第54回 中西健夫 氏

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2010/12/17 (金) - 00:00

株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長中西健夫メイン 今回の「Musicman's リレー」は、ファイブ・ディー(株) 代表取締役 佐藤 剛氏からのご紹介で、(株)ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫氏のご登場です。大学卒業後、ミュージシャンとしてメジャーデビューするも成功には至らず、アルバイトとしてディスクガレージ入社。以後、甲斐バンドやBOφWY、レベッカ、ハウンドドッグ、J(S)Wといった'80年代を代表するアーティストとの仕事を通じて、頭角を現した中西氏。音楽に限らず、業務領域を拡げているディスクガレージの秘密は、中西氏の軽快なフットワークにありました。

 
プロフィール
中西健夫(なかにし・たけお)
株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長


 
1956年12月11日生まれ。京都府出身。
1972年 京都にてバンド活動開始 
1979年 京都産業大学 経済学部 卒業 
 同年 バンドにてメジャーデビュー 
1980年 株式会社ディスクガレージにアルバイトとして入社 
1981年 株式会社ディスクガレージの社員となる 
1990年4月株式会社ディスクガレージ 取締役専務就任
1993年3月株式会社ディスクガレージ 代表取締役副社長 就任
1997年4月株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 就任

http://www.diskgarage.com 1. 反発した中西家14代目 −−前回ご登場頂いた佐藤剛さんとは、どのようなご関係なのですか?

中西:剛さんとの出会いは、甲斐バンドなんです。剛さんと甲斐バンドがシンコーミュージックから独立されて、「ビートニク」という会社を作ったんですが、ちょうどディスクガレージ自体がコンサート事業をやり始めた頃なんです。当時甲斐バンドのコンサートは、メロディーハウスという会社がやっていまして、今そこのスタッフはフリップサイドを作ったり、アミューズにいたりするんですが、八王子のライブだけ人が入らないというので、「これは狙い目だ」と思って、「八王子だけディスクガレージでやらせてください」とお願いしたんです。
 僕もまだ若かったですから、八王子に一週間くらい泊まり込んで、チラシを撒いたり、ポスターを貼ったりした結果、あり得ないくらい人が入って、大成功しました。それが剛さんに評価されたんだと思うんですが、そこから剛さんと甲斐バンドを一緒にやり始めました。

−−そして、今ではディスクガレージもファイブ・ディーも同じビルにあるわけですよね。

中西:そうですね。打ち合わせに行く時間ももったいないので、「一緒のビルに入りませんか?」と僕が剛さんを誘ったんです。そうしたら、剛さんも「あっ、いいよ」みたいな感じで(笑)。

−−中西さんが先にこのビルに入られたんですか。

中西:ええ。これは剛さんも話したかもしれませんが、THE BOOMを紹介したのも、僕らなんです。THE BOOMがまだ原宿の路上でライブをやっているときに、うちの会社のアルバイトが「ホコ天にすごくいいバンドがいる」と言うので、うちの黒木という社員が見に行き、トントン拍子に話が進んで、「プロダクションをどこにするか?」という話になったときに出てきたのが、剛さんだったんですね。実際、僕らが剛さんのところに持っていったアーティストって結構多いんです。「このアーティストは剛さんに合うかな?」と思ったら、すぐに剛さんに声をかけていますね。

−−THE BOOMは最初原宿のホコ天で演奏していたんですか。

中西:そうです。ジュンスカやTHE BOOMがやっていた時代です。そういう経緯もありまして、剛さんとは近しいんですけど、かといって飲みに行くという相手でもなかったですね。

−−それはなぜですか?

中西:剛さんと僕は飲み方が違うんです(笑)。

−−(笑)。

中西:もちろんたまには一緒に飲むんですよ(笑)。

−−「飲み方の違い」とは、具体的にどのような違いなんですか?

中西:剛さんは結構、語る飲みなんですね。僕も飲み始めは語るんですが、そのあとは弾けたいタイプなんです(笑)。ですから、僕が「この次行こう!」と言っているときに、剛さんはまだ語っている(笑)。「もう話がループしているんだから、いいんじゃないですか?」みたいな感じですね(笑)。だから、一軒目まではOKです(笑)。

−−なるほど(笑)。剛さんはとてもアカデミックな方ですからね。

中西:そうですね。もちろん僕にもアカデミックな部分もあるんですが、それをずっと続けられないんですよね(笑)。そういう違いですね。

−−中西さんから見た佐藤剛さんは、どのような人ですか?

