第05回 朝妻 一郎 氏

2010年12月15日 2:15
朝妻 一郎

株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長

 

リレーのバトンは株式会社テイチクエンタテインメント 代表取締役社長 飯田久彦氏から株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長 朝妻一郎氏へ引き渡されました。 飯田久彦氏のご指名で次にご登場願うのは、これまたMusicman中のMusicman、フジパシフィック音楽出版の総帥、朝妻一郎氏。
 昨年夏、米国子会社を2億ドルでEMIに売却、日本の音楽業界に於ける初のビッグな国際ビジネスを成功させた痛快事件?はまだ記憶に新しいところ。折田社長をして「あの人にはかなわない」と言わせしめるポップ・ミュージック界の第一人者、マニアックな音楽ファンの心を決して失わないままにグローバル・ビジネスをコントロールしてゆく我々の業界の天才打者“イチロー”ってどんな人?

 

[2000年3月21日/株式会社フジパシフィック音楽出版社長応接室にて]

 

プロフィール
朝妻一郎(Ichiro ASATSUMA)
(株)フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長


昭和18年 東京都生まれ。昭和41年 株式会社パシフィック音楽出版に入社。昭和55年 常務取締役 就任。昭和60年 代表取締役社長 就任。昭和60年 合併により、株式会社 フジパシフィック音楽出版と改称。現在に至る。(社)日本音楽著作権協会理事 (社)音楽出版社協会副会長も現在務めている 。パシフィック音楽出版時代より、フォーククルセダースの「帰ってきたヨッパライ」、モコ・ビーバー・オリーブの「海の底でうたう唄」、加藤和彦/北山修の「あの素晴らしい愛をもう一度」をはじめ、山下達郎、大瀧詠一、サザンオールスターズ、オフコースなど多くのアーティストのヒット作りに携わっている。 執筆活動では共著書に「ポピュラー音楽入門」、「その後のビートルズ」、「悲劇のロックアーティスト」など 監修書に「アメリカレコード業界の内幕」趣味は読書、映画、観劇、ゴルフ


 

1. ポール・アンカファンクラブ会長

 

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--何年生まれで、どちらの出身なんですか?

 

朝妻:1943年、東京の赤羽生まれ。小学校の頃から音楽聴くようになって、当時から邦楽も洋楽も好きで、よくレコード屋やってた友達の家にレコード聴きに行ったりしてて。

--それはお幾つぐらいの時でしょう?

朝妻:小学校高学年から中学ぐらい、その友達の家にいつも新しいのが入るとそれを聴かしてもらったり、銀座の十字屋とか池袋の西武デパートにジュークボックスがあって、そこにアメリカの新しい音楽が入ってくるのを聴きに行ったりしてた。

--当時、小学校高学年で洋楽聴いてるのは珍しすぎじゃないですか?

朝妻:あんまりいなかったね。でもたまたまレコード屋の息子がいて、そいつはあんまり音楽好きじゃなかったけど、一応商売だし、ある程度知ってて。あとはFEN。中学の頃はFENのトップ20なんかを聴いたりしてて、聴き書きで今週の第何位っていうのをどんどん書いていた。アーティストとか曲名とかを書いたノートがあって、結構聞き間違えたりしてて(笑) 。そのノートを引っ越しの時捨てちゃって後悔してるんだけど。そんな事で、高校は工業高校だったけど、高校に入った時からレコード屋の友達の家でアルバイトしないかって話になって、夜はレコード屋でアルバイトしてた。お客がこういうの探してるってなると「じゃあこういうのもあります、こういうのもあります」って薦めたりして結構優秀な店員だったみたい。

--校則違反だったんじゃないですか?

朝妻:いや、学校が終わった後にやってたからたぶん良かったと思う。

--……(そういう問題かな?)

朝妻:それと高校の時にポール・アンカ・ファンクラブに入って、キング・レコードの人と知り合って、アルバイトをしている時にアメリカの業界紙とか雑誌とかを自分で取ってて、ある程度色んな事を知ってたからアメリカのチャートをチェックしてて、このレコード会社はこういう人がいるとかこのプロデューサーはこういうレコードもプロデュースしてるとか、そういうのを言ったら、キング・レコードの人に「アメリカのヒットソングなんかに詳しいけどレコードの解説書いてみないか?」って言われて…。

 

 

 

2. アフター4時のニッポン放送バイト生活

 

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--高校の時ですか?

朝妻:いや、それは卒業してたんじゃないかな。一番最初の原稿書いたのはケネディーが殺された日(1963年11月22日)なのよ。

--それは忘れませんね。

朝妻:その時にレニー・ウェルクっていう黒人の歌手が『シンス・アイ・フェル・フォー・ユー』っていうスタンダードをカバーしてヒットさせたんだけど、その解説を初めて書いて、頼んだ人の所に持って行ったら、「まあ良いかな」って事になって、そこから色々書き出して。そのキングレコードの人の同僚の人も頼むようになって、少し経ったら"ポップス"って雑誌が音友(音楽之友社) から出てたんだけど、そこに現在は評論家されてる河端茂さんっていう編集の人がいらして、その人が僕の書いた物をどこかでご覧になったらしく、「お前"ポップス"に記事書かないか?」って言われて原稿書かしてもらったりして。

