第100回 高久 光雄 氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

2011年12月5日 21:15
第100回 高久 光雄 氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

 

2000年からスタートした「Musicman's RELAY」がついに100回を迎えました。そして、記念すべき100回目の今回、満を持してご出演していただくのは、斉藤正明さんからのご紹介で、ドリーミュージック取締役相談役 高久光雄さんです。日本コロムビアやCBSソニーでは洋楽・邦楽を股にかけて花形ディレクターとして活躍。日本人の琴線に触れる洋楽を発掘しヒット曲を生み出し、また、ミシェル・ポルナレフや矢沢永吉、南佳孝など数々のアーティストをヒットに導きました。その後、経営者としてもキティの立て直しやユニバーサル インターナショナルの設立、ドリーミュージックの躍進にもその力を発揮されました。とにかく幅広い経験をお持ちの高久さんにご自身のキャリアのお話から、音楽業界の今後、また若い音楽業界人に対するアドバイスまでじっくり伺いました。

 

[2011年10月25日 / 渋谷区神宮前 (株)ドリーミュージック・にて]

 

プロフィール
高久 光雄(たかく・みつお)
株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役


1946年3月31日生まれ
1968年 日本コロムビア(株)(現コロムビアミュージックエンタテインメント(株))入社
1971年 (株)CBS・ソニー(現(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社
1995年 (株)キティ・エンタープライズ(現ユニバーサルミュージック(合))代表取締役社長
      その後ユニバーサルインターナショナル 社長
2001年 (株)ユーズミュージック 顧問
2002年 同社 取締役副社長
2005年 同社 取締役 新規事業開発担当兼新人開発担当
2006年 (株)ドリーミュージック 代表取締役社長兼CEO
2007年 (株)ドリーミュージックアーティストマネージメント 代表取締役社長
2011年 (株)ドリーミュージック 取締役相談役(10月1日付 就任)


 

1. 毎日SP盤を聴いていた幼少時代

 

−−高久さんは10月1日付で社長を退任されて相談役になられていますが、そのことで肩の荷が下りた部分もありますか?

 

高久:そうですね。10月1日から経営を五十嵐(ドリーミュージック代表取締役社長 五十嵐弘之氏)と宮澤(ドリーミュージック専務執行役員 宮澤憲夫氏)に替わり、全部お任せしました。ただ、業界での人脈面などの部分はアドバイスしています。

 

−−相談役になられてからも毎日出勤されているのですか?

 

高久:はい。常勤ですから。仕事は新しくなった経営陣のフォローです。

 

−−前回ご登場頂いたビクターの斉藤正明さんとはいつ頃出会われたんですか?

 

高久:最初に会ったのは、斉藤さんが東芝EMIの洋楽部長になられたときだと思います。それまで彼はどちらかというと管理的な仕事をしていましたからね。でも、彼は非常に頭の回転のいい人で「面白いな」と思ったんですよね。数年前から一緒に箱根の九頭龍神社へ行ったりしています。今は縁結びの神社になっているらしいですが、以前は金儲けの神社で(笑)、「オリコン1位お願いします!」とか下世話なお願いをしに行っていたんですよ(笑)。

 

−−ちなみにお金は儲かりましたか?(笑)

 

高久:いやあ、会社は儲けたんじゃないですか?(笑)

 

−−(笑)。ここからは高久さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらですか?

 

高久:東京の大森山王です。

 

−−どんな幼少期を過ごされていたんですか?

 

高久:結構、虚弱体質で生まれたものですから、外ではしゃぐような子供ではなくて、どちらかというと内向的な子供でしたね。朝ご飯を食べてから親父の書斎に行って、童謡のSP盤が10枚くらいあったので、それをかけて聴いていました。SP盤ってずっとかけていくと針がレーベル部分をグシャグシャにするんですよね(笑)。そのレーベルの汚れ具合、痛み具合で曲を判別していました。まだ文字も読めない年齢でしたから。

 

−−お父様は何のお仕事をされていたんですか?

 

高久:親父は音楽家でした。マンドリンとギターを弾いていて、コロムビアやキングからSP盤を一杯出していました。「高久肇とコロムビア・マンドリン・オーケストラ」とかね。

 

−−お父様はポピュラーミュージックを演奏されていたんですか?

 

高久:そうですね。ただ、親父に言わせると「戦前はジャンルがなかった」と言うんですよね。クラシックの人もポップスの人も芸者さんも、あるいは浅草で演劇をやっている人たちも音楽仲間で、みんなで集まって飲んで、演奏していたって話していましたね。

 

−−高久さんご自身も何か楽器をやっていたんですか?

 

高久:体が弱いのに1時間以上電車に乗って新大塚まで行って、先生にマンドリンを習っていました。それで家に帰って親父に「演奏してみろ」と言われて演奏したら「俺と違う」と言って、ひっぱ叩かれたりね(笑)。

 

−−でも、お父さんは直接教えてくれない?

 

高久:教えてくれないですね。で、「俺と違う」とひっぱ叩くんですよ(笑)。

 

−−(笑)。小さい頃は東京もまだ戦争の爪痕が残っていましたか?

