第60回 木崎 徹 氏 放送作家 / 音楽プロデューサー

2010年12月17日 20:00
第60回 木崎 徹 氏 放送作家 / 音楽プロデューサー

放送作家 / 音楽プロデューサー

 

今回の「Musicman's リレー」は、東芝EMI(株) 代表取締役社長兼CEO 堂山昌司さんからのご紹介で、放送作家/音楽プロデューサー 木崎さんのご登場です。学生時代、ワイルドワンズのマネージャーを皮切りに、『11PM』でのAD~ディレクターを経て、放送作家として『夜のヒットスタジオ』を始め、数々の番組を手がけられた木崎さん。同時にバブルガム・ブラザーズの結成や日本初の本格的なトリビュートアルバムの制作、そして現在は日本ゴールドディスク大賞のスーパーバイザーと、まさに縦横無尽のご活躍です。そんな木崎さんにご自身のキャリアから、日本ゴールドディスク大賞の今後までたっぷりお話を伺いました。

 

プロフィール
木崎 徹(きざき・とおる)
放送作家・音楽プロデューサー


昭和39年6月8日生
昭和29年11月6日、東京・神田生まれ。中学2年生で立教に編入し、大学まで立教ボーイ。学生時代、音楽活動を通じ南こうせつ、THE ALFEEらと知り合う。また、ワイルドワンズのマネージャーを皮切りに、『11PM』でのAD~ディレクターを経て、放送作家に。
 『夜のヒットスタジオ』『FAN』『ポップジャム』『日本ゴールドディスク大賞』などの音楽番組や『ディズニータイム』などを担当する。同時にバブルガム・ブラザーズなどの音楽プロデューサーとしても活躍。意欲的な企画作品を送り出した。主な作品として加山雄三トリビュート『60 CANDLE』、ミッキーマウス生誕70周年記念トリビュート『We Love Mickey』、『美空ひばりトリビュート』、『THE JAPAN GOLD DISC AWARD 2006』。現在は日本レコード協会の顧問として、『日本ゴールドディスク大賞』のスーパーバイザーを務める。
 

 

1. 落語をたしなむ上野黒門町の九代目

 

−−お生まれはどちらですか?

木崎:僕は上野黒門町の九代目です。

−−チャキチャキの江戸っ子ですね。

木崎:そうですね。普通三代で江戸っ子と言われる中、僕は九代目ですから。

−−どのようなご家庭だったのですか?

木崎:祖父が彫刻家で父が建築家だったんですが、父はとてもスポーツが好きで、小さいときからスキーや海に連れていってくれました。また、何かやりたいと言ったら、すぐにやらせてくれるような家庭でした。

−−とても自由な雰囲気のご家庭ですね。

木崎:そうですね。上野は遊び場といっても、せいぜい池之端の不忍池くらいしかないので、学校が終わってランドセルをポンと置くと、家のちょうど裏にあった桂文楽師匠の家へ遊びに行ってました。すると師匠がお弟子さんに稽古をつけているんですが、「座って聴いていきな」と言われて、小学校3年くらいから落語を聞いていました。

−−小学校3年で落語ですか。渋いですね。
木崎 徹2

木崎:お弟子さんが帰った後に、師匠が「あいつどうだった?」と訊いてきて、僕は「あいつは枕の振りが下手だね」なんてことを小学校5年くらいから言っていたらしいんです(笑)。どうも生意気なガキで「師匠! 奴はうまかったねえ」とか「驚いたね、こいつは!」とか落語家のような口調で言ってたらしいです(笑)。それまでにも師匠に連れられて、鈴本演芸場の楽屋から落語を聞いていたので、耳が肥えちゃったんでしょうね(笑)。

−−未だにパッと見ただけで、「こいつはものになる」とわかるんですか?

木崎:落語家だけじゃなくて、ミュージシャンも結構分かりますね。例えば、久保田利伸やドリカムやB'zも会った途端に「彼らは絶対売れる!」と思い『夜ヒット』にすぐに出て貰いました。

−−音楽が好きになるきっかけは何ですか?

木崎:やはり兄の存在ですね。兄がビートルズ来日公演のチケットがどうしても欲しくて、ライオンハミガキを1年分買ったんです。ですから、家では何年も歯磨き粉がライオンだったんですが(笑)、僕の名前でも応募したらしくチケットが2枚当たったんです。当時、僕はビートルズなんて全然わかりませんでしたが、「絶対に観ておけ」と連れて行かれました。今から考えると、行っておいてよかったなと思います。

−−それはいい経験ですね。

木崎:後に日本テレビでビートルズのスペシャル番組をやるとは思いませんでしたが、本当にラッキーでしたね。

−−木崎さんくらいの年代だと、ビートルズはそれほどリアルタイムじゃないですものね。

木崎:そうですね。兄がビートルズと加山雄三!と騒いでいて、兄がギターを始めたのですが、教えて貰った僕の方がギターとかすぐに上手くなってしまうんですよ。スキーでも何でも大体そうで、最初に始めるのは兄の方ですが、いつの間にか僕が追い抜いちゃうんです。

−−お兄さんからしてみれば、嫌な弟ですね(笑)。

木崎:(笑)。でも、兄は立教大学を優等生で卒業していますから、勉強ではかないませんでしたね。

−−小学校は地元ですか?
木崎 徹5
木崎:小椋佳さんと同じ黒門小学校です。

−−なぜ中学の途中から立教へ行かれたんですか?

木崎:実は兄が立教中学・高校と通っていたんですが、もの凄く軟派と言いますか、お坊ちゃま的な印象があって、それが僕は嫌だったので、神田の今川中学校に行ったんです。それで入学式の時に「てめえ、目立ってんじゃねえぞ!」と校庭の裏に連れて行かれて、ボコボコと殴り合ったのが古舘伊知郎なんですよ。彼とはその大げんかで仲良くなりました(笑)。

 中学では軽音楽部に入ろうと思っていたんですが、その中学校の軽音楽部はもの凄くつまらなそうで(笑)、結局、足が速かったという単純な理由で陸上部に入ったんですが、5時になったらすぐに帰れだとか、やはり面白くないんですよ。そうしたら、たまたま立教中学の編入試験があって、2人だけ募集すると。僕は結構勉強していましたし、母親がPTAの役員をやっていて、要するにコネがないと試験自体も受けられないので、それで受けて、受かったのが僕と後に渡辺貞夫さんのところでギターを弾いた秋山一将の2人だけなんです。それで立教中学に2年から編入しました。

−−立教中学に編入されて、学校生活はどう変わりましたか?

