され、本格的にロックマネージメントが始まりました。「BOφWY」コンサートもそのシステムを使ってツアーを行い、彼らは売れていったわけです。

−−「BOφWY」がユイで活動する上での下地を大石さんが作られたわけですね。

大石:いえいえ、コンサート環境に関してはそうですね。「BOφWY」のメンバーも当初「44マグナム」の渋公ライヴに来て、「かっこいいっすね!」「俺たちもこういう風になりたいです」って言っていたのが、1年後には「ライヴハウス武道館へようこそ!」ですよ!「完璧に越されているじゃないかよ!」って(笑)。

−−(笑)。

大石:そんな「BOφWY」を横目に、悔しい思いを抱えながら我々なりに一生懸命展開していたのですが、「44マグナム」は日本武道館まで行き着きませんでした。大阪から出てきて、ちょっと息切れしちゃったんですよね。

−−ロックステリアはいつ頃までやってらしたんですか?

大石:実はロックステリアで「44マグナム」の後輩バンド、いわゆるローディーのバンドをデビューさせました。「リアクション」「デランジェ」。実は当時活動を始めていた「X 」(現「X JAPAN」)」の現場をやらないかと誘われましたが、「デランジェ」はそのライバルであったため引き受けませんでした。当時「デランジェ」はインディーズで3万枚、メジャーでアルバム13万枚、念願の日本武道館でやろうかというときに解散したのが切っ掛けで累損が膨らみまして、88年に一旦ユイグループから出ることになりました。後藤さんからも「そろそろ卒業しろ」と言われました。「X」を引き受けていたらまた違った人生だったでしょうが(笑)。YOSHIKIとは今でも交流があります。

−−それは知りませんでした。

大石:それで、「デランジェ」が解散してしまって、会社もデンジャー・クルーに屋号を戻したのですが、従業員は4人、所属バンドは4つ、全部デビューしていないという状況で「何とかしなきゃ」とかき集めたデモテープの中に「ラルク アン シエル」のデモテープがあったんです。

テープに「L'Arc〜en〜Ciel」というバンド名と連絡先が書いてあって、電話番号が「06」だったので「大阪なんだな」と。それが最高なわけですよ。即連絡しようと思ったのですが、このテープは雑誌編集部員がベースのtetsuyaから預かったもので、編集部員経由で私から連絡を入れてtetsuyaと直接話しました。

 

 

4. 「ラルク アン シエル」との二人三脚

 

 

−−デモテープの頃から「ラルク アン シエル」には光るものがあったんですか?

大石:音楽的に凄いと思いました。さらにhydeのヴィジュアルを見たときに「絶対に売れる」と思ったのと「彼らを絶対にテレビに出してみたい」と思いました。それまで私はテレビ業界とは無縁でしたが直感で。それが92年です。ただ、演奏は荒削りだったので、メンバーと相談してドラマーをsakuraに、二週間後に1stアルバム『DUNE』を私がレコーディングエンジニアとディレクターで録りました。

−−『DUNE』はインディーズでの流通だったんですか?

大石:そうです。88、89年には、「X」の1stアルバム『ヴァニシング・ヴィジョン』と「デランジェ」の『ラヴィアンローズ』がインディーズで数万枚売れていたこともあって、90年にはメタル・インディーズの流通ができあがっていました。結局、「ラルク アン シエル」もその流通で速攻3万枚売り上げて、評判になりました。

−−メジャーデビュー時のエピソードは何かありますか?

大石:最初は「“ラルク アン シエル”って読めません」と言われることとの戦いでした(笑)。よく「ラルク アン ”シェル”」と発音されることが多くて、本人たちを連れてソニー東京営業所の朝礼に出たことがあります。「ラルク アン ”シェル”ではありません! シエルです!」と。当時は新人で「なんでそんな面倒臭い名前にするんだ!」などと言われました(笑)。

−−(笑)。大石さんとしては「ラルク アン シエル」をどのようなイメージで売り出そうと思っていたんですか?

