第89回 都倉 俊一 氏 作曲家/編曲家/プロデューサー/JASRAC会長

2010年8月31日 21:15
第89回 都倉 俊一 氏 作曲家/編曲家/プロデューサー/JASRAC会長

作曲家/編曲家/プロデューサー/JASRAC会長

 

今回の「Musicman's RELAY」は村井邦彦さんからのご紹介で、作曲家/編曲家/プロデューサー/JASRAC会長の都倉俊一さんのご登場です。小学校、高等学校時代を過ごしたドイツで音楽教育を受けた後、独学で作曲法を学び、学習院大学大学在学中に中山千夏の『あなたの心に』で作曲家デビュー。70年代にはピンクレディーや山口百恵の他、1,000曲以上のヒット曲を世におくり出し、「日本レコード大賞 作曲賞」「日本歌謡大賞」「東京音楽祭最優秀作曲賞」「日本セールス大賞作曲賞、編曲賞」「日本レコード大賞」など、日本の主要な音楽賞のほとんどを受賞した。80年代からは活動の拠点を海外に移し、映画音楽、舞台音楽も手がけるなど、多忙な毎日を送る中、2010年8月にはJASRACの会長にも就任されました。今回のインタビューでは、ドイツでの生活から70年代の名曲たちの誕生秘話、ミュージカルを手がけたきっかけや、JASRAC会長就任の意気込みなどを語っていただきました。

 

[2010年8月31日 / 港区白金 シュン・トクラ・アンド・アソシエイツにて]

 

プロフィール
都倉 俊一(とくら・しゅんいち)
作曲家/編曲家/プロデューサー/JASRAC会長


四歳よりバイオリンを始め、小学校、高等学校を過ごしたドイツに於いて基本的な音楽教育を受ける。のち、独学で作曲法を学び、学習院大学在学中に作曲家としてデビュー。その後、アメリカ・イギリスで作曲法、指揮法、映像音楽を学び、海外各国で音楽活動を行う。
学習院大学 法学部卒業
70年代から作曲活動を始め「日本レコード大賞 作曲賞」「日本歌謡大賞」「東京音楽祭最優秀作曲賞」「日本セールス大賞作曲賞、編曲賞」「日本レコード大賞」など、日本の主要な音楽賞のほとんどを受賞する。世に出したヒット曲数は1,000曲を超え、レコード売上枚数は4千万枚を超える。その他多くの映画音楽、テレビ音楽を手掛ける。
80年代からはレコード制作のほかに、映画音楽、舞台音楽も手掛けるようになり、活動の場も海外にシフトしてゆく。

 

1. ドイツで過ごした少年時代

 

--前回ご登場いただきました村井邦彦さんとは、どのようなご関係なんでしょうか?

都倉:村井さんは僕より3~4つ先輩ですが、お互いに学生時代からプロとして仕事をしていたので、二人ともキャリアのスタートが早かったんですよね。僕は21歳のときにプロとしての初ヒットが出たんですが、その頃村井さんはすでにヒットメーカーでした。村井さんはグループサウンズ時代の最後の方に出てきて、『白い珊瑚礁』などのヒット曲がたくさんあったわけですよね。日本の音楽業界はグループサウンズで変わったんですよ。それまでの演歌の大先生、大作曲家、大御所がいた中で、音楽が好きで勉強をしていた若い連中がどんどん出てきたわけです。そういうブームがあると必ず新しい才能が世に出てきますしね。

 僕がプロになったときにはそのブームは終わっていましたが、村井さんと僕は非常に似ている部分があります。お互いに子供の頃から音楽はやってましたが、音楽学校を出たわけではないですし、なんとなく「カレッジ・ミュージック」と言いますか、そういう雰囲気のある作風で洋楽志向とか非常に共通した部分がありますね。村井さんは途中でレコード会社の社長になっちゃいましたけどね(笑)。そこは僕とちょっと違いますが、ずっと親しくさせていただいていて、お互いにあの時代から「海外マーケット」を非常に重要視していました。当時は違う立場でしたがミデム(MIDEM)には毎年行っていましたから。

--それはおいくつくらいのときですか?

都倉:当時25,6歳ぐらいかな。村井さんはYMOを何とかアメリカで売り出したいと思っていて、僕は自分の曲を向こうのアーティストに歌わせたい、プロデュースしたいっていう野望があって、それぞれが違う立場でしたが「日本の音楽も海外に出て行かなきゃいけない」という共通した気持ちがありましたね。あと一番の共通項はゴルフですね。「都倉学校に僕は入門した」って村井さんはおっしゃってますよ。僕は村井さんの専属インストラクターです(笑)。

--(笑)。では、ここからは都倉さんご自身について伺いたいのですが、お父様が外交官と伺っております。東京でお生まれになって、7歳から外国に行かれたそうですね。

都倉:そうですね。小学校と高校がドイツだったんですよ。中学と大学は日本で、大学を卒業してからまたアメリカに行きましたから、60年ちょっとの人生の中で20年ぐらいは外国で暮らしてたわけですね。

--やはり小さいときから海外とは縁が深かったんですね。

都倉:これは別に僕が好んで行ったわけじゃないですが、当時の日本は今ほど豊かではなく、一時帰国とかできないので行ったらずっと行きっぱなしなんですよね。

--それは外交官といえども?