中西:剛さんは音楽に限らず、色々な意味でプロデュース能力が非常に高く、人が理解できないものを理解できる方なので、そういう意味では新しいものを見つける視点が、他の人とは全く違う人だと思います。

−−ここからは中西さんご自身についてお伺いしたいと思います。京都のご出身ということですが、京都市内ですか?

中西:左京区というところです。

−−どのようなご家庭だったんですか?

中西:家はもともと庄屋で、実は僕で14代目なんです。土地持ち金なしの典型なんですが、父は京都市役所に勤めていて、母は教師という非常に堅い感じの家でした。ちなみに家はいわゆる「同志社ファミリー」なんですが、僕はそれに反発してしまって、大変なことになってしまったんですよ(笑)。

−−反発ですか…。

中西:はい。父に反発して、高校受験で勝手に立命館を受験したんですが、落ちて、怒られて…(笑)。つまり、同志社ファミリーにとって、立命館という選択はあり得なかったんですね。

−−早稲田と慶応の関係みたいなものですね。

中西:そうですね。しかも、受験直前にサッカーをやっていたら右手を骨折してしまって、試験を受けるときに右手が使えなかったんですよ(笑)。それで試験に落ちて、でも「高校で浪人は認めない」と父が言うので、2次募集で高校に入って、大学受験のときも当然「同志社に行け」と言われるわけです。でも、それも拒否して、一番行くなと言われていたのが立命館で、その次が京都産業大学だったので、僕は京都産業大学に入りました(笑)。

−−(笑)。なぜ、そこまで反発されたんですか?

中西:父も祖父も親戚も皆同志社で、そのエリート意識に反発したんでしょうね。今考えると無駄に反発したな、とは思いますけどね。

−−私はそういう立場になったことがないので、なかなか理解しづらい部分があるんですが、当時はかなりのプレッシャーだったんでしょうね。

中西:息子は同志社なのが当たり前で、その道を外したら息子じゃないみたいな扱いだったんですよ。ちなみに弟はちゃんと同志社に行きましたからね。

−−その弟さんは今も京都にいらっしゃるんですか?

中西:そうです。

−−ということは、14代目は弟さんが継がれると…。

中西:いや、14代目は長男しか継げないんです。

−−では、中西家はどうなるんですか?

中西:僕が京都に戻らない限り…潰れます(笑)。

−−そうなんですか…(笑)。すごいですね。

中西:いちおう由緒ある家系だったりするんですよ。実は去年父が亡くなったんですが、相続がまた大変で、僕は一切いらないと言ったら、「京都に戻らないということなのか?」と大騒動になってしまって…(笑)。

−−もう京都に戻る気はないんですか?

中西:全然ないですね。

−−傍から見ていると、京都に生まれ育って、バンドとかやって、鴨川のほとりとかを女の子と散歩したりと、なんだか滅茶苦茶楽しそうなイメージがあるんですが。

中西:全然無いですね。京都って、たまに遊びに行くからいいんですよ。僕もそのイメージで、たまに京都に行ったりするんですけどね(笑)。 2. メジャーデビュー→レコード店のレジ係? --音楽はいつからされていたんですか?

中西:音楽は高校に入ったときからやってました。

--当時はどんな音楽をやっていたんですか?

中西:当時の京都は色々な音楽が流行っていたので、3つくらい違うパターンのバンドをやっていました。一つ目はシュガーベイブ系のちょっとおしゃれな音楽をやるバンドで、二つ目は当時すごくカントリーが流行っていたので、バンジョーとフィドルとフラットマンドリンを擁したカントリーテイストのバンド、あとは割と普通のバンドをやっていました。

中西健夫2--楽器は何をなさっていたんですか?

中西:バンドによって楽器を持ち替えていました。ピアノをやったり、ギターをやったり、ベースをやったり。あとちょっとバイオリンを習っていたので、フィドルも少し弾きました。

--頂いたプロフィールには「'79年にメジャーデビュー」とありますが、これは大学卒業後ですか?