 学校卒業してから石川島播磨にそのまま入ったんだけど、会社は8時から始まって4時に終わるからそれからすぐ、雑誌の原稿書いたりレコードの解説書いたりしてたんだ。

--一応まともに就職されたんですね(笑)

朝妻:そう(笑) 、造船事業部って所に入って。4時に終わるから、終わるとすぐバス乗って、豊洲から銀座へ出て、そこからニッポン放送のレコード室に行って、レコード室で資料を調べて…。なんでニッポン放送に行き出したかっていうと、その前にポール・アンカ・ファンクラブ入っているうちに会長になってたから会報とかを出さなきゃいけなくてポール・アンカの音楽著作権を持ってるヤマハミュージックの楊さんって人の所に行って「ポール・アンカの出版社から何か来てませんか?」とか聞いたり、あるいは"キャッシュボックス"とか"ビルボードと"か"レコードワールド"とか、そういう業界紙のチャートとか調べて、一位から百位まで写して、会報にして会員に送ってたりしてたんだ。

--最初にヤマハに行ってたわけですね。

朝妻:ヤマハで楊さんって人に会ったら、「お前面白いから高崎一郎さんを紹介するよ」ってニッポン放送の高崎一郎さんに紹介されたの。それで今ニッポン放送で社長やってる亀淵さんっていう人もいつもヤマハに洋楽のレコードを注文しに行ってて、その店の女の子が、訳のわからないレコードの注文があると楊さんに聞いてたらしいんだ。楊さんが亀淵さんに何回か会ううちに、亀淵さんも楊さんの紹介で高崎一郎さんの所に送り込まれてるのよ。

--じゃあ同じぐらいの時期なんですか?

朝妻:亀淵さんの方がちょっと先かな?その後僕が楊さんから高崎さんの所に送り込まれて、高崎さんの所で「俺の所でアルバイトしてみろ」って、ニッポン放送の電話リクエストの選曲とか三木鮎郎さんの番組のディスクジョッキーの台本書いたり、選曲したり、ケン田島さんの番組の選曲と台本とか、そういう事を石川島に務めながらアルバイトでやってた。だから4時に会社終わってその後雑誌の原稿書いたり、レコードの解説書いたり、ニッポン放送で番組の構成や台本書いたりっていう生活を1963~65年頃はしてた。

 

 

 

3. パシフィック音楽出版の名付け親にして社員第一号

 

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朝妻:それをやってるうちにニッポン放送が音楽出版社を作るっていう事になって、高崎さんが音楽出版社の担当になって、「実際誰を働かせるか」って話になって、1966年の頭に「お前石川島播磨やめてこの音楽出版社の社員にならないか?」って誘われて「わかりました」って言って、それで1966年の3月1日に会社がスタートした。その時に評論家の木崎義二さんに相談したんだけど、「音楽が商売になると音楽聴けなくなっちゃうぞ、今みたいに他に仕事があってアルバイトみたいな事やって聴いてるうちが楽しいんだぞ」って言われて、確かにそうだなって思ったけど、自分が音楽が好きで音楽の仕事をオファーされてるのにこれをテイクしないで後で後悔するよりは、「やります」って言った方がまだ後悔の度合いは少ないだろうなって思って。

--高崎一郎さんっていうのは"レディス4"の司会をされているあの方ですか?

朝妻:そう、夕方やってるあの番組。当時高崎さんは日本のディック・クラークと言われて洋楽系のディスクジョッキーではナンバー1と言われていた。

--そうだったんですか!ところで糸居五郎さんとはどっちが先輩なんですか?

朝妻:糸居五郎さんはニッポン放送深夜っていう会社があって、要するに夜中の番組の担当で。高崎さんは『キャンディーベストヒットパレード』とかやってて。

--同じ時期なんですか?

朝妻:結構シンクロする。『オールナイトニッポン』って番組が始まった時に高崎さんも糸居さんもパーソナリティーになってるから。

--ニッポン放送のゴールデン時代ですね。

朝妻:ニッポン放送はそういう意味では先見の明があって、音楽出版社をやるっていうのも早くて、もちろんその前にTBSが日音をスタートさせていたから放送局の出版社としては二番目なんだけどね。

--最初の名前は何だったんですか?

朝妻:それで会社の名前を付けろって事になって、当時編成部長やってた羽佐間さんって方がいらして、羽佐間さんと高崎さんにファーイーストとか色々言ったわけ、でもそれは全部登録されてて、残ってるのがパシフィックで、これでどうですか?っていったらこれで良いんじゃないって。僕はほとんど洋楽が好きだったし、音楽出版っていうのは外国の権利を取るものだとばっかり思っていたから、パシフィックって名前ならアメリカに手紙出した時に日本の会社ってすぐわかるだろうと。

--立ち上げのネーミングから朝妻さんでしたか(笑)

朝妻:社員第一号で(笑) それで文化放送が出版社始める時にセントラルミュージックを作って。それは野球のパ・リーグに対してセ・リーグっていう事で(笑)

--なるほど、パシフィックとセントラル(笑) 知らなかった!

