連載第50回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(6)〜NaspterからFacebook、Spotifyへ。着うたからiTunesフォン、iPhoneへ

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2014/10/02 (木) - 23:00

マーク・ザッカーバーグとショーン・パーカーの出会い

 >> 「未来は音楽が連れてくる 」第二巻発売!

連載第50回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(6)〜NaspterからFacebook、Spotifyへ。そしてiPhone計画の始動
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「ホームレスになった。ほとんど破産してたんだ」

2001年の夏。後にFacebookの初代社長となるショーン・パーカーはNapster社から追放された。失業の上、Napster裁判の弁護士費用で借金を背負っていた(連載第43回)。

「友だちの家に二週間ほど置いてもらい、それから出て行くということを繰り返した。路上生活者になりたくなかったからね」

しばらくしてパーカーは彼女の家に転がり込んだ。そして半年間、何もせず玄関前のカウチに座ったまま暮らした。ずっと考えていた。Napsterを超えるくらい凄いことを、もう一度始めたい。一体それは何だ...。

「もう諦めて、スタバとかで働きなさいよ」と彼女は度々説得した。ヒモ扱いである(※1)。

音楽配信をもう一度やることは勿論考えた。パーカーを見込んだ音楽業界の大物も少なくなかった。ユニバーサルを率いていたエドガー・ブロンフマンもそのひとりだ。ブロンフマンはワーナーの会長となっていた。

しかしパーカーは、再びメジャーレーベルと交渉する意欲が湧かなかった。iPod発売前と重なるこの時期、ジョブズさえ音楽配信をやりたがらない厳しい環境にあった。

カウチで、携帯電話のアドレス帳を弄びながらずっと考えた。Napsterに賭けたのは、音楽で人を結びつける夢だった。音楽だけ外して同じ熱狂をつくれないか。早くしないといけない。アップデートされないこのアドレス帳のように、俺自身も古びてしまう...。

2002年の春だったろうか。ひねもすカウチに座るパーカーに閃きが襲った。携帯電話のアドレス帳をベースとしたソーシャルネットワークはどうか、と。

ソーシャルネットワークの歴史は古い。

1997年に、シックスディグリー(sixdegrees.com)とソーシャルネット(socialnet.com)が登場したのが始まりだ。ジョブズがAppleのCEOとなった年に当たる。ふたつのSNSはITバブルと共に崩壊していった。だが、正しくやれば上手くいったのではないか。Napsterがそうだったように。

2002年の晩秋、パーカーは再起した。セコイアキャピタルから資金を調達し、プラクソを立ち上げたのだ。

その後の半年で、SNSが立て続けに誕生する。翌年5月には、リンクドインが創業。先のソーシャルネット(socialnet.com)を創業し、失敗したリード・ホフマンの再起だった。

8月にはロスのウェブデザイナーがフレンドスターを模倣して、Myspaceをオープンした。ロスという土地柄、Myspaceはミュージシャンに愛される存在となっていく。

中でも3月に始まったフレンドスターは、大学生を中心に爆発的な人気を得た。同業の仲間としてパーカーは、フレンドスターやリンクドインの創業者たちと知己を得た。

特にフレンドスターの創業者ジョナサン・エイブラムスは、兄弟の友人だったこともあって、すっかり意気投合した。聴けばフレンドスターは、フレンドとナップスターの合成語だという。Napsterの熱狂は、ソーシャルネットワークの第二波に、確かなインスピレーションを与えていた。

iTunesミュージックストアの登場に音楽業界が希望を抱いた2003年。最有望株のフレンドスターに著名VCがこぞって出資した。シリコンバレーは、いよいよソーシャルメディアの時代が到来した、と見ていた。

パーカーは、友情でフレンドスターのコンサルタントを引き受けた。そして、急崩壊する様を目の当たりにすることになった。フレンドスターのサーバーは爆発的成長に追いつけなくなった。増強し続けたが、激重の状態は半年以上続き、学生たちは事実上、ソーシャルメディアを突如失った。

