第93回 テイ・トウワ 氏 DJ/アーティスト

2010年12月27日 22:00
第93回 テイ・トウワ 氏 DJ/アーティスト

DJ/アーティスト

 

今回の「Musicman's RELAY」はタイクーングラフィックス宮師雄一さん、鈴木直之さんからのご紹介で、DJ/アーティストのテイ・トウワさんのご登場です。テイさんはデザイナーを目指し留学したニューヨークで、ディー・ライト(Deee-Lite)へ参加。’90年に米エレクトラ・レコードよりシングル「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」でデビューすると、いきなり全米4位の大ヒットを記録、各国でゴールド・ディスクを獲得。’94年にアルバム『Future Listening!』でソロ・デビュー以後、活動の拠点を日本に移してからは、オリジナル・アルバム、リミックス・アルバムなど自身の作品を次々とリリースし、同時にDJとして国内外のクラブ、企業イベント、ビッグ・フェスへ出演。さらに楽曲プロデュース、映画音楽制作、CM楽曲制作などのほか、コラボレーション・アイテムのブランディングなど活動は多岐に渡ります。今回のインタビューでは、幼少時代からディーライト時代、そしてソロへ転向してから現在に至るまでお話を伺いました。

 

[2010年12月27日 / 世田谷区代田 サウンドアトリエにて]

 

プロフィール
TOWA TEI(テイ・トウワ)
DJ/アーティスト


DJ、アーティスト。1990年、"ディー・ライト"のメンバーとして米エレクトラよりデビュー。1994年、『Future Listening!』でソロ・デビュー。楽曲プロデュース、映画音楽制作、CM楽曲制作などのほか、コラボレーション・アイテムのブランディングなど活動は多岐に渡る。
DJとしても、東京、京都での「MOTIVATION」、選曲重視の新パーティ「HOTEL H」など人気レギュラー・パーティや、国内外のクラブ、企業イベント、ビッグ・フェスへ出演している。2009年2月リリースの5th.アルバム『BIG FUN』、その制作日記を含む初の単行本『BOOK FUN』をリリース。最新コンピ『MOTIVATION H compiled by DJ TOWA TEI』が絶賛発売中。来年発売予定のニュー・アルバムからの先行シングル「Marvelous with YURICO」(モバゲータウンCM曲)も配信中。
12/1には映像、電子書籍などの配信レーベルMACH (www.machbeat.com)をスタート。12/24に、自身の作品を2人のDJがメガミックスした「TOWA TEI FLASH & BIG FUN MEGAMIX #1 by DJ UPPERCUT」「〜#2 by HOME CUT」をはじめ、それら2音源にENLGHTENMENTが映像をつけた作品、DJ FUMIYAプロデュースによる新人BAKUBAKU DOKIN『DEBUT EP』、INO hidefumiの未発表音源『LIGHT』、計6作品を一挙リリースした。


1. 自分がミュージシャンだとあまり思っていない

 

−−前回ご登場いただきましたタイクーングラフィックスのお二人とはニューヨークで出会われたそうですね。

テイ:そうですね。彼らとは同い年で、僕の当時の彼女、つまり今の妻の友達として知り合いました。クラブでDJを始めたときに二人が遊びに来ていて、よく一緒にご飯を食べたりしていました。彼らが日本に帰ってタイクーングラフィックスを立ち上げて、最初に『id-japan』のアートディレクションを担当したんですが、それを見たときに「本当にデザインができるんだな」と思ったわけです。

−−遊びで出会って、仕事は後で知ったわけですね(笑)。

テイ:出会った頃、彼らは「自称デザイナー」だったので(笑)。その頃、僕はディーライト(Deee-Lite)でデビューしていて、平行してソロアルバムの準備を進めていたんですが、デザインのレイアウトや最後の落とし込みを二人にお願いしたんです。ソロになってからは三人でやることが多いですね。本当に彼らなしでは、という感じです。