中西:大学卒業と同時にですね。僕は大学四年のときに就職を決めて、夏にアメリカのサンディエゴでホームステイをしていたんです。そのとき、お世話になった色々なホスト・ファミリーとのお別れパーティーのために曲を作って、みんなで合唱したらすごく盛り上がって、生まれて初めてのスタンディング・オベーションを何度も受けたんです。それで「音楽って世界共通だな」と感動しながら、ホスト・ファミリーの家に帰ると、母親から「"デビューしないか?"という話が来ている」と葉書が届いていたんです(笑)。音楽に感動した後に、こういう知らせが来るとはすごいなと思いましたね。

--そのデビュー話はどこからきたんですか?

中西:FM802の栗花落 光(現 FM802 常務取締役)さんが、当時ラジオ大阪にいらっしゃったんですが、ラジオ大阪の現場担当の方が僕らを大変気に入ってくれて、その話が栗花落さんへ行き、栗花落さんからフジパシフィックの朝妻一郎さんへ話が行ったんです。今から考えると栗花落さんと朝妻さんというゴールデン・コンビだったんですが、トントン拍子にコロムビアからデビューが決まりました。

--そのバンドで中西さんは歌われていたんですか?

中西:もちろん歌ってもいましたが、今から考えると小室哲哉的と言いますか、作詞・作曲やアレンジをやって、楽器も全て弾いていました。

--プロデューサー的だったんですね。

中西:ライブには出なくてもいいというタイプだったんです。

--結局、そのデビュー話はどうなったんですか?

中西:当然バンドのメンバーはみんな就職が決まっていましたし、僕も京都の某ホテルに就職が決まっていて、本来ホテルマンになる予定だったんですが、いまいち乗り気じゃなかったんですね。結局、ボーカルの女性と僕だけがやりたいと話をしたら「それでもかまわない」というので、2人組でのデビューが決まったんですが、当然父親はそのことを認めてなかったので、大学を卒業すると同時に、ワゴン車に荷物を詰め込んで、夜逃げみたいな形で上京しました。

--ユニットでのデビューだったんですね。ちなみにユニット名を教えて頂いてもよろしいですか?

中西:忘れました(笑)。

--わかりました(笑)。デビューのために上京されて、東京の印象はどうでしたか?

中西:「東京の人って冷たいな…」と感じましたね。例えば、ラジオ番組にブッキングされても、関西弁しか喋れなかったので、終わるたびに「何て喋り方をしているんだ!」と怒られるわけです。「関西弁を直さないと、東京じゃ通用しないぞ」と。

--それは辛いですね…。

中西:そういうことを何度も言われると、段々喋れなくなってしまって、「デビューするってこんなことなのかな…」と思いましたね。当然曲は売れてないですし、辛かったです。それで、デビューから半年くらい経ったときに、とうとうお金が尽きてしまったんですよ。

--事務所はついていなかったんですか?

中西:一応コロムビア預かりで、ある事務所に所属していたんですが、その事務所と相性が悪くて、しかも仕事のギャラも未払いだったりと、田舎で聞いていた「東京って怖いよ」という話が、全て身に降りかかってきたような感じでした(笑)。結局お金がないので、僕らのディレクターが心配をしてくれて、「知り合いがレコード屋を開くから、そこでバイトしたら?」と紹介してくれたのが、ディスクガレージだったんです。

--ディスクガレージって、もともとレコード屋さんだったんですか?

中西:だから「ディスク」の「ガレージ」なんです。'80年に吉祥寺にOPENしたんですが、そこのアルバイトとして僕が入りました。

--中西さんは最初レコード店の店員さんだったんですか。

中西:そうです。レジを打ってました(笑)。

--(笑)。それでバンド活動の方はどうなったんですか?

中西:その頃、もうバンド活動に対しては興味を失っていたんですが、作詞・作曲をしていたので、何曲か人に書いたりしていました。

--バンドの契約はアルバム契約だったんですか?

中西:そうです。シングル1枚、アルバム1枚出して、その次はなかったです。3. ディスクガレージの飛躍 −−ディスクガレージは最初レコード店だったというお話は先ほど伺いましたが、その後どのように変貌を遂げていったんですか?