木崎:立教中学での生活は天国ですよ(笑)。何でもありの自由な校風で、バンドをやれば(ユーミンのいた)立教女学院から大勢見に来てくれますし、高校時代のイブニング・フォークという音楽サークルの島田会長はユーミンの初代マネージャーだったし、クリスチャン・スクール連盟の同期で明治学院にはアルフィーもいましたし、アマチュアのコンサートにみんな集まるわけです。そんな楽しい学生生活を送っていました。そういえば中学3年の時に古館から電話がかかってきて、「、立教どう?」と訊いてくるんですよ。僕は「ここ天国だぞ!」と答えたら、「俺も行く!」と古館は高校から立教に入ってきました(笑)。だから、中学・高校・大学、クラブもクラスも一緒なんです。まさか将来一緒に『夜ヒット』でコンビを組むとは思ってもいませんでしたよね。

−−音楽は中学時代からやっていたんですか?

木崎:バンドを立教中学からやっていて、立教高校1年の時にライトミュージックコンテストの東京大会で3位に入り、関東甲信越大会に出場しました。その大会には南こうせつとかぐや姫も初出場していました。後に『夜のヒットスタジオ』であった時、こうせつさんが「せっちゃん」でいいよ!と言ってくれたのは、そのとき一緒にやっているからでしょうね(笑)。

 それで高校2年の時に僕は軽音楽部のキャプテンをやっていたんですが、僕らのバンドに憧れて、クラブに入ってきたのが佐野元春なんです。これは自慢じゃないですが、元春にCSN&YのオープンDチューニングを教えたのは僕なんです(笑)。そのあと、大学に入ってから勿論音楽は続けるのですが、「ZIGZAG」というテニス愛好会を作ったり、フリースタイルスキーのクラブを作ったり、当時7つくらいクラブを兼任していて、そのうち4つのクラブでキャプテンをやっていたので(笑)、何が何だかわからないような状況でした。

−−スキーもおやりになるんですか?

木崎:はい。自慢じゃないですが、三浦雄一郎さんにフリースタイルスキーを教えたのは僕らなんです。僕らのチームのリーダーがアメリカで「ホットドッグ」というのを習得してきて、立教でフリースタイルスキーのクラブを日本で初めて作りました。中里昭和というメンバー制のスキー場で練習していたら、三浦さんが「それは"ホットドッグ"だろ。リフトが終わってから教えて!」と言ってきたんですね。僕らは「世界の三浦雄一郎にスキーなんか教えられませんよ」と言ったら、三浦さんは「そのスタイルは一番新しいやつだから教えてほしい」と。

 「リフトが終わっちゃったらどうするのかな?」と思っていたら、三浦さんがリフト小屋まで行って「2時間よろしく!」と声をかけたら、いきなりリフトが動き出しました(笑)。それで僕らが半年くらいかけて習ってようやく習得したものを、三浦さんは2時間で覚えちゃいましたね。でも、三浦さんがあれだけ転んでいる姿を見たのは、僕らしかいないんじゃないでしょうか(笑)。
 その後、三浦さんは「君たちは僕の先生なんだから、今日からプロスキーヤーだ!」とおっしゃっていました。「プロライセンスあげるからロッジに来い」と言われましたが、さすがにそれは冗談だろうと行きませんでしたが、後で聞いたら本当に用意してくれていたそうでした。行けば良かった(笑)。

 

 

2. 学生なのにテレビディレクター!?~伝説の『11PM』時代

 

−−大学はどんな感じだったんですか?

木崎:僕は大学2年の時からワイルドワンズの鳥塚しげきさんのマネージャーをやっていました。

−−ワイルドワンズのマネージャーをするきっかけは何だったんですか?

木崎:実は沢田研二さんのプロデュースをしていたは僕の従兄弟なんです。賢治は加瀬邦彦さんと友達だったので、その紹介で、鳥塚しげきさんも立教大学の先輩ということもあって、「夏休み暇だったらアルバイトで手伝ってよ」と言われたんです。「ワイルドワンズは解散してから忙しくて。でもマネージャーがいないんだよ」とか言われて(笑)。

−−でも、その頃はワイルドワンズが解散して結構たっていますよね。

木崎:解散して10年近くたっていたと思いますが、夏になると相当営業が入っているんですよ(笑)。

−−では、大学入学とともにいきなり芸能マネージャーですか。

木崎:そうです。だからとても忙しかったですね。

−−マネージャーはいつまで続けられたんですか?

木崎:1年くらいやっていたんですが、マネージャーの仕事が自分には性に合わないので、鳥塚さんに相談したら「テレビの仕事はどう?」と、『11PM』のアルバイトを紹介してくれました。それで大学3年の時からそのアルバイトを始めたら、凄く楽しかったんですね。僕は鳥塚さんと出会っていなければ、この業界に入っていなかったかもしれないです。

−−『11PM』では何をされていたんですか?

木崎:いわゆる「地獄のAD」です。24時間奉仕の丁稚奉公みたいなものでした。ただ、僕はテレビの仕事が面白くてしょうがなかったです。『11PM』は凄い番組で担当ディレクターが放送作家を一人雇い、あとAD一人しかいないんです。ディレクターにはUFOや超能力の矢追純一さんとか、24時間テレビを作った都築さんとか、夕陽とSLばかり追いかけている岩倉具視の孫の岩倉さんとか個性的なディレクターばかりなんですよ。ちなみに僕がついたディレクターは、日本中のお祭りと道祖神を追いかけている園田さんでした(笑)。

−−確か二日間は関西ですよね?

