第103回 木崎 賢治 氏 音楽プロデューサー/ブリッジ代表

2012年4月5日 20:45
第103回 木崎 賢治 氏 音楽プロデューサー/ブリッジ代表

音楽プロデューサー/ブリッジ代表

 

今回の「Musicman's RELAY」はFM802 栗花落光さんからのご紹介で、音楽プロデューサー/ブリッジ代表 木崎賢治さんのご登場です。学生時代から音楽や作曲に熱中されていた木崎さんは、大学卒業後に渡辺音楽出版へ入社。すでに大スターだった沢田研二や、当時、新人だったアグネス・チャン、山下久美子、大沢誉志幸、吉川晃司など数多くのアーティストをプロデュースされ、ヒット曲を量産。退社後も、槇原敬之やTRICERATOPS、そしてBUMP OF CHICKENなどの作品で手腕を発揮されている木崎さんに、幼少の頃の話から音楽プロデューサーとしての試行錯誤の日々、そして今後の音楽業界についてたっぷりお話を伺いました。

 

[2012年3月5日 / 渋谷区恵比寿西 株式会社ブリッジにて]

 

プロフィール
木崎 賢治(きざき・けんじ)
音楽プロデューサー/ブリッジ代表


1946年東京都生まれ。中学生の頃から音楽に興味を持つ。
1969年東京外語大学卒業後、1970年渡辺音楽出版に入社し、
沢田研二、アグネス・チャン、山下久美子、大澤誉志幸、吉川晃司らを手がける。
1986年フリーとなってからも、槇原敬之、TRICERATOPS(トライセラトップス)、BUMP OF CHICKEN(バンプ・オブ・チキン)ら新しい才能を世に送り続けている。1988年に個人事務所キーズカンパニーを、1994年には音楽出版社ブリッジを設立。
著書:「ものを作るということ」銀色夏生×木崎賢治

 

 


1. 好きなことには集中力を発揮した少年時代

 

−−前回ご登場いただきました栗花落光さんとは、いつ頃お知り合いになられたんでしょうか?



木崎:栗花落さんと初めてお会いしたのは、僕が安藤秀樹君というアーティストをやっていたときだと思います。安藤君の曲の中で栗花落さんが気に入ってくれた曲があって、恐らくそこから栗花落さんとの関係が始まりました。それまで、メディアの人たちって、私たちが作った音楽を「斬る!」みたいな(笑)、ちょっと恐い印象を勝手にもっていたんですが、栗花落さんは「すごく音楽が好きだ」ということがにじみ出ている人だったので、メディアと音楽を作る人という関係じゃなくて、音楽が好きな者同士という感じで、すぐに打ち解けました。



−−栗花落さんはまさに音楽人間ですよね。



木崎:それと栗花落さんはテニスをやっていて、私もテニスをやっていたので、そこでも気が合ったんですが、栗花落さんがゴルフを始めてからはずっとそっちに行っちゃって、10年以上「ゴルフやんなさい」って言われ続けていました(笑)。



−−(笑)。それでゴルフは始められたんですか?



木崎:はい。ずっとやらなかったんですが、あるときFM802のコンペのお誘いを頂いて「あんな止まっているボールを打つのは簡単じゃないかな」と、家の近所のゴルフ練習場でそのコンペの2ヶ月くらい前から練習しました。また、その時期はメニエール病という目眩がする病気であまり仕事ができなくて、スタジオで音を聴いているとイライラしちゃうような状態だったんです。それで医者から「運動するといい」と言われたので、ゴルフをやり始めました。



−−ここからは木崎さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身は東京ですか?



木崎:東京の世田谷です。小学校は新代田の側にある守山小学校に通っていました。



−−どのような家庭の環境でお育ちになったんですか?



木崎:私の父親は大学生の頃から英語が話せて、しかも音楽も好きだったので、戦前は小野ピアノに勤めていました。その後、東京芸大を出た人と一緒にピアノの会社をやろうとしたんですが、戦争が始まってピアノなんて売れない時代になっちゃったものですから、その話はなくなって、終戦直後に得意の英語が生かして貿易会社を始めて、最初はトランジスタラジオやカメラを進駐軍に売っていたんですが、それを海外にも輸出するようになったみたいです。



−−お父様は社長だったんですか。では、裕福な少年時代を…。


木崎:あるときまではすごくイケイケな感じでやっていたんじゃないですかね(笑)。それで母も音楽が好きな人で、確か灰田勝彦の追っかけをやっていたはずです(笑)。



−−追っかけですか(笑)。



木崎:私は幼稚園の頃に買ってもらった手回しの蓄音機で童謡を聴いていて、両親は「テネシーワルツ」とかあの頃の洋楽を聴いていました。



−−木崎さんは小さいときどんなお子さんだったんですか?



木崎:小学生の頃は、なぜだか分からないんですが、毎日学校に遅刻していました(笑)。それでいつも学校へ駆けていったことを覚えています。ランドセルを忘れて行っちゃったこともありました。宿題は毎日のように忘れていました。



−−それは確かに忘れっぽいですね(笑)。



木崎:帰ってくると野球やソフトボールをやるのが好きで、学校から帰るとランドセルを放り投げて真っ暗になるまで遊んでいたので、楽しくて忘れちゃうんでしょうね。それで宿題は授業の前になると思い出すんです。「あっ!そういえば宿題が…」って。子供の頃はそんな感じでしたが、勉強でも算数は好きでした。つるかめ算とか「面白いなあ」と思って、自分で問題集を買ってものすごく勉強しましたが、国語とか他の教科はあまり好きではなかったです。



−−好き嫌いがはっきりしてたんですね。



木崎:あと、夏休みの宿題で昆虫採集とかやりますよね。それで蝶々採集の道具を文房具屋に買いに行ってたら、そこの大学生が「使っている道具が本格的じゃない」と色々教えてくれて、志賀昆虫店という専門店で本物の採集道具を買って、小学2年生くらいから本格的に蝶の採集を始めました。



−−家の近所で昆虫採集していたんですか?