中西:ディスクガレージは、ユイ音楽工房とフジパシフィック音楽出版と東洋化成の3社が出資して作られたレコード店だったんですが、ちょうど貸レコードが出てきたときと重なって、レコード店としての売り上げが芳しくなかったので、後藤由多加さんから「イベントとかもやっておいた方が良いんじゃないのか?」と提案されて、ユイ音楽工房のイベントのお手伝いをするようになったんです。

 ただ、当時はユイグループだということで、他の事務所が仕事をくれないわけです。当時は「東のユイ、西のヤングジャパン」みたいな構図になっていたんですが、僕は業界のことを全然知りませんでしたから、ヤングジャパンに「佐野元春をやりたんですけど…」と言いに行って、門前払いされたり(笑)、そんなことを繰り返していましたね。

−−ユイ・グループ内だけの仕事では足りなかったんですか?

中西:足りなかったですね。それで、初めて東京で行うライブをやらせてもらったのが、甲斐バンドだったんです。剛さんはユイだろうが、ユイでなかろうが、仕事をちゃんとやってくれるところと組みたいと考える人で、そういう人達がやっと出てきたんですね。

 そして、甲斐バンドに続いてやったのがハウンドドッグで、これもマザーの福田さんという人が、「しっかり仕事をしてくれれば、どこでもいいんだよ」と仰ってくれて、ディスクガレージでやりました。そんな風に色々なアーティストをやり出したのが、'80年代中盤くらいからです。

−−ディスクガレージにおける中西さんの仕事は、レジからイベント業務へと変わったわけですが、そちらの方が自分で向いてると感じられましたか?

中西:全く向いていないと思いましたし、自分がそこ(ステージ)に立っていたはずなのに、裏方へ回るわけですから、悔しくてしょうがなかったですね。

−−まだミュージシャンへの未練があったわけですね。

中西:未練だらけでしたね。今から考えると、その未練の裏返しが上手くいったから、甲斐よしひろさんとすごく仲良くなれたんです。実はアマチュア時代に京都代表として出たコンテストのゲストが甲斐さんで、僕は間違えて甲斐バンドの楽屋に入ってしまったんです(笑)。それで、そのときに「誰や、お前は!」と甲斐さんに怒鳴られたことを僕はすごく根に持っていて、甲斐さんと一緒に仕事をするようになったときに、酔いにまかせて「あんな失礼な人はいない」「実は僕、チューリップのファンなんです」と甲斐さんに話したら、「気に入った!」と言われて、仲良くなったんです(笑)。

−−では、ミュージシャンとしての未練をどうやって断ち切ったんですか?

中西:一番大きな要因は、井上陽水さんのライブを観たときに、「こんなに歌の上手い人がいるんだ…勝てない」と思ったことですね。何に勝とうと思っていたのかわかりませんが(笑)、その後、甲斐バンドを観て「これも勝てない」、ハウンドドッグ観て「大友康平の歌には勝てない」と。

−−先ほど甲斐さんのお話が出ましたが、中西さんはどのようにミュージシャンとの関係を築いていったんですか?
中西健夫3
中西:甲斐さんだけに限らず、僕はミュージシャンの方と自然に仲良くなれるんです。というのは、僕自身ミュージシャンでしたから、ステージが終わったあとに話す会話の視点が他の人と違うので、「中西はよく知ってるよね」みたいなことになるんです。

 僕は技術的なことよりも、トータルでステージを観て、ポイントを意見していたんですね。例えば、「MCであんなに笑わせといて、いきなりシリアスな曲に行かない方がいいんじゃないですか?」とか、「場面を変えてから、バラードに行きましょうよ」とか、そういうことを言っていたんです。

−−パフォーマーとしての意見を言ってあげたということですね。

中西:そうですね。そこで認められると自然と売れるアーティストが集まってきました。また、当時ラジオ番組もやっていたんですが、アーティスト時代にはラジオで馬鹿にされていたのが、今度は自分がラジオでアーティストをチョイスする立場になってしまって、そこでチョイスするアーティストがまた売れていくような状況でした。

−−甲斐バンド、ハウンドドッグのあとはどのようなバンドを手掛けられたんですか?

中西:BOφWYやレベッカ、その後ユニコーン、ジュンスカ、ブルーハーツ、あとTHE BOOMもそこに入ってくると思います。

−−J-ROCKというかJ-POPが正に爆発したときですね。

中西:そうですね。そのときに割と全部やれていたと思います。

−−その当時の中西さんのディスクガレージにおけるお立場は?