 

 

 

4. 伝説のロック・フェス、モンタレーの体験

 

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朝妻:それで、最初のパシフィック音楽出版の社長っていうのが石田達郎さんって方でこの方はお亡くなりになったんだけど、当時ニッポン放送の常務で、いや、編成局長だったかな?この方が先見の明があって、これからの時代は8トラックのカー・ステレオだと。車の中で音楽とかラジオを聴く時代になるだろうからカー・ステレオの会社をやるって事になってポニーって会社を作られたわけ。それでカー・ステレオの実状を調査しにアメリカに行くっていうんで、僕が会社に入って翌年の1967年に一緒に付いて行くって事になったわけだ。

 当時1ドル360円の時代で日本からアメリカに行くのに500ドルぐらいしか持ってっちゃいけないとか、とにかく外国に行くのが大変で、ニッポン放送に入った普通の社員でも外国行けるようになるためには10年~15年務めてないと行けないという時に訳のわからない会社の社員が去年入ったばかりで今年アメリカ行くっていうんで、社内では「なんでアイツが!?」みたいな話になったんだけど(笑) それは石田さんが新しい事が好きだった方だったり、高崎さんのおかげだったりして。ちょうど行く時にモンタレーポップフェスティバルっていうのが行われるのがわかって、その時にニッポン放送に入った亀淵さんがサンフランシスコに留学してらして。

--会社のお金でですか?

朝妻:自分のお金で。要するに休職してサンフランシスコに留学してたの。それで亀ちゃんに連絡してモンタレーポップフェスティバルのチケット取ってもらって、「石田さんこれ絶対見に行きましょう」って言って。それでサンフランシスコに着いたら、スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』じゃないけど、"髪に花を挿した女の人に会うでしょう"みたいなのがそのまんまで「なんてアメリカって素敵なんだろう」って思った。ヒッピー文化の真只中にアメリカに行って。それでなおかつ、モンタレーポップフェスティバルを見て、そこでザ・フーとかジミ・ヘンドリックスとかを見てしまった!

--日本で何人かしかいないんですよね。

朝妻:ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、ママズ・アンド・パパズ、それからおかしいんだけどボビー・ビントンも見たのよ、それでボビービントンが出たらブーイングがすごくて(笑)

--しかし、あの伝説の現場にいらしたとは何とすごい体験!

朝妻:いずれにしろ自分なりにもすごい感激したし、“何か世の中が変わってるな”とは感じたけど、あんなに大きな時代の変革期に立ち会えたっていう感じは、その時にはなかったね。でも、後で考えてみて、あれは本当に大変な事だったんだなって思える。だから石田さんにも感謝しなくちゃいけないし、亀淵さんにも感謝するし、それで亀淵さんとはニューヨークでドアーズも見たし…。

--アメリカは西海岸だけじゃなく、ニューヨークにも行かれたわけですね。

朝妻:そう、帰りはロサンジェルスに行ったし、一番最初にサンフランシスコに入ってサンフランシスコってすごく良いなって思ったんだけど、ロサンジェルスに行ったら、ロサンジェルスの方がもっと良いなって感じになって。その時にロサンジェルス好きになったのが今でも続いてるね。

--目的はカー・ステレオの実状を調査しに行くって事でしたよね(笑)

朝妻:要するにアメリカのカー・ステレオはどうなってるか、日本ではどうしたらいいかって事だったけど、石田さんが優れてたのは日本でもカー・ステレオはある程度流行ったわけだし、その後これからはビデオの時代だって事をかなり早く言われて、ポニーでビデオを始めて。本当に石田さんていうのは先見の明に溢れた人で、フジサンケイグループの代表なんかもされてたし、ある種フジサンケイグループがエンタテインメントビジネスで大きくなった理由の一つには石田さんの業界に対する求心力があったと思うね。

 

 

 

5. 世が世なら…夜明け前のプロデューサー

 

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--パシフィックで洋楽契約なり日本の楽曲をやったりするっていうのはどういう順番なんですか?

朝妻:アメリカから帰ってきて、むこうの会社と色々とやりとりをやってくうちに、フランク・シナトラの出版をもってるバートン・ミュージックっていう会社で、『オール・ザ・ウェイ』とか『エブリバディ・ラヴズ・サムバディ』とか、まぁこれはディン・マーティンなんだけど、その会社と契約が出来て、その社長と息子が日本に来て、そこで色んな話してたら、「お前英語ちゃんと出来るじゃないか」って言われて。英語の仕事も自信が持てるようになった。

--邦楽の最初の仕事は?

朝妻:1966年に入って、67年にアメリカに行ったんだけど、確かその年の暮れぐらいに『帰ってきたヨッパライ』なんかを探し出して、それでフォーク・クルセダーズの原盤を持ってた秦さんて人から原盤を買い取ると同時にフォーク・クルセダーズとウチとで原盤契約して。フォーククルセダーズの『悲しくてやりきれない』なんかは自分で制作をやったりとかしていた。

--プロデューサーになりたいという気持ちは強かったんですか?