西海岸から始まったフレンドスターの悲劇を、東海岸の大学から体感したユーザーがいた。マーク・ザッカーバーグだ。ハーバード大学でコンピュータ科学を専攻していた彼は、その頃、グラフ理論を学んでいた。

当時アイビーリーグでは、電子版の学生名簿を創る計画が進んでいた。大学生名簿は米語でface bookと呼ぶ。ザッカーバーグは大学のシステム管理部による名簿データベースの計画を知って阿呆らしいと思った。今やるならソーシャルネットワークで学生名簿を創るべきだろう、と。それで、勝手に創った。

シンプルかつ軽快なFacebookは、瞬く間に学生の人気を博していった。ザッカーバーグはフレンドスターの轍を踏まなかった。完全招待制にして、ハーバードから順次、大学を増やすことで爆発的成長を敢えて避けたのだ。

映画『ソーシャル・ネットワーク』では、ジャスティン・ティンバーレイク扮するパーカーが、前夜に知り合ったスタンフォードに通う女子大生のベッドで目を覚ます。そして彼女のコンピュータにたまたま目をやって、Facebookの存在に気づく。

Facebook、これこそじぶんの理想を叶えるものだ。そうパーカーは確信した。彼はちょうど、フレンドスターの崩壊で混沌としたソーシャルネットワーク界を、きちんと創り直せないかと考えていたところだったのだ。じぶんのプラクソでやればいいじゃないか、とお感じになるかもしれない。それが、パーカーはプラクソからほとんど追放されようとしていた。

パーカーの働き方は癖がある。連日、会社に寝泊まりして大きな問題を解決すると、雲隠れする。電話をかけても音信不通だ。

「そしてある日、23時に会社に来るんだけど、まともに仕事をするわけでもない。複数の女性を連れていたりするんだ。自分が創った会社だとみせびらかすためにね」

プラクソの共同創業者はそうこぼした(※2)。そしてしばらくして、パーカーが騒ぎすぎてクラブから出入り禁止になったという噂が流れてくるのだ。CEOはロック・スターじゃないんだから、生活を改めるか会社を辞めるかしてくれというところまで来ていた。

そんな騒動の中、パーカーはFacebookの代表メアドに「ショーン・パーカーだ。君たちに会いにいっていいか。アドバイスがある」という旨のメールを送った。ザッカーバーグたちは喜んだ。ハーバード大学でも、Napsterの創業者は世界を変えたヒーローだった(連載第42回)。その頃、彼はFacebookと平行してファイル共有アプリを開発していたぐらいだ。

ザッカーバーグは、パーカーの見込み通りの男だった。「世界を変える」というのがザッカーバーグの口癖で、「手っ取り早い儲け話など眼中になかった」とパーカーは振り返る(※3)。

「といっても、まだ大学生だった。世界征服といっても大学を征服するぐらいしかイメージ出来てなかった」

それだけでなかった。フレンドスターの崩壊で、「SNSは一時的流行に過ぎないのではないか」とシリコンバレーは考え始めていたが、ザッカーバーグ自身もその疑念を捨てきれていなかった。だが、パーカーには確信があった。

「この会社が『超ビッグ』になる可能性を最初に見抜いたのは、ショーン・パーカーだ」

ペイパルの創業者ピーター・シールは後に語っている(※4)。Napsterのときと同じだ。ショーン・ファニングは自身の発明が歴史を変えるとまでは思い至ってなかった。「シェア」が世界に革命を起こすと見出したのは、今も昔も、ショーン・パーカーだった。

音楽の次は、情報のシェアだ。パーカーにはヴィジョンが見えていた。

※1 http://www.vanityfair.com/culture/features/2010/10/sean-parker-201010
※2 http://www.forbes.com/sites/stevenbertoni/2011/09/21/sean-parker-agent-of-disruption/
※3 David Kirkpatrick (2011) "The Facebook Effect: The Inside Story of the Company That Is Connecting the World", Simon and Schuster, pp.47
※4 https://en.bidaway.com/offer/causevault-dinner-with-sean-parker-charity