中西:もう自信満々ですよね。「俺がいいと言えば当たるのよ」くらいの(笑)。もう、当たりまくってましたからね。

−−黄金の80年代。

中西:「第一期大遊び六本木の夜」状態でした(笑)。まだ僕はペーペーでしたから、みんなに色々なところへ連れて行ってもらえるじゃないですか? それだけ連れて行ってもらえたということは、お金が入ったプロダクションが多かったということなんですよね。

−−もう順風満帆だったんですね。

中西:必ずしもそんなことはなくて、実は社内では上にいた人が嫌で揉めてたんです。それで当時の社長に「僕より働いてない人が年を食っているというだけで、給料が多いのは納得できない。給料が上がらなかったら辞めます」と言ったんです。今から考えると本当に自惚れていたと思います。

 そうしたら「わかった」と社長に言われたので、もうすっかり辞める気で、色々なプロダクションの人に「独立しますからよろしくお願いします」と挨拶したら、みんな「わかった」と言ったくれたので、百人力だと思っていたんですね。でも、僕の奥さんになる人だけが「今の中西さんじゃ危ない」と反対したんです。その言葉が自分の中ですごく引っかかりました。その後、社長から「給料を上げるから、会社に残って欲しい」と仰っていただきました。もちろん社長にはとても恩義があると思っていましたし、彼女の言葉もずっと引っかかっていたので、結局会社に残りました。

−−奥さんが「ちょっと調子に乗っているんじゃないか?」ということを忠告してくれたわけですね。

中西:そういうことですね。人間自惚れているときはわからないものですね。でも、20代後半で当たりまくったら、調子にも乗りますよ(笑)。ただ、お金はなかったので、各プロダクションに遊びに連れて行ってもらって、ごちそうになっていたんですが、そこでまた堂々と「もうやってらんない! うちの会社の給料知ってる?」みたいな話を言ってたんですから、調子に乗るのもいいところだと思いますね(笑)。4. サッカー好きが高じて、FCバルセロナの代理人に!? −−その後、社長に就任されるまで7、8年ありますよね。

中西:うちの元社長は僕より16才年上で、「出来れば僕が三十代のうちに自分は社長を辞めて、リタイアしたい」とずっと言っていたんです。で、それをそのまま実行されたわけですね。

−−完全に会社を手放されたわけですね。

中西:ええ。当時から会長とかにはならないと言ってました。

−−ミュージシャンとして夢破れて、その後バイトで始めた仕事が波に乗り、最終的には会社まで任されているわけですから、音楽業界って何て夢のあるところなんだろう? と若い人達に思わせるようなお話ですよね。

中西:いや、逆に「こんなはずじゃなかった」という感じですね。正直言いまして、会社がこの規模になってしまうと、「会社として」という部分がたくさん出てくるじゃないですか? 音楽が好きだからという部分だけでは全く通用しないこともやらなくてはならないですし、まさか自分が会社経営をやるとは思ってなかったです。

−−今、ディスクガレージの社員は何名なんですか?

中西:ディスクガレージだけで63名で、関連会社を含めますと100名を越えています。

−−ディスクガレージは業務をどんどん拡大していますよね。

中西:うちは音楽に限らず何でもやります。今はスポーツの方向にどんどん特化していますね。

−−スポーツですか?

中西:はい。例えば、ロナウジーニョが所属するFCバルセロナとディスクガレージ、電通の提携などがそうです。

−−それは試合を組むということですか?

中西:試合は興行的な部分ですが、そこだけではなくて、僕は今バルセロナの日本における代理人をしているんです。例えば、TOYOTAがスポンサーになり、「この選手とこういうことをしたい」というプランを委託されて、僕がバルセロナ側と話をするわけです。

−−それは大きい仕事ですね。

中西:そうですね。ですから、今年(2005年)の前半は月一でスペインに行ってました。来週はバレンシアのチームスタッフが来日するので、また提携話を一つ進めます。

−−ディスクガレージはそういう方向に向かっているんですか…。

中西:それは単純な話で、僕は音楽とサッカーが大好きなんです(笑)。ここにきて自分が音楽と共に好きだったサッカーにフォーカスしてみようとサッカーをやり始めたら、話がトントン拍子で進んだんです。

−−ちなみにスペイン語はしゃべれるんですか?
中西健夫4
中西:全然しゃべれませんが、英語で大丈夫なんです。しかも、スペイン人と性格がピッタリみたいで(笑)。

−−(笑)。

中西:この前、バルセロナのマーチャンダイジングのトップと初めて食事をしたんですが、やたら二人だけ盛り上がってしまって、「次行くぞ!」と肩組んで歩いたんですよ。ただ…何を話したんだか全く憶えていないんですよね(笑)。あとで他の人に聞いたら、ずっと二人で話していたと言っていたので、楽しかったんでしょうね(笑)。

−−サッカーの仕事を通じて得られたものはなんですか?