 

高久:残っていましたね。西麻布って昔、霞町と言われていて、都電が品川まで走っていたんですね。それで青山に母の実家があったので、都電に乗って遊びに行くと、西麻布から品川に向かって左側は全部焼け野原でした。あと大森駅前には闇市があったりね。まだ、戦争から立ち直れていない感じでしたね。

 

−−高久さんは「3月31日生まれ」ということですが、暦通り小学校に入学されたんですか?

 

高久:ええ。だから体が一番小さくてね(笑)。小学生のときに1年違うって体格とかすごい違いなんですよね。

 

−−そういう影響は結構あとまで残りますよね。

 

高久:そうですね。高校ぐらいまでは引きずりましたね。でも、ベビーブームに巻き込まれなかったのはすごくラッキーだったと思います。ベビーブームって試験の競争が激しいとか、クラスが沢山あるとかそういうことだけではなくて、先生の教育自体違いますからね。CBS・ソニーにベビーブーマーの新入社員が入ってきたときに「こいつら全然発想が違う」と思いました。社員旅行へ行くとなったときも「なんで行かなくちゃならないんですか?」とか「日当は出るんですか?」と言う若い奴がたくさんいて…(笑)、すごい断絶がありました。

 

−−わずか2年くらいの違いですけどね。

 

高久:ええ。でも、その2年の差が大きかったんですね。

 

 

2. 「ビジネス+音楽」=「ディレクター」という仕事〜ヒット曲作りに邁進

 

高久光雄氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

−−中学・高校時代はどのような少年でしたか?

 

高久:変な話ですが、小中高大と「ここは僕の居場所じゃないな…」と思って日々過ごしていたんですよ(笑)。だから学校にずっといたいとも思わなかったですし、この業界に入ったときに「俺の居場所はここだ!」と思いましたね(笑)。それを確認してくれたのは、最初の友人石坂君(ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役会長兼CEO 石坂敬一氏)、堤両君でした。

 

−−(笑)。お子さんの頃マンドリンを習われていたとおっしゃっていましたが、その後、音楽との接点は何かありましたか?

 

高久:子供の頃に習っていたマンドリンは親父が怖くて止めて、その後、大学に入ってからスタンダード・ヴォーカルを習っていました。歌は小学校に入る前から習っていました。



 家は祖父が実業家で親父は音楽家だったので、「ビジネスと音楽、両方やれる仕事はないかな?」と大学三年くらいで思ったんですね。それでたまたま平凡パンチを見ていたら「ディレクター」という仕事が紹介されていて、それがコロムビアの泉(明良)さんだったんですが、「こういう商売があるんだ」と思いましてね。

 

−−ちなみに大学はどちらだったんですか?

 

高久:明治学院です。音楽業界には明治学院出身って本当に多いんですよ。就活はコロムビア、ビクター、キング、クラウンに行ったんですが、クラウンには「うちは入社試験をやったことがない」と断られたので、結局コロムビア、ビクター、キングの3社を受けました。

 

−−試験の結果はどうだったんですか?

 

高久:ビクターは1次受かって、2次面接でケンカして止めました。

 

−−何でケンカしたんですか?(笑)

 

高久:工場長みたいな人と面接するので全然音楽的な話をしないわけです。それで「こりゃ駄目だな」と思って…(笑)。コロムビアも1次が通って2次面接のときに「今度こそクリエイティブな話をしよう」と思って、「こんなに膨大なカタログがあるのに全然利用していないのはなぜですか?」と訊いたんです。「例えば、長唄のレコードを桐の箱に入れて売るとか、そういうことをしたらどうですか?」って言ったら「うーん」って(笑)。結局コロムビアは受かりました。ちなみに面接での提案は後に商品化されたんですけどね(笑)。

 

−−それはすごいですね(笑)。ビクターではケンカしてしまって、コロムビアは受かって、キングはどうだったんですか?

 

高久:キングも受かっていたんですが、その前にコロムビアが受かっていたんですよ。ただ、コロムビアは学校推薦だったので辞退すると来年から推薦が来なくなっちゃいますから、キングには必死に謝って辞退させてもらいました。「なんでうちに来ないの?」ってすごく引き留められたんですけどね。

 

−−当時からレコードメーカーのディレクターというのは倍率の高い花形の役職だったんですか?

 

高久:今よりも倍率高いでしょうね。コロムビアのときは入社した100人の内、音楽に行けたのが4人くらいで、僕は営業所に行きました。みんなレコード会社に入りたくてコロムビアに行ったり、ビクターに行ったりしたのに、ほとんどの人間が夢破れてカラーテレビとかステレオのセールスマンにさせられてしまいます。現在でも2〜3%しか生き残れないと思います。

 

−−当時は電機も音楽も同じ採用だったんですか?

 

高久:そうです。どこに行くかは会社側で決める。あのときかわいそうだったのは、慶応とか早稲田とか将来社長になるだろうと思うくらい優秀な人が電機の配属になって、腐って辞めていくということでした。

 

−−営業所でのお仕事はいかがでしたか?