−−まるで身内みたいな感じですね。

テイ:本当にそうですね。実際に家族付き合いもしていて、それぞれ年に少なくとも1〜2回は家に泊まりに来ています。

−−本当に仲がよろしいんですね。

テイ:こんなこと言っちゃうと誤解されそうですけど、あまりミュージシャンの友達っていないかなぁ…。

−−そうなんですか?(笑)

テイ:多少ミュージシャンシップはありますけど、自分がミュージシャンだとあまり思っていないので。ミュージシャンというイメージにはずっと憧れているんですけど、カメラマンやデザイナーの友達が多いのを変える必要もないというか、それが自分の特性なのかな? とあるところから気がつきました。

−−ここからはテイさんご自身についてお伺いしたいのですが、どのようなお子さんだったんですか?

テイ:子供のときから一人で何かを作ることが大好きでした。でも、音楽は大嫌いだったんですよ。高校になると芸術の授業が音楽と書道と美術の選択制になるんですが、美術を選んだのに、第二希望を書いたのがクラスで僕しかいなかったので、人数調整で音楽に回されたんですよ(笑)。

−−なぜ音楽が嫌いだったんですか?

テイ:音痴なので(笑)。この業界に20年もいると、さすがに半音の高低といったようなことはわかるようになったんですけど、それと自分が歌うのは別じゃないですか。だから過去のアルバムではほとんど歌ってないですね。

 


2. YMOとの衝撃的出会い

 

 

−−学生時代はどのような音楽を聴いていたんですか?

テイ:中学生のときにYMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が発売されて、駅前のレコード屋の店頭で「ライディーン」のプロモーションビデオが流れていたんですよ。それ観て、雷に打たれたような衝撃を受けました。翌日にはお小遣いを握りしめてレコード屋に『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を買いに走って、家で何回も聴いたんですけど「なんか早いな…」と思って、確認したら当時のポータブルプレーヤーが45回転だったんです。

−−(笑)。

テイ:その頃インベーダーゲームにもはまっていて、暇さえあれば喫茶店とかボーリング場でやっていたんですよ。インベーダーゲームにはすごいお金を使っちゃったんですけど、YMOのファーストアルバムを遡って買ったら、シンセサイザーでインベーダーゲームの音を再現した「コンピューター・ゲーム」という曲が入っていたんですね。そこで「これ聴けば、もうゲームやらなくてもいいや」と思ったんですよ。僕の中でアーケードゲームにお金を払っていたことと、レコードを買って繰り返し聴くことがすでに等価だったんですね。

−−インベーダーゲームの音自体にはまっていたんですね。では初めて買ったアルバムがYMOなんですか?

テイ:いえ、それ以前に「コンボイのテーマ」と「ソウルドラキュラ」等ドーナツ盤を少し持っていました。今考えると両方ともディスコなんですよね。YMOもディスコの要素がありますけど。YMOに出会ってからはみんなに薦めて普及活動に励みまして…とにかくYMOのレコードをすり切れるほど聴いて、彼らが雑誌とかで面白いと言っていたレコードも買って聴いていました。中には歌が入ってない曲もあったので、ベースラインとか、ハイハットのパターンだけを聴くようになって、勉強しながら聴いていました。

−−そういう聴き方していたら自分で作りたくなりますよね。テイさんは16歳くらいから坂本龍一さんの「サウンドストリート」というラジオ番組の投稿コーナーの常連だったそうですが。

テイ:高校1年のときに作ったデモテープが、ローランドの「シンセサイザー・テープ・コンテスト」でアイディア賞を獲ったんですよ。そのときの審査員の方が冨田勲先生で、最優秀賞を取ったのは岩崎工さんでした。それまでは坂本さんに聴いてもらう勇気がなかったんですが、そのコンテストで賞を貰って「もしかしたら番組でかかるかも…」と思っちゃって(笑)。

−−その賞が自信に繋がったんですね。当時、日本では冨田勲さんやYMOがいるくらいで、シンセサイザーを使った音楽の創成期でしたよね。

テイ:特にYMOの「ポップスに落とす」というか、ディスコにマーティン・デニーみたいなエキゾチック・ミュージックを掛け合わせるような、そういうセンスにまんまとひっかかった子どもでしたね。