木崎:そうです。月・水・金が東京で、金曜日だけは「イレブンダービー」とか麻雀とか、大橋巨泉さんの趣味で埋め尽くしていたので、実質は月・水だけなんです。そこを7人のディレクターが好きなことをやるわけです。しかも、毎回スペシャルなわけですよ。だから、音楽番組だろうが、クイズ番組だろうが、ニュース大賞でもストリップ大賞でもなんでもあり。好きなことができるわけです。それこそ僕は落語が好きだったので、「1分落語大会」といって若手落語家を出演させて、ゴングショーじゃないですが話がつまらないと鐘を鳴らしてすぐ止めさせて、面白ければ最長3分まで話せる番組をやりました。そこから三遊亭小遊三さんとかたくさんの若手落語家が育っていきました。

−−『11PM』時代の面白いエピソードなどありますか?
木崎 徹8
木崎:ある時、ディレクターに「お前どこに行きたい?」と訊かれて、「グアム島に行きたい」と言うと、「じゃあ、グアム島のタイアップとってこい」と(笑)。それで先輩ADに相談すると、「予算は自分たちで調達するんだ、だから自分たちの好きなことをやれるんだから」と言われ、政府観光局に行ってこい!と言われました。それで「今度、"11PM"でグアム島の取材をやりたい」と申し出ると、観光スポットやホテル、航空会社と色々紹介してくれて、そこを全部自分で決めてくるわけです。それで「こういうタイアップをとってきたんですが・・・」とディレクターに言うと、「じゃあそれでいこう」で決まりなわけです(笑)。結局、その後関わった様々な番組を含めると、僕は135カ国行きました。

−−135カ国は凄いですね!

木崎:海外旅行ブームの走りだったからじゃないですかねえ・・・みんなが行きたいところを先回りしてテレビで見せていた時代ですから、美味しかったなあ (笑)。

−−当時はテレビが一番力を持っていたときですね。

木崎:しかも日本テレビが一番面白いときですからね。日テレの黄金時代にADで参加して、3年しないうちにディレクターになりました。

−−大学在学中にもうディレクターになったんですか?

木崎:仕事は楽しかったんですが、「もしディレクターになれなかったら、どこかに就職しないといけないな」と思って、実はもう一年大学に席を残したんです(笑)。

−−学生でありながらディレクターですか・・・凄いですね。

木崎:大学5年のときにはディレクターをやっていました。卒業時も取材でヨーロッパに行っていたので、仕方なく兄貴に卒業証書をもらいに行ってもらったんですよ(笑)。

−−『11PM』で培ったことは、その後のお仕事に生かされていますか?

木崎:『11PM』の時は、全てのノウハウを自分たちで勉強していました。『24時間テレビ』もちょうどその頃始まったんですが、『24時間テレビ』も都築忠彦さんという『11PM』のディレクターが作ったので「11PM/木スペ(木曜スペシャル)」班が駆り出されましたし、『日本アカデミー賞』も同じ班で作りました。『日本アカデミー賞』に関して、僕はAD、ディレクター、放送作家になってからと三代でやりました(笑)。ですから『日本アカデミー賞』のノウハウが、その後関わることになる日本ゴールドディスク大賞に生かされていると思います。

 

 

3. バブルガム・ブラザーズ結成秘話

木崎 徹3

−−その後、なぜ日本テレビを離れることになったんですか?

木崎:それはバブルガム・ブラザーズを作ったからなんです。当時、僕はKORNちゃんとTOMちゃんと毎晩飲んでいて、その中で「バンドをやりたい」と話していたんですね。彼らはお笑いをやっていて、当時『ブルース・ブラザーズ』がもの凄く流行っていたので、「こういうのやりたいね!」とも話していました。それで僕は「ジェームズ・ブラウンのステージのようにMCをやる!」と言って(笑)、KORNとTOMは黒装束で僕は白のタキシードを着て、ルイードでライブをしたら大受けしてしまって、その後もライブをするたびに超満員でした。

 その話を聞きつけて、最終的にはレコード会社8社で争奪戦になったんです。それで「一番契約金が高いところにしよう」と話し合っていたんですが、当時、EPICソニーにはシャネルズ(ラッツ&スター)や佐野元春がいたので、「EPICソニーがいいな」とも思っていました。それで丸さん(丸山茂雄氏:現(株)に・よん・なな・みゅーじっく 代表取締役)に「ライブを見に来るだけで、契約の話は持ってきてくれないんですか?」と訊いたら、「お前らのところにはいっぱい話がきてるんだろう」と言うんですよ。「来てますけど、僕らはEPICソニーでやりたい」と言ったら、丸さんは「ウチは契約金払わねえぞ。それでもよかったらウチ来るか?」って言うんですよ(笑)。結局、一円も契約金をくれなかったEPICソニーと契約しました。

−−丸山さんらしい口説き方ですね(笑)。

木崎:それで「佐野元春に曲を書かせましょう」と提案したら、「お前なに言ってるの? 佐野が人に曲を書くわけないじゃない」と言われたんですね。実は佐野とKORNちゃんは中学が一緒で、高校は僕と一緒で、先ほどもお話ししたように、佐野にギターを教えたのは僕ですからね・・・(笑)。

−−大学卒業後も佐野さんとは交流があったんですか?

木崎:佐野はミュージシャンになる前にコピーライターをやっていたんですが、ある時に「木崎さん、俺やっぱり音楽で飯を食いたい」と電話をかけてきたんです。でも、僕は当時テレビの人間でしたから、「僕は音楽関係じゃないから駄目だよ」と言ったら、「従兄弟の木崎さんを紹介して欲しい」と頼んできたんです。

 それで賢治に佐野を紹介したら、賢治も佐野の書く曲を凄く気に入って、それで沢田研二さんの曲を佐野に書かせたんです。「THE VANITY FACTORY」とかは沢田さんもお気に入りで佐野君のバージョンには自らコーラスで参加したほどですからね。何が凄いって、僕よりも従兄弟の賢治が凄いですよ。アーチストの原石をダイヤモンドにする天才じゃないですかね。大沢誉志幸さんもそうだし、槇原敬之さんもバンプ・オブ・チキンも・・・従兄弟ながら本当に尊敬しています。