大石:あの頃はいわゆる中世ヨーロッパの匂いをさせるバンドにしたかった。ステージセットもイタリアの宮殿みたいなものをイメージしました。サウンドは、プログレとロックの融合なんて勝手に思っていました。メンバー主導で物事を決める体制でしたし、キューンでデビューしてから、「とにかくライヴを多くやり続けよう」と車1台乗り潰すくらいライヴハウスのツアーをやり続けて、結果、動員は順調に伸びていきました。94年の段階でキャパ6,000人の東京ベイNKホールでツアーファイナルを終えるまでになりました。

−−94年でもうそんなにいっていたんですか。感慨深かったんじゃないですか?

大石:いや、一番感慨深かったのは98年に『ark』『ray』という2枚同時のアルバムをリリースしたときですね。業界バブルの時代でしょうか。その頃はGLAY、宇多田ヒカルさんが800万枚売ったりする頃ですからね(笑)。それでも「ラルク アン シエル」は2枚合わせて660万枚。宇多田さんには及ばないですが、相当売れました。

コンサートで心に残っているのは99年の「GRAND CROSS TOUR」です。北海道は真駒内のスケートリンク場、安比高原、あと東京ビッグサイトの駐車場、大阪と福岡は湾岸の空き地を利用して。全国5カ所で2Days、のべ65万人動員しました。東京は2日間で25万人ですね。そのステージは幅が170メートル、全て仮設です。真ん中に球体があって、それは川崎重工が製作をしてくれました。川崎重工のウェブサイトを見るとまだ載っていますよ、「L'Arc-en-Ciel GRAND CROSS TOUR」。これは川崎重工のリフティング技術が使われています、と。
http://www.khi.co.jp/rd/tech/143/nj143s04.html

−−何だか、ものすごくお金がかかっていそうですね。

大石:最終的には赤字が○○億円だったんですよ。その内の幾らかを各プロモーターさんに「3年後まで持っといてくれ」と謝りに行って…。今思えば無茶なんですが、誰もコンサートをやっていないところでやろうということですから、全部地ならししなきゃいけないんですよ。砂利を引かなきゃいけなかったりとか。ソニーの丸山さんにも「だから土木はやめろ」って言われました。

 

 

5. 日本を出て見えてきたもの〜世界へ羽ばたく「ラルク アン シエル」

 

 

−−「ラルク アン シエル」の海外戦略というのはいつ頃から始められたんですか?

大石:まず97年に、「ラルク アン シエル」のレコードをリリースしてもらうために台湾へ渡りました。そのとき中国系のレコード会社ロックレコードのプロデューサー ランディ・チャンと出会い、彼に「ラルク アン シエル」をプレゼンしたところ「このバンドも良いんだけど、バンドよりもお前の方が面白い」と気が合いまして(笑)、当時、台湾での人脈はランディが橋渡ししてくれました。色々な人にお会いする中で聞こえてくるのは、「『ラルク アン シエル』は有名だよ」ということで、「なぜですか?」と聞いたら「みんなアルバムを持っている」と(笑)。つまり、海賊盤で「ラルク アン シエル」のことを知っていたわけです。

即刻帰国して調査したところ、アジアで「ラルク アン シエル」のアルバムは数十万枚売れていると言うのです。ただ、海賊盤ですよと(笑)。すでに流通されている海賊盤を無くすことはできない、ということでソニーミュージックから正規盤をアジア圏で出す方向で働きかけたのが初期衝動でしょうか。が、どうしても中国本土だけ「リリースできません」という回答しか返って来ないんです。

−−中国本土は何がネックだったんですか?

大石:許認可制の問題でした。当時、中国本土では、チャイナレコードや音像出版といった国営会社がCDを製造流通していたのですが、外資、海外作品のリリースは許認可を受けた20作品しか出せなくて、その20枚の枠を通るために、ソニー、エイベックスも相当な努力をして何作品かをリリースしていたのですが、いろんなネゴシエイションの結果『ark』『ray』がようやくリリースされることになりました。

また、「ラルク アン シエル」の興行を中華圏で実現したかったので、99年に合弁で興行の会社を設立、00年にライヴハウス「ark」を上海市に開店させました。そのライヴハウスは8年間運営し、08年にクローズするんですが、その原因は地代が14倍になってしまったからなんですよ。

−−14倍ですか?(笑)

大石:そうです(笑)。元々リーズナブルだったのですが、さすがに14倍ともなると運営できないということで閉じました。そのライヴハウスは上海の「新天地」という再開発観光モールのど真ん中にあったんです。立地も良く、有名店でしたよ(笑)。今、その跡地はジャズクラブになっています。

−−実際に「ラルク アン シエル」が中国圏でライヴをしたのはいつ頃ですか?