−−YMOチルドレン第一号ですね。

テイ:そうですね。僕より年上の方だと高校、大学で音楽をやっていてYMOにガツンとはまったという方はいると思いますが、僕は物心つくのがイコールYMOだったので…。僕より下の電気グルーヴとかと話していると、「オレたちひょうきん族」にYMOが出ていたので、お笑いと一緒にはまったらしいんですよね。だから、彼らはお笑いが常にテクノと一緒にあるような芸風になったんでしょうね。

−−テイさんご自身もその頃から趣味といいますか、考え方もあまり変わっていないんでしょうか?

テイ:いや、やはり揺れたというか、高校のときが人生の中で一番ブレていたんですね。何していいのかわからないし、周りはみんな文系だ、理系だ言っていますしね。高校3年の終わりくらいに美大があることをやっと知ったんですが、美大を受ける他の子は「高校1年から美大の予備校に通っていたわよ」みたいな感じでしたしね。「テイ君は絶対浪人だけど、絵も上手いんだし頑張ったら?」と言われて(笑)。

−−なんだか冷たい言い方ですね(笑)。

テイ:そもそも僕は裏方をやりたかったので、YMOは無理ですけど、あわよくばYMOくらい好きなアーティストのグラフィックのブレーンなれないかなと思って、浪人して美大を目指したんですね。結局、武蔵野美術短大のグラフィックしか受からなかったんですけど、その頃はもう芸大に行きたいと思っていたので2浪でも3浪でもするつもりだったんですよ。でも、親が「一人暮らしのお金も出すから短大に行って、途中で美大に編入すればいい」と言うので短大に行ったんですけど、結局編入もできず。

−−テイさんが目指していたのは、どちらかと言うとタイクーングラフィックスのお二人のようなお仕事だったんですね。

テイ:理想的ですね(笑)。彼らは彼らで理想とかあるんでしょうけど。

−−仕事しながらDJをやっているとおっしゃっていましたからね(笑)。

テイ:宮師君は上手いですよ。僕の一番弟子と言っています。よく僕のイベントでもやってもらっていますし、あの二人は踊りも上手いんですよ(笑)。

−−踊りについては伺えなかったですね(笑)。その後、ニューヨークに行くきっかけはなんだったんですか?

テイ:当時坂本さんがナム・ジュン・パイクさんというビデオアーティストとコラボレーションしてソニーからビデオを出したり、筑波万博のジャンボトロンというのでいわゆるVJのはしりみたいなことをやっていたんですね。僕はソニーのコンピューター関係のアルバイトをしていたので、そのお手伝いと言いますか、タバコを買いに行ったり、バッテリーを背負って後ろから電源を渡したりしていたわけですよ(笑)。

 その現場はけっこう縦社会だったんですが、ナム・ジュン・パイクさんのアシスタントの方がぽんと横に来て、気さくに話しかけてくれたりする機会に恵まれたにも関わらず、英語を満足に話せない自分がすごくもどかしくて、それもあって留学しようと考えたんです。先ほども話しましたが美大に編入できないということがわかって、結構落ち込んだんですが、「ナム・ジュン・パイクさんもいるし、ニューヨークにでも行こうかな」と。それで’87年にパーソンズ美術大学のスクラブデザイン科に留学しました。

 

3. ニューヨークでのDJ活動とディーライトの熱狂

 

 

−−どうやってニューヨークのクラブシーンに入り込んでいったんですか?

テイ:DJになりたいと思って、初めてミックステープを作って、常連で行っていたNell'sというクラブのすごくかわいい女の子のDJとロシア人DJのディミトリーに渡したら、その一週間後くらいにディミトリーから電話があって、「早くDJになれ!」って言われたんですよ(笑)。

 それで、ある日40 worthというクラブに遊びに行ったら、出演していたディミトリーに突然「トイレに行っているから、もしこの曲が終わったら次にこれをかけて」と言われて、すぐに帰ってくるだろうと思ったら全然帰ってこなかったんですよ(笑)。それで慌ててヘッドフォンをかけて、代わりにDJをやったらすごく楽しくて。そのうちに葉巻の匂いがしてきて後ろを見たら40 worthの社長が立っていて「来週から来てくれ」と。だからディーライトでデビューして、ワールドツアーに行くまでは3年間くらいNell'sや40 worthを中心にいろんなクラブでDJをやっていました。

−−ディーライトに参加されるきっかけは何だったんですか?