 

高久:営業所の中では結構真面目に仕事していました。僕が押して当たったものも多かったですね。ヤクザに脅されながらキャンペーンをやったときもありましたし、酔っ払ったお相撲さんに絡まれて恐い思いしたり(笑)、本当に色々やりましたね。

 

−−高久さんはそれから割と早めに本社へ戻られたんですか?

 

高久:そうですね、1年後でした。洋楽宣伝に移ったんですが、当時、CBSのアドバンスが高く、「CJ」というコロムビアではなくCBSのレーベルで邦楽も作っていて、そこに泉さんや渥美さんがいました。

 

−−どんな邦楽アーティストがいたんですか?

 

高久:ブルー・コメッツ、いしだあゆみ、佐川満男、ズー・ニー・ヴー、ヴィレッジ・シンガーズなどですね。コロムビア入社から半年でCBSとの契約が切れて、CBSソニーができたんですが、CJという組織は残っていました。僕は洋楽のプロモーションをやりつつ、邦楽のプロモーションも斜めで見られたので本当に勉強になりました。

 

−−結局コロムビアには何年いらっしゃったんですか?

 

高久:セールスが1年、宣伝が1年、それから洋楽で1年3ヶ月、計3年3ヶ月です。当時、CBS/コロムビアのレーベルがなくなったので、アメリカ、イギリス、フランス、ヨーロッパなどのインディーズレーベルの中からシングルヒットを探していました。倉庫に行って昔のシングル盤を出してきて、A面とB面を全部聴いて、売れそうな曲を見つけては売るんですね。だから「ビルボードで1位!」とか「キャッシュボックスで1位!」といったような売り文句のプロモーションはできませんでした。でも、当時スタートしたラジオの深夜番組、例えば、「オールナイトニッポン」などで曲がかかるとシングルヒットしたんですよ。

 

−−たとえ「アメリカのビルボード1位」じゃなくても、曲がラジオでかかるとヒットすると。

 

高久:そうです。日本の洋楽というのは、ビルボードで1位だからかけるのではなくて、日本人に合う曲がかかり、そして当たる。日本の洋楽は元々そうでした。だから、アダモが売れたり、あるいは当時はヨーロッパ、特にフランス映画が日本では人気だったので、サントラにまつわるシングル盤もよく売れました。楽曲の幅がすごく広かったですね。

 

−−確かに幅が広かったですよね。英語圏はもちろんフランス、イタリア、色々ありました。私もシルヴィ・ヴァルタンとか、ジリオラ・チンクェッティとか聴いていました(笑)。

 

高久:そうそう(笑)。僕はアメリカのインディーズ盤のブッダ・レコード、カーマ・スートラ・レコードと契約して、1910フルーツガム・カンパニーの『トレイン』、ルー・クリスティの『魔法』などを手掛けました。『魔法』はアメリカではもともとB面の曲なんですけどね。

 

−−日本人に合う曲を探し当てたんですね。

 

高久:勝手にジャケットを作って、マスターは盤起こしですよ。シングル盤をキレイにして針を落として、それからテープレコーダーに録音するんです(笑)。

 

−−盤起こしでやっていたんですか…(笑)。今だから言える話ですね。

 

高久:当時はそういうことをやっていました。メジャーレーベルは一つもない中、僕はシングルヒットを作っていたので、他の洋楽仲間には負けないという自負がありました。ただ、それだとアルバムはどうしても勝てないんですよね。

 

 

3. ミッシェル・ポルナレフ『シェリーに口づけ』が大ヒット

 

高久光雄氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

−−その頃で印象に残っているアーティストは誰ですか?

 

高久:やはりミッシェル・ポルナレフですね。実は大学4年生のときに従兄弟がソルボンヌ大学へ留学して、向こうでEP盤をたくさん買って帰ってきたのでそれを聴かせてもらったんですが、その中にミッシェル・ポルナレフのEP盤があったんですよ。

 

−−そのときからすでに名前を知っていたんですね。

 

高久:そうです。日本コロムビアがDisc AZと契約して、ポルナレフの権利を獲ったんですね。「これで出せるかな」と思ったらCBSソニーからクレームが入ったんです。聞けば、インターナショナルの権利はCBSソニーが買ったと。

 

−−CBSソニーに移られたのはちょうどその頃ですか?

 

高久:ええ。ですからソニーの大賀さんに「うちに来ないか?」と誘われたときに、「ポルナレフをやらせてくれるのであれば」と条件を出したんです。それから「僕はCBSソニーができる前からこのビジネスをやっているので、チーム扱いせずに1つ上の給料を欲しい」と。かなり生意気な条件を大賀さんへ出して、CBSソニーに入りました。

 

−−それが社会人4年目くらいの頃ですね。

 

高久:そうですね。CBSソニー創立3周年記念で、堤君のリーダーシップの元でエピックソニーレーベルを立ち上げました。そのときに高橋裕二がチェイスの『黒い炎』、菅野ヘッケルがアル・スチュアート、僕がミッシェル・ポルナレフの『シェリーに口づけ』と3作品リリースしました。実は『シェリーに口づけ』って前にもソニーでリリースしていたんですよ。

 

−−2回目の発売だったんですか?