 先日大学のテニス同好会「ZIGZAG」が創立30周年を迎え佐野にも来て貰ったのですが、「僕がプロのミュージシャンになるきっかけを作ってくれたのは木崎さんです」って言ってくれたのが嬉しかったなあ。

−−でも、そんな経緯をEPICは知りませんよね。

木崎:そうですね。それで僕もKORNちゃんも元春の友達だと説明したんですが、「EPICソニーとしては佐野さんにそんなお願いはできません」の一点張りでした(笑)。その当時、佐野はニューヨークに行っていたんですが、僕が直接電話をして「KORNちゃん達とブルース・ブラザーズみたいなバンド作ったんだよ」と言ったら、「リズム&ブルースやってるんだ! かっこいいじゃん! なんか聴かせてよ!」と言われたので、テープを送ったら凄く気に入ってくれて、それで『ソウル・スピリット・パート2』という曲を書いてくれたんです。ですから、バブルガム・ブラザーズの最初のアルバムは、にプロデュースをしてもらって、僕がエグゼクティブ・プロデューサーをやり、曲は佐野や大沢君が書いてくれて、EPICもびっくりするような豪華さだったんですよ(笑)。

−−バブルガム・ブラザーズのお二人はもともとミュージシャンになりたい人たちだったんですか?

木崎:二人とも音楽が大好きだったんです。特にKORNちゃんのソウル、R&Bに関しての知識は凄いんです。そして、TOMは歌がめちゃくちゃ上手かったです。

−−そのバブルガム・ブラザーズ結成と日本テレビを離れることはどのように関係してくるのですか?

木崎:ルイードでのライブが大受けした後に『オールナイトフジ』への出演を誘われて、その頃の『オールナイト・フジ』は勢いがありましたから「面白そうだ」と思って、僕も出演したんですね。そうしたら、次の日に局長から「お前、昨日フジテレビに出てなかったか? 噂になっているんだが・・・」と言われて(笑)、そのときは何とかごまかしたんですが、内心「これはまずいな」と思いまして(笑)、それで僕はプロデューサーという立場に身を引いて、フロントはKORNちゃんとTOMの二人になったんです。それまでは僕もステージ上でブルース・ハープを吹いていたんですよ。

−−プレイヤーまでやっていたんですか。

木崎:やってました。それでBGBカンパニーという会社を作って、代表を前川に任せて、僕は陰の取締役になったんですね。そのときに僕の師匠である「今夜は最高!」などのCPだった中村公一さん(元日本テレビ音楽社長)から、「徹、そろそろはっきりさせておいたほうがいいぞ」と言われたんです。

 実はその頃、日本テレビが中途採用で正社員を若干名だけ募集するという話がありまして、「お前がその気だったら、CPみんなで推薦する。でも、その気がないのだったら日本テレビ以外で仕事をしろ」と言われました。つまり、日本テレビは今絶頂期だけど、いつ落ちるか分からないし、そうなったときに他の局で仕事ができなかったら、フリーのディレクターとして食えなくなる、と言われたんです。でも、僕は放送作家をやりたいと思っていたので、日テレの契約社員を辞めて、正社員にもならなかったんです。

−−それは大変に思案のしどころだったんじゃないですか?

木崎:そうですね。でも、結果的にフリーになって大正解でした。中村ハムさんに「日本テレビって、一生いると幾らくらい稼げるんですか?」と訊いたんですね。当時でもおそらく日本テレビは民放で一番給料がいいはずで、「2億~2億5千万くらいじゃないかな」と言われて、気持ちがすーっと冷めたんですよ。そのときに「僕は1回でいいから、1年で1億稼ぎたいんです」と言ったんです。そうしたら、「お前何考えてるの?」と言われましたけどね(笑)。

−−生涯年収を聞いて、冷めてしまったと。

木崎:一生会社で働いてその額だと夢がないなと思ったんです。もちろん、そのときは稼げるあても何もないんです。でも、音楽や芸能は水ものだけど、そういった夢もいっぱいあるわけで、こういう仕事をやる以上、会社に守られて一生働いてもつまらない気がしたんですね。

−−夢のある仕事だからこそ、その夢を追おうと考えられたんですね。

木崎:ただ、「しばらくは日本テレビで仕事をするな」と言われたので、「それもなくなっちゃうのか・・・」と心細くもなりましたけどね(笑)。

−−しばらくは日本テレビでは仕事なさらなかったんですか?

木崎:ええ。ピタッと止めました。でも、放送作家をやると言っても、原稿の書き方も分からなかったですし、僕は高校の頃、現代国語の成績が「1」だったほどで、文字を書くのも嫌いだったんです(笑)。それで偉い先生達が書いたナレーション原稿が捨てられているのを拾ってきて、それを毎日原稿用紙にリライトして、必死に勉強しました。

−−結局、放送作家としては一番お忙しいときでどのくらい仕事を受けられていたんですか?

木崎:入ってくる仕事を全部受けて、民放全局!レギュラーが週に13本という時もありました。

−−レギュラーが週13本ですか! でも、肉体的にはヘトヘトでしょうね・・・。

木崎:当時、1日2時間以上寝た覚えがないです。そのころは弟子もいなかったので、原稿は全て自分で書いていましたし、本番も全て立ち会っていましたから、滅茶苦茶忙しかったです。

−−全ての本番に立ち会っていたんですか!?

木崎:そうなんですよ(笑)。実はディレクターをやっていたときに「本番に立ち会わない作家はいらねえ!」と啖呵を切ってしまった手前、本番には全部立ち会うことになってしまったんです(笑)。でも、立ち会っていたからこそミュージシャンとも仲良くなりましたし、色々な人と出会うことができたと思っています。

 

 

4.『夜のヒットスタジオ』の復活劇

 

−−放送作家として『夜のヒットスタジオ』『FUN』『ポップジャム』など数々の番組を手がけられるわけですが、思い出に残っている番組は何ですか?

木崎:やはり『夜のヒットスタジオ』だと思います。

−−『夜のヒットスタジオ』に参加されるいきさつは?