テイ:ディミトリーとゴー・ゴー・ダンスをやっていたキアーの二人に「ディーライトっていうバンドを始めたんだけど、デモテープを聴いてほしい」と言われて聴いたんですが、笑っちゃうほどアレンジやクオリティがひどかったんですよ(笑)。でも、やろうとしていることは面白いし、耳にひっかかる歌詞だったので一緒にやろうかと。

−−ディーライトは割と早く人気が出たんですか?

テイ:街の人気バンドにはすぐになれましたね。それから少しずつオファーをもらうようになって、’90年の頭にエレクトラからデビューしました。ただ、あそこまで売れることが目的だったわけではなかったんですよ。DJをやる前から色んな音楽が好きだったこともあって、ディーライトではDJのトラックだけではなく、アルバムとして世界観が作れる自負がありましたし、そこで作った曲をクラブでかけて盛り上げたいというモチベーションがすごく強くかったんですね。だからまずはDJプレイするために盤にしたかっただけなんです。

−−いきなりのヒットにテイさんもメンバーも驚いてしまったという感じでしょうか。

テイ:でも、ライブをやっていて手応えはありましたし、これがレコード盤になれば「ホワット・イズ・ラヴ」も「グルーヴ・イズ・イン・ザ・ハート」もクラブで一番盛り上がるだろうと1年前から思っていました。まず先行で「ホワット・イズ・ラヴ」をリリースしたんですが、どこのクラブへ行ってもかかっていて、すぐにニューヨークのクラブチャートで1位になりましたし、アルバムが発売されてプロモーションツアーも始まり、最終的にはアメリカのトータルチャートで4位までいったんです。それからはファンに追いかけられるようになってしまって、「ちょっと生活が変わってきちゃったな…」と思いました。

−−ファンはかなり熱狂的だったんですか?

テイ:そうですね。バスでアメリカ中を回って、毎日DJやライブをやっていたので本当に疲れ切っていたんですが、バスの中で朦朧としながらホテルに向かっていたら、「トウワ!」っていう声がしたんですよ。それで外を見てみたら、虹色のビキニを着た女の子が虹色のターバンを振り回しながらオープンカーに乗って追いかけてきて…本当に映画みたいだなと思いました(笑)。

−−やっぱりグルーピーみたいな女の子が寄ってくるわけですか(笑)

テイ:いやあ、怖かったですよ。ホテルに戻ったら部屋の前で座っている子たちがいて、慌ててマネージャーの部屋に行ったり。

−−そこで逃げちゃうんですか?(笑)

テイ:逃げますよ(笑)。そこで勇気出してやんちゃしたことはなかったですね。元々真面目な性格だったということもあったので(笑)。

−−(笑)。その当時は事務所みたいなものには入っていたんですか?

テイ:入っていました。そこは結構大きな事務所で、ブロンディーとかトーキング・ヘッズといったニューヨークのニューウェーブ系を代表するアーティストたちがいました。

−−それだけ売れたら相当なお金が入ってきたんじゃないですか?

テイ:そうかもしれないですけど、忙しすぎてぼーっとしていましたし。

−−夢の中にいるような、よくわからない生活が何年か続いたと…。

テイ:ええ。それより前はDJでギリギリ食べていけるくらいで、預金も数十万がせいぜいでしたしね。ディーライトで預金のケタがいくつか増えましたけど、増えたケタの分税金も持っていかれました。もしかしたら騙されていたのかもしれないですけど…。今もお金にはどんぶり勘定ですが、それを見透かされていたのかもしれません。

−−世界的に売れるというのはそういうことなんでしょうか…。

テイ:でも、世界的に売れたアーティストだって派手に使ってしまえば、すぐなくなっちゃいますよね(笑)。1枚目で原盤を持っている人ってあまりいないじゃないですか。アメリカって原盤権とはちょっと違ってリクープ制なんですよ。

−−ちなみにディーライトの原盤権は持っているんですか?