 

高久:2回目か3回目なんです。どうやら前のは、タイトルが悪くて売れなかったようなんですね。それで僕が『シェリーに口づけ』というタイトルを付けて、ジャケットも変更して、再リリースしたんですよ。

 

−−ちなみに元のタイトルの意味はどういうものだったんですか?

 

高久:「可愛い君のために」とか、そんな意味だったと思います。ほとんどの日本人はフランス語がわからないですが、フランスの音楽が好きな人は多いので、そういう日本人に向けてタイトルをどうリライトするかを考えるのがディレクターの大切な仕事だと考えたんです。今までのフランス音楽担当はフランス語が分かる。そのメリットをデメリットにしようと。『シェリーに口づけ』は、冒頭の「Tout, Tout Pour Ma Cherie Ma Cherie」の「Tout, Tout」がキスの音に聞こえるから『シェリーに口づけ』というタイトルにしたんですよ。

 

−−『シェリーに口づけ』は売れましたよね。高久さんはそれで一躍花形ディレクターになられました。

 

高久:キングとかフィリップスで本来のフレンチポップスをやっていたベテランディレクターは僕のことが大嫌いでした。「あいつが全部ぶちこわした」と(笑)。

 

−−(笑)。

 

高久:タイトルとかマーケティングに対して、当時はもっとアンテナが広かった気がするんですよ。当時テレビを観ていると「銀河」とか「霧ヶ峰」とか、漢字2、3文字の電化製品がすごく多かったんです。だから、ルー・クリスティの『She Sold Me Magic』の邦題を、ただの『魔法』にしたんです。その方が、インパクトが強いと思ってね。それでこれを年末の一押しにすると言ったら、会社が「金を出してやる」と言うんですよ。「いくら出してくれるんですか?」と訊いたら「5万円」(笑)。たった5万円じゃスポットも打てないんですよね。


 それで色々考えまして、当時「オールナイト・ニッポン」のアナウンサーたちが昼間によくパチンコ屋に行っていたんですが、そのパチンコ屋の入り口に小さい看板があって、そこを買ってもらったんです。それ以外は、プロモーションでチラシを配るだけで何もしなかった。そうしたらアナウンサーたちが「高久ちゃん、力入っているね、あんなところまで広告打ってるじゃん」って(笑)。

 

−−パチンコ屋の入り口にまで広告出すなんて頑張っているじゃないかと(笑)。

 

高久:そうです(笑)。ステーションの人たちは自分の放送局しか聴かないし、ほとんど局に入りっぱなしだからテレビも新聞もあんまり見ないんですね。だから、周りの状況がわからないんですよ。会社に行ったら僕がプロモーションしていてうるさいし、パチンコ屋に逃げたら広告があるし、たった5万円で「これはすごいな」と思わせることができたわけです(笑)。

 

−−本当にアイディア勝負ですね。

 

高久:当時、洋楽には時系列のプロモーションプランがありましたが、邦楽はなかったんです。なぜなら、洋楽は本人が日本にいないし、すぐにコンサートをするわけでもないですからね。要するに、アイディアとイメージとマーケティングでプロモーションをしていたわけです。

 

−−そういった状況の中で高久さん独自のプランを開発していったわけですね。

 

高久:ええ。そのうちに洋楽のアーティストがつまらないものを作ってくるようになったんですよ。せっかくイメージを作り込んだのに、それをぶち壊すような作品を送ってくる。「これじゃあ、やってられないな」と思って、自分で作品作りから関わったら気が済むだろうということで邦楽に行ったんですよ。

 

 

4. 何もないところにビジネスの素を作る〜日本のロック、シティミュージック、ニューエイジ

 

高久光雄氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

−−結局、洋楽には何年いらっしゃったんですか?

 

高久:洋楽と邦楽と経営が僕のレコード人生の中で丁度1/3ずつなんですよ。29歳のときに、次の10年の計画をスタートさせて、邦楽に移りました。そのときもラッキーで、ニューミュージックという言葉が生まれた時期なんですね。ソニーの中でも「もうこれは歌謡曲の担当がやるべきじゃない」ということで3部というのを新たに作って、1部洋楽、2部邦楽、3部ニューミュージックの3部体制になりました。

 

−−洋楽の担当者は会社の枠を越えて交流があったじゃないですか。邦楽にはそういうのがなかったように見えたんですが、ニューミュージックのときは各社歩調が合ったんでしょうか。

 

高久:そうですね。フォークはフォーク、ロックはロックで分かれていましたけれど、ニューミュージックというくくりで助け合いました。僕は言葉とか叙情的というよりは、ロックとか都会の音楽とか、そういう音楽をやりたかったので、最初にやったのが矢沢永吉です。マーケティングプランを見せて、彼がどういう位置にあるのかをピラミッドで書いて、全部説明して、それで「うちでやりませんか?」という話をしたんですよ。条件は一番うちが悪かったと思います。でも彼はクレバーだから「やろう」って言ってくれたんですよ。