木崎:いや、その大学生に高尾山や軽井沢、箱根と色々と連れて行ってもらいました。そのうちに今度は蝶の研究がしたくなって、家のそばにカラタチの樹があったんですが、そこでアゲハチョウの卵を獲ってきて、若い芽ばかりを食べているのと、古い葉っぱを食べているのとで成長がどう違うかとか観察日記をつけて。



−−(笑)。



木崎:日なたと日かげで場所を変えたり、冷蔵庫の中に入れるとどうなるかとか、色々と研究していたんです。そうしたら先生が家庭訪問に来たときに、それを見つけて「面白いから学校で発表しなさい」と言われて、模造紙に研究成果を書いて発表したりしました。



−−そういうことに小さいときから取り組むとは、基本的に賢いからだと思うんですが、クラスでは目立った方でした?



木崎:そんな目立ってはいなかったと思います。ガキ大将の子分とか。あとマニアックに熱中したのが、とんとん相撲です。自分で好きな力士で栃光というのがいたんですが、一番下から横綱にさせたいなと思って、そのときの幕内力士全部の人形を作って15日間で対戦させて、番付編成会議をやったりしました。



−−それは友だちとやるんですか?(笑)



木崎:いや、1人で(笑)。その中で難しかったのが取組表を作ることだったんですよ。1つの場所で同じ人と2回は当たらないように、幕内の力士45人か50人くらいの組み合わせを作るのがすごく大変なんですよ(笑)。



−−それは大の大人が必死になってやるものですからね(笑)。



木崎:それをどうやって解決したかというと、東の横綱から番号を振っていって、例え力士が変わっても数値を合わせておけば、15日間の取組表はできるようにしたんです。プロの場合は同じ部屋同志では当たらないという決まりもありますけど、それはなしにして、同じ人と2度当たらないようにすることだけ考えて。



−−公式というか仕組みを作り上げたんですね。



木崎:最初は公式みたいものも知りませんでしたから、全部組み合わせてみてダメだったらまた組み替えるということを繰り返しやっていました。実は本物ですと幕下は7日間しか取組がないので、そこで調節できるんですよね。



−−でも、木崎さんは15日間もれなく対戦させると。



木崎:そう。もれなく対戦させて同じ人と当たらないようにね。そういう組み合わせ作りをやって、15日間が終わると番付を上げたり下げたりして、またやるというのを1人でやっていました(笑)。今でいうゲームですよね。そういう遊びをするのが好きでしたね。

 

 

2. 「トップ20」好きから曲作りを始めた中学時代

 

音楽プロデューサー/ブリッジ代表 木崎賢治氏

−−先ほど小さいときから蓄音機で童謡を聴かれていたとおっしゃっていましたが、意識的に音楽を聴きだしたのはいつ頃ですか?



木崎:小学校の5・6年頃にプレスリーが出てくるんです。「ハートブレイク・ホテル」。そのあたりから洋楽への興味が出てきて、中学校に入ったら洋楽好きがクラスに5〜6人いたんです。



−−結構多いですね。


木崎:多いんですよ。それで洋楽のシングル盤を買うようになって、みんなで交換したりしていました。それで音楽にすごくのめり込んでいって、色々なラジオ番組を聴くようになりました。ラジオ関東で「ゴールデン・ヒット・パレード」という、まだ日本ではヒットしてないような曲がかかる番組があったんです。その番組からアメリカのチャートに興味を持つようになって、FENの「トップ20」を聴くようになったんですね。そして、歌っている歌詞を知りたくなって『ミュージック・ライフ』を買うようになって、中学校2年生くらいから「こういう曲を作りたい」とギターを買って、コードを覚えて、曲を作り始めたんです。



−−それで良い曲は作れましたか?



木崎:あまり作れませんでした。



−−(笑)。


木崎: 僕は曲を分析しないと作れないんですよ。「相撲の15日間の取り組みってどうなっているのかな」と考えるのと同じように「曲ってどうなっているのかなあ」と。私はそういう核みたいなものを分析しないとできなくて、音楽も最初はコード進行というのを少しずつ分かるようになって、それと今度は構成ですね、あの頃の歌はA、A'、B、A'みたいな、8小節、8小節、8小節、8小節、みたいな形の曲が多かったんですが、そういったことを勝手に研究していました。



−−当時、自分で作った曲を録音されてたりはしたんですか?



木崎:録音するものは持ってなかったので、譜面に残そうと思って譜面を書く練習をしていました。



−−歌は自分で歌っていらっしゃったんですか?



木崎:そうですね、歌も練習していっぱい覚えました。あの頃で言うとニール・セダカ、ポール・アンカ、エルヴィス・プレスリー、エヴァリー・ブラザーズとか、あまり日本では出てなかった頃ですけどね。その後、高校生のときに父の仕事の関係でテープレコーダーを手に入れて、それからは色々ダビングしたりしました。



−−ちなみにバンドは組んでいたんですか?