朝妻:当時はプロデューサーってものにすごく憧れていて、自分もそうなりたかった。そもそもレコードのクレジット見てこのプロデューサーこれも作ってるとかそういうのがあって。中でもフィル・スペクターがすごいっていうのがあって、レコードを制作する為にはフィル・スペクターがレコードをどうやって作っているのか一部始終見ておかないとと思って、彼が曲を作る段階からレコード会社の宣伝会議でどういう話しているのかっていう所まで全部見たいから一日中朝から夜まで1ヶ月フルに付いていたいって思ってフィル・スペクターにその事を書いて手紙をだして…。それが68年かな。

--そんなダイレクトな!大胆ストレートですね。

朝妻:67年の暮れには『帰ってきたヨッパライ』が大ヒットして。その後ジャックスっていうグループがいてラジオ聴いてたら『空っぽの世界』っていうのが流れてて、これ良いなって思って、聞いたらタクト・レコードってレコード会社と契約してて、ヤマハのスタジオで練習してるっていうから会いに行って「朝妻って言いますけどレコード一緒に作りませんか?」って言って、早川くんなんか原稿見たりしてくれてて名前知ってて「今レコード会社と契約ないからやりましょう」って、それで契約して、ジャックスのレコード作ったりとか色々して、だから67~68年ぐらいは邦楽のレコード制作してて。僕も世が世なら小室、小林武史、つんくといった人達の前にプロデューサーとして脚光浴びても良かったんじゃないかって時々思うわけ(笑)

 

 

 

6. フィル・スペクターからスティーブ・バリに乗り換え

 

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--介状も無くいきなり手紙を書いたんですか?

朝妻:そう(笑) そうしたらね、フィル・スペクターから「これが俺の電話番号、ロサンジェルスに着いたらすぐ電話しろ」って書いてある電報が来て、それをすぐ高崎さんに見せて「アメリカにちょっと1ヶ月行きたいんですけど」って言ったら、「去年行ったばっかりでまた今年すぐは無理だよ」って言われて。社員だからしょうがないってあきらめて。それから1970年になってある程度業績良くなってきた頃、高崎さんが「アメリカ行って来ていいぞ」ってやっと言ってくれたと思ったら今度はフィル・スペクターが入院してて…。

--上手くいかなかったですね。

朝妻:そう、フィル・スペクターがダメで、しょうがないからスティーブ・バリに手紙書いて、1970年ぐらいはスティーブ・バリが一番ホットなプロデューサーで。『シークレット・エージェントマン』とかハミルトン・ジョー・フランク・アンド・レイノルズとかママ・キャスとかトミー・ロウとかABCダンヒルっていう会社があって、そこのプロデューサーのヘッドだったんだけど。ともかくスティーブ・バリがやるものって全部ヒットしていて。それでスティーブ・バリに「あなたの所に1ヶ月付いていたい」って手紙書いたら、「いいよ」って言われて。

--それは実現したんですか?

朝妻:今年行っても良いよって事だったから、行って。スティーブ・バリはウェスタンってスタジオの、ママス・アンド・パパスとかビーチボーイズとかがレコーディングしたスタジオCって所にいて、そこでレコーディングするとヒットするって言われるぐらい有名なスタジオで、そこのスタジオへ朝来ると、"今日やる事"ってリストがあってママ・キャスのオーバーダブ、誰かのスウィートニングとかって書いてあって、それをどんどんやっていくわけ。それを朝からずっとくっついて見てて、その時に色んなミュージシャンとかエンジニアとかプロデューサーと知り合いになったの。例えばその時にレニー・ワロンカーなんかもそのスタジオでレコーディングしてて。

--ロスですよね。

朝妻:ロスのウエスタン・スタジオ。今はユナイテッド・ウエスタンってなってるかもしれない。今でもスタジオ自体はあるけど、名前は変わってるかも。

--じゃあ、そこで色んな人に会って。

朝妻:そこで会った人と話すると「なんでお前がそんな事知ってるんだ」って、例えばバリー・デバーゾンって人が来ると「お前『悲しき雨音』書いたな」とか(笑)

--全部知ってるんですよね(笑) だから、何でも話が出来ちゃう。

朝妻:そう。だから「こいつは面白い」っていうんで「おい、日本から来てる面白いヤツがいるぞ」とかって他の人を紹介してもらったり。その1ヶ月の間に色んなものを得たよ。特に人間関係はね。

 

--前編は残念ながらここまで。後編はさらに盛り上がります!何しろ、出てくる話が何10万ドル、何10億円、200億円の話、銀行マンの鼻を明かしたミュージックマンって、話聞くだけでも痛快な気分です!!

 

 

 

7. タツ永島より面白い奴?イチ

 

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--今から、30年前の話ですよね。向こうの人間が知らないような事全部知ってるから、ウケまくりますよね(笑)

朝妻:本当にそれはね、「何でお前がこんな事知ってるんだ?」っていう事でね(笑) そのちょっと後にね、チャック・ケイっていう人間がね、日本に来たのよ。これはA&Mレコードの音楽出版部門のサブ・パブリッシャーが当時日本になくて、結構色んな所が「我々をサブ・パブリッシャーにしてくれ」って申し出てて、ウチも当然やりたいってオファーしてたわけ。だからジェリー・モスはチャック・ケイに日本に行ってオファーのある所全部と会ってこいと、会って大して違いがないようだったらタツ永島にしろと、俺はタツ永島と仕事したいからよっぽどタツ永島よりいいやつがいない限りはタツ永島にしろって言われてチャック・ケイが来たの。

 それでチャック・ケイも色んな所回って「タツ永島かな?」って思いながらパシフィックに来て、俺はその時チャック・ケイに「チャック・ケイってクリスタルズのデビューアルバムのバックライナーにフィル・スペクターが"Thank you for my sales maneger Chuck Kaye"ってクレジットされてた、あのチャック・ケイと同一人物?」って聞いたらチャック・ケイ飛び上がっちゃって(笑) 「お前何でそんな事知ってるんだ」って「お前が俺のサブ・パブリッシャーだ」ってなって(笑)

--すぐ決まっちゃったんですか!?