大石: ライヴハウスの運営や許認可取得を進めるうちに、興行の免許を取ることができまして、まず、03年に「ラルク アン シエル」のギターKenのソロプロジェクトのライヴを上海で行いました。そのライヴはロックバンドをスタンディングで、野外で開催という中国の歴史上、初の試みになりました。観客が3000人ほど入ったのですが、ファンがステージ前方へ押し寄せて、それを警備していたお巡りさんが制御、それでもライヴ自体は中止にはならず、見守っていた公安の人は笑いながら「良いライヴだったよ」と。しかし、プラスチックの椅子が100脚くらい壊れましたので、弁償しましたけどね(笑)。これが実質的な、中国国内初のスタンディング野外ライヴとなったようです。

私が音制連の理事になったのがその頃で、その頃の糟谷理事長が企画実行していた「IN THE CiTY」という都市型音楽イベントを、私が上海へ「IN THE CiTY 上海」として招聘したのですが、その場を通じて中国の文化部という演出周りに許認可を出していた人たちや、中国の著作権管理をしている人たちと交流しました。そのときに「著作権の管理をしている中国の団体には、どのくらい人がいるんですか?」と聞いたら、「中国著作権協会は3人」と言うんですよ(笑)。

−−たった3人ですか?(笑)

大石:そうです。「それは何をしているの?」「著作権の管理をしています」「どうやって?」 (笑)。

−−(笑)。

大石:上海市政府の要請もあって「IN THE CiTY 上海」として、著作権講座を行いました。ソニーミュージックチャイナやエイベックスチャイナ、ワーナーミュージックチャイナ、上海電視台、東方電視台といった放送局、中国著作権協会の方たちの前で、音制連の上野常務理事が「著作権管理事業法とは?」などの内容で。これは聞いた話ですけれど、その講座は結構評判だったようです。今の中国の著作権管理思想に一役かっているかも知れないですね。

−−なるほど。

大石:08年に「ark」を、09年には会社を撤収し始めて、ようやく去年、全て撤収し終えました。だからといって、みなさんが思っていらっしゃるような赤字は出していないですよ(笑)。

上海を中心としたアジアリサーチの結果、05年に韓国のソウル9,000名動員のオリンピックスタジアムと中国の上海大舞台で8,800名を動員して、初めてのアジアライヴを実現できました。継続的に08年でソウル、上海、香港、東京、そしてパリで初めてのライヴを行い6,000人の動員で現地テレビメディアにも大きく取り上げられました。

−−フランスは「ラルク アン シエル」ファン多いんですよね。ヴィジュアル系が好きというか。

大石:アニメ・マンガファンが多いんですよね。私がヨーロッパへ行ったのが2000年で、目的はJAPAN EXPOというパリのイベントでした。今も交流をしていて、結果、オタク好きのドイツ人が運営しているNEO TOKYOというレーベルと契約しました。彼らと、私たちと、JAPAN EXPOのフランス人、このトライアングルで、ヨーロッパをどうしていこうかという話をよくしていました。そして、04年から、音制連の理事としてもJAPAN EXPOへ視察に行き、様々な情報を集めていきました。ちなみにその頃はJAPAN EXPOで売っているCDもビデオもまだ海賊盤だったんですよ(笑)。