音楽業界が愛する「シェア」に隠されたテクノロジー

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結局、パーカーはプラクソから追放された。

自分の創った会社から追放されるのは、二度目である。「人間不信に陥ったよ」とパーカーは述懐している。職を失った彼はアパートを引き払い、また女の家に引っ越すことになった。夜な夜なパーティで散財したのか、貯金がなかったらしい。

それはiPodの社会現象が始まった、2004年の初夏のことだった。

D・カークパトリックの『Facebook 若き天才の野望』には、引越のシーンが描かれている。羽振りのいい時に買ったBMWにスーツケースとパソコン機材を載せていると、この暑い中、フード付きのノースフェイスを来た集団がこちらを見て寄ってきた。まずい、と思った。ゴロツキだ。どんどん近づいてくる。

「ショーン、僕だよ。ザッカーバーグだ」とフードを外した男は言った。

確かにNYで会った、Facebookを創ったハーバード大生たちだった。聞けば数軒隣の家を借りているという。夏休みを使って、西海岸へ開発合宿に来ていたのだ。立ち話をするうちに、宿がないなら一緒に合宿しないかと、ザッカーバーグは誘ってきた。24歳のパーカーがいたらビールが買えるし、クルマがあるとありがたいし。

パーカーは合流し、学生たちと夕食を共にした。レストランでパーカーの携帯電話が鳴った。電話の内容は、プラクソの株をすべてパーカーから剥奪するというものだった。

「そんなバカな話があるか! 俺は51%の株を持っているんだぞ」

だがプラクソの定款では取締役会が、問題の株主から株を剥奪できた。プラクソはその後、1億5000万ドルでコムキャストに買収されているので、パーカーは75億円を一晩で失ったことになる。再び無一文だ。じぶんの会社を乗っ取られるなんてことがあるんだ...。目の前で絶望するパーカーを見て、ザッカーバーグは震撼した。

合宿の家には小さなプールがついていた。空き缶やピザのゴミが散らかったプールサイドで、パーカーとザッカーバーグは夜通し語り合った。

「君の背中を完全に守る体制を作りたい。そうすれば俺と違って、失敗したときもやり直せるチャンスが残る」

パーカーはザッカーバーグに言った。それが、「Facebookの社長になってくれ」というザッカーバーグのオファーを引き受け、実現したいことだった。ところで合宿所では、ガールフレンドと一緒に来ていた共同創業者のモスコヴィッツと同じ部屋になった。そこで何かあったらしく、追い出されてしまい、結局パーカーはじぶんの彼女の家に越していった(※1)。

話を戻そう。まずパーカーは、考えうる最高のエンジェル投資家を呼んできた。先のペイパル創業者、ピーター・シールや、リンクドインの創業者、リード・ホフマンたち「ペイパル・マフィア」だ。

次に人気爆発を起こしたとしても、フレンドスターの失敗が起こらぬようにした。

最高のヘッドハンターを口説き落として、何の名声もないFacebookに、優れたエンジニアが集まる手配をしたのだ。いくらネットワークの規模が大きくなっても、スケーリングで問題を起こさない体制が出来上がった。

サイトをリニューアルし、機能追加をしてもデザインがシンプルなままに保てるようにした。

パーカーは、ユーザーインターフェースを設計できるデザイナーを連れてきた。かつてMac版Naspterをひとりで書いたほどプログラムができるデザイナーだったが、iMeemで働いていたのを引き抜いてきたのだ(連載第03回)。

デザイナーとザッカーバーグは、コーディングのレベルからユーザーインターフェイスを煮詰めた。これで、Facebookを特徴付けるミニマルで軽快な動作を確保した。この施策は後に、人気で先行するMyspaceを打ち破る勝因にすらなった。

ファイル共有を止めさせた。当時、ザッカーバーグはFacebookに専念することを恐れていた。SNSは技術的に誰でも創れる上、ネットワーク効果があるので、流行り廃りが起こる。だから高い技術を要するファイル共有、ワイヤーホグを保険にしようと考えていた。

Napster裁判を体験したパーカーにとって、ありえない話だった。パーカーは、ワーナーミュージックを率いるブロンフマンと会う機会を創り、ファイル共有がいかに危険な事業か、業界のトップに説得してもらった。