木崎:中学生のときにはもうやっていたかもしれないです。最初ギターを買ったんですけど、上手く弾けなくて、それでウクレレを練習したらすぐ弾けたので、ウクレレを弾いていたらスチールギターをやっている人からハワイアンのバンドに誘われました。



 その頃、FENの「トップ20」の前にカントリーの番組をやっていたんですよ。それを聴いているうちにカントリーも好きになって、一番好きだったのがハンク・ウィリアムスだったんですが、遡ってハンク・ウィリアムス全集を買ったりして、曲を覚えて、高校生のときに、スチールギターの人に「カントリーでも伴奏やって」と頼んで、カントリーとハワイアン、両方やっていました(笑)。



−−当時、カントリーとハワイアンのバンドってたくさんありましたよね。エレキ登場の前には。



木崎:ベンチャーズが出てきて、友だちはエレキギターに行きましたが、私は演奏するというよりも曲を作ることに熱中していましたし、受験勉強もしなくてはいけなかったので、バンドは途中で消滅しました。



−−そして、東京外語大学に進まれますね。



木崎:はい。学校の先生が「東京外語大学って知ってるか? 木崎に向いていると思うんだけど」って言われて。



−−洋楽ばかり聴いていますしね(笑)。



木崎:英語の試験はすごく良かったんですよ。



−−お父さんも英語が上手ですしね。



木崎:単語もなんとなく分かっちゃうことが多かったですね。



−−それは英語を習いに行っていたとか、そういうことではなかったんですか?



木崎:何もないです。塾とか行ったことなかったですしね。先生も多分、英語の成績が良かったから勧めてくれたんではないかと思います。私は、本当は一橋大学か、慶応大学の経済学部に入りたかったんですよ。でも、一橋と慶応は落ちて、東京外語大学だけ受かってそのまま入っちゃったんです。



−−大学ではやはり英語を専攻されていたんですか?



木崎:いや、専攻はフランス語なんです。映画を観るようになって、フランス語やイタリア語の発音ってきれいだなと思って。それでイタリア語は20人しか採らないけど、フランス語は40人だから、フランス語が良いかな、と。そもそも東京外語大学って受験するまで知らなかったですし、あまり興味がなかったんですね。とりあえず二期校だというんで、受験のお金も高くないですしね。



−−国立ですものね。


木崎:国立です。それで国立に入ったらお金が浮くから「ピアノ買ってくれる?」って親に聞いたら「いいよ」って言ってくれまして、ピアノを練習していました。でも、大学に入ってバスケットボール部に入っちゃって…(笑)。それでも曲はずっと1人で作っていたんですが、そのときの同級生が「早稲田に”ミュージカル研究会”っていうのがあって曲作っている人たちがいるよ」って紹介してくれました。それで音楽はミュージカル研究会の人たちとつるむようになりました。そこにはのちにキティレコードの “k”と”t”の字になる田中と金子章平がいました。金子はバンドでボーカルをやっていて、ローリング・ストーンズの曲を歌っていました。彼はもう亡くなってしまいましたけどね。

 

 

3. 「話が違う」とは言えなくて〜紆余曲折の渡辺音楽出版入社

 

 

−−大学卒業後に渡辺音楽出版に入社されていますが、最初から音楽の道へ進もうとお考えだったんですか?



木崎:いや。4年生になって就職となったときに、僕は「普通の会社に行くのは嫌だな」と思って、母校の駒場東邦の英語の先生になろうかと思ったんです。それで高校のときの先生のところへ行って相談したら「雇ってあげるから教職だけは取ってこい」と言われたんです。それで慌てて教職をいっぱい取っていたら、ストのあおりで3月になっても卒業できなかったので、留年しようと思っていたんです。でも、みんなは就職が決まっていて、それで4月から勤められなかったりと色々あったみたいで、卒業したい人向けに6月に元のオリンピック村で2週間の詰め込み授業をやったんです。僕も留年するつもりだったんですが、足りないのは教育実習と教育心理学の2科目だから「それは聴講生として受ければいいか」と、その詰め込み授業に参加してとりあえず卒業しちゃったんです。


−−教職に必要な科目は後で取ればいいや、と。



木崎:はい。それで「聴講生であと2科目取りたいんですけど」と教務課へ行ったら「今年はやらない」って (笑)。それで「音楽の方へ行こうかな」と思って、ソニーに行ったら「もう今年の試験は終わりました。しかも、木崎くんの場合は卒業しちゃっているんですよね。卒業している人は試験受けられませんよ」と。



−−卒業したことが裏目に出ましたね…。



木崎:それでどうしていいか分からず、アルバイトをしたり、友だちに手伝ってもらって音源を録音したりしていました。そうこうしている間に「もう先生になるのは難しいかな」と思って、「それだったら音楽の世界に行こう」と思いました。それで私の父の会社で監査役をやっている人が、渡辺晋さんの親戚の人だったので、その人に渡辺晋さんを紹介してもらって、どこかレコード会社に口利きしてもらおうと考えて、父が部下の人に「ウチの息子の就職を頼む」って言って、取りはからってくれたんです。



 それで渡辺プロダクションに行ったら、渡辺晋さんに紹介されて「音楽好きか?」って訊かれて、「はい、好きです」って答えて、その次に松下さんっていう人に紹介されて、それから渡辺音楽出版に連れて行かれて…。



−−もうそこで「あれ?」って思いますよね(笑)。



木崎:これは後で聞いた話なんですが、裏で「木崎君は渡辺音楽出版に欲しい」みたいな話になっていたようなんですよ。音楽出版社って海外に手紙を書いたりするセクションがあるじゃないですか? 僕は外語大に行っていましたし、当時、そのセクションの人が万博で大阪に行っちゃっていて、代わりが必要だったようなんですよ。



−−もう渡辺音楽出版行きが決まっていたんですか。



木崎:そうみたいです。そのときに「君は給料どれくらい欲しいんだ?」って言われて、「レコード会社を紹介するのにそんなことまで聞かなくちゃいけないのかな…」と思っていたら(笑)、いつの間にか「研修会があるから来い」と言われていました。



−−(笑)。



木崎:「それってここに入るということなんだろうな」と気づいたときにはもう恐くて「話が違う」って言えないまま、円覚寺の研修会に行きました(笑)。そうしたら、他の新入社員はもう8月には入社が決まっていて、2月か3月に1回顔合わせをしていたので仲良くなっていたりするんですが、自分は独りぼっちで。



−−円覚寺ってお寺のですか?