都倉:うちの父親はもしかしたら往復していたかもしれないですけどね。最初に行ったのは昭和30年ぐらいで、北回りなんてないですから南回りでドイツまで24時間ぐらいかかってました。それでも当時は「今は早いね。昔は船で4日か5日かかったよ」とか言われましたけどね(笑)。

--7歳まではごく普通に日本で生まれ育って、突然外国に行かれたわけですよね。その時、カルチャーショックはあったんでしょうか?

都倉:もちろん何もかも違いますし、言葉も最初はわからないですし、色々あったんでしょうけど、子供だったからかあまりショックみたいなものはありませんでしたね。子供は言葉だけじゃなくてイメージとか価値観、匂いから色まで自然に吸い込むじゃないですか。そういう部分はどこか自分の中に一生残るんでしょうね。極端な話をすると、音楽の発想も違って、僕のその後の音楽活動や曲調もだいぶ影響していることは紛れもない事実でしょうね。

--ドイツでは、アメリカンスクールで英語で学んでいたそうですが。

都倉:ええ。6年間アメリカンスクールに通っても住んでいるのはドイツですから、家の周りにはドイツ人の子どもたちがたくさんいて一緒に遊んでいたので、自然に3カ国語を覚えてましたね。ただ日本語はちょっとおかしくなるから、家で日本語だけはしっかり叩き込まれたんですよ。母親が非常に「日本」っていう感じの人間だったのでね。

 


2. クラシックとビートルズとベルリンの日々

 

都倉 俊一1

--高校時代もドイツで過ごされていたんですよね。


都倉:高校時代はちょうど60年代ですから冷戦のまっただ中で、そのときは当時の西ベルリンに行ったんですが、やっぱり小学生の頃とは随分気分が違いましたね。ベルリンの壁ができていましたしね。僕が一番影響を受けたのはそのベルリン時代での生活でしょうね。

 当時のベルリンフィルはまだカラヤンが50代で絶頂期でした。確か僕がベルリンに居た頃に、小澤征爾さんが初めてウィーンフィルで指揮をしたんですよ。実はうちの両親がカラヤンとすごく仲が良くて、そのカラヤンを小澤さんは慕ってました。日本の音楽家が世界で活躍することのなかった時代ですが、小澤さんはドイツでも話題になりました。当時は「日本人にベートーベンやモーツァルトが分かるわけがないだろう」と言われていて、確かにそういうことはあるかもしれないですが、小澤さんがウィーンフィルで指揮したら大成功だったんですよ。新聞の論評は、全部が好意的ではなかったとは言いますけど、やはり小澤さんは先駆者の1人でしょうね。また当時のベルリンフィルに土屋(邦夫)さんというビオラ奏者がいて、うちの母親なんか大ファンでした。僕はそういう環境で音楽を勉強したんですが、クラシックと同時に僕が影響を受けたのがビートルズだったんです。

--リアルタイムですし、場所もドイツとなりますと日本で聴くのとはまた違ったでしょうね。

都倉:そうです。映画『ハード・デイズ・ナイト』は日本で観たんですが、その後、ベルリンでもう一度観たら印象が全然違うんです。客の印象も僕の印象も、その周りの雰囲気も。そういう色々な思い出がベルリンにはありますし、青春まっただ中のときに音楽家思考になっていきました。

--都倉さんはバイオリンをされていたそうですが、演奏家になることは考えていなかったのですか?

都倉:僕の周りには才能がある人がたくさんいたんですよ。ドイツで児童オーケストラに入って、同じ譜面を弾いているのに遙かにいい音を出している奴がいる。「何で?」と思って一生懸命練習するんですが、あるときに「コイツにはかなわない」と悟るわけです。それに音楽の才能と言っても色々な面があって、作曲をするという発想になること自体、演奏家とはマインドが全然違うんですよ。例えば、器楽の上手い人はジャズに行ったりするでしょう? そういう音の虫みたいな人と、譜面上の世界を構築したいという人、これはまた別の興味なんですよ。僕は後者の人間でした。

 もう1つは、みんな絶対信じてくれないんですが、僕はあまり人前に出ることが好きじゃないんです。ドイツから帰ってきて大学時代に「ザ・パニック・メン」というバンドをやっていて、オリジナル曲は全部僕が書いていたんですが、リードボーカルもリードギターもやらず、どっちかというとプロデューサーのようなことをやっていたんです。当時、カレッジポップスブームというのがあって、僕らのちょっと前では加藤和彦さんやジローズとか、フォー・セインツとか、早稲田のザ・リガニーズ、慶応はフィンガーズの成毛滋さんと、そこからは色んな才能が出て来ました。その後、アーティスト指向の人はみんなニューミュージックやフォークに行ったんですが、僕は作曲家志望でしたからバックステージにいる方を選んだという感じですね。

--そして大学2年の頃にはプロとして活動されていたと。

都倉:そうですね。当時はカセットテープができたばかりの頃だったんですが、まだソフトが十分になかったんですよ。ですから僕なんか一晩で5~10曲くらいアレンジしたりして、粗製乱造なんてもんじゃないですよ(笑)。今は恥ずかしくてその頃のスコアなんて捨てちゃっていましたけど、もう何でも良かったんですね。例えばサイモンとガーファンクル『明日に架ける橋』とかアンディ・ウイリアムスとか演奏するんですが、またこれが売れちゃうんですよ(笑)。だから僕も含めてアレンジャーは本当に大変でした。僕もけっこう忙しかったですが、もっと忙しい人なんて一月に200曲くらいやるもんですから全然寝てない(笑)。一つの仕事が安いとはいえ、1曲1万だったら200曲で200万じゃないですか? ですからみんな凄く稼いでましたよ。

--作曲家として活動されるきっかけは何だったのですか?