かわりに写真共有を始めた。タグ付きの写真投稿のことだ。

初期、Facebookにはこの写真投稿の機能が無かった。だが、ユーザーがプロフィールの写真を頻繁に変えるのを見て、パーカーは写真共有アプリの組み込みを指示した。写真共有は、云わばFacebookアプリの第一号となった。

写真共有はありふれたWebアプリだった。数あるなかでflickrがトップを走っていた。いまさらやっても面白く無いと、反対意見も強かった。だが公開するや、女子学生に爆発的な人気を起こした。写真に友だちをタグ付する機能で、写真共有は友情を確かめあうツールに変わった。

単純なウェブ・アプリも、ソーシャルグラフと結びつくと化ける。ドラッカーのいう「予期せぬ成功」が起こった瞬間だった。ザッカーバーグは、設立当初から「facebookをプラットフォームにしたい」と言っており、それは雲をつかむような話だったのだが、写真共有アプリの成功でにわかに現実的となった。

ここで発見した流れは、2007年にはFacebookプラットフォーム、2008年にはFacebookコネクト、2010年にはオープングラフAPIの誕生に連なってゆく。そして2011年にAPIが音楽にまで拡張し、Spotifyほか音楽配信とFacebookが統合されていくのである。

ザッカーバーグはファイル共有の開発にアダム・ダンジェロをあてていた。高校時代、ザッカーバーグと音楽レコメンデーション・エンジンをつくった縁で、ザッカーバーグと行動を共にしていた友人だ。だが、ファイル共有は中止となった。退屈したダンジェロは、Googleのインターンに行こうとしていたが、パーカーが説得して止めた。

かわりにダンジェロと煮詰めたテクノロジー志向のプロダクトが、ニュースフィードだ。

人脈を競い合う文化のあるハーバード大学から始まったこともあり、Facebookは友だちの数を競い合う文化ができた。だが百人単位の投稿が素で流れてきたら、読み切れるものではない。ニュースフィードは、これを技術の力で解決した。

ユーザーのプロフィールと投稿履歴を解析し、どの会話をどのユーザーに知らせれば「面白い」と共感してくれるか、計算する。さらに、今この瞬間、どんなトレンドが生まれているのかを把握してプッシュする。

ニュースフィードは、いわば投稿のレコメンデーション・エンジンだった。15分おきに、数百万人(今では13億人弱)のビッグデータを機械学習にかけるニュースフィードは、Google級の技術力を要した。リリースの前日のことだ。

「Facebookはつまらぬ存在なのか、Googleを超える存在となるのか。明日、それが決まる」

パーカーはそう予言した(※2)。それは大袈裟っだったかもしれない。だが、かつてマイクロソフトが、並み居るソフトウェア企業から抜きん出た瞬間があったように、Facebookのニュースフィードは、流行り廃りに頼る同業他社を、技術力で一気に引き離した。

ウェブの集合知を、AIの力で共有できるようにしたGoogle。
ソーシャルグラフの情報共有を、AIの力で効率化したFacebook。

ニュースフィードの成功はFacebookが、Googleに並ぶ存在となる未来を切り拓いた。現在、Facebook上で行われる音楽プロモーションは、このニュースフィードのレコメンデーション・エンジンを裏で頼っている。これが現在、「フィルター・バブル」と呼ばれる新たな課題を生んでいるのだが、Pandoraを扱う回で触れることとしよう。

誰もが認めるパーカーの貢献がある。シリーズAで、史上最高額の評価額9800万ドル(98億円)をベンチャーファンドから得たことだ。GoogleはシリーズAで評価額7500万ドル(75億円)だった。

この史上最高額の評価には、Appleの広告出稿が奏功した。

それは実験的な広告だった。バナーやテキスト広告ではなく、FacebookのAppleファン・グループに出稿してもらったのだ。パーカーの在任時代、iPodを主としたAppleの広告はFacebookの大黒柱となるほど、売上を建ててくれた。パーカーは、この成功をGoogleのアドセンスに匹敵する発見だとプレゼンした。