木崎:はい。座禅を組みに鎌倉の円覚寺に1週間くらい行きました。もうすごく辛くて、しかも私の場合、独りぼっちですから。



−−その年は渡辺プロに何人入ったんですか?



木崎:渡辺プロは10人くらい入ったのかな。



−−他の人はどこに配属されるかまだ決まってないわけですよね。



木崎:決まってないけど、ちゃんと試験受けて入ってきたんですね。私だけ裏道なんです。それで渡辺音楽出版に配属されてからは、英語の手紙を書いたり、世界歌謡祭で外国の歌手が来るとメンバーについたりしていました。あと、フランスのダニエル・ジェラールとか、イタリアのジャンニ・ナザーロに平尾昌晃さんが曲を作って、キングレコードから出したんですが、そのレコーディングに立ち会ったりしていました。



−−そのあたりから木崎さんのキャリアがスタートしているんですね。



木崎:いや、してないですね。


−−してない?



木崎:まだ洋楽ですから。でも、ダニエル・ジェラールは自分でも曲を作るので「あ、そのメロディいいね」なんて言っていた記憶があります。それから渡辺音楽出版にはピアノがあったので、暇なときよくピアノ弾いていたら、「木崎はピアノが弾けるんだ」って言われて、あるとき「木崎は採譜できるのか?」と採譜を頼まれたんですよ。



−−木崎さんはできることがいっぱいありますね。語学はできるし、ピアノは弾けて採譜もできるんですから、使いたくなりますよね(笑)。



木崎:(笑)。それで採譜したら、平尾さんの曲が10曲くらいあるんですよ。「これ、どうするんですか?」って訊いたら、「レコーディングするんだよ」って言われて、そこで初めて渡辺音楽出版でレコーディングがあるってことが分かって「スタジオ連れて行ってください」とお願いしました。それからは、夜にスタジオへ行ってレコーディングを見ていました。トワ・エ・モワ、ザ・ハプニングス・フォー、ブルーコメッツ、ザ・タイガースにも行ったかな。ザ・ワイルドワンズとか、そういうのを見に行っている間に「木崎君、どう思う?」って色々と聞かれるんですよ。それで少しずつ意見を言うようになって、それを見ていた原さんという人が「木崎は制作に向いていると思う」と、その日から制作になりました。

 

 

4. 自分のイメージに相手を誘導する術〜ヒット曲作りに邁進の日々

 

音楽プロデューサー/ブリッジ代表 木崎賢治氏

−−入社してから制作に移られるまでどれくらいかかったんですか?



木崎:1年半くらいですかね。入社1年目の正月のときにもう会社に行くのが嫌になってしまって、風邪引いちゃったりして。



−−(笑)。



木崎:2週間くらいずっと休んじゃった記憶があります。



−−そんなに会社が嫌だったんですか…。



木崎:もう嫌でした。何しろ、本当に世慣れしてなかったんですよ。社会慣れしてなかったというか。



−−その手紙を書くという仕事が嫌だったというわけではなくて。



木崎:そういうことではないです。何かもう大人の雰囲気が嫌で。



−−あー、そういうことですか(笑)。



木崎:何か会話が乱暴で「木崎バカヤロー」みたいな、そういう雰囲気が恐いなあと思っていて、辞めたかったんだけど辞めるって言えないままで、最初の正月にもうずっと休んでいたんです。「今日もまた休むって電話しようかな…」と思っていたら、中島二千六さんという当時の課長が「木崎、大丈夫か?」ってすごく心配してくれて、その声聞いたら「行きます。今日から行けます」って答えていました(笑)。



−−その一言に救われたんですね。



木崎:中島さんは今、渡辺音楽出版の取締役社長をやっていますが、長嶋茂雄さんみたいな人で、この人には何度か救われました。仕事が嫌になって「俺はこういう仕事向いていないんじゃないか」という話が終わるか否かのときに「木崎ほど向いているやついないよ!」って言ってくれて続いたということもありました。



−−では、制作へ移ってから徐々に会社に馴染んだんですか?



木崎:いや、馴染まないですね。



−−まだ馴染めない(笑)。



木崎:曲を発注して、上がってきた曲に対してマネージャーなんかが「この曲はちょっとダメ」って言われたりすると、安井かずみさんとかに「詞を直してください」ってお願いしに行くんですが、みんな先生みたいな人ばかりで、そのことを上手く言えないんですよ。



−−直しのお願いってなかなか言いにくいことですよね。



木崎:それで胃が痛くなっちゃって十二指腸潰瘍になりました。それから2年ほどたって24くらいのときに、ジュリーとショーケンが組んだPIGというバンドが上手くいかなくて、ジュリーとショーケンのソロを出すことになったんですよ。で、その担当になって、ジュリーのソロアルバムからシングルカットした『許されない愛』がヒットしたんです。



−−それはジュリーのソロ初のシングルだったんですか?



木崎:いや、1作目は「君をのせて」という宮川先生の曲で、加瀬さんが書いた「許されない愛」は2作目だったんですが、これがヒットしたんです。そのときにヒット曲というのが何か分かったといいますか、曲はこれくらいはっきりしたメロディじゃないと売れないんだと分かってから、「ジュリーの次のシングルはこういう曲を作ってほしい」と曲を具体的に発注できるようになりました。それから「こうしたらもっと良いメロディになるんじゃないか?」と自分でも分かってきて、先生を傷つけないように曲の手直しのお願いする方法を、怒鳴られ、怒られしながら、少しずつ身につけていったんです。