−−アジアだけの話じゃなかったんですね。

大石:ええ。「これはどこから入れているの?」と聞いたら「香港から」と言っていましたけどね。政府などを通じて販売に関して見直す様に働きかけたところ、JAPAN EXPOでの海賊盤販売はなくなりました。現地企業が、正規盤を販売するウェブサイトを作ってくれたのですが、現地の方がアルバムを1枚購入するのに7,000円ほど払わないといけない。それでもヨーロッパの日本ファンは正規盤を買ってくれるようになりました。熱狂的なファンは本当にアニメ・マンガが好きで、文化を守ろうともしてくれたんですね。アニメの主題歌や、アニメの主人公の造形に容姿が似ているのが原因なのか? アニメ現地ファンから、ヴィジュアル系に人気が広がり、今やアイドルやアニソンといったところにもファンは拡大しています。

そして、ヨーロッパ中心に広がったものがアメリカに飛び火したのがオタコンやアニメコンベンションなんですね。今や10万人規模のイベントが全世界100カ所以上で開催されています。08年にはイベントオーガナイザーを日本に招聘し、日本の音楽業界トップの人たちに日本文化が受け入れられていることをプレゼンしたりもしました。

そうしてコンベンションへの意識を高めた上で、「ラルク アン シエル」は08年にパリ公演に踏み切りました。その切っ掛けも、JAPAN EXPOでのフィルムコンサートでした。1,500人もの観客が集まったことで「ここでもコンサートできる」と確信し、プロモーターに働きかけて単独コンサートを実現させました。

−−海外って大変なんですね。

大石:大変です。そして、12年には東京、大阪、ソウル、上海、香港、台北、バンコク、シンガポール、ジャカルタ、ニューヨーク、ロンドン、それとパリの同じ会場と、ワールドツアーを敢行しました。

−−それはもう完全にワールドツアーですね。

大石:すべて自分たちでブッキングしたので、結構シビれましたね。本当に大仕事でしたが、念願のマディソン・スクエア・ガーデンでの単独ライヴができたことが本当に嬉しかったですね。

 

 

6. 「音制連を潰すつもりでやる」音制連の大改革

 

 

−−大石さんが音制連(一般社団法人 日本音楽制作者連盟)に関わる切っ掛けは何だったんですか?

大石:音制連ができたのが86年で、私がユイ関連でお世話になっていた頃で、音制連の創設者でもあるユイの後藤さんの後ろ姿をずっと見ていました。その頃、後藤さんはほぼ音制連のことで動いている印象でした。後藤さんの指導で86年にわけも解らず音制連の会員にはなっていたのですが、02年に後藤さんから突然「お前も理事に」と連絡があって、最初断ったんですよ。会社との両立は大変ですからと(笑)。

−−音制連の理事ともなると色々忙しそうですものね。

大石:後藤さんや細川健さん(ヤングジャパン創設者)たち先輩方々が、相当な時間と労力を使われて、やっと勝ち取ったポジションですし、おいそれと引き受けることはできないと思いました。それでなくてもその頃、自分の会社を切り盛りしなければならない身としては、本当に無理だと思って。03年に改めて後藤さんから呼び出しがかかり、それは今思えば、理事立候補ギリギリの時期だったんです。それでユイの社長室に出向くと、鍵をカチャッと閉められるんですよ。

−−監禁ですね(笑)。

大石:「“うん”と言うまで今日は出さないからな」と。今の私も後輩に対して同じ思いが芽生えていますが、「これは順番なんだ」と後藤さんのご指導に従うことにしました。しかし当時は何も分からず、「何もできませんがよろしいですか?」「何もしなくていい。会議に出るだけでいいから」と。それが切っ掛けで理事に立候補することになりました。その時、理事長は糟谷銑司さんで、理事には高橋信彦さん、山中聡さんなどの先輩ばかりだなと思いつつ(笑)、それまではあまり業界の方々と面識も無かったのですが、理事になったことで色々な方々と交流させていただきました。

2期目に入り貸レコード委員会の委員になったのですが、後藤さんから「CPRA(実演家著作隣接権センター)の徴収分配だけは要である」とミッションを言い渡され、CDVJ(日本コンパクトディスク・ビデオレンタル商業組合)と粘り強く交渉し、結果、良い関係を再構築することができました。