ベンチャーファンドから出資を受ける前に、パーカーは最後の仕上げを定款に施した。

取締役会の定員を5人にして、ザッカーバーグに一人の任命権を与えた。これでパーカーとザッカーバーグで実質過半数を抑えられる。投資家に会社を乗っ取られる可能性を潰し、Facebook社をザッカーバーグの絶対王朝にした。

ショーン・ファニングと自分が受けた苦痛を、ザックが味わなくてすむように。苦い失敗から得た知恵を、25歳のパーカーはfacebookの創業に注ぎ込んでいった。

※1 http://www.vanityfair.com/culture/features/2010/10/sean-parker-201010
※2 David Kirkpatrick (2011) "The Facebook Effect: The Inside Story of the Company That Is Connecting the World", Simon and Schuster, pp.188



マイスペース。音楽産業に訪れたソーシャルメディア・マーケティングの時代


▲R.E.Mの「Around The Sun」。同タイトルのアルバムをMyspaceで無料公開したことで、学生とミュージシャンが集まり、ソーシャルネットワークはキャズム超えを起こした。オルタナ・ロックの先駆者R.E.Mは、音楽のソーシャルメディア・マーケティングも切り拓くことになった。

パーカーがFacebookの社長について間もなく、宿敵Myspaceがブレイクした。きっかけはオルタナ・ロックの先駆者、R.E.Mだった。2004年9月、新アルバム『Around The Sun』をMyspaceに無料で先行配信した。これがきっかけで、大学生とミュージシャンたちが挙ってMyspaceに集うことになった。R.E.MとMyspaceは、ソーシャルネットワークのキャズム超えをもたらした。

その後、Myspaceがきっかけでリリィ・アレンやアウル・シティー、ソウルジャ・ボーイ・テレムがメジャーデビューした。先のアークティック・モンキーズも、アメリカでの人気はMyspaceがきっかけだ。第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンはMTVがきっかけだったが、第三次ブリティッシュ・インヴェイジョンは、Myspaceがきっかけと言えなくもない。

「Myspaceは、いずれMTVを超える存在になる」と考えた業界人は少なくなかった。

メディア王ルパード・マードック率いるニューズ社は、MTVを擁するバイアコム社と激しく鎬を削っていた。だから、ポストMTVと目されるMyspaceがどうしても欲しかった。マードックは5億8000万ドル(580億円)の巨額で、Myspaceを買収した。ソーシャルネットワークが世界的な現象にかわった瞬間だった。

「ニューズ社はハリウッド的に過ぎます。彼らメディア企業が、Facebookのようなテクノロジー企業を理解することはないでしょう」

Facebookにもニューズ社の買収話があるのか、MTVから問われた時、ザッカーバーグはそう答えたことがある。コンテンツを届けるメディアとしかSNSを見ないニューズ社は、技術音痴でSNSを潰すだろう、という意味だ(※1)。ザッカーバーグは、Myspaceの失速を察知していた。

その後マードックはメジャーレーベルを巻き込んで、Myspace・ミュージックを創業。Spotifyに先駆けてフリーミアムモデルに挑戦したが、技術音痴が原因で失敗した経緯は2年前に書いた(連載第04回)。

MTVもMyspaceを買おうとしていたが、しくじってしまった。バイアコムを率いるサムナー・レッドストーンは激怒し、MTV創業の貢献者トム・フレストン(連載第39回)からCEOの職を奪った。

それで、バイアコムの後任者は、なんとしてもMTVとFacebookを統合する心づもりだった。ザッカーバーグを自家用ジェットに載せ、買収に応じれば君もこんなジェットを買えると口説いた。ザッカーバーグは断った。

正解だった。

ソーシャルメディアには、人が集まるほど人を引き寄せるネットワーク効果が働く。だがネットワーク効果に頼れば、流行り廃りの波に飲み込まれるだけだ。テクノロジー志向が、ソーシャルメディアの底力を決めるとザッカーバーグは見ていた。

一方、既存メディアにとっては伝統的に、技術部はコストセンターであって投資ではなかった。彼らにとって投資とはキラー・コンテンツの獲得であり、それがユーザー層の