都倉:当時、ある制作会社から「才能があって詞も自分で書く子がいるんだけど、カセットの挿入歌を書いてみないか?」と言われて、初めて自分で書いたオリジナルが中山千夏の『あなたの心に』という僕のデビュー曲です。

--『あなたの心に』はよく憶えています。

都倉:それまではアルバイト気分でやってましたが、『あなたの心に』がヒットしてから依頼がどんどん入ってくるようになりましたね。

--ドイツで音楽をされていて、ドイツの大学に進もうとかドイツで音楽の道に進もうとかは考えなかったんですか?

都倉:それは一応考えたんですよ。ただ家もあまりそういう家系ではないので、「とりあえずまともな大学へ行け」と。「音楽大学なんていうのは専門学校だろう?」って言うわけですよ(笑)。ベルリンにはベルリン高等音楽院という有名な大学があって、しっかり勉強すれば入れたんでしょうけど、結局一度日本に帰って法学部に進んだわけですよ(笑)。そして、じっくり考える暇もなくプロになってしまったというわけです。

 


3. 全速力で駆け抜けた12年~数々の名曲/ヒット曲を量産する毎日

 

 

--プロになったときにご両親は何とおっしゃったんですか?

都倉:その頃、両親は海外ですから、日本にいなかったんですよ(笑)。それで「一応大学は出ろ」ということで、クラシックをやるのであれば「とりあえず大学を出てから音楽大学に行ってもいいや」ということで軽く考えていたんですよ。

 ただ、自分の持っている音楽の知識とプロの作曲の知識というのがずいぶん違ったんです。例えば、アレンジするのもフル・オーケストラじゃなくて、トランペット4本、サキソフォン5本、トロンボーン4本がいるビッグバンドなんて、また別のメソッドを勉強しないとスタジオじゃ仕事にならないわけですよ。当時歌番組なんかほとんどビッグバンドが入っていたじゃないですか? なのでプロになってから必要な知識を得るために専門学校で学びました(笑)。

--とにかくじっくり考える間もなくプロとしての生活が始まってしまったと。

都倉:でも、時代だったんでしょうね。当時は日本人でポップスを書ける人が少なかったんですね。それまでポップスというと、中尾ミエさんや伊東ゆかりさん、坂本九さんとか、アメリカのポップスに日本語詞をつけて歌っていたでしょう?そういう意味で「ポップス」、つまり洋楽的な曲を書ける作曲家が出てきたのがGSブームからでしょうかね。もちろん、その前にも中村八大さんのような方もいらっしゃいましたけどね。八大さんの曲はハーモニクスといいコード進行といい、生まれてきたのが30年早かったですね。本当に洒落てますよ。

 また、当時はポップスと演歌、歌謡曲が共存してたようなところがありました。猪俣公章さん、鈴木淳さんをはじめ演歌もいい曲が沢山ありましたよね。演歌らしい演歌というよりも非常にメロディアスでね。あと作詞家も素晴らしい人たちがたくさんいました。

--都倉さんの書かれた曲のリストを拝見しますと、知らない曲はほとんどないですし、よくこれだけ書かれたなと思います。

都倉:そういう意味では70年代は歌謡―ポップスの時代であり、テレビの時代でしたよね。テレビの音楽番組がたくさんあり、テレビが最大の娯楽でした。その時代にちょうど僕らが出てきたということなんですよね。テレビが一番の音楽情報源で、一番の娯楽だったと。そこにちょうど我々ははまったんですよ。

 僕は’70年から’82年までの約12年間を全速力で走って、もう酸素がないみたいな状態で、「どっかで線を引かないと行けない」と思い、’83年にロスへ向かいました。「カーペンターズに曲を書きたい」とか自分の中で色々な想いがあったんです。そして、色んなアメリカのアーティストに曲を提供して、唯一ビルボードにチャートインしたのがレイフ・ギャレットです。ただ僕がプロデュースしたレイフ・ギャレットのアルバムがレイフの最後の作品になってしまいました。覚えていらっしゃるかな、その時代。ほかにもデビッド・キャシディとか。

--パートリッジファミリー?

都倉:そうパートリッジファミリー。オズモンズとかね。ちょうどああいったアメリカのボーイズアイドルブームの終わり頃だったんですよ。

--’70年からアメリカに行くまでの12年間というのはどういう生活だったんですか?

都倉:物理的に信じられないぐらいの仕事をしていました。ヒット曲以外に世に出ていない曲も入れると何千曲と書いていますが、その中にはコマーシャルソングとかは入っていませんからね。

--テレビでもよくお見かけしてました。

都倉:若いから引っ張られるわけですよ。「スター誕生」は審査員ですからまだよかったんですが、テレビ出演はあまり好んでやっていたわけではないんです。それに加えて「都倉俊一グランドオーケストラ」というプライベートオーケストラもやっていましたしね。これは自分で譜面を書き、指揮もし、全部やっていました。最初は給料も僕が払っていましたが、破産しそうになって止めました(笑)。

--プライベートオーケストラはやはり大変でしたか?