テイ:原盤権はワーナーにあると思います。日本で言う原盤印税くらいはもらえますが、印税率は日本みたいに、例えば新人は2%とか、プロデュース印税が数%ということはなく、自分たちでプロデュースしていましたから、ファースト時からアーティスト印税を合わせて14%以上ありました。

 

4. ソロキャリアのスタートと共に帰国

 

 

テイ・トウワ01−−そして約3年の活動を経てディーライトを脱退されるわけですよね。

テイ:ワールドツアー中にブラジルでステージから落ちて怪我しちゃったんですよ。もうそのときはとにかくツアーに行きたくなくて。

−−では、ツアーが嫌で辞めたんですか?

テイ:ツアーも嫌でしたけど、実は「辞めたいけど辞められない」という状況がずっとあったんですよ。それで1週間くらい安静にして、またツアーが始まるぞというときに精神的にまいってしまったんです。そうしたらメンバーが「そんなにやりたくないならツアーはやらなくていい。でもバンドは辞められたら困る」と。「トウワの好きなブライアン・イーノは70年代ロキシーミュージックのメンバーだったけど、ツアーはしなかったでしょ? レコーディングだけでもメンバーとして続けて欲しい」と言われて、セカンドアルバムを作ったんですが、サードアルバムの頃になると世の中がレイヴの流れになってきて、すごくテンポが早くてグルーヴのない音楽がディーライト内で台頭してしまったんですよ。それが悪いとは言わないですが、僕はもうそういうイケイケの音楽がしんどかったので、サードアルバムでは1曲しか参加しませんでした。

 その頃は精神的にすごく寂しかったですね。メンバーのことが人間的に嫌いになったということではなくて、趣味趣向はばっちり合っていましたから昼も夜も行動を共にしていたんですが、音楽の方向性に関してはどうしようもなく合わなくなってしまって。どちらにしろサードアルバムでは僕が沈む形になったわけですしね。ちょうどその頃に坂本さんと交流が深くなったんですよ。

−−それはニューヨークでのことですか?

テイ:そうですね。坂本さんがニューヨークに来られてご飯に誘ってくださったりしたんですが、そのときにメンバーには受け入れられなかった曲を坂本さんに聴いてもらったら「すごくいい」と言ってくださったんです。他にも出版社の方とかが「他の二人がこの曲を嫌ってもイコール悪い曲ではないんだ」と言ってくれたりもしました。その間に坂本さんのアルバムを手伝ったり、元々好きだった立花ハジメさんから誘われて共同プロデュースをしたりしながら、色々な意味で自分を一度リセットしました。

−−そして’94年にソロアルバム『Future Listening!』を作られますね。

テイ:ええ。その頃よく聴いていたボサノヴァやイージーリスニングと、今までやってきたことを自分なりに融合させたアルバムを作ろうと思って、日本では坂本さんのレーベルから、アメリカではディーライトと同じエレクトラから出しました。僕のソロ活動を後押ししてくれたのが坂本さんだったので本当に感謝しています。

−−ソロ・デビュー後、活動の拠点を日本に移されますね。

テイ:それまでもアルバムのプロモーションで行き来していたんですが、結局子供ができて妻が日本に帰ることになって、息子が生まれる数ヶ月前に日本に帰ってきました。

−−そこから「テイ・トウワ」としての活動が始まったという感じですか。

テイ:そうですね。日本に帰ってきても海外からの引きはかなりあったんですが、ワガママを言って断りました。僕は子供から離れたくなかったんです。自分が物心ついたとき、父が設計事務所を始めたばかりで忙しくて、あんまり父と一緒にいた記憶がないんですね。だから、自分は子どもの近くにいたいと思ったのかもしれません。子どもはかけがえのない存在と言ったら息子はもう高校生なので照れくさいでしょうけど、活動の拠点を日本に移したことは後悔していませんし、四六時中、世界中を回っているのはどうなのかなと思いまして、ことごとくそういった活動を避けましたね(笑)。

−−いいお父さんですね。今流行のイクメンのはしりですね(笑)。

テイ:そうですね(笑)。

 

5. 音楽に集中できる環境を求めて〜軽井沢での生活

 

 

−−軽井沢に引っ越されたのも育児を考えてのことですか?