木崎:'87年頃に『夜のヒットスタジオ』のプロデューサーが渡邊光男さんに代わりました。ナベさんとはバブルガム・ブラザーズを使って『男2』(男の事情)という深夜番組をやらせていただきました。それが縁で『夜ヒット』に誘ってくれたんです。実は当時『夜ヒット』は全盛期に比べて視聴率が落ちていたので、1クールか2クールで潰す予定だったそうです。つまり、僕たちに好き勝手に番組作りをさせて、ある意味番組をぶっ壊してから(笑)、終わらせようとしたんでしょうね。

−−どのように番組を変えていったのですか?
木崎 徹4
木崎:僕たちがいいと思ったアーティストは、誰がなんと言おうと番組に出そうと話し合いました。また、僕はアイドル系や歌謡曲系歌手たちとのお付き合いはほとんどなかったんですが、ロックやニューミュージック系との付き合いは沢山あったので、渡邊光男プロデューサーに紹介しました。その中でもCHAGE and ASKAや米米クラブ、ドリームズ・カム・トゥルー、久保田利伸そしてB'zといったアーティスト達を出演させたら、みんな受けていくわけです。その結果、『夜のヒットスタジオ』は完全に復活して、以後5年続きました。

−−イメージとして、80年代後半に『夜のヒットスタジオ』が大きく変わった印象があります。新しいパワーが出てきたと言いますか。

木崎:本来は番組を終わらすためにメチャクチャやった結果なんです。ちょうど日本の音楽シーンも変わろうとしていたときで、時代の波に上手くはまったんでしょうね。ドリームズ・カム・トゥルーはテレビ初出演でしたし、久保田利伸さんもTM NETWORKもそうでした。

−−『夜のヒットスタジオ』って昔は歌謡番組というイメージでしたよね。

木崎:これからの歌番組はデパートではなく、専門店の時代だと思っていたので、『夜のヒットスタジオ SUPER』と『R&N』、『演歌』、『インターナショナル』の4分割したんです。尖っている奴らは『R&N』つまり「ロック&ニューウェーブ」に、そして演歌の人たちは『演歌』にしようとしたときに、『演歌』の司会をベーヤン(堀内孝雄さん)にお願いしたんですが、ベーヤンが「何で俺が演歌なんだ!」と怒ったんですよ。「俺が演歌の司会は違うだろう、ちゃん!」と言ってきたので、「何言ってるんですか。あなたはずっと日本の心を歌ってきたじゃないですか」と言ったら、「そう言われりゃそうだな」と引き受けてもらえました(笑)。

−−ということは、堀内孝雄さんを演歌歌手にしたのは、木崎さんだったんですね(笑)。

木崎:ナベさんと相談してべーヤンだよねえと決めましたが、文句を言ってたベーヤンは1年たったらしっかり演歌を歌っていましたからね。

−−ちなみにそのとき司会者は誰だったんですか?

木崎:古館と芳村真理さんです。

−−そこで再び古館さんが登場されるわけですね!

木崎:でも、僕が番組に関わる前から古館が司会だったので、これは偶然です。古館はテレビ朝日を退社して、僕は日本テレビを辞めて、真ん中のフジテレビで再会したわけです。「だったら最高だよ!」と言ってくれましたね。

−−木崎さんの頃も、あの階段を下りながら他人の曲を歌うオープニングだったんですか?

木崎:一応あの伝統は守ろうよと決めました。僕は生まれが黒門町ですから、常に伝統は守るべきだと思うんです。ただ、伝統は革新の裏付けがなかったら駄目だと思うんです。ビートルズなんかまさにそうですよね。

 『夜ヒット』は本当に面白かったですね。僕は作家なのにインカムをつけてましたしね(笑)。生放送ですから、何かあるとナベさんから「お前と古館で決めろ」と指示が来て、その場で古館に指示を出していたので、その場で本を書いている感覚でした。

−−放送作家兼ディレクターという感じですね。

木崎:いやフロアディレクターですね。放送作家とはいえ、もともと『11PM』のAD出身なので生放送は得意なんです(笑)。ちなみにその時の本当のフロアディレクターは今をときめくフジテレビの音組きくちしんさんですけどね。

−−音楽番組以外には、どのような番組をやられたんですか?

木崎:とにかくたくさん番組を手がけていたんですが、僕はディズニーのオフィシャルライター的な事もやってましたので、'83年に東京ディズニーランドがオープンしてから東京ディズニーランド関係の番組はほとんどやらせて頂きましたね。

−−ディズニーは昔からお好きだったんですか?

木崎:大好きです。ディズニーは作家が書く原稿にとても厳しくて、スペシャル番組を作るときに「これはウォルトの精神と違う」と何度も作家を変えられて、制作会社も困り果てて、「まさか木崎さんはディズニーとか好きではないですよね?」と訊いてきたので、「実はもの凄く好きなんです」とカミングアウトしたんです(笑)。それでディズニー側に紹介されたら、「何故そんなにウォルト・ディズニーの精神をよく知っているの?」と気に入っていただいて、それからはずっと僕が書くようになりました。『ディズニー・クリスマススペシャル』という番組をテレビ朝日で2年やって、TBSで3年、その次はNHKで2年やっているんですが、局が変わって放送作家は変わらないというのは普通あり得ないと思います。

 

 

5. 日本のスタンダードナンバーを作りたい!

木崎 徹7

−−加山雄三トリビュート『60 CANDLES』制作のきっかけは何だったのですか?

木崎:ファンハウスの新田さん(新田和長氏 現(株)ドリーミュージック 取締役エグゼクティブプロデューサー)がGD大賞の委員長をされていて、GD大賞が終わったあとに「木崎さんは音楽プロデューサーをやったらいいのに」と言われたのがきっかけです。実はそのときに1つだけやりたいことがあったんですよ。

−−そのやりたいこととは何だったのですか?