都倉:不可能ですね。これはレコードが売れるという前提だったんですよ。当時、ポール・モーリアとかミッシェル・ルグランとか、オーケストラがはやっていましたが、ポール・モーリアはアルバムが10~20万枚は売れていたんですよ。5万枚売れれば年間4枚で十分採算が合うなというような計算でやったら、そうは売れなかったんですね(笑)。

--イージーリスニング系のレコードが売れてた時代なんですよね。

都倉:そうなんです。映画音楽のヒットがたくさんあって、映画音楽をやればよかったんですが、日本で映画音楽からヒットが出るようになったのは、角川さんあたりがやりはじめた頃からでしょうね。当時の日本の映画は低迷していた時代でしたから。

--予算もないですしね。

都倉:そうですね。映画から主題歌が売れたということはあまりありませんでしたから。

--やはり角川映画『人間の証明』あたりから映画主題歌がヒットし始めましたよね。

都倉:そう、『野生の証明』とかね。あとアニメ『宇宙戦艦ヤマト』とかでしょうね。あの辺からだんだん音楽と映画が結びついていったんですよね。

 

4.その時代を嗅ぎ分ける感覚

 

都倉 俊一2

--都倉さんご自身が「会心の作品」と思う曲をいくつかあげるとすると。

都倉:当時のプロの作家は多くがそうだと思うんですが、多作のコツの一つが「完成した曲は忘れる」なんです。次の作品を作る時、頭の中に前作がまだ響いているとなかなか集中できない。勿論完成した曲は本人は気に入っているんですが、譜面をわたしたらすぐ次の作曲にはいる。あるいはレコーディングが終わったらすぐ次の曲のレコーディングに入る。すると前作はなるべく忘れるようにするんです。そうすると次にその曲を聴くのが、ヒットしていればラジオやテレビから流れてくる音ですね。すると不思議に第三者的に聞いてしまうんです、自分の曲というよりもヒット曲として。そして第三者的に「オ、いい曲だな」とか「よくない」と感じる。(笑)  また本当のところ、自分が気に入ったものを全部全部レコード会社に渡しているわけじゃないですし、逆に強引に渡すときもありますしね。あれは力関係みたいなところもあって、せっかくいいと思って渡しても、突き返されるときもあるわけですよ。(笑)

--では、都倉さんの元にはまだ世に出していないいい曲が沢山あるんですね。

都倉:たとえばロンドンでミュージカルを書く中で、何百と曲を書いてるわけですが、その中には使用しなかったけど、もう涙が出るぐらい素敵な曲があるんです。それらはいずれは世に出しますよ、絶対に。最近までずっとシンガーソングライターの時代が続いて、中々いい曲をいいアーティストに提供できるチャンスがなかったんですが、徐々に作曲家とアーティストが再び組む時代になってきたように思うので、これからチャンスはあるなと思っていて、僕は自分の曲を歌えるアーティストを探すことにしているんです。その人に頼まれて顔見ながらイメージして書くっていうのもそれはそれでいいですが、そうやっていい曲ができるかなんて分からないですからね。僕が大量に曲を書いていたあの時代はそんな余裕はなかったです。締切がまずあって、そこまでに最大限に素晴らしい曲を書くのがプロ、という時代でしたから。

--その12年間の生活に疲れ果てて海外に行かれたということですよね。

都倉:そうですね。だって同時に20人ぐらいアーティストを抱えていましたからね。まして売れているアーティストは3ヶ月周期でずっとリリースしていかなきゃいけない。新人は売れなきゃ一発で終わりますけど、アルバムもあるじゃないですか。ですから、一つやめて海外というわけにはいかなかったんですよ。もちろんロスに行ってからも依頼はあったので、それはもちろんやりましたけどね。例えば少女隊とかロスまで来て、全部ロスでレコーディングしていきました。鈴木雄大とかね。彼も全部ロスでやりましたね。

--すごい時代だったんですね。

都倉:ああいう時代は二度と来ないでしょうね。ここしばらく日本は暗い時代が続きましたけど、その時代その時代を感じながら我々は世の中に作品を提供したり、ムーブメントを提案するわけですよ。自分がその時代にどっぷり漬かってなかったらムーブメントは提案できないわけじゃないですか? いくつになってもそういう感覚を持っていないと駄目ですね。料理人に例えるなら、独学で勉強してもどこかの店で修行しても、最終的に自分で「あ、旨いな」って感じる感覚があるかどうかなんですよ。作曲家も作詞家も、ディレクター、プロデューサー、あるいは宣伝マンでもみんなそうですよ。やっぱりそういう人は時代さえ感じられればすぐにその美味しさが分かるんです。これは感覚なので説明できるものではないんですが。

--今のレコード会社で経営者としてふさわしい人はいますか?

都倉:それはいますよ。優れたクリエイティブ感性をもったプロデューサーもいますし、また、味覚とか匂いを嗅ぐ能力を持っている人は、誰が同じような感覚を持っている人かが分かるんです。

--確かにヒットを何度も出す人って限られてますよね。その人はどこで仕事をしようがまたヒットを出すし、アーティストを見つけてきますしね。

都倉:それはマネージャーでも言えるんですよ。例えばジャニー喜多川さんは常にどこかからすごく魅力のある男の子を見つけてきちゃう。その他でもマネージャーの中には本能的に才能をかぎつける人もいるわけですよ。

--同じメロディーなのに歌い手によって全く変わりますからね。

都倉:作曲家は声楽家じゃないんだから発声を教えるわけではありません。しかし自分の作品を 「この曲はこう歌ってほしい」というお願いはできますよ。あるいは教えることもできます。しかしそれをできない子に言っても駄目なんです。やっぱりその人に合った曲調というのがあって、どんな良い曲でもその人に合わない曲を無理に歌わせても駄目なんです。逆にぴったり合った場合自分が思っていた数倍良い曲に仕上がる事も有る。

 

5. 美味しいメロディと美しい日本語、そしていい声

 

都倉 俊一3

--最近の若いアーティストたちに対しては、どのように感じていらっしゃいますか?