−−ヒットを出す中で、コツを掴んでいったと。



木崎:そうですね。その後、アグネス・チャンも担当するようになったんですが、平尾さんに書いてもらった曲のことで夜中に連絡して、「ちょっと新曲のことで相談があるんですけど」ってお伺い立てたら「おいでよ」って言ってもらえて(笑)。それで中目黒のマンションまで行って、「このAメロにサビがもうちょっとあると、もっと良くなると思うんですけど」なんてあまり否定的にならないようにお願いしてね(笑)。そこから話が広がってビージーズの話になったら、また新しい曲ができちゃって、それが結局「草原の輝き」って曲になったりね。



−−作家の先生の横にいて少しずつのせながらアイデアも出して。



木崎:5年くらい前にパーティで平尾さんに偶然会ったんですが「あの頃、渡プロの人はみんなウチに来て、ああでもないこうでもない言って、曲作っていたよね。終いには誰が作っているのか分かんなくなっちゃうんだよね」っておっしゃっていました(笑)。



−−(笑)。



木崎:「でも、今から考えるとすごく楽しかった。今の人は『曲を直してくれ』だの『ここが良いですね』とあまり言わないんだよね。反応がないからつまらないんだよ」って。



−−相手を立てつつ注文をつける。そこがやはり優秀なプロデューサーへの第一歩ですかね。



木崎:直接言ったらいいけど、やっぱり相手も立場がありますしね。あと僕自身、我慢強いっていうのはありますね。「ここがもうちょっと切ないコードになると良いと思うんですけどね」って、自分の中ではもう「コードはE7」って決まっているんですけど(笑)、そこに相手を誘導していくみたいな感じです。



−−それは辛抱強くないとできないですね。



木崎:そうですね。それがみんな中々できないみたいですね。作家さんと一緒に曲を作っていて、曲を作っている人が集中力を切らしても、私の方は切れないんですよね。ですから集中力というか、固執できる力はあるのかもしれません。



−−その頃には「この仕事に就いてよかった」と思えるようになっていたんですか?



木崎:そうですね。自分で曲を作るよりプロデュースしている方が面白いってなって思うようになっていきました。



−−作品全体を仕上げていく作業って楽しいですよね。全体を自分が思う方に持っていくわけですからね。



木崎:でも、色んな人から駄目出しされる可能性もあるんですよ。沢田研二をやっていたらマネージャーが駄目出しする。それと社長駄目出しっていうのが結構多かったり、アーティストが歌いたがらないとか。例えば、阿久悠さんとやっていると、詞に曲をつけてもらいますよね。そうしたら阿久悠さんが「この曲どうなの?」って(笑)。



−−(笑)。



木崎:もう、4人も5人も説得しなくちゃいけない相手がいるんですよ。



−−しかも当時は木崎さんも若いですよね?



木崎:24〜25歳かな。それでお腹が痛くなっちゃたりしたんですよ(笑)。

 

 

5. 吉川晃司の成功、そして名曲『そして僕は途方に暮れる』の誕生

 

 

音楽プロデューサー/ブリッジ代表 木崎賢治氏

−−その後、山下久美子、大澤誉志幸、吉川晃司と数々のアーティストのプロデューサーとしてお仕事されるわけですが、アーティストを連れてくるというよりは、渡辺プロにそういうアーティストがいて、その担当者としてお仕事をされていたということになるんですか?



木崎:大体そうでしたね。最初、アイドルみたいなのもやっていましたけど「もうアイドルは嫌だな…」と思って、それで大澤とか始めたんですね。そして吉川は、社長が「木崎やれ!」って言うのを最初は断っていたんですが(笑)、「とにかくやれ!」と言われてやらざるを得なくなっちゃったんです。それで社長に「じゃあ、吉川が売れたらご褒美くれます?」って訊いたら「くれる」って言ったんです(笑)。



−−(笑)。



木崎:吉川について私は「歌手じゃないと思う」とかって言ったんですよね。だから「ドラマに出させてほしい。例えば、探偵モノで」と言いました。「ショーケンとか根津甚八が探偵だとすると、そのアシスタントで、本当はバンドで成功したくてバンド練習もしている。そんな役で」と。



−−ちゃんと役柄も作っていたんですね(笑)。



木崎:そう(笑)。それで「リハーサルスタジオとかで練習しているシーンで曲がかかって、主題歌でも挿入歌でも入れてもらったら、売れるかもしれないですけど」って言いました。すると社長が「テレビドラマは相手があって難しいから映画を作ろう」って言ったんです。それで、大森一樹監督で吉川主演の映画を作ったんです。



 そうしたら、大澤が売れないで、吉川が先に売れちゃったんですよ。大澤は2枚目のアルバムを作るときにビクターから新しい部長が入ってきて、一枚目でお金がかかり過ぎちゃったから、「2枚目のレコーディングは駄目だ」と言われて、レコーディングができなくて、レポートを書いて何とかレコーディングにこぎ着けるような有様で。でも、そのときに資生堂から「夏のキャンペーンソングを大澤で」と電話がかかってきて、「やった」と思いました。



−−指名の電話がかかってきたんですか。



木崎:ええ。でも、それがキャンペーンソングなのにベストテンに入らない曲になっちゃって…。そんな状況なのに「3枚目のアルバムはニューヨークでレコーディングしたい」とスタッフのみんなが言って、スタジオとか押さえちゃったりしたら、今度は「ニューヨークレコーディングは駄目だ」と。それで困って社長のところへ行って、「吉川で売れたらご褒美くれると言ったの憶えています?」って訊いたら「憶えている」とおっしゃったので、「大澤をニューヨークでレコーディングしたいんだけど駄目だと言われているんです。行かせて下さい」とお願いしたんです。