 

−−矢沢永吉の次は南佳孝を担当されていますね。

 

高久:南佳孝の場合は、「子供のときから聴いてきた色んな洋楽を、俺たちで東京の音楽として作ってみたい。俺たちのボサノヴァは俺たちにしかできない」ということで、「シティミュージック」というコンセプトを作ったんです。コンセプトを作るのは洋楽時代からやっていたことなので得意なんですよね(笑)。ただ、当時はデビューするために歌謡曲というゲートをくぐって、あるいはフォークというレースに乗って、それで当たらないと自分の世界というものが作れなかったんです。「そんなのおかしいだろう」と思っていました。

 

−−だからこそ高久さんは独自のコンセプトを立ち上げられたんですね。

 

高久:ただ、あまりにも生意気だったので飛ばされてしまって(笑)、エピックソニーの洋楽へ異動して、エピックインターナショナルというレーベルを作ることになりました。そこでアメリカやイギリス以外のポップスをやることになりまして、見つけたのがNENAの『99 Luftballons』(邦題「ロックバルーンは99」)です。それでNENAのメッセージを録りに、ソニーのテープレコーダーを抱えてドイツへ飛んだんですよ。ベルリンにはまだ壁があった時代です。



 彼女に「ナンバーワン、アリガトウ!」というコメントを録りたいと伝えると「まだナンバーワンは獲ってない」と言ったので、「絶対にナンバーワンになるから心配するな」と説得して(笑)、そのままコメントを録りました。

 

−−結果が出る前にコメントを録ったんですか(笑)。すごいですね。結局ナンバーワンにはなったんですか?

 

高久:もちろんなりましたよ。

 

−−素晴らしい(笑)。

 

高久:しかも、地方のプロモーションをする際に制約があって、札幌、東北、名古屋、大阪、広島、福岡、この6ヶ所の営業所の洋楽プロモーターを使えなかったんです。なので、自分たちだけでまわり、結果、全国で1位を取ることができたんですが、一時、地方のプロモーターを使わずに東京の人間だけで全国1位を取ったことが問題になりました。地方のプロモーターの存在意義が…って(笑)。プロモーターを初めて2〜3年の人と比べれば、僕の方が大勢の人を知っているので、当然のことながら負けません(笑)。その後、伊藤潔というジャズのプロデューサーが「日本発の洋楽ジャズをやりたい」ということで、スティーヴ・ガッドやガッド・ギャング、ナンシー・ウィルソンなどのジャズアーティストを扱うレーベルをエピックの中に作りました。

 

−−それはエピックインターナショナルとは別に、ですか?

 

高久:はい。別レーベルです。「A Touch」という名でガッド・ギャングがサントリーホワイトのCMに出演するんですが、人に言えないハードなネゴシエーションをしました(笑)。

 

−−高久さんはそういうの得意そうですよね(笑)。

 

高久:(笑)。それでサントリーさんが用意してくれたのが、一番スポットの多いサントリーホワイトだったんですよ。結果、アルバムが10万枚は売れたんじゃないでしょうか。その後、第3部のレーベルを作ることになって、そこには細野晴臣、上々颱風、GONTITI、クライズラー&カンパニー、古澤巌、アンドレ・ギャニオンといった、ノンジャンルでワールドオンリーなものばかりを集めました。これが原点となって、今の『イマージュ』に行き着いたと思っています。



 それと、アンドレ・ギャニオンというカナダのピアニストが凄くて、何もしなくてもよく売れました。テレビでもすごくかかっていましたね。彼は日本で1度契約が切れていたのを再契約したんですが、そのときにひとつのレコード店が単体で「5,000枚売ってくれ」ということでした。最初のアルバムは『印象物語』というんですが、まず大阪のオフィス街から火がつきました。昼間にオフィスで流れていて癒された人たちが「これは何ですか?」と一斉に問い合わせたんですね。他にも台風のときのNHKとか、昭和天皇がご病気のときにも、アンドレ・ギャニオンが深夜によく流れました。実はアンドレ・ギャニオンとは今でも続いていて、僕は彼の代理人もやっています。

 

−−高久さんが扱われる音楽は本当に幅が広いですよね。

 

高久:僕はフレンチポップス、日本のロック、シティミュージック、ニューエイジもそうですが、何もないところにビジネスの素を作るのがすごく好きなんですよ。

 

 

5. 制作の経験を生かして経営へ

 

高久光雄氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

−−’95年にソニーからキティに移られていますが、きっかけは何だったんですか?