朝妻:それで彼はジェリー・モスに「タツもよかったけど、もっと面白いやつ見つけた」って事でウチがサブ・パブリッシャーになった。それから20年近くA&Mの出版のサブ・パブリッシャーやるわけ。ところが、チャック・ケイがA&Mの出版を辞めてかなり経ってからだけどワーナーチャペルっていう会社の会長になった時ミデムで会ったら、どうもチャックはあんまりハッピーじゃないみたいだなって思って「もしね、ワーナーチャペル辞めるような事があったら、俺、金用意するから一緒に仕事しようよ」って1988年かな?ミデムで言ったの。そうしたらその年の3月の末ぐらいに「イチ、お前がミデムで言った話はまだ生きてるか?」って電話がかかってきて、それで「もちろん」っていう事がスタートでウインドスェプトを彼と始めたの。

 

 

 

8. アメリカの子会社ウインドスェプト誕生!

 

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--ウインドスェプトっていうのは?

朝妻:ウチがアメリカで作った音楽出版社。そこがモーリス・リヴィってやつが持ってた音楽出版社を買収したり、そこのイギリスの会社がスパイスガールズと契約したりしていた。それでこの間去年の7月にその会社の8割ぐらいを2億ドルでEMIに売ったの。

--そこ、そんなに簡単に言わないで下さい。2億ドルですよね(笑) !これはすごく騒がれましたよね!すごいですよね!

朝妻:1971年にチャック・ケイと仕事する事になって、ワーナー時代は疎遠になったけどその前にA&Mの出版を辞めてすぐデビット・ゲフィンとゲフィン・ケイっていう音楽出版社やって、その時に10万ドルかな?「チャック、俺10万ドル出すからその代わりお前が何取ってきても日本の権利は俺だぞ」って言って、「わかった」っていう事で。それで最初に取ってきたのがジョン・レノンの『Starting over』だったの。『ダブルファンタジー』のアルバム。だから10万ドルを"今後何年間で彼が取る物全部の前渡し金"っていうつもりで渡したんだけど『ダブルファンタジー』一枚で10万ドルを全部取り戻しちゃって…(笑)

--スパイス・ガールズはイギリスの会社で取ったんですか?

朝妻:ウインドスェプトのイギリスの子会社。ウインドスェプトっていうのはアメリカの会社でナシュビルとニューヨークにオフィスがあって、イギリスにもウインドスェプトUKっていう会社を作って。ウインドスェプトは最初チャック・ケイと始めたんだけど、チャック・ケイっていうのは元々ヨットのセーリングが好きでA&Mの時代も途中で一回辞めて、タヒチかなんかにセーリング行っちゃってるのよ(笑) それでウインドスェプト始めて3年ちょっと経ったら「もう、基礎が出来たからいいだろ」みたいな事で「じゃあ俺の持ち分を買い取ってくれよ」って言ってまたセーリングに行っちゃったの(笑)

 それでA&M時代にチャック・ケイの下でビジネス・アフェアーをやってたエバン・メドウが、A&M辞めた後ウチの会社の弁護士やってたんで、チャック・ケイがセーリングに行っちゃった後エバン・メドウに社長に成ってもらって。僕とエバンとA&Mのロンドールっていう音楽出版社の仲間が集まって、じゃあイギリスもスタートしなきゃって時に、当然イギリスだったらイギリスのロンドールのヘッドだったボブ・グレイスだって事になって、それで彼を引っ張ってきたら彼がスパイスガールズを見つけてきたんだ。彼はロンドールにいた時に、マーク・ノプラーとかスーパートランプなんかを契約した非常に優秀な人物なんだ。

--出版界の大物ですか?

朝妻:そう、彼にイギリスのヘッドになってもらって。だからA&Mの同窓生みたいなのが集まって、我々はロンドールの雰囲気を持った新しい会社を作ろうっていう事でウインドスェプトをスタートしたの。

--日本とアメリカにおける音楽出版社のイメージって違いますよね。アーティストとバシッと契約してるっていう。

朝妻:そう、アーティストとかライターがね。日本の場合は出版社とアーティストあるいは作家が3年間契約するとかいう形じゃなくて、結構一曲ずつだったりするじゃない?だけどアメリカの場合は作家が出版社にある期間書く曲全部の権利を譲らなきゃいけない。

--レコード会社みたく期間契約しちゃうわけですね。

 

 

 

9. 10万ドル→30億円→100億円→大丈夫か?

 

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--ウインドスェプトを創られる時のフジサンケイグループ内での資金調達のストーリーっていうのはあったんですか?