都倉: 前提として一つ抑えておかなければならないのは、いつの時代も流行はその次代の若者が作るということです。そして必ずそれは最初大人たちに否定されます。プレスリーでもビートルズでも例外ではありません。どの時代でも多くの若者文化が登場し消えて行く。その中でほんの限られたものが次の時代にも受け入れられて、やがてスタンダード、またクラシックとなって行くのです。



僕がここで言いたいのは、それでも尚音楽には普遍的なものがあるということなのです。それは人間が情緒というもので音楽を感じる以上、一夜で変わるものではありません。これは世界中どこでも言える事ですが、特に日本では顕著です。



僕が一番危機を感じているのは、今の子どもたちの音楽的な感情は数段発達しているんですが、メロディーがなくなっているということです。これは機械に頼っていることでサウンド作りが総合的になってしまっているからなんですよ。昔は譜面上で、作・編曲で、1つの世界を作っていた。あとオーケストラが相手だった。これは全部手作りでできるんですよ。そのうちにコンピューターが便利になってきて肉付けは簡単にできるようになった反面、骨格がしっかりしていないと駄目だということを忘れちゃうんですよ。つまりいいメロディーがなかったら絶対に人の心には残らない。特に日本人はそうなんです。



 なぜメロディーが生まれるかというと美しい日本語があるからなんです。メロディーと美しい日本語がなかったら言葉は人の心に入らない。これは基本なんです。西洋音楽が入ってこようとコンピューターがあろうと、それを忘れてはいけないと思います。90年代ぐらいからシンガーソングライターの時代になって、どの歌もみんなメッセージソングみたいになってしまった。もちろんそういう世界もあっていいんですが、ただ、それは僕の言っている音楽とはまた違うんです。

--最近は女子高生の日記帳を読んでいるような詞ばかりですよね。

都倉:岩崎宏美が阿久さんから『思秋期』の詞をもらったときに泣いたって言うんです。なんで泣いたかと言うと、17歳の自分には想像できない恋の深さというか素晴らしさがその詞にはあって、「私もこういう恋ができるかしら」と思っていたら涙が出たと。17歳の子供が想像できる男と女の交わりなんか限界があるわけじゃないですか。それを今17歳の限られた知識の中でプロデューサーが書かせるわけですよ。

--それをいいとしている。

都倉:すでに1世代2世代そうやっているじゃないですか? 入社して15年もそういうことやっていたら「大人の歌を作ってくれ」と言われても、今更どういう人に頼んで、どういう風に書いてもらえばいいのかわからない。「都倉さんは怖そうで無理です」みたいなね(笑)。もう誰に頼んでいいのかすらわからないみたいな時代になっちゃってるわけですよ。だから僕は逆にそういう仲間を集めているんです。「本当にいいメロディーが欲しい」「流行フレーズが欲しい」、そう思うなら僕たちをブレーンにしろと。そうしないと小さな自己満足の世界でやっているプロデューサーばっかりになっていますからね。随分と勝手な言い分ですけどね(笑)、プロデューサーも色んな武器、いろんな球を持ってないといけないじゃないですか?

--その結果、似たような曲ばかりが出てしまいますしね。

都倉:プロデューサー達は50歳以上の大人の人にどういう曲を聴いてもらえばいいのかわからない。そして、自分より上の世代の人たちからはCDを買いたいと思っているけれど、買う曲がないと言われてしまう。この大きなマーケットをどうやって開拓すればいいのか、これが大きな課題だと思いますね。

--とにかくアーティスト自身に書かせるという方向ですからね。

都倉:これはレコード会社が「アルバム志向」を打ち出し始めた頃から始まっているんですよね。1つのアルバムの中でアーティストの世界を表し、いい曲があればシングルカットしようと。これは先ほども言った、骨太の美味しいメロディーとか、そういうことを知らない人がやったんでしょうね。つまり、シングルというのは花火なんですよ。アルバムの中から一曲をシングルカットするのもありかもしれませんが、シングルにはある意味あざとい仕掛けも必要で、プロの作家がシングル用に書くメロディーっていうのがあるんです。あざとい詞とか、シングル用のタイトルとかね。



今は、いい詞が書けてもタイトルが付けられない子が多いんですよ。これはプロデューサーたちも言っていることで、タイトルは宣伝部で付けることもあるそうなんですが、そんなことは昔だったらあり得ない。阿久さんはいつも最初にタイトルをくれたんです。僕はそのタイトルからイメージして、カラオケまで作り最後にピアノでメロディーを入れて阿久さんに渡すんです。つまり作曲もタイトルありきだったんですよ。