 

高久:理由は2つあって、1つは第3部がノンジャンルでありながら10億の売上を超えて、ひとつ達成感があったんです。もう1つは、あまりにも会社が大きくなりすぎて昔の感覚がなかなか社内で通用しなくなってきました。それでポリグラムへ行った石坂君にA&Mレコードとかアイランド・レコードのような「小さい会社をやりたい」と言ったら「キティやってくれるか?」と言われてやることにしました。やはり会社は50人くらいの規模が好きですね。それより大きくなるとあまり面白くないというか。

 

−−丁度いいサイズかもしれないですね。

 

高久:それで行ってみたら、会社自体が潰れそうなんですよ(笑)。利益が出た月もあったんですが、元役員の引き出しの中から3千万の請求書が出てきて払わないで辞めちゃっていてね(笑)。それを払ったら結局赤字。それでどうにかしなきゃまずいなと思って、まず、社員全員を面接したんです。かつてのキティは素晴らしい会社でしたが、当時は辞めたがっている人もたくさんいましたから、そういう人たちには辞めてもらって、頑張っている若い社員をピックアップしたんですね。今、アリオラジャパンのトップをやっている軽部君(軽部重信氏)なんかもそうで、突然宣伝部長にしました。



 あとはアーティストも整理して、本業に関係ないことも全部止めました。社員も1/4に減らしたんですよ。それから人が辞めるごとに、残っている人たちの給料を上げていって、5年後にみんなの給料を倍にしました。最初はコンビニのバイトの時給より安いくらいだったんですが、人数が少なくなっていくにつれて、給料が上がってくるから、みんなもその意味合いがわかってくるんですよ。

 

−−それはわかりやすいですね。

 

高久:あとはアーティストですね。まずザ・ハイロウズを見つけて、次がスガシカオ。そうやって所属アーティストが売れてくるとキティのイメージが良くなってきて、キティ出身スタッフが、「高久さんのおかげでキティにいたって言える」とか「かっこいいと言われる」と言ってくれるようになりました。それまでは恥ずかしくて言えなかったらしいんですね(笑)。



 キティをある程度形にして軽部君に渡したあと、MCAとポリグラムが統合したユニバーサル ミュージックに移りました。ポリドール、マーキュリーはいくら有名だといってもメジャーではないじゃないですか。ところがMCAと統合したことによって、完璧な洋楽メジャーになったので、洋楽部門をユニバーサル インターナショナルという名前にして、M-ON!やMTVにプロモーションビデオをバンバン流して、レーベル・クレジットをUNIVERSAL INTERNATIONALとして、「すごい会社なんだ」というイメージを作ったんですね。

 

−−その後、ユーズミュージックでお仕事をされていますね。

 

高久:そうですね。ユニバーサルを辞めて、キティをやっていたときにUSENと上手くコミュニケーションを取っていたので、ストリートマーケティングに徹してみようということで、ユーズミュージックでは色々なことをやってみたんですよ。「お問い合せチャート」とか、インディーズの音源を集めての着うた配信とかね。そのとき、THE BLUE HEARTSの音源を着うたで独占しました。その次にAqua Timezを見つけて、原盤会社とユーズミュージックと日本テレビで1/3ずつ原盤制作費と宣伝費を負担して、それでスタートしたら、反応はいいんだけど、全然売れなくて。

 

−−最初は売れてなかったんですね。

 

高久:それで、ダイキサウンドの営業部長のところに行って詰めたら、あまりにも多い発売数の中で担当者は出したのすら覚えてない状態だったので、こちらで全部組み立て直して、マーケティングして、それで最終的に100万枚売ったんです。Aqua Timezはサンプル盤も作ってないし、お金がないから地方プロモーションもしてないし、プロモーションビデオも6万円で作ったので、利益としては各自1億円近く儲かったんじゃないかと思います。

 

−−インディーズのやり方をそこでしっかりやったわけですね。

 

高久:当時はみんな「渋谷のタワーレコードで何枚売れたか」とか言っていましたけど、もうそういう音楽じゃないと思ったんですよ。誰が聴くんだと考えたときに、「100万回のラブソング」とか、「100万回好きだよ」とか、東京の人は恥ずかしくて言えないんだけど、田舎じゃ言って欲しいんですよね。

 

−−(笑)。

 

高久:あと、地方の女子社員のライフタイル、高校生がどういう生活をしているのかを考えました。中学生や高校生が学校終わって、盛り場に行ったら補導されるから、イオンのゲームセンターに行く。だから、その時間帯に曲を流して覚え込ませるんですね。そうしたらイオンの中に入っているタワーレコードでたくさん売れたんですよ。また、そういう店にポップを送ると売れているんだから当然飾りますよね。するともっと売れる。



 つまり、売れないところで売ろうとするからお金がかかる。僕はお金がないから売れている店でもっと売ろうと思ったんです。そのうちにタワーレコードの中で「なんでうちでは売れないんだ」って競争が出てきますから。



 あとタワー流通の女性担当者がすごいAqua Timezのファンだったんですよ。それで、みんなにいいと言ってくれていたので、そういう人にディストリビューション渡さなかったら意味ないだろうと思って、タワー流通も始めたんですね。そうしたら年末にダイキの営業部長が「高久さん、年末うちに何枚くれますか」って電話をかけてきて「こういった話、40年ぶりだな」って思いましたね(笑)。

 

−−商品の取り合いですね(笑)。

 