朝妻:大変さが全く無かったって事は無いけど、一つは鹿内春雄さんって方が当時フジサンケイグループの議長で、鹿内春雄さんにウインドスェプトを創る前にビートルズの著作権が売りに出てる時に「春雄さんこれ買いましょうよ」ってビートルズの著作権持ってると将来的には価値があるから、当時80何億だったの。80何億のお金を注ぎ込んでも絶対損しないし、むしろ非常に価値のあるものだから買いましょうっていう事を言ったの。春雄さんは面白いって言ってくれたんだけど、だけどフジサンケイグループにそんなお金ないよって言われて、でも著作権を買うってアイデアに対しては乗り気だったの。結局マイケル・ジャクソンが買ってパァになったけど。

 次にCBSソングスっていう音楽出版社をチャーリー・コッペルマンって人物とマーティン・バンデアとスティーブン・スイードの3人がお金出しあって買い取ったの。CBSソングスっていうのはCBSレコードの音楽出版全部とBIG3っていう昔からのスタンダードのカタログが一杯ある音楽出版社を持っていたんだけど、CBSがテッド・ターナーに買い取られそうになって防戦するために現金が必要だから、色々切り売りして、レコード部門をソニーに売ったのもその一環なんだけど、その前に音楽出版部門を売りに出したの。それを買い取ったのがさっき言った3人で、スティーブン・スイードの"S"とバンデアの"B"とコッペルマンの"K"とでSBKって会社を創ってその会社を買い取ったわけだ。その記事を読んだ時、彼らは絶対そんな長く持ってるつもりないなと、ちょっと経ったら高く値段を押し上げてどこかに売るだろうと、という事は銀行からお金を借りてるはずだから、銀行からの借入金を少なくしたいはずだから日本と東南アジアの地域だけ売れって言ったら売るんじゃないかって思ってチャーリー・コッペルマンに言ってみたら、最初は俺が何を言ってるか全然理解してなくて、でも一週間ぐらい経ったら「お前の言ってる事は面白いからニューヨークに来い」って話になって行ったのが1987年。

 それで鹿内春雄さんにニューヨークに行く前に彼らが120~130億で買った物の日本と東南アジアの部分を買う話だから13~15億で買いたいと言ったら、その時は「良いんじゃないか」って事になって。それで交渉に行ったんだけど、俺が思ってるのよりずっと高い値段を言ってるんで「冗談じゃない」って言ってやめたの。だけど、彼らとしてはそこで現金が10何億入ってくるのは嬉しい話だから、他の日本の出版社に話しようって事になってシンコーに話して結局シンコーが買ったんだけど、あれは僕のチョンボで彼らの言い値で買ってもそんな悪い条件じゃなかったんだけど、でも当時の僕としてはこんなの買ったら大変だって事で断っちゃったわけ。その時は断ったんだけど、10何億っていうお金が出してもらえるっていう手応えがあったんでその翌年、チャック・ケイに会った時に「やろうよ」って言って鹿内春雄さんの所に行って「実はそういう事でチャック・ケイとやろうと思ってるんで30億ぐらい用意して下さい」って話をしたら、良いんじゃないって言ってもらえたんだ。それを石田さんとか当時フジテレビの社長をされてた羽佐間さんとか皆さんも応援して下さって。

--周囲からは「大丈夫か?」みたいな話にはならなかったんですか?

朝妻:それはもちろん。特に鹿内春雄さんが亡くなられた後、鹿内春雄さんのお父さん鹿内信隆さんがグループの議長になられて。すぐ「なんでこんなものにそんな金をかけるんだ」って感じなわけよ。それで「これをやってるのは誰だ?」って言うんで、「朝妻だ」と。そこで石田さんとか羽佐間さんとか今フジテレビで社長やられてる日枝(現フジテレビ社長 日枝 久氏)さんとかが、「これは春雄さんが一生懸命やってた事だし、こういう著作権のビジネスっていうのは今後期待できるものだから」っていう説明をして下さって。でもその後鹿内信隆さんも亡くなって、鹿内宏明さんって方がいらして、春雄さんは著作権っていうものを理解されてたけど、信隆さん、宏明さんは著作権の事をあんまりご存じなくて「本当に大丈夫か?」っていうのは言われて、「絶対大丈夫です」って言ってるんだけど、毎年の決算書見てると赤字なのよ、それはなぜかっていうと著作権を買う時って著作権のネット収入の12年分ぐらいのお金で買うわけだから、人件費とか何にも無くても金利が8%以上だったら入ってくるお金は全部金利で消えちゃうわけですよ。

 だから今まで稼いでたお金よりもっと稼ぐように我々が買った後色々しなきゃいけない、そういう風にするためには2~3年かかるから買ってから4~5年経てばある程度軌道に乗ってくるけど、どんどん買い続けてる限り金利に食われちゃうし、あるいは買ったものは償却しなきゃいけないから毎年の決算書見ると最終的には赤字になる、だから決算書だけ見てると本当にヤバそうな会社に見える。だけど、我々は音楽の著作権がどういう形で売買されてるかよく知ってるから、これは売ればこういう風になるっていうのは見えるけど、例えば銀行に説明したって、日本の銀行は「本当に著作権なんか買う人いるんですか?」みたいな感じだし。

 

 

 

10. 今明かされた売却の真意---やってる事が間違いじゃないって証明する必要があった

 

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--そういう国際ビジネスやってる人はほとんどいないですからね。

朝妻:だからお金を貸してくれてる銀行も「大丈夫なの?」って言うし、まわりの人達も「本当に大丈夫か?」って。それで「絶対大丈夫」って言ってたんだけど、これはどこかで一回そういうものが本当に価値のある物なんだっていうのを示さないと埒があかないって思ったんですよ。

--そうすると、売却の動機はそういう所にあるわけですか?