中西:今、海外とのビジネスということでサッカーを扱っていますが、アメリカ人やイギリス人といった契約に縛られている国は除いて、外国人の方がものすごくフェアなんです。今年(2005年)プレシーズンの試合をしたいと、日本からバルセロナに18オファーがあって、まずプレゼンの内容とお金の問題で2/3落として、1/3に残っていたディスクガレージの名前を見て、「何だこの会社?」と思ったらしいんですね。その後、バルセロナ側は各社と面談するために日本に来たんですが、圧倒的にうちの名前は知られていないんです。他は某大手代理店や某大手新聞社だったんですね。結局うちが選ばれたんですが、「選んだ理由は?」と聞いたら、「君がフットボールを愛しているということと、人として好きだ」と言ってもらえたんですね。

 通常、日本のビジネスだと、その代理店と新聞社と僕らでは、力関係で僕らが負けてしまいますが、スペイン人はそういう風に見ないので、すごく仕事のやりがいがあります。どうしても日本人は立場や会社の規模、年齢やキャリアとかを考えるじゃないですか? でも外国人はとてもわかりやすくて、一番いいと思うところとやるという考え方ですからね。

−−でも、そこで信用を勝ち取る中西さんのコミュニケーション能力もすごいですね。

中西:コミュニケーションで大事なのは、彼らが喜びそうなネタを仕入れておくことですね。

−−それはアーティストに対するときと全く同じですよね。

中西:そうです。ギターのフレーズ云々という話と、昨日のパスの角度が…といった話は、対象とするものが違うだけで相通じる話なんです。例えば、「昨日、ロナウジーニョが背中でパスしたじゃない。あれは何!?」と話を切り出すと、相手は「試合をしっかり観てくれている」と思ってくれるじゃないですか。だから、その辺は変わらないですね。

−−中西さんは今もサッカーをやっているんですか?

中西:ええ。うちの会社もチームがありまして、結構やってます。この前の試合は僕の後ろに松木安太郎さん、中西哲生さん、ボランチの後ろに井原さんを入れてやりました(笑)。夢みたいでした。

−−元プロに混じってやっているわけですか! すごいですね。

中西:この年齢の割には頑張っています(笑)。最近はストイックにジム通いも始めました。

−−そのサッカーを仕事に結びつけられているわけですから、素晴らしいですよね。

中西:彼らが喜んでくれるのは、一緒にサッカーができることだったりして、日本に来たときも一緒にやったりしますね。

−−中西さんは自分でバンドをやっていたからアーティストの気持ちがわかり、サッカーもご自身でやられるからこそ、よりコミュニケーションが図れるわけですね。

中西:そうですね。でも、日本代表クラスの人達とピッチに立つというのは、音楽で例えると桑田佳祐さんと同じステージに立つようなものなんですよ(笑)。

−−桑田さんに「ちょっとセッション来いよ」って言われてるみたいな感じですね(笑)。

中西:そうそう(笑)。「ボーカルはミスチルの櫻井君と俺で取るから、お前は後ろでギターを弾けよ」みたいな話です(笑)。「そんなことありえない!」というようなことが、サッカーではできてしまうので、スポーツは楽しいなと思いますね。

−−そのうち世界レベルのメンバーになりそうですね。

中西:実はこの前、元オランダ代表のライカールトとサッカーをやったんですよ。(部屋に飾られている写真を指して)あれはライカールトと試合で絡んでいる写真を撮ってもらったんです。さも僕がボールを取っているように見えますが、実は簡単にボールを取られて終わったんですよ(笑)。5. 会社もフォワードだけでは成立しない~中西氏の社内改革 −−中西さんが社長になられて、社内的に取り組んだことはなんですか?