高久:昔はそうだったんですよ。今は流通もしっかりしているしCDのプレスも早いけど、アナログのときは、最後は店が取り合ってましたから。盤はそんなに早くできないし、流通が整ってないし。そうこうしているうちに依田さん(依田 巽氏)に誘われて、ドリーミュージックに行きました。

 

−−ドリーミュージックの代表に就任されたのは2006年ですね。

 

高久:はい。初年度は大変でしたけど、その後は順調に増収増益しました。去年はその前年が売れすぎたので増収とまではいきませんでしたが、いい利益体質になってきましたね。キティのときと違うのは、依田会長のもと、リストラしないで会社を立て直したことですね。今回は人を切らないでなんとか運営したかった。ドリーミュージックはメジャーでありインディー的資質があるのですが、ある程度、社員の絶対数がないとメディアは動かせないんですよね。今はそのぎりぎりのところでやっています。

 

−−つまり無駄な人は一人もいないということですよね。

 

高久:社員教育は大前提ですが。

 

 

6. プロモーションの根本は「何を一番伝えたいのか?」

 

高久光雄氏 株式会社ドリーミュージック・ 取締役相談役

−−高久さんは新しい領域をどんどん開拓されていきますよね。

 

高久:新しいことをやる人は「社内で誰も動いてくれない」と感じることが多いと思いますが、新しいことやるんだったら自分ですべてやれ、と思っています。周りは誰も分かりませんし、動けません。ですから、スタジオから店に並ぶまでのすべてが自分の仕事と思って動かないと誰も分からないんですよ。

 

−−高久さんはアイデアマンである一方、その考えを実現させるためのパワーもすごいですね。

 

高久:ある面でバカである必要があるんだと思います。なかなか動き出せない局面でも動けるのがバカの持っているパワーです。

 

−−まさに「馬鹿力」って言いますものね。

 

高久:そうですよね。またそれに応えるバカもいたんだと思います。海外だったり、メディアだったりにね。

 

−−バカ・ネットワークはあった、と(笑)。

 

高久:はい(笑)。音楽が大好きで大好きでしょうがないとか、騒ぎを起こすのが好きでしょうがないとか、あるいは音楽で何かのシーンを塗り替えたいとか。

 

−−新しい音楽を広めたいとか。

 

高久:そうです。僕はスタジオで最終的にアルバムのミックスをやっているときに大体の映像が浮かぶんですが、これもすべてを自分でやってきたからこそだと思います。

 

−−あと、ここまでお話を伺ってきて、高久さんは常にマーケティングを意識していらっしゃいますよね。

 

高久:まずマーケットを見極めて作っていくということですよね。例えば、テレビのCM1つとっても、そこから紐解いていく。それでお客さんまでリーチしていく。どんな生活をしていて、どんなお金の使い方をしているのか、そこまで読んでいく。この業界の人はそういうことをしないと駄目だと思います。



 でも、今は何でもセントラルになってしまっていますからね。セントラルバイイングですし、メディアもCD大型店だってそうじゃないですか。そうやって経費を減らして合理化した結果、面白さがどこにもなくなっちゃった。だから地方から火が付いたとか、そういう事例がなくなったんですよ。それでは新しいヒットやアーティストは生まれません。もう一回局地戦をしないと駄目だと思います。

 

−−その地方独自のものが出てきたほうが音楽業界も面白くなりますよね。

 

高久:そうですよ。また、これは僕の趣味なんですが、オーディオを極めていくことも必要だと思うんですね。この前「Olive」というメーカーの6HDデジタルミュージック・サーバーを買ったんです。これはハードディスクにCDドライブが付いていて、CDを読み込むとD/A変換で24bit/192kHzになるんですよ。また、HDTracksというアメリカのダウンロードサイトに行くと、キース・ジャレットの24bit/192kHzのハイクオリティの曲が20ドルくらいで買えます。それをダウンロードして聴くんですが素晴らしいです。だからできるだけアーティストやスタッフに「こういう音もあるんだよ」と奥行きのある音楽を聴かせたいと思います。今はコンプレッサーで潰した音ばかりですから。

 

−−今、PCオーディオはかなり注目されていますよね。

 

高久:PCオーディオで現状が救えるかと言ったらそんなことはないと思いますが、音質の頂点を知らせる必要はあると思います。車だってポルシェとフェラーリがなかったらつまらない。また、この業界で培ってきた人間関係とかノウハウとか、教えられるものは元気な間にどんどん教えていきたいんですね。しかし、自分しか持っていない生まれ持ったものは、もっと自分で活かしていきたいとも思っていて、できればもう一回スタジオに戻って音楽を作ってみたいんですよ。

 

−−そういう意欲もまだまだあるんですね。やるとしたらどんな音楽ですか?