朝妻:一番の動機は、ともかく自分のやってる事が間違いじゃないっていうのを証明したかった。グループの代表の羽佐間さんやフジテレビの日枝さんも「売らないで持ってた方が良いんじゃないか?」って言って下さったんだけど、それじゃいつまで経っても自分のやってる事が他の人たちに正しいって証明できないし、やっぱりそういう事をやって日本の金融関係の人、あるいは日本の音楽出版業界全体に著作権ってものの資産価値がどれだけあるかって事を実例として見せなきゃいけないと。

--カッ!カッコイイ(笑)

朝妻:確かにそれを売らないで持ってた方が価値はあるんだけど、ここで売ってある利益を出してなおかつそれを全部売らないである部分残してそれをベースにやっていけば良いわけだから現実に去年の7月の末に売って7ヶ月か8ヶ月経ってるわけだけどもう既に残した部分だけで今カントリーのチャートだと、毎週コンスタントに大体3曲から5曲ウインドスェプト2(新しいウインドスェプト)の楽曲が必ずチャートに出てくるし、先週、先々週はナンバー1になってる。リズム&ブルースのチャートには常に5~6曲ランクされているね。

 

 

 

11. ウインドスェプト2世は成長する。自前でね。

 

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--そのカタログ買うときは朝妻さんの判断で買うんですか?

朝妻:買う時は向こうが「売りに出てるけどどうしよう?」って言うわけ、それで「そんなのは買ってもしょうがないんじゃない」とか、例えばカントリーの場合だと日本じゃ商売にならないのは明らかだからアメリカでお金になる自信があるんだったらいいし、出来るって自信がないなら買うな、とか言うんだ。

--その判断は日本まで来てるんですか?

朝妻:全部相談してきているね。

--会社はイギリスにも残ってるんですか?

朝妻:イギリスはスパイスガールズとかは売っちゃったけど、何人かの作家はそのまま残ってるし、今また新しくatomic-kitten(アトミック・キトゥン)なんていう女の子3人のグループと契約したんだけど、デビューレコードがイギリスのベスト10に入ってるし、次のレコードはたぶんナンバー1になるだろうって言われてるし。

--しっかり続いてるんですね。

朝妻:それとLAリードとベビーフェイスの2人でラフェイスってレコード会社やってて、 そのLAリードとウインドスェプト2がジョイント・ベンチャーでヒトコという音楽出版社を持っているんだ。TLCのこの前ヒットした『No Scrubs』はそこが持ってる楽曲だし。

--あっちはワールドワイドなマーケットですから利益も莫大でしょうね。

朝妻:現実には人件費だなんだってお金もかかってるし、また新たなものを買ったりしてるから、すぐには利益は出ないだろうけど着実に資産を積み上げてるわけ。

--証明する為に売ったという話はあまり話されてませんよね。

朝妻:言ったんだけど、新聞記者なんかは銀行が悪いっていう話にもっていきたいから、銀行がお金返せ返せって言ったからっていう風になってるけど、それも理由の一つとして挙げられないわけじゃないけど、でもかなりの部分はこれは一回どっかで証明しないとっていうのがあって。

--これは物の見事に証明されましたね(笑)

朝妻:うん、お釣りがきた(笑) それでまた新たな投資を始めてその2段目の投資も結構良い形で花開いてて。

--どういう方面への投資なんですか?

朝妻:それがウインドスェプト2だよ。今度は銀行からお金を借りてないから、金利もないし、だいぶ違うよね。

 

 

 

12. 洋楽シェアーはどこまでいくのか?7月、8回目のお引っ越し

 

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--EMIに売却する際、交換条件のように日本に於けるEMI楽曲のマネージメントも手中にされましたね。

朝妻:まずウインドスェプトがカタログ売る時にただ売るだけじゃ面白くないわけで、どこに売ろうとその楽曲は東南アジアと日本はウチが管理しますよと。そういう条件でOKですねと。そうしたら、それだけじゃなくて自分のところの管理も任せるって言ってきたんだ。もちろん、何の文句もないけどね。

--全く負けてませんね、すごい!ウインドスェプト2はダイレクトだし、フジパシフィックがこれまでに蓄積してきたサブパブリッシャー・カタログとEMIカタログのマネージメントと全部合わせたら、洋楽で何%ぐらいのシェアになるんでしょうか?

朝妻:音楽出版社としてはEMIがナンバー1で、ワーナーチャペルがナンバー2。ちょっと空いてその後ユニバーサルとかBMGとかが続くんだけど、洋楽だけでいくと20%ぐらいかな。

--加えて今度はワーナーとの合併っていう話にもなってますよね。という事はワーナーチャペルも?

朝妻:ワーナーとEMIの合併っていうのはまず、レコードについては問題ないと思うんだけど音楽出版社に関しては本当に合併できるかって事に関してクエスチョンマークついてるんだよね。というのもナンバー1と2の音楽出版社が合併するわけだから、地域によっては50%のシェア越えちゃう所が出てくるわけ。そうすると合併自体が音楽出版社に関しては認められるかどうかわからない。そうなった時に例えばカタログの一部を売りに出すとか。いろんな可能性があってまだ不透明だね。

--フジパシフィックは加速度的に飛躍的に成長してる感じがしますが。

朝妻:そうでもないんだよね(笑)

--引っ越しする度に会社が大きくなってるイメージがありますが(笑) 引っ越しは何回しました?