中西:5年くらい前に、リンクアンドモチベーションというコンサルタント会社と一緒に、社内の色々な仕組みを模索した結果、人事評価もランクや数字で明確にしました。でも、それだけだと機械的なので、頑張った人には金一封が出るような社長賞も作り、年一回社員総会を開いてお互いの意見を交換したり、数字を全て出して分析したりしています。

−−コンサルタントが入ることに対する社員の反応はいかがでしたか?

中西:最初は反発がすごかったですね。みんな数字で評価されるのを嫌がりました。

−−でも、中西さんはコンサルタント導入の必要性を感じたわけですよね。
中西健夫5
中西:僕は感じました。なぜなら、そうしないと「えこひいき」になってしまうんですね。20人くらいまでの会社だったら、えこひいきしてもいいとは思うんですが、60人くらいの会社で、えこひいきは難しいです。ただ、どこまで行ってもえこひいきは出てくると思うので、その前にガードをかけたほうが社内的にはいいと考えました。

−−社員の方々の評価はどのようにされているんですか?

中西:年に一回目標の面談をして、半期に振り返り面談をして、来期の給料を決めるときに、もう一度面談をするので、年3回個人面談をします。

−−この改革によって、社員の方々は変わりましたか?

中西:大変わかりやすいんですが、やらない人はどんどん駄目になっていって、やる人はどんどん伸びていきましたね。

−−業績にもそれは反映されていますか?

中西:個としての売り上げは、給料の査定の一つの要因になるので、当然反映してきます。僕はいつも会社をサッカーに置き換えて言っているんですが、会社というのはフォワードとミッドフィルダー、あとディフェンスとゴールキーパーがいないと成立しないんです。フォワードは点を入れることが仕事です。でも、点を入れるということは、ミッドフィルダーからパスをもらうために動かなきゃいけないんだから、ボールをもらったらアシストしてくれた人に「ありがとう」と言わなくてはいけない。また、ミッドフィルダーはディフェンスがボールを跳ね返してくれるから、楽に仕事ができる、というように説明するんです。

 だから、うちでは「あなたはフォワードです」「あなたはミッドフィルダーです」と各人に言いますし、得てして会社はフォワードしか評価しないんですが、うちはディフェンスの一番いい人も同じように評価しています。そうしないと会社のバランスが崩れてしまいますから。

−−ポイントゲッターだけを評価するのではなくて。

中西:そうです。元フォワードとしては、点を入れたときに自分一人でやったように思いがちなんですが、よく考えてみると支えてくれた人達がいたから点を入れられたわけです。

−−それは80年代半ば頃の中西さんですね。

中西:そうです。ゴールポストから、相手のゴールポストまで自分でドリブルしていくことなんて、サッカーではありえないじゃないですか? 会社も同じように、そんなことはあり得ないんです。 6. 繋がるものはどんどん繋げていきたい −−今後、ディスクガレージが計画していることは何ですか?

中西:今、時代が完璧に変わってきたので、「どこにフォーカスを合わせるか?」というのがやはり難しいです。例えば、コンサート・ビジネスということだけで言えば、「観客動員数も全然落ちてないじゃないか?」と言う人もいるんですが、プロダクションはCDの売上がきつくなっていますから、その分コンサートで利益を上げようとしているので、逆に我々プロモーターとしての利益率は下がるんです。仮に10%が我々の利益だとしたら、「8%にしてくれ」とか、「5%にしてくれ」といった話が、最近すごく多くなっています。

 つまり、音楽業界全体の中で、レコード会社・プロダクションというところの利幅が減ったことによって、我々にも当然弊害が来ている。では、みんなで儲けるために何をすべきか考えなくてはいけないんですが、音楽という一つのものから奪い合うのは、誰かを苦しめることになるので、できれば避けたいんですね。つまり音楽以外のところで、お互いにメリットを共有できるようなものを追求していくことが重要だと思います。

 その流れで、WOWOWとホリプロとディスクガレージで、音楽関連デジタル映像コンテンツを手掛ける新会社をつくったところなんですが、映像ビジネスがレコード会社から離れつつある中で、その会社で安くてよい映像コンテンツを、売る媒体も含めて作っていこうと思っています。

−−それはネットで流すことも含めて?