テイ:子供のことを考えて引っ越しましたが、自分自身も子供とそういう環境にいたいなと思ったんです。スタジオワークって窓や景色がないことが多いじゃないですか? それで逃げるようにバカンスに行ったりしていたので、そうじゃなくて音楽を作ることとバカンスを一緒にしたいなという思いがあったんです。35歳にしてセミリタイアは早いかな? と思ったんですけど、セミリタイアと言うよりは、音楽にもっと集中できる環境を作りたいと思ったんです。

−−軽井沢のような静かな環境に住まれると、逆にメリハリがついていいのかもしれないですね。

テイ:あるときからDJのオファーが増えたんですが、普段静かに過ごしていられるので、今までだったらしんどかったことも週に1回くらい東京に出て行く口実になりますし、しかも汗まみれになって若い人のエネルギーを浴びられて、そういうこともこの仕事をしていたら大事かなと思うようになりましたね。

−−拠点を変えたことによって作る音楽とかに良い影響があったんでしょうか。

テイ:全てが良いかどうかはわからないですし、セールスでも決められないと思うんですけど、僕的にはすごく満足できていて、音楽の聴き方にもメリハリがつきますね。前はストレスから逃げるようにジャズとか聴いて癒されたいとかあったんですけど、環境に癒されているので、音楽は逆に刺激物として聴いています。ただ、軽井沢に住んでから10年経っていますので、気付かないうちに志向も変わってきているのかもしれませんし、今40歳中盤ですからね。

−−なるほど。今や2世アーティストなんかもたくさん出てきていますが、息子さんから「DJになりたい」と言われたらどうしますか?

テイ:「とりあえず趣味にしておけ」と言いますね。

−−やはり仕事にするとなると大変ですか。

テイ:コンサートをする方もそうだと思うんですけど、そこに向けての体力とか、コンディションを保つことが大変なんです。しかもDJの場合、最近はメインがどんどん遅くなっている傾向にあるので、出番がだいたい深夜2時くらいからなんですよ。

−−普段早寝早起きの生活をしていたら眠くなってしまうんじゃないですか?

テイ:眠いです(笑)。だから早めに食事を摂って、1時間でも2時間でも仮眠をとったり、横になって目をつぶったりしたりしています。現場で回している最中に引退を考えることがここ数年何回もありますよ。

−−プレイ中に思ってしまうんですか(笑)。

テイ:でも、クラブだけじゃなくて例えばレセプションとか新車の発表会でDJすることもありますし、そういうときはお客さんも全然違いますので、いつもってわけではないですけどね。

−−今、テイさんの中でDJとプロダクトの割合というのはどうなっているんですか?

テイ:はっきりはわからないですけど、自分の中でどっちも必要ではあるんですよね。制作だけになるとやはりしんどいですし。でもDJが月に3〜5回あるのは減らしていきたいと思っています。体力的な限界もあるんですが、その分もうちょっと若い人を育てたいなと思っているんですよ。

 

6. 次世代のブランディング

 

 

−−現在の音楽業界に対して思っていらっしゃることはありますか?