--タイトルで全てが表現されているということですよね。

都倉:そうです。タイトルで世界が広がるかなんです。話は違いますが、日本ではクレジットは作詞、作曲の順番なんですよね。ほとんどの国は音楽が主役だという発想がありますから、作曲、作詞という順番でクレジットが入ります。それが世界では当たり前なんですね。僕が学生の頃、古賀政男先生に「都倉君、あなたは女房になりなさい。詞は旦那です。」と言われたんですが、僕は「いや、曲は旦那です。」と生意気なことを言いました。詞先ですとだいたい12~16小節で終わっちゃうんですよ。今みたいにAダッシュ、B、サビ、もしかしたらCまであってまたAに戻るみたいな曲は全部曲先です。そして曲先の発想で作って、初めて詞の四行詞的定型がくずれてきたんです。それによって作詞家もずいぶん世界が広がったはずなんですね。たぶん僕たちの前の時代の作詞家はそんな詞を書いたことないと思います(笑)。

 

ただそれも原点は変わってないんですよ。先ほど言いました、骨太の美味しいメロディーと胸に突き刺さる美しい日本語、そして美しい声でなくいい声、この3つがあれば絶対に人は聴くんです。だってそれには抵抗できないですから。それで朝から晩までテレビでコマーシャルをやってくれたらなおさらいい(笑)。だからみんなコマーシャルで昔の曲を使ったりしてるわけでしょう? それはまず耳覚えがいいからということもありますが、とにかく入ってきちゃうんですよ。今、制作者がそういったことをどこまで理解しているか知りたいですね。

 


6.音楽文化を守るために~JASRAC新会長として

 

 

--都倉さんは先日JASRACの会長に就任されたましたね。

都倉:僕はあまり数字が得意な人間ではないんですが、最近のJASRACの数字を見ていると寒くなりますよ。「音楽業界ってどうなっちゃうの?」と。これは音楽業界全体で考えないといけないんですよ。レコード会社が、プロダクションが、作家がなんて言ってられないです。

--それはJASRACの数字が急激に落ち込んでいっているということですか?

都倉:そうですね。業界の色んな人と話しているんですが、最近は音楽を携帯で簡単にダウンロードして、メールと一緒ですぐ削除できてしまうじゃないですか? その音楽を削除するという行為が、いかに音楽を使い捨てにしているかということなんです。つまり音楽は芸術だという価値観がもう無いんです。音楽を15秒ストリーミングして、いいなと思ったら150円でダウンロードして、飽きたら捨てればいいんですからね。もっと言うならばCDが開発されたおかけで、パッケージの価値が半減してしまったと思います。歌詞も小さな字で書かれていて、しかも大好きなアーティストも小さな写真でしか見られない。それが当たり前だと思っている時代とLPのサイズを比べたら愛着が違いますよ。我々が16歳ぐらいのときはビートルズの新譜を抱いて寝ていたわけで(笑)、LPにはそれだけの価値があったと思いますね。

--ありがたみが違いますよね。

都倉:僕は今の音楽産業の衰退はある意味CDから始まったと思っています。

--言い換えるならばデジタル化から始まったということですね。

都倉:デジタルという技術はパンドラの箱を開けたようなものだということですね。デジタルは素晴らしい技術ですし、ジャズだってクラシックだって、ノイズで聞こえなかった小さな音までひろってくれるなんて素晴らしいですよ。我々だって今デジタルがなかったら生きていけない。でも、中国の年間300億円とも言われている日本の海賊盤の温床はデジタル技術で、これが音楽産業そのものを蝕んできているんですよ。だから消費者の音楽を使い捨てするような行為と、そのシステムを作った産業、それと制作をする音楽の質、この三つを反省しなかったら、音楽業界の衰退は歯止めが利かない。このままでいったらレコード会社はあと4~5年で立ち行かなくなる可能性があります。

--売るべき商品を持たない会社になっちゃいますからね。

都倉:日立がアメリカのリップルウッドというファンドにコロムビアを売ったじゃないですか? コロムビアといったら美空ひばりさんのレコードの発売元ですよね。コロムビアは日本で一番最初のレコード会社で、これを「採算が合わない」というだけで簡単に売ってしまうなんて、日本の音楽文化を作ってきたという自負はないのかと思ってなさけなくなってしまいます。なんで自分の産んだ子供を捨てるんだと。あれだけの財産があれば、規模を小さくするだけで十分成り立つと思うんですがね。我々なんてレコード会社に育てられたようなものですから、我々は捨て子の子みたいなもので、僕は非常に侘びしい気持ちになります。

--JASRACの会長に就任して具体的に考えていることはありますか?

都倉:JASRACは問題を山ほど抱えているわけで、違法ダウンロード(違法配信)への対応や、著作権保護期間の延長とか、それはそれでやらなければならないですね。JASRACの理事をやっていたときも保護期間に関して2年間も文化庁の審議会で検討して結局何の答えも出ず、中には「保護期間なんていらない」なんて極端なことを言う人もいるわけですよ。保護期間というのは、欧米などの先進国では大体、作家が死んでから70年なんです。それが日本だけ50年で、50年前に亡くなった作家の曲を日本のサーバーからダウンロードするとタダになってしまうわけですよ。アメリカのサーバーからダウンロードするとお金がかかるから、みんな日本のサーバーからダウンロードする。これでは中国の海賊盤のことなんて言ってられないですよ。だから少なくとも先進国に合わせないとこれからの時代やっていけなくなる。そのへんは役所もわかっているんですよ。でも、あまり積極的ではない。

--保護期間の延長をするに当たりなにが面倒なんですか?