木崎:『夜のヒットスタジオ』を始め色々な番組を作ってきて、ヒット曲を作るお手伝いは一杯してきたんですが、日本のスタンダードナンバーを作ることができなかったんです。だから日本のスタンダードナンバーを作りたいと考えていました。でも、どこのテレビ局も音楽番組で古い曲をやってくれないんですね。いくら努力をしても、たまに昔の曲を歌うくらいで。

−−どうしても懐メロ扱いになってしまう。

木崎:そうです。「僕は懐メロではなくて、スタンダードを作りたいんです。例えば、加山雄三さんの曲を色々な人が歌ったら最高ですよね」と新田さんに言ったら、その場で「あなたにプロデューサーを任せますから、その企画是非やりましょう!」とおっしゃってくれたんです。それは加山さんの還暦の2年前のことで、アルバムを出すのにそこから1年半かかりました。

−−あれだけ豪華なメンツを集めるのも大変でしょうね。

木崎:凄く大変でしたね。まず、親友であるASKAに話をしたら、「それはできたら凄いけど、レコード会社を越えて、印税率や出版、原盤と色々大変だよ」と言われました。それからTHE ALFEEの高見沢俊彦さんとか、米米クラブの石井竜也さんとかTUBEの前田亘輝さんとか仲のよい友達から口説いていって、参加してくれるアーティストを増やしていったんですが、そのあとどうしたらいいか分からなかったんです。そうしたらASKAが「とりあえず誰かがレコーディングしちゃったらいいんじゃないか?」と提案してくれました。つまり、誰かがレコーディングしたという話を聞かない限り、いくらやると言ってくれていても、前には進まないだろうと。

−−誰かが先陣を切らないと動いていかない。

木崎:それで最初にASKAが『夜空を仰いで』をレコーディングしてくれたんです。「トラックダウンが終わったよ」と夜中の12時頃電話がありすぐに飛んで行きました。その音源を聴いた時本当に素晴らしかったのですが、「凄くいいんだけど・・・これだとトリビュートじゃなくてカバーじゃないかな?」と失礼なことを言ったんですよ(笑)。「僕はカバーではなくて、トリビュートアルバムを作りたいんだ」と言ったら、「わかった! ちゃん! ASKAの歌にしていいんだね! じゃあすぐに帰って!」と言われて、2週間後には「できた」と電話がかかってきました。で、その作品が本当にすばらしくて、完璧にASKAの身体の中で一度消化されて出てきた音になっていました。一番面白かったのは 加山さんに内緒で作っていたのですが、どこかでバレて「聞かせてくれよ」と言われてASKAの音源を聞かせたら「いい曲だなあ・・・誰の曲?」と「本当かよ? 歌う人がいいと良い曲になるなあ」と言われました。

−−ASKAさんが消化した音を作り上げてきたわけですね。

木崎:そうです。トリビュートが何かの指標を作ってくれました。でも他のアーチストがイメージを固定されてしまうと困るので、ASKAの音源はちょっとしか聴かせないようにしました(笑)。

−−人がどうやっているのかわからないと、逆に緊張感が出ますよね。

木崎:そうなんです(笑)。それでASKAがレコーディングしたと聞いたら、みんな次々とレコーディングに入ってくれて、それぞれの個性が十二分に出た、素晴らしい演奏をしてくれました。バブルガム・ブラザーズにも「すぐレコーディングして!」と言ったら、完璧に『Won't Be Long』のノリでレコーディングしてくれて(笑)。カバーソングをあちこちから集めて作ったアルバムはそれまでにもありましたが、この作品のように各レコード会社の4番打者みたいな人たちを集めて、オリジナルで作ったトリビュートアルバムは初めてだったので、みんな気合いが入っていました。まさに音楽界のオールスターゲームの監督の気分でしたね。

−−これだけのものになると相当な苦労でしょうね。発売されないかもしれないのに、みなさんレコーディングをしてくれたわけですものね。

木崎:本当にそうですよ。とりあえず14曲レコーディングできたんですが、当時CDの収録時間が74分なのにバブルガム・ブラザーズの曲が6分半もあって、「これじゃはみ出しちゃうよ! 切れ!」なんて言っていたんですが(笑)、新田さんが「それもかわいそうだし、せっかくここまできたんだから20曲で2枚組にしないか?」とおっしゃって(笑)、そこからまた半年くらい完成が延びました。それで南こうせつさんやさだまさしさん、森山良子さんといった大御所の方々にも参加いただくことによって、より幅広い世代の人たちに聴いてもらえるようになったと思います。

−−その後、『We Love Mickey』(ミッキーマウス生誕70周年記念)や『美空ひばりトリビュート』など数々のトリビュートアルバムを手がけられていますが、今後もトリビュートアルバムを作る予定はあるんですか?

木崎:これだけトリビュートアルバムが流行ってしまうと、「ちょっとどうかな?」という気持ちがあるんです。ただ、2007年4月で加山さんは古希を迎えるので、その記念に『60 CANDLES』に何曲か加えて、『70 CANDLES』として再発するか、全く新しいトリビュートアルバムを作るか・・・という話が出ています。加山さんと一緒にラジオをやっていると、「もう買えないのでしょうか?」という声が凄く多いですし、加山さんご自身も「君、また何か企んでるな?!」とおっしゃっているので、『70 CANDLES』も是非実現させたいですね。

−−また、昨年「加山雄三45周年コンサート」のプロデュースもされていますね。

木崎:指揮者の大友直人さんは古くからの友人で 彼が東京文化会館の音楽監督を務めているんですが、大友さんにはクラシックの聖地とされている東京文化会館に、クラシックのファン以外の人たちにも来て欲しいという強い思いがありました。しかも東京文化会館も開館45周年なので「加山雄三With大友直人シンフォニック・ガラ・コンサート」をやりました。実はあのステージにポップスシンガーが上がったことは、それまで一度もなかったので大変画期的なコンサートでした。このコンサートでは千住明さんに監修をお願いして、加山さんの名曲の数々をフルオーケストラ編成で演奏できるように、一から譜面を作り直したんです。とても大変な作業でしたが、素晴らしいコンサートになったと思います。

−−お客さんもたくさん入ったんですか?