 

高久:演歌じゃない大人の歌をやりたいなと思っています。

 

−−大人が聴ける音楽がどんどんなくなっていますものね。

 

高久:あと、アルバム売りが下手になったんじゃないかなと思いますね。今はシングルヒットが何曲入っているかでアルバムを売っているわけです。じゃあ、シングルヒットがなくていいアルバムだったらどうすればいいのか、 そういうときにその作品の魅力を伝えられる能力がレコード会社にあるか、それを受け止めてアルバムを紹介するメディアがあるか、あるいはそれを読んで、聴いて解釈するリスナーを育てているかというと、なかなか厳しいものがあります。



 また、「このアルバムをどう売るのか?」「このアルバムをどうしたらいいのか?」という意識ですよね。さっきあった会話なんですが、「今度のアルバムのデザインはどうなるの?」って訊いたら「ジャケットですか?」と言うから「そうじゃない」と。「アルバム全体のデザインだ」と僕は言ったんですよ。  

 

−−それはグランドデザイン的なことですか?

 

高久:そうです。つまり「何を一番伝えたいのか?」ということです。どんな内容で、誰に伝えたくて、よって代表曲はこれで、それが結果ジャケットになっている。それを受けて展開する独自のプロモーションプランになっているか、それが大切なんです。昔、プロモーション会議で、あまりにプランがつまらなかったのでアタマにきて「プランのアーティスト名を消してみろ」と言ったんですよ。「そこを他のアーティストにしても問題ないじゃないか。何の違いがあるんだ? みんな同じことになるじゃないか」って。何でも駅貼り、有線、TVスポット。全部同じですよ。違うのはお金の差だけです。

 

−−そのアーティストならでは、の作戦がない?

 

高久:ええ。そういうことが考えられる、面白いことが考えられるスタッフじゃなくちゃならないですし、逆にスタッフにインスピレーションを与えられるアーティストがいないと駄目です。「よろしくお願いしまーす」みたいに、丸投げされちゃってもね(笑)。やはり一緒に闘っていく関係にならなくては駄目ですよね。

 

−−なぜ画一化してしまうんでしょうか?

 

高久:それはこの業界だけじゃないと思いますよ。社会全体、国全体、世界全体がそうなってきたというか。ワールドスタンダード、効率化と言われてね。それはあるところまではいいですけど、精度疲労しちゃうと全部壊れる。リーマンショックとか欧州の金融不安とかいい例じゃないですか。そして、どこから手をつけたらいいかわからなくなってしまう(笑)。とにかく、今まで言ってきたようなことをおじさんたちがもっと言わなきゃ駄目なんですよ。

 

−−「うるさい」と思われても言わなくちゃいけない?

 

高久:そうです。何を一番伝えたいのか? その一言でいいんだと。その一言が言えなかったら全く駄目だぞと。売上、利益から考えるのではなく、なぜ、このアーティストをデビューさせるのか、どういったアーティストなのか、といった根本から考える癖を若い人たちにつけさせることは大切だと思います。

 

−−その他に部下や今の若い人たちを見て、何が足りないと思いますか?

 

高久:彼らはお金を使わないし、遊んでないですよね。僕たちは物心ついたときから無駄遣いしているわけですよ。それを栄養にして、色んなものを吸収してきました。だからもっと無駄遣いしたほうがいいんじゃないかなと思いますね。

 

−−遊ぶことも無駄じゃないということですよね。

 

高久:無駄ではないと思うんですけどね。長い時間会社でダラダラしているほうが無駄でしょう? 好奇心が全てをひとつにする。

 

−−でも、給料は上がらないし、年金はもらえるのか分からないし、先行きの見えない状況に若い人たちは萎縮しちゃっているんじゃないですかね。

 

高久:僕は終戦直後の生まれですが、子供のときから日本ってそんなもんですよ。

 

−−国に期待なんかするなと。

 

高久:いや、大切なのは今をどうエンジョイするかですよ。「会社にいれば安心」なんて安心じゃないです。昔、女房とケンカしたときに「あなたのやっていることが仕事なのか、遊びなのか分からない」って言われたんですよ(笑)。そりゃそうですよね。コンサートに行っても、そこで綺麗なお姉さんと僕が勝手に喋っていたり、家に友だちをたくさん連れてきて、話すと車の話ばっかりだったり(笑)。で、あるとき女房が「分かった」と言ったんですよ。「仕事だか遊びだか私には分からないけど、あなたがやっていることは一番あなたらしいことをやっているんだ」と。

 

−−それは素晴らしい言葉ですね。

 

高久:「私はそういう風に考えます」ってね。つまり、みんなが思いっきり自分らしさを出していくことが大切なんじゃないかと僕は思います。

 

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。高久さんの益々のご活躍をお祈りしております。 m.gif

 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

とにかく明るく、パワフルで、バイタリティーに溢れた高久さん。数々の困難を独自のアイディアや工夫で乗り切り、常に結果を出してきた高久さんのお話はどれも説得力があり、聴いているだけでワクワクするものでした。音楽に対する情熱と、アーティストや市場を冷静に分析し、プロモーションを展開するお仕事ぶりはまさにプロであり、氏の実績がそれを証明しています。インタビュー終盤のアドバイスは、音楽に携わる全ての人々にとって、とても参考になるのではないでしょうか。そして、高久さんが今後手掛けたいとおっしゃっていた「大人の音楽」も是非聴いてみたいところです。