都倉:「保護期間を短くしたほうがたくさんタダで使える」と主張する人々も一部いますし、著作権法の専門家の大学の先生たちの中にも反対する人がいます。「文化というのは共有のものだ」と。また「なんで外国が70年にしているから日本もしなきゃいけないんだ」という理屈を必ず持ち上げる人達もいたりします。会長になった以上、そういうことにも取り組んでいかないといけないですね。

 

7.誰にも知られていなかった「戦時加算条項」とは?

 

都倉 俊一4

--また著作権自体の問題もありますよね。

都倉:今まで我々の世代はアメリカに行って自分たちの曲をヒットさせたい、ヨーロッパでヒットさせたいといった欧米志向でしたが、今アジアでアメリカの曲を聴いている人と日本の曲を聴いている人とどちらが多いかといったら実は日本の曲なんですよ。中国では遅ればせながら今年1月に法律が改正されて放送使用料が必要になったばかりです。それまでは、テレビやラジオでいくら放送しても著作権使用料が発生しなかった。ですから全部タダ。

--需要はあるのにそれが収益に結びつかないのは辛いですよね。

都倉:アジアの文化圏は欧米より日本に向いていて、日本の音楽が好きなわけですよ。今、日本の歴史が始まって以来、初めて日本のヤングカルチャーが憧れられているんです。SMAPなんてどのぐらい海賊盤で売れているか。アメリカのトップアーティストよりもはるかに売れているわけですよ。そういう日本の文化が求められている文化圏に日本がリーダーシップを取って著作権を普及させればますます文化交流が盛んになると思います。

--それに関しても政府は何も対処してくれないんですか?

都倉:今のところはそれほど積極的とは思えませんね。やはり民間外交からやって必要だと思わせないといけないんですよ。とにかく色んなことをこれからやっていきたいんですが、任期がそんなに長いわけではないので、どこまでできるか・・・時間との闘いですね。ただ、JASRACに関してはそういう使命感は持っています。あと、JASRACは世界に冠たるシステムを持っているわけです。こんな徴収精度、分配精度の高い組織っていうのは他国にないんです。なぜかと言うと日本はカラオケという大きな産業があるからなんですね。大まかな数字になりますが、これがだいたいJASRACの徴収額の20パーセントぐらいで、もちろんビートルズやバカラックにも分配しているわけです。それともう一つは携帯で課金できることですね。こんなに精度のいいシステムをやっているところは日本以外にないです。JASRACが一年間に処理する曲数って知っていますか? 2009年度で延べ45億曲ですよ。45億曲分の使用料を完璧に徴収して分配しているんです。それに関しては日本は誇っていいんですよ。

 でも、先ほど申し上げたような対処しなければいけない問題もたくさんあるんですよね。サンフランシスコ平和条約の中に「戦時加算」という日本が戦争に負けてペナルティを受けている条項があるんですが、ご存じですか?

--いいえ。それは賠償責任みたいなものですか?

都倉:そうです。これ、外務省の人は誰も知りませんでした。著作権は50年で切れるじゃないですか? ところが真珠湾攻撃からサンフランシスコ平和条約を結ぶまでの10年間、日本は欧米各国の著作権を守っていなかったと。当たり前じゃないですか、戦争していたんですからね。どこの国も守っていないわけですよ。でも日本は特に守ってこなかったから、著作権が切れてもさらに10年間はその分を加算する、それが戦時加算条項なんです。頭にくるのは、日本とドイツとイタリアで連合国と戦ったにも関わらず、ドイツとイタリアにはこの条項はないんです。

 それで僕は長い間この問題と向き合ってきて、3年前にCISAC(著作権協会国際連合)という世界各国の著作権管理団体が構成する国際組織があるんですが、ブリュッセルの総会のときに僕は演説をして、148ヵ国が満場一致で戦時加算条項を凍結する決議をしてくれました。しかしCISACが凍結したとしても権利者一人一人から了承を得ないといけないんですよ。これは来年あたりから始める予定です。そしてマスコミにもこの問題をもっと取り上げてもらいたいと願っています。

--それは大変な仕事ですね・・・。

都倉:それをやりながら曲もミュージカルも作って行かなきゃいけない(笑)。

--でも、戦後65年経ってもまだそんな条項が残っていたんですね。

都倉:まずそれを当時の与党だった自民党の知的財産本部の議員の皆さんと話したんですが、誰も知らないんですよ(笑)。外務省に聞いても誰も知らない。文化庁も知らない。だから我々が教えたんです。

 

8.音楽の原点は「作り手と聴く人のハートとハートの繋がり」

 

 

--海外ではストリーミングが主流になっていたり、クラウドの発想が広がって、著作権に関してはますます難しい部分が出てくるでしょうし、今後音楽の聴き方も変わってくるのでしょうね。

都倉::もうそういったことに対してはJASRACも研究してますよ。どうやったってその方向に行くしかありませんし、なによりコストがかかりませんからね。とにかく著作権に関しては、本当に追っかけっこです。これはどうしようもない。ただ、そこにはアメリカとの文化の違いがあって、例えば、アメリカには「フェアユース」という発想があるんですね。まず自由にコンテンツを使いなさいと。それで不法な使われ方をし出すと必ず訴訟をするんです。アメリカには弁護士が山ほどいますからね。でも日本ではそう簡単に訴訟できない文化でしょう?