−−ご褒美をそこで使われたんですね。



木崎:それでニューヨークに行って、『そして僕は途方に暮れる』という曲ができました。それが日清カップヌードルのCMソングになって、大澤はようやく売れたんです。



−−『そして僕は途方に暮れる』は本当に素晴らしい曲ですよね。



木崎:この曲の作詞は銀色夏生さんなんですが、エピックの小坂さんが「まだ歌詞を作ったことがない人なんですけど」って紹介してくれた人なんです。大澤はレイモンド・チャンドラーとかのハードボイルドな世界をやりたいと思っていたんですが、銀色さんのすごく独特な詞の世界を気に入っちゃって、結局、全部銀色さんの詞になってしまいました。そのときに銀色さんが「僕は途方に暮れる」とメモしていて、「やっぱりハードボイルドだったら”そして”でしょう」と思って、「そして僕は途方に暮れる」というタイトルで詞を作ってもらったんですが、大澤がうまく曲を作れないまま保留になっていたんですよ。



−−詞先だったんですね。



木崎:そうです。でもタイトルはすごく気に入っていたので、ずっと気になっていた詞なんです。それで3枚目のときに大澤は曲作りに行き詰まっていたので、「人にあげて返された曲とかないの?」と訊いたら、「ある」って聴かせてくれたのが「凍てついたラリー」という詞がついた曲で、この曲を聴いたときに「これ、最後の部分に”そして僕は途方に暮れる”ってそのまま入らない?」って言ったんですよ。



−−そのフレーズがピッタリはまったんですか?



木崎:ちょうど入るんですよ。それでこの曲に合わせてもう一度銀色さんに詞を作り直してもらって、プラス大サビのメロディーも作ってできたのが『そして僕は途方に暮れる』です。この曲をエピックの会議室みたいな部屋で、大澤がアコースティックギター一本で歌ってくれたときにジーンときたのをよく憶えています。



−−それは素敵なエピソードですね。



木崎:実は、元の曲はフォークソングみたいで、あんなに格好良くはなかったんですよ。それをあの頃ちょっと流行っていたポリスの『見つめていたい』とか、トンプソン・ツインズの『ホールド・ミー・ナウ』とか、コードが変わっても上の音の積み重ねがあまり動かない感じというか、そういったアレンジに大村(雅朗)さんがしてくれたら、すごく格好良い曲になってね。それとカップヌードルのCMの映像も良かったですしね。でも、こんな良心的な曲はシングルでは売れないよな…とも思っていたんですが、売れたときに「やっぱり良い曲は売れるんだな」と再認識しました。



−−でも、埋もれていた曲を蘇らせたのは木崎さんですからね。



木崎:どうなんですかね。その頃「人に作ったんだけど返されて、自分で歌ったらヒットした曲」を色々と聴かされていて、やはり人に作った方が気取らずに書けるんだなと思っていてね。自分が歌うとなるとどこか格好つけて、気取った感じになってしまうことも多いんですよね。



−−力が入りすぎてしまうと。



木崎:「良いところを見せよう」と思ってしまうと言いますかね。人に作るときは自分が歌うわけじゃないから、リラックスして作れるんでしょうね。そこに本音が見えるんですよね。

 

 

6. 故 渡辺晋氏の引力から解き放たれて〜フリーの音楽プロデューサーへ

 

 

−−’86年に渡辺音楽出版を退社されてフリーになられていますね。



木崎:それまで音楽は好きでしたけど、音楽で何をやったらいいかとか、どういうものをやりたいのか、とかあまりなくて、どんな音楽でもヒット曲にできるよみたいな感じで仕事をしていたんですよ(笑)。なにせトップ20が好きでしたから。



−−そもそも当時はプロデューサーという言葉自体あまり使われていなかったですよね。制作をやっているというイメージしかないと言いますか。



木崎:そうですね。それで辞めるきっかけは、自分が音楽で何をするのかがはっきりしたからと、渡辺音楽出版にいてこの先どうなったらいいのかも分からなかったですし、好きな音楽を、音楽をやり始めたときの気持ちでもう一回やりたいなと思ったからなんですね。会社を辞める人によく言うのが「嫌だから辞める」は止めておいたほうがいいよと。「これをやりたいから辞める」だったらいいんじゃないかとね。離婚する人にも同じこと言うんですけどね(笑)。



−−(笑)。



木崎:嫌なものなんて、何をやっても一杯あるし、何事も「嫌だから辞める」は止めた方がいいと思いますね。



−−具体的にフリーになってやりたかったこととは何だったんですか?



木崎:そのときに思っていたのが「ビルボードでヒットを出したい」ということです(笑)。それで歌手は日本人じゃ駄目だと思って、「オーストラリア人でやれば、アメリカでヒットするかもしれない」という気持ちがあったんですが、美佐さんとお話しても会社を辞める結論が出ないまま、晋さんに呼ばれて、社長室に入ったらいきなり「明日からフリーで沢田研二と大澤誉志幸と吉川晃司をやること。あとは好きにしていい」と言われたんですよ(笑)。



−−いきなりですか(笑)。



木崎:僕もアーティストたちに対して何て言ったらいいか、後ろめたさはありましたし、辞めたら彼らと仕事はできないと思っていたので、「アーティストとの仕事は今まで通りできるんだ」と思って、「はい!」と即答しました。で、基本給プラス印税みたいな契約で引き続きやることになったんです。



−−それは木崎さんにとって理想的なカタチだったんでしょうか?