中西:もちろんそうです。「ネットの将来的な配信像はどこにあるのか?」というのは、いろいろな部門で考えなければいけないことですし、日々常に考えています。また、先ほどもお話しましたサッカーも含めて、最近は異業種との交流が増えています。今日の朝も大変有名なサングラスのライセンスが取れそうなので、取れたらどう販売していくか打ち合わせしていました。

−−それは中西さんご自身がネタを探してくるのですか?

中西:いや、探すのではなくて、大体むこうから話が来るパターンですね。それは無駄に飲んでいるのと、無駄に人を知っているからで、「この話どこに持っていったらいいんだろう?」という話になったら、「とりあえず中西のところに話してみよう」みたいな雰囲気があるんですよ(笑)。

−−従来のコンサート・プロモーターという枠組みをディスクガレージはとっくに飛び越してしまっていますね。

中西:僕は半分くらいは音楽以外のことで、「何か面白いことはないか?」という考え方を持って仕事をしています。先日、バルセロナの試合をやるにあたって、バルセロナのスタッフと飲んでいたときに、マーケティングのトップが「君は"SHIMA-Uta"を知っているか? 僕はあの歌が大好きなんだ」と急に言ってきて(笑)、それで今回のプレシーズンの横浜マリノス戦のときに、宮沢(和史)君に歌ってもらったんですよ。そういう風にどこかで繋がっているんですよね。

−−素晴らしいですね。「無駄に飲んでんじゃないぞ!」ということですかね(笑)。

中西:いや、無駄に飲んでます…(笑)。僕はよく遊んでいると自分でも思いますね。あと、これは別にいやらしい意味ではないのですが、若い子との接点がないと、感覚がものすごく失せていくんで、基本的にはアンダー23と会話する機会を作るようにしています。

−−アンダー23と遊ばれると。

中西:それが基本型ですね。あと、僕はドラマや映画、本のチェックを人の5倍ぐらいやっていると思います。

−−そこまでチェックしているんですか! すごいですね。

中西:やはり「流行ものにはワケがある」というキーワードがあるので、流行ものをチェックした上で好き嫌いの判断をします。例えば、リリー・フランキーの『東京タワー』が泣けると聞いた翌日にはもう読んでいるわけですよ。

−−そのフットワークの軽さは若いときから変わっていないわけですか。

中西:そうかもしれませんね。表現はちょっと違うかもしれませんが、自分が自分でいられるために努力しなくてはいけませんし、年を取ると感性は落ちるわけじゃないですか? ただ、昔よりも情報量を得ることは容易いので、そのことで感性を保っていくしかないと思うんです。

−−でも、「どうにも理解できないファッション」とかありませんか?

中西:それはもちろんあります。同様に「どうにも理解できない音楽」もあります。ただ、聴いた上で好きとか嫌いという判断を下すように心掛けています。

−−つまり「食わず嫌い」はしないと。

中西:そうです。「ケツメイシかよ…」なんて言いながらアルバムを聴いたら、「滅茶苦茶いいじゃん!」と変わるわけです。聴くという作業は努力によってできない作業じゃないんですよね。

−−最後に、そこまで中西さんを突き動かしているものは一体なんなのでしょう?

中西:一番大きいのは、あまり表には出したくないんですが、負けたくないんですよね、何事にも(笑)。それと「人が好き」というのも大きいと思います。先代の社長が「音楽業界以外の人と飲みなさい」とよく言っていたんですが、本当にそうだと思います。実際に僕が飲んでいる人達は音楽業界以外の人の方が多いです。音楽業界内で飲んじゃうと、今は愚痴言って終わっちゃいますからね。それだったら、ファッション業界の人と飲んだりするほうが全然面白いですし、そこで繋がるものはどんどん繋げていきたいなと思います。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。ディスクガレージの益々のご発展をお祈りしております。m.gif
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦) ディスクガレージと聴くと、まず「コンサート・プロモーター」としての姿を思い浮かべますが、中西氏のお話を伺って、サッカーやファッション、映像コンテンツと、その幅広さに驚かされました。それは中西氏の人柄そのままに、会社全体のオープンな姿勢がこれだけの幅を生み出しているのでしょう。また、中西氏のコミュニケーション能力の高さがあってこそ、それらは実現されているのは言うまでもありません。今後、中西氏並びにディスクガレージがどんなものを「繋げていく」のか、とても楽しみです。

さて次回は、株式会社ワタナベエンターテインメント 代表取締役社長 渡辺ミキさんです。お楽しみに!