−−すごいじゃないですか。

大石:でも、後藤さんからは一度も褒められたことはないです(笑)。理事を2年間やってみて分かったのですが、当時の音制連について目標が曖昧な印象をもっていました。もちろん、これまでの先輩方々のお考えをも理解した上で、改変する部分があっても良いと思いながら2年を過ごし、常務理事になった段階で、色々な構造を変えていきました。その当時はちょうど「ラルク アン シエル」がバンドとして活動していなかったので、比較的使える時間があったので、色んな提案起案を行いました。

まずは、「レーベルへのプレゼン」という目的でその当時開催されていたイベント「IN THE CiTY」について再考しようと思いました。インディーズの存在も台頭し始めていたこともあり、果たしてその目的は時代にあっているのか? つまり「会員のためのものって何なのだろう?」ともう一度考え直そうと本気で動いたときに、やはり旧戦略を唱える先輩役員との方向性の違いが明確になり、説明と説得に時間をかけて理解して頂きました。その後の音制連は、新しい方向性に賛同し、今の音制連の存在意義を理解して頂けた上で、立候補して頂けるようになってきました。

−−例えば、どなたですか?

大石:同年齢でもあり、時間をかけて理解してもらって立候補してくれたのは小林武史さんですね。小林さんに続いて、ヒップランドの野村さん、浅川さんといった順番で説いていきました。もっとも異端なのは、ハウリング・ブルの小杉さんに推薦枠で入ってもらって、刺激剤として!(笑)。要するにその当時響いている音楽を、現役で制作している人たちに音制連の存在を知ってほしかったんです。

−−世代交代を図ったということですね。

大石:それと同時になるべく幅広い会員社で構成したかった。それで自分が理事長になったときに理事会で「音制連を潰すつもりでやりますよ」という話をしました。

そういう形でどんどん組織を変えていくと同時に、みんなで協業することを考えました。要するにプロダクションが横に繋がれるような何か共通の目的を作らないかということで、結果、事業化という風に銘を打ったのですが、それがやっと実ってきたのがNEXUSです。

NEXUSでは新人のバンドを集めてみんなで見て貰おうという「LIVE NEXUS」というプロジェクトを組みました。「IN THE CiTY」はレーベルの人に見てもらうだけのものでしたが、これはユーザーにも見て貰う。最初に企画したNEXUS LIVEで有名になったのはMay J、サカナクションです。サカナクションの一郎くんは面白くて、打ち上げの席で「僕の夢は音制連の理事長になることだ」と。まあ、ギャグですけどね。まだ新人バンドなのに音制連の理事になると連呼してくれて。

−−音制連をPRしてくれたんですね。

大石:とてもいいライヴでした。NEXUS LIVEは需要と供給のバランスが少し変化してきたので、今は形を変えてライヴに援助金を出すという形にし、NEXUSの事業化を進めています。それは外部の業者の方と協業するところは協業する、切り離して渡してしまうところは渡してしまうということなんですね。例えば、過去に音源アーカイブの研究をやっていて、原盤を大きなサーバーに溜めて、コンピューターで読み出せるようにするという実験を、国の援助を受けながらある程度お金をかけてやって、完成まで持って行ってスペースシャワーに事業を引き取ってもらいました。プロダクションが真ん中で、みんなでできるところは協業して、競うところはお互いに競う場面もありながら、なるべく多くアーティストに還元できるようにしましょうというのが今の音制連です。

 

 

7. グローバルにものを売る方向にシフトチェンジしていきたい

 

 

−−今後の音制連についてお聞かせ下さい。

大石:今回の改選でアミューズの畠中達郎さんと相馬信之さん、ランティスの井上俊次さんに参加していただいたのは大きいです。海外へ出て行こうという市場の動きがありますが、この一端を担っている方々を理事に迎えて、他の会員社に対して、「彼らだけじゃなくて、こういうことは誰にでもできることですし、ノウハウを全員で共有しましょう」という理念のもとに、14年から具体的にやっていこうかなと思っています。対外戦略を共有するということで、先日も、業界向けに東南アジアへの進出方法セミナーを開催しました。とても評判が良かったです。