木崎:辞めるのは辛いなと思っていましたけど、辞めないといつまで経ってもやりたいことができないとも思っていました。でも、どうしたらいいのかなと思っていたところにそういった提案をいただいたので、「やっぱり渡辺晋さんはすごいな」と思いましたね。何というか迷っているところに不意打ちみたいなね。



−−心の隙間に切り込んできたような感じですよね。



木崎:そうですね。でも、沢田研二、大澤誉志幸、吉川晃司をやっていたら、ほとんど渡辺音楽出版に行くような感じで(笑)、オーストラリアで仕事をやるために現地に家も買ったりしたんですが、結局、全然住めないまま…。現地で色々アーティストを紹介してくれる人もいたんですが。



 その後、渡辺晋さんが亡くなってから急に周りの環境が変わりました。吉川は布袋君とCOMPLEXを結成して布袋君がプロデュース、大澤とはその前に方向性と言いますか、今後のアルバムの作り方で意見が分かれて、大澤は自分でプロデュースをやると。沢田研二は僕もすごく煮詰まっていて、大輪さんという人がマネージャーに入ってきた頃には「自分に出来ることないな」と思うようになって、プロデュースを止めたんですよ。



−−そういったことが、晋さんが亡くなった後に起こったんですか…。



木崎:一気にね。何だかよく分からないんですが、不思議な引力みたいなものが晋さんにはあったんですかね。そこで僕は解き放たれて、その後、安藤秀樹君とかやっていたんですが、それもなくなったときくらいに、折田(育造)さんに呼ばれて、槇原敬之をやるようになったんです。



−−そこからは本格的にフリーとしてのお仕事になりますね。



木崎:自分は会社とかを持つと自由にできないなと思っていて、全くのフリーでやっていました。でも、あるときに「会社にした方が仕事しやすい」ということが分かって、名刺を作って会社でもないのに”ブリッジ”とそこに書いておいたら、それだけでもちょっと人の見る目が違う気がしました。


 あと、その頃病気をして、入退院を繰り返していたので、体力的にも自分一人でやっていくのは難しいと思いました。なので、右腕となって働いてくれるようなプロデューサーを育てようと思ったんです。面倒だし、クリエイティブな感性が失われるかもしれないと思ったけど、それで会社を作ることにしました。CDを出すにはレコーディングの作業があったりしますが、中学の頃から楽曲を作るのが好きだったので、自分の子供のような曲たちを側に置いておきたいと思い、音楽出版社にしたんです。



−−それでブリッジを本当の会社にしたんですね。



木崎:ええ。それまでは全くのフリーで、何も持たないことが一番いいと思っていました。ものを持っちゃうと縛られちゃう駄目だと思っていましたから。



−−でも、著作権くらいは持っていても…(笑)。



木崎:槇原のときにそういう風にやっていればね(笑)。



−−長年、渡辺音楽出版にいらっしゃったのに、そこに気づかれるのが少し遅くありませんか?(笑)



木崎:そういうビジネス的なことは本当に興味なかったんですよ。詞がどうだの、メロディーがどうだの、歌い方がどうだの、クリエイティブなことしか考えていませんでしたから。それでフリーになって、色々痛い目にもあって、今のスタイルになったんですが、あるときに「フリーのプロデューサーも嫌だな」と思ったんですよ。自分に何の相談もなく急にレコード会社を変えられちゃったり色々あって、「自分ってその程度のものなんだな…」と。それでブリッジでアーティストをやろうと思ったんです。それで自分でアーティストを見つけてこなくちゃと思って、BUMP OF CHICKENとか探したんですよね。

 

 

7. 音楽はファンタジー〜もっとぶっ飛んだことをしよう

 

音楽プロデューサー/ブリッジ代表 木崎賢治氏

−−BUMP OF CHICKENはどうやって探したんですか?



木崎:うちの村木というのがイベントをやっていて、そこにデビュー前のトライセラトップスが出たりしていたんですが、BUMP OF CHICKENもその中の1組だったんです。僕は体調が悪くてそのときはトライセラのライブだけ観たんですが、「元気な男の子たちがいるな」とBUMP OF CHICKENのことも気になっていたんです。それで後で音を聴いたらすごく良くてね。



−−相当早い段階から目を付けていらっしゃったんですね。



木崎:早くしないと大きいレコード会社とかに獲られちゃいますからね。みんながいいと言ったときにやっていたら遅いという感覚はありますね。何か先が見える、描けることが大切なんじゃないかなと思うんですよね。そのアーティストを見たときに、その等身大が見えていたら駄目でね。



−−将棋の十手先まで読めるかどうか、みたいな感じですね。



木崎:そうですね。将棋は全く読めないですけどね。一手先しか(笑)。



−−(笑)。



木崎:何でもイマジネーションがすごく大切ですよね。服でもコーディネーションによる全体像が重要なように。IKEAに行くと寝室とかコーディネートされた部屋が置いてあって、一般のお客さんはそこでイメージが掴めると思うんですが、音楽もそうだと思うんですよね。だから、ライブを観ていいと思える人は、そこから先を想像できる人で、そこにあるものはジーンズ一本だけだったりするのかもしれませんが、そこにどういうTシャツを着せるか、なんですよね。



−−目の前の素材に何を組み合わせるかを考える…。



木崎:今まで組み合わせなかったものを組み合わせる能力と言いますか、それだけでも大変なんだと思うんですけどね。僕が初めてビリー・ジョエルを観たときに「こんなにエンターテイメントするシンガーソングライターって初めて観た」と思いましたが、それ以上に印象的だったのが服だったんです。そのときの彼の、ジーンズにツイードのジャケット、足元はスニーカーという組み合わせは、それ以前にあまり観たことがなかったんです。ツイードのジャケットだったらグレーのウールのパンツを履いて、革靴履いてみたいな時代でしたからね。ジーンズとジャケットを組み合わせるのは、僕にとってそのときが初めてでしたね。



 今ですとジーンズにタキシード組み合わせたり、ジャケットの外側にベスト着たりとか、あるものの組み合わせを今までと違う組み合わせにする。それだけでも難しいと思うんですよね。今やっている音楽なんて基本的には、アメリカのポップスとかから受け継がれてきたものじゃないですか? でもそこに日本語に詞を組み合わせただけでも新しいし、ちょっとしたことで新しさって出てくるんですね。僕は服が好きで色々着ましたけど、結局アイビー・ファッションが色々と変わっているだけなんですよね。



−−そういった新しい組み合わせを最初に実践するには、時代の空気を読む必要もありますよね。



木崎:サウンドは洋服と似ているなと思うんですよね。サウンドだけは服と同じで流行があって、そこに流れるリズムだけは新しくなっていく。上物は古いものを取り入れたりしていますけど、グルーヴは昔に帰るということはなくて、昔っぽいリズムもありますが、でも何かノリが違うんですよね。あと、詞も新しくなっていきますね。それは生き方、考え方が違ってくるからで、20年前のやさしさと今のやさしさは違うとか、時代によって変化していくものですね。



−−BUMP OF CHICKENとか若いアーティストたちに対して、木崎さんはどのように接しているんですか?