--アメリカに比べたら日本は驚くほど訴訟は少ないですからね。

都倉::面白い話があって「YouTube」が出てきたときに、JASRACが無断使用についてYouTubeに抗議文を送ったわけですよ。そうしたら向こうは「我々は場を提供しているだけで、素人が勝手にやっているだけだから、我々に責任はありません」という理屈を盾に何も対応してくれない。ところが僕たちがあまりにも抗議文を送るので・・・って抗議文ですよ? 可愛いもんじゃないですか(笑)。そうしたらYouTubeのオーナー二人が「申し訳なかった」とJASRACに表敬訪問に来たわけですよ。オーナー二人は若くて普段はTシャツ姿で「好きなものを作ったら上手くいっちゃった」みたいな感じなんですが、その日は初めてネクタイを締めてやってきて、その後ろにもスーツの集団がズラッといてね(笑)。結局そのスーツの集団はGoogleの人たちだったんですけどね。それで、その場でも著作権17団体で抗議文を渡して「すぐにそういったことは止めてくれ」と申し入れしたんですが、結局何もやってくれなかったんですよ。

 ところが彼らがアメリカに帰ったらバイアコムというMTVとかパラマウントを持っているコングロマリットが約10億ドルの訴訟を起こしたんですよ。そうしたらYouTube側は慌てちゃって、結果、高額の和解金を支払って手打ちにしたんです。その後は日本にも「これからは使用料を払います」と(笑)。まあ、それでもいいということにしたんですが、そういう意味で「フェアユース」は訴訟社会で通用する考え方なんですね。

 でも日本のように著作権専門の弁護士が少ない社会、あるいは訴訟が少ない社会で、そんな「フェアユース」みたいなことをしてしまったら、著作権がボロボロになってしまいます。ですから我々も必死になって対応しているんです。もちろんコンテンツが流通すればするほど収入が増えるわけですから歓迎するんですが、最低限のルールは作った上で流通させる。これが日本の著作権と流通のあり方だと思います。それを野放しにして、著作権使い放題といったことは絶対に阻止する。これが我々の考え方です。

--先ほどもお話に出ましたが、中国に対価を払わせるのもこれは大変そうですよね。

都倉::僕もいくつかアイディアはあるんですが、実現できるかどうか現時点では分かりません。なにしろ共産党一党支配の国ですから、訴訟なんてあってないようなものですしね。中国に対しては国の方針として話し合わなくては駄目でしょうね。ただ、ご承知の通り中国は農村部と沿岸部との格差が凄いわけですよ。そして農村部の方が圧倒的に人口が多いわけですから、彼らをガス抜きするには一番いいのはエンターテイメントを与えることだと。『ハリーポッター』のDVDが50円(笑)、またはAKB48のCDは10円とね。これは向こうが言っているわけではなくて、あくまでも我々の想像ですが、やはり300以上の民族を抱える国というのは、これは著作権だけの問題ではなくて、やはり中央集権でやらなかったらどうしようもないですよ。中国13億人が日本人と同じだけエネルギーを使っていたら、地球温暖化は100年早まってしまうっていうんですからね。だから彼らの大部分はその犠牲を払って貧しい生活をしているという考え方もできるわけで、「海賊版? 冗談じゃないよ」というのが向こうの正直な気持ちじゃないでしょうかね(笑)。

--そんな細かいことは言うなと・・・(笑)。それにしても、本当にJASRACの会長というのは重責ですよね。

都倉::そうですね。JASRACはJASRACで大変ですけども、それよりも音楽業界あってのJASRACですから音楽業界をしっかりしないといけないという思いの方が僕は強いですね。先ほども申し上げたようないくつかのパターンが危機を招いているということは業界全体で認識しないといけないと思いますし、この半分は人為的なものなんです。デジタル技術に代表される技術的なものももちろんそうですが、それはある意味二次的とも言えるわけで、衰退の原因には色々な要素があるということをしっかり押さえておかないと、本当に日本の音楽産業の将来は暗いです。

--そこは各分野で皆さん話されているんじゃないでしょうかね?

都倉::そう願いたい。音楽の原点は「作り手と聴く人のハートとハートの繋がりだ」ということは忘れないでほしい。この繋がりはさっき申し上げたメロディと美しい言葉といい声とが情緒を醸し出すわけじゃないですか? 聴き手はそういった音楽を聴きたいわけで、器がCDだろうが何だろうが関係ないです。その両端を理解しないで、その真ん中をいじくったって結局駄目なんですよ。聴き手が何を求めているかを理解しないで音を作っても、どんな流通だろうが届くわけないんです。ですから今後は経営もクリエイター的発想を持たなければ駄目だろうと僕は強く思いますね。

--本日はお忙しい中ありがとうございました。都倉さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif

 

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

今回のインタビューでは、都倉さんの作曲家としての半生もさることながら、JASRAC会長としての立場から、音楽業界の原状や、音楽制作に足りない物、著作権問題についてなど、音楽業界の現在~未来について熱く語っていただきました。これまで耳にすることがなかった「戦時加算条項」を始め、産業全体の低迷など多くの問題を抱える日本の音楽業界ですが、これまでも時代を読み、業界を牽引したその手腕、そして外交官のご子息という国際感覚と語学力を存分に活かして国際的な著作権問題の解決など、日本の音楽業界全体を盛り上げてくださることを心から期待しています。