テイ:正直、景気も含め音楽業界がここまで冷え込むとは想像していなかったですね。坂本さんは「10年でパッケージはなくなる」と言っていて、僕は「本当になくなるかな?」と思っていたんですよ。実際CDパッケージはなくなっていないじゃないですか。ただ、海外はもっと深刻ですし、日本はまだ配信やiTunesが立ち後れているからか、文化的な物へのリスペクトというか所有欲がまだあるのでましなほうですが、今までのスキームで、大きなところが全てコストを持って在庫を抱えて…ということでもなくなってきていることは作り手もわかってきています。

 僕はどちらかというと古い世代の中での一番新しい世代だと思っているんですよ。業界に入ったときはまだハーフインチとラジオエディットをハサミで切っていて、セカンドアルバムを出す頃になったら2chのデジタルで編集できるようになり…と20年間デジタルレコーディングの変遷を見てきています。今の若い世代と比べて古い世代だなと思うのは、やっぱりパッケージが好きなんですよ。パッケージのデザインをやりたくてニューヨークに留学したくらいですしね。でも、残念ながらパッケージは衰退の一途を辿るのは間違いないと思いますし、これからは頭を切り換えてやっていくしかないのかなと思うんですが、昔の古き良き音楽業界を知っている人間は足腰が重いわけですよ。だから少し時間がかかってしまうんですけど、その時代を知らない人たちとフットワーク軽くやっていくことも必要かなと思いまして、2年前くらいにhug inc.(ハグ・インク)という事務所を作って、そのhug inc.の事業の1つとして、音楽にこだわらずに様々なアート作品を取り扱う配信ショップとしてMACH(マッハ)を始めたんです。

−−MACHでは音楽以外も配信するんですか?

テイ:そうですね。データだったら何でもいいので。iTunesだと「音楽はミュージックストアで」という制限があるじゃないですか? そういう制約なく配信できるというのは、今どきのレーベルとしていいかなと思っています。というか、レーベルという構造自体が5年くらい前から古いなと思っていて、これからは1人1レーベルの時代かなと思っているんですが、誰も知らないような人がいくら豪華なサイトを作っても、それだけで終わってしまうじゃないですか。だから、MACHを一人でやっていける人たちが寄り合う場所にしていきたいんですよ。

−−まだ名前が売れていないけど力のある若い人たちにプラットフォームを提供するわけですね。

テイ:中にはニコニコ動画とかで爆発的に人気が出る人もいるんでしょうけど、今は本当に若い人にとっての場がないですし、マイスペースとかありますけど、あれはお金になりませんしね。そもそも「音楽は聴いてもらえるだけで幸せ」っていう幻想があったじゃないですか。初期衝動はそこだと思うんですが、それで食べていけたらもっと幸せだと思うんですよね。

−−でも、音楽が無料に近づいているのは作る立場からしたら辛いですよね。

テイ:近づいているというか、すでにそうなっていますよね。だから数を売っていくという考えはもう違うかなと思っていて、今後は厳選していくことでブランドを保つことが大事になっていくような気がします。これだと本流にはなれないと思うんですが、セレクトショップとして「ここなら間違いない」という風になればいいなと。

−−では、テイさんの今後の目標はMACHのブランドイメージを定着させることなんでしょうか。

テイ:それもありますね。デビューしてから20年間は自分のことで精一杯でしたが、今、初めて自分以外をブランディングするというか、次の世代を考えていかなきゃなと思っているんです。希望的観測としてはMACHにせよ、hug inc.にせよ、自分の会社が育ってくれると同時に自分はもっと老成していくというか、より好きなことしかやらないようになったらいいなと(笑)。

 僕は何でもやれる器用なプロデューサーではないんです。「求めてくれるなら対応していきたい」と思った時期もあったんですが、仕事を選んできたからこそ今があると思いますし、間口を狭めた分、僕の作品を聴いて「この音が欲しい」という人がいれば、そして僕も「この人とだったら楽しいことができそうだ」と思えば力になりたいと思っています。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。テイさんの益々のご活躍と更なるご発展をお祈りしております。 m.gif

 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

テイ・トウワさんは、世界的なDJ/ミュージシャンであるにもかかわらず、とても気さくで謙虚な方でした。ディーライトでの大ヒットや、DJとしての華々しい日々の裏で、本当にたくさんの苦労をしてこられたこともこのインタビューでお聞きすることができました。DJ/アーティスト、そしてプロデューサーとしてのご活躍だけでなく、今年から新たにスタートした電子セレクトショップ「MACH」の今後の展開にも注目です!