−−それは素晴らしい試みですね。

大石:その上でクール・ジャパン法が制定され、国もコンテンツを利用して日本をPRするという試みを来年本格的に始めますので、我々も本格的に海外へコンテンツを出すというところのロジックが組めるようにしたいと思っています。

−−でも、そうやっている一方で、風営法で夜12時過ぎたら踊っちゃいかんとか、音楽が生きにくい状況を作っちゃっていますよね。

大石:何が問題かというと、やっぱりクラブや、昔で言うディスコはどうしても法に則さない事件が起きたり、警察もそれを見てきている。浅川さんは「ちゃんとした営業管理をし、音楽を楽しんでいる人の集まりもある」と、それを区別する為に、FDJ(日本ダンスミュージック連盟)を創られました。そしてきちんと公の場へ出て行こうということで、FDJを中心に国会などに対して働きかけをしています。大阪は大阪で、アメリカ村を中心に、市議会などを通じて、大阪市の風営法を変えようともしていますし、動きはすごく活発になってきています。おそらくカジノ法ができると同時に色んなことが変わるだろうと思っていて、そのときに音楽の楽しみ方、社交場のあり方が、もっと厳しいところで管理の元、開いていくんじゃないかなと思っています。

−−20年には東京でオリンピックが開催され、海外の人たちをたくさん「オ・モ・テ・ナ・シ」しようと言っているわけですからね。

大石:そうですよ。なのに、夜12時になったらポーンと終わったら、経済効果も何もないです。

−−音楽業界全体について、大石さんはどうすべきだとお考えですか?

大石:CDは売れなくなっていますが、無くならないじゃないですか。通販でものが売れる時代でもあるでしょうし、色んな場面で通販企業の方が前向きに進めることが多いのと、お店もレコメンド力のある所は残っていくわけですし、そこは全然揺るがないだろうと思います。音制連でも70年代から80年代のキャリアアーティストの活動履歴をアーカイブしていく「Museum of Modern Music(MOMM)」というサイトを運営していますが、ここでも最終的にはパッケージソフト販売に少しでも繋げていきたいとの思い入れで取り組んでいます。

良いものを作れば売れる。日本は唯一CDが売れている国だと思いますし、唯一ダウンロードに全移行がなじまない国だとも思います。ストリーミングサービスが始まろうとしていて、Music Unlimitedが始まったり、Spotifyがローンチしようとしているとか、将来色々なサービスが始まるとは思いますが、私は日本で受け入れられるのはラジオ型のストリーミングサービスではないのかなと思っています。要するに自分で選ぶということよりは、好きなものに準じてレコメンドしてくれる。

−−PANDORA RADIOみたいな感じが日本には合っていると。

大石:そうですね。原盤の権利や著作権の権利を守るのが私たちの仕事ですが、利用していただかないと広がらない、権利も持っているだけではお金にならないわけです。利用の方法が従来とは違うと許諾を出さない、あるいはYouTubeにも上げてはいけないとおっしゃるメーカーの方も見受けられますが、私たちが海外へ展開するとき、YouTubeでのプロモーションが重要なファクターとなります。そういった時代の狭間で、権利主張だけではなく、これを業界全体で話し合って、今まで支えていただいていた音源ビジネスをないがしろにするわけではないんですが、やはり海外でのライヴ事業展開を元にグローバルに「日本製のものを売る」というところにシフトできるよう努力していきたいと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。大石さんのご活躍とマーヴェリック・ディー・シー・グループの益々のご発展をお祈りしております。m.gif(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

 学生時代から今と変わりなく音楽の様々な側面に携われていた大石さんは、レコーディングからライヴまであらゆることに精通し、まさに現場の方という印象でした。バンドと共に行動し、考え、悩み、実践する、その行動力が「ラルク アン シエル」を始め、数々バンドを成功に導いたのだと感じました。また、早くから日本以外にも目を向けられ、アジア、ヨーロッパに足を運ばれていた大石さんの経験と知識は、今後コンテンツを海外に送りだそうとしている日本にとって、ますます重要になってくるのではないでしょうか。