木崎:彼らはほとんど自分たちでできる素晴らしいアーティストなので、世の中とどれだけズレているとか、ズレていないとか、また、どこまで調節できるのか、できないのか。できないなりにどこにフォーカスしていったらいいのか、そのへんを一緒に考えます。あと10年、20年続けていくにはどうすればいいのかとかね。



−−今、音楽業界が低迷していて、何をどうすればいいのかわからなくなっている人も多いと思うんですが、今後、どういった方向に進むべきだと思われますか?



木崎:音楽自体は元気ですが、音楽業界にお金が入ってこない。だからビジネスとしてのやり方を考えるべきなんですが、それは僕の苦手なところなんですよね(笑)。知り合いに、CDなどの音源もお客さんからお金をとらないで、他から取ることを考えている人もいますね。CDの値段を半額くらいにして、その分広告スポンサーとタイアップするとかね。その人は、「やり方は考えればいくらでもあるんだよ」と言っていました。



−−確かに発想の転換が必要ですよね。



木崎:あと、昔は音楽がすごく語られたけど、今は語られなくなってしまって、マニアックな人が少なくなっちゃったんですね。今はアーティストもあまり語らない、ライターも語らない、あるいは読むところがなくなってしまった。マニアックな人が出てこないと、音楽を好きになってもらえない。それに、若い人の中ではCDを買うとかコンサートを観に行くことがライフスタイルになっていないんじゃないかなと感じます。



 ただ、それは作る人たちの責任もあると思います。先ほども例に出しましたが、IKEAとかに行って、ダイニングルームや寝室、キッチンなどいっぱい並んでいるじゃないですか。あれを見て、初めて「こういうのいいな」と思うんですよね。単体で置いてもイメージが湧かないんですよ。ファッションだったらコーディネートを教えるような雑誌がいっぱいあって、それを見て服を買いに行く。音楽もそういう方法で見せないと伝わらないところがあると思います。ただ、服は「格好いい服を着てないとモテない」とか、着ることによって自分が得することがすごくわかりやすいんですよ。音楽にはわかりやすいメリットがないから参加しにくいんですよね。



−−確かに音楽は利する部分が分かりづらいですよね。



木崎:それと最近もう一つ思っているのが、音楽はやっぱりファンタジーじゃないかなということなんです。今、夢のある、現実を逃避できるような音楽がないから、アニメやディズニーランドとかそういうものに負けているのかもしれないと。アーティストでもAKB48とかのほうが、多分ファンタジーがあるんだと思いますよ。握手できるとか、そういうワクワクするようなことが。



 例えば、市民ランナーがオリンピックに出るのはすごいファンタジーですし、早稲田大学のソフトボール部から日本ハムファイターズに入団するとか、さらに一軍で大活躍してくれたらすごいですよ。それはリアルな世界ですが、映画とか音楽はフィクションだから、僕らはそれを嘘で書けるわけですよ。誰もやってないことをやって「もしかしたら何か起こるかも」と期待させる。考えているときは笑っちゃうようなことを真面目にやれば嘘でもいいし、大嘘をつかなくちゃいけないんじゃないかなと思うんですね。嘘をつけなくなっているから今の音楽業界は、リアルなスポーツに負けちゃうんじゃないかなと思いますね。



−−考えてみれば、ジュリーだって、ピンク・レディーだってとてつもないファンタジーというか大嘘の世界ですよね。



木崎:ボブ・ディランだってなんだってそうだと思います。今はちょっと生真面目過ぎちゃうのが良くないですよね。マイケル・ジャクソンが映画『THIS IS IT』内で「みんなを驚かせようよ! みんなが見たこともないようなことをやろうよ!」と言った、あの感じですね。アーティストがもっとぶっ飛んだことをやらないと駄目なんじゃないかと思いますね。



−−最後に少しプライベートなこともお伺いしたいのですが、休日は何をして過ごされていますか?



木崎:実はこの歳で子供ができたので世話と観察をしています。男の子の双子で今年3歳になるんですが、子供たちがしゃべる言葉を聞いていると「このくらいシンプルな言葉でも伝わるんだな」と思います。若いときは「子供なんてできたら終わりだ」と思っていたんですけど、子供を見ていてまたちょっとクリエイティブになるんですよね。すごく刺激されています。



−−お子さんからの刺激が、木崎さんが現役でお仕事できる秘密なのかもしれませんね(笑)。本日はお忙しい中ありがとうございました。これからも木崎さんの送り出す音楽を楽しみにしています。m.gif

 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

錚々たるアーティスト、作家陣とともに、昭和を代表するヒット曲の数々をプロデュースされた木崎さんは、どこまでも自然体で、柔らかい語り口がとても印象的でした。「小さい頃から根気強いから」「どんな音楽でもヒット曲にできるよみたいな感じで仕事をしていた」とサラリとおっしゃる木崎さんですが、各方面からの主張を集約しつつ、プロデューサーとしてのイメージに音を近づける作業が、いかにタフな作業であり、集中力を要するものか、木崎さんのお話からもその一端は充分に感じられました。また、近年ではBUMP OF CHICKENも手掛ける木崎さんの柔軟な感性にも驚かされました。今後、木崎さんがどんな音楽を送り出してくれるのか本当に楽しみです。