木崎:2日間やったんですが、お陰様で両日ともに超満員でした。DVDも現在相当売れているそうで嬉しい限りです。DVDといえばスタッフが感激したのは「指揮者があの場所で聞く音を皆さんに聞かせてあげたい」と、大友さんが自ら5.1chのトラックダウンにつきあってくれたんです。普通指揮者がそこまでやりますか? 加山さんも編集に立ち会ったりといかに皆さんがガラコンサートを大事に思ってくれているかプロデューサー冥利につきますね。

 嬉しいことに、各地のオーケストラからも「一緒にやりたい」とオファーを頂いていまして、2007年の秋~2008年に日本全国10カ所くらいで加山さんと大友さんで回る予定です。大友さんはハワイのホノルル・フィルやアメリカのボストン・フィルともできるんじゃないかな・・・と言ってました。

−−そもそも木崎さんは加山雄三さんのファンだったんですか?

木崎:もう、大ファンですね。今、僕は谷村新司さんのプロデュースもやっているんですが、谷村さんとも「僕らは京南大学に入りたいと真剣に思っていたよね」とよく話すんです(笑)。

−−いや、僕もそう思ってました(笑)。我々の世代にとって、加山さんはスーパーヒーローですからね。

木崎:たぶん、加山さんがいなかったらスキーもやらないし、ギターも弾かないし、やらないものがいっぱいあったんじゃないかなと思います。それまではどんなことをやっても親からは褒められたことがなかったのに、『60 CANDLES』を作ったときは、「いい仕事したね!」と凄く褒められましたものね。両親も兄も加山さんのことが大好きですし、僕も加山さんに「最高の仕事をしてくれたね!ありがとう!」と言われたときには、「もう死んでもいい」と思いました(笑)。

 

 

6. CDを買ってくれた人々が獲らせてくれる賞~日本ゴールドディスク大賞にこめる思い

 

−−木崎さんは長年、日本ゴールドディスク大賞(以下 GD大賞)の構成・演出をされていますね。

木崎:もともと、構成作家としてNHKと一緒にGD大賞の番組作りをしていたんですが、色々な事情でNHKが授賞式の中継をするだけのスタンスに変わったので、僕は日本レコード協会サイドの人間という立場で、GD大賞の構成・演出・プロデュースをする形に4年前からなりました。そして一昨年からGD大賞のスーパーバイザーとして顧問契約をさせていただきました。

木崎 徹9
−−今年、久しぶりにGD大賞を会場で拝見させていただいたんですが、昔と比べるとずいぶん変わってきていますよね。

木崎:そうですね。昔は音楽番組の流れとあまり変わらかったんですが、現在はもっと幅広くなってきていると思います。また、賞というのは20年経ちますとやっと重みみたいなものが出てきますし、「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」に関しては浜崎あゆみさん、B'z、宇多田ヒカルさんも皆さんたちが大事に思って出演していただけているのも大切なことだと思います。

−−確かにGD大賞には普段そういう場に出演しないアーティストも出演されてますよね。

木崎:恐らくきっかけはCHAGE and ASKAじゃないでしょうか。実は彼らとは僕のディレクター時代からディスコを飲み歩いたりしていた仲で、『SAY YES』が爆発的に売れたときに、「GD大賞は他の賞と違って、審査員が選んだのではなく、CDを買ってくれた人たちが獲らせてくれたんだ。その授賞式はお礼の場所なんだから、お礼をしにくるのは当たり前なんじゃないのか?」と説得したら、ASKAが大変共感してくれて、それまで賞には絶対に出なかったのに、GD大賞だけには出演してくれたんです。それからは「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」に関しては、確実に出演していただけています。

 また、僕は流行ものだけではなく、色々なスタンダード・ナンバーを大事にしてきましたので、例えば、クラシックやJAZZ、邦楽にも素晴らしい方々がいるのだから、そういう人たちを出していかないといけないと感じていましたし、それはGD大賞でしかできないとも思っていました。

−−GD大賞はどのように作られているんですか?

木崎:毎月会議をして、各賞ごとに検討していきます。例えば、JAZZ部門では邦楽と洋楽を分けた方がいいのか、それとも上位二つにしたほうがいいのか等、色々決めなくてはいけないことがあるので、1年間じっくり話し合っています。

−−とても手間のかかる作業ですね。演出をする上で心がけていることは何ですか?

木崎:GD大賞というのは今こんなに世の中は動いています、こんなCDが売れています、こういう人たちが愛されています、ということをアピールできる場なんです。もちろん数字のごまかしは一切しませんが、評価されるべき作品・アーティストに対してはしっかり評価をすべきだと考えていますし、それによって活性化することもあります。例えば、千住 明さんの『宿命』のように、クラシックのシングルであれだけ売れるのは考えられないわけです。やはりそういう実績を残した作品に対しては、GD大賞として積極的にアピールするよう心がけています。

−−確かにGD大賞受賞を契機に、さらに飛躍されたアーティストは多いですよね。

木崎:そうですね。寺井尚子さんが今のポジションを築かれたのは確実にGD大賞を獲ってからですし、東儀秀樹さんが音楽ファン以外の一般の人々から注目されたのも、GD大賞で演奏を披露されてからだと思います。僕は以前から東儀秀樹さんの演奏が素晴らしいと思っていまして、東儀さんに出演のオファーをしたら、最初は「GD大賞は僕に合わないんじゃないか?」とおっしゃっていたんです。僕は「こういう場で演奏することによって、"邦楽っていいじゃないか"と観た人は絶対に思ってくれるはずだし、せっかく売れているんだから、"これだけ売れているんです"とアピールした方がいいですよ」と口説きました。

 そういったように色々な方々を一人ずつ説得していって、その積み重ねがGD大賞の20年につながり、皆さんからも評価いただいていると思います。

−−ちなみに東儀さんのBAOの演奏をGD大賞の会場で聴いて、その後BAOのCDを買いました(笑)。

木崎:そうですか。それはとても嬉しいですね。GD大賞を獲ることによって、もっと多くの人が「聴いてみよう」と思ってくれる・・・それがGD大賞の持っている力だと僕は思います。

−−ところで前回ご登場いただいた堂山昌司さんとはGD大賞を通じてお知り合いになったそうですね。

木崎:ええ。堂山さんはソニーやBMG JAPANの時代から、GD大賞を非常に愛してくれて、積極的にフォローをしていただきました。今回テイチクの飯田さん(飯田久彦氏 現エイベックス・エンタテインメント 取締役制作担当)がGD大賞の委員長をお辞めになって、堂山さんが委員長に就任されたので、今後は堂山さんと僕でGD大賞をプロデュースしていくことになります。もちろん合議制ですので、みんなで話し合いながら進めていくのですが、その中でも堂山委員長のリーダーシップに期待がかかっていますので、僕も最大限フォローしなくてはいけないということで、最近は月に1、2回は堂山さんと食事をしながら、色々なお話をさせていただいています。

 

 

7.音楽でアジアと仲良くするために

 

−−現在、音楽業界はCDの販売不振や配信の登場など、大きく変化してきていますが、木崎さんはこの現状をどのようにお考えですか?