朝妻:フジパシフィックになったのは六本木のテレ朝の横にいた時で。

--その前はニッポン放送の中でしたね?

朝妻:そう、ニッポン放送の中でも最初5階にいたの、それから8階に移って、その次が貿易センタービル。それでまた8階に戻ってきて、それから六本木。

--六本木の次はどちらですか?

朝妻:四谷の若葉町で、文化放送の横。それから四谷の駅前の雙葉の真ん前の新宿通りの横の所に行って、それからココ。今度7月から今大阪有線さんが入ってるビルあるでしょ、青山通りを挟んだ真ん前の。あそこに移ります。

 

 

 

13. 音楽ビジネスの基本=曲がちゃんと歌えるようでありたい

 

朝妻一郎6

--朝妻さんのココが本当にすごいと思うんですけど、何百億っていう話とインディーズCDまで聴いてる事のバランス感覚っていうのは?

朝妻:でも基本的には音楽が好きなわけだから、それはうちの社員にも言ってる事だけどどんなに扱う楽曲が多くなっても楽曲をコードとかナンバーとして扱ったら絶対ダメだと思うんだよね。楽曲はタイトルとメロディーと詞がわかるのが一番望ましいわけで、1曲1曲から成り立っている事をみんなも意識しなきゃいけないし、僕自身も「あぁ、あの曲」って言った時に曲がちゃんと歌えるようにいたいなと思うよね。

--最初に部屋におじゃました時に思ったのは机の上にこれだけのCDとカセットに囲まれている社長さんって他にはいらっしゃらないんじゃないかって事でした。

朝妻:いや、ちょっと整理が悪いってだけだよ(笑)

--これが積もり積もれば、やり方さえ間違えなければ何億ドルのビジネスになるっていう結果論みたいな話ですか?

朝妻:そうでありたいね。

--個人的に音楽から離れた時間にしている事は?

朝妻:ミステリーを読む事。

--作家で言うと?

朝妻:週刊誌とかでこれが面白いっていうと大体買うけどね。必ず全部読んでるのはジェフリー・アーチャーとか、ジョン・グリシャムとか。今一番すごいと思うのは『ボーン・コレクター』を書いたジェフリー・ディーヴァー。あいつは書くものが全部パターンが違うんだけど全部面白い。

--本当はヒマなんてない感じなのに。

朝妻:いや、電車の中は本を読む時間にしてますから。

--えっ、黒塗りの車じゃないんですか(笑) !

朝妻:電車とタクシー(笑)

--電車通勤されてるんですか?

朝妻:小田急線で通ってるんだけど、各駅で乗ってくれば座れるしね。

--時間がないのでスミマセン!宇多田やドラゴン・アッシュについてはどう思われます?

 

 

 

14. 時代をきっちり掴まえているかどうかが重要だよね

 

朝妻一郎7

朝妻:あの人達はきっちり時代の流れをつかんでると思う。彼らの音楽聴くとヒット曲聴いてる感じするんだけど、そうじゃなくて時代感覚が抜けてる音楽聴くと、これは無いんじゃないのって気はするよね。いかにちゃんといまをきっちり掴まえるかっていう事がすごい重要だと思うね。

--そうすると、こちらで出版契約取られるのもその耳が…。

朝妻:それはウチのスタッフには言ってます。やっぱりヒット曲には今の時代と合ってるかっていうのとそれから普遍的な良さを持ったものと二つあるわけじゃない?普遍的なものはその時代性とは別に違う良さがあって、いつ聴いても良い。今じゃなきゃ通じないものとか、あるいは今が旬だってものに関して言うと、そこに時代性が備わっているかどうかっていうのは非常に大きなファクターになるよね。そのどちらかの良さをちゃんと持っているかを見極める必要っていうのは絶対ある。それには耳だよね。そしてそのどちらかがあれば、なんだかんだ言って絶対売れると思う。

--いやぁ、今日は滅多に聞けない面白いお話、ありがとうございました!
それでは、次はどなたに?


朝妻:プロデューサーの佐久間正英さんにお願いしたいと思ってるんだ。昔、佐久間くんとは彼がプラスティックスというグループのメンバーだった時に一緒に仕事をしているんだけど、グレイやヒステリック・ブルーのプロデュースを横から見ていて、是非今度またプロデューサーの佐久間くんと何か一緒に仕事ができたら、と思っているので…。m.gif


(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

 

大変な事を簡単に軽く話されるので「ハ・ハ・ハ」と、つい楽しく聞いてしまうのだが、よく考えると「それってとんでもないことじゃないか!」「普通、出来ることじゃない」ってことで、後から氏のすごさがガーンとくる。いつも誰に対しても万事この調子の気さくな飾らないお人柄は実は、氏のカモフラージュ作戦か?業界の方々、ご存じでしたか?氏のけたはずれのダイナミックさ! でもやっぱり、基本は "音楽大好き"ってことなんですねー…。さて、しばらく続いた大社長シリーズから遂に今バリバリのプロデューサー、佐久間正英氏へ次回は流れ込みます。お楽しみに!!