木崎:決して音楽が売れなくなっているのではなく、配信の割合が増えているだけなんですね。時代が変わればメディアも変わりますし、アーティストも違う人たちが出てきますし、そんなに捨てたものではないんじゃないかなと僕は思います。

−−そういった状況の中で、木崎さんとしてはGD大賞を今後どのようにしていきたいとお考えですか?

木崎:今後、配信は重要な位置を占めるようになると思いますので、GD大賞としましても、これからは配信を賞の対象にしないといけないと思っています。また、韓国や中国にもレコード協会はできていまして、そことのジョイントも多くなって参りますので、委員会でも日本GD大賞という枠だけではなく、アジアのGD大賞を目指すプロジェクトにしていかなければ・・・と考えています。

 特に今年で20回目という大きな節目をクリアできたので、一年「SHOW」をお休みして「賞」だけを執り行い、更に大きなステップにと委員会では考えています。まもなく重大発表があると思いますのでご期待下さい。

−−そうなると、日本国内だけではなくアジア全体で支持されるアーティストもどんどん出てきそうですね。

木崎:今は韓流に押されているような感じになっていますが、中村由利子さんやS.E.N.Sのように韓国でもの凄く人気のあるアーティストもいますし、地道に努力をしている人たちもたくさんいらっしゃいます。今後はアジアの人たちにも聞いてもらえる音楽がもっとたくさん出てくるのではないでしょうか。

−−中国でも日本の音楽が広く受け入れられているようですしね。

木崎:日中国交正常化30周年の時に谷村新司さんがプロデュースして、日本からは浜崎あゆみさんとGacktさんと酒井法子さんを、そして香港と台湾のアーティストを集めて、北京五輪の競技場でコンサートをやったんですが、その盛り上がりはすごかったです。また、ご承知のように、谷村さんは'04年から上海音楽学院の教授をやっていまして、僕はそのアシスタントを1年間ずっとやっていました。中国で日本国旗が燃やされてしまったときも、ちょうど僕と谷村さんは中国にいて、4万人集まるがサッカー場で中国、香港、台湾、日本の4ヵ国のスター達が集うコンベンションに参加していたのです。「この状況は危険かもしれない・・・」と思っていたんですが、ステージに出て行ったら、みんなスタンディングオベーションで迎えてくれました。「昴」を大合唱してくれるんですよ。そのときに「マスコミにはこういうところも撮ってほしい」と思いました。音楽はちゃんとアジアとつながっていますよ!

−−中国でも谷村さんの人気は凄いらしいですね。

木崎:そうですね。知らない人はいないのではないかと思うくらいです。各国のスター達がサインを求めて楽屋を訪れたり、それこそ胡錦濤国家主席まで「谷村さんのファンだ」とコンサートに来ちゃうくらいですからね。だから、音楽はちゃんとつながっているというのが僕の実感です。谷村さんも「日本とアジアとの架け橋を今作っておかないと駄目なんだ」、と自分のツアーを3年間封印してまで上海音楽学院の教授をやっているわけで、その志は凄いものだと思います。政治がギクシャクしているのなら、文化でつながったらいいと思いますし、特に僕らの武器は音楽なので、音楽でアジアと仲良くできれば素晴らしいことだと思うんです。

−−谷村さんはその架け橋作りに邁進されているんですね。

木崎:谷村さんが上海音楽学院の教授就任を要請されたときに学院長から「中国はまだ音楽を作る楽しさを知らないから著作権の意識がなく、海賊版が横行している。だから、あなたに音楽を作る楽しさを教えて欲しい」と言われたのですね。中国はクラシックと古典は凄いんですが、オリジナルを作った子達がいない。そこで音楽を作る楽しさがわかれば、自分たちで守ろうとする。そうすると著作権の意識も自然と出てくる、という考えなんですね。それは凄い考え方だと思いました。

−−今後は中国からのポップスターが出てくる可能性もありそうですね。

木崎 徹10
木崎:出てくるでしょうね。谷村さんも才能は凄いと言っていました。面白い話なんですが、ある時「中国人でベンツに乗れる人が何人いるか知っていますか?」と聞かれたんです。その人が言うには「10%はいるでしょう」と。つまり、約1億2千万人=日本の人口と同じくらいベンツに乗っている国が中国なんです。それを考えてみたら、隠れた才能はたくさんいると思いますし、音楽だってちゃんと買ってくれる人たちは潜在的にいるわけです。

−−だから、みんなアジア・マーケットを狙っているわけですよね。

木崎:そうですね。狙っているというか、もっとボーダレスになってもいいはずですよね。ですから、GD大賞も今後はワールドワイドと言いますか、アジアワイドで良いと思います。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。m.gif
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

 記念すべき60回目のMusicman's リレーは、サービス精神旺盛でエネルギッシュな木崎さんに圧倒されっぱなしのインタビューとなりました。取材の中で特に印象的だったのが、「スタンダードナンバーを作りたい」という言葉です。流行廃りの激しいテレビ業界や音楽業界の第一線でお仕事をされながら、その気持ちを持ち続ける木崎さんからは、常に音楽を大切にする姿勢を感じました。それは構成・演出を手がけられている日本ゴールドディスク大賞や、数々のトリビュートアルバム、そして加山雄三さんや谷村新司さんとのお仕事に見事に現れているのではないでしょうか。今後のご活躍がますます楽しみです。

 さて次回は、指揮者 大友直人氏のご登場です。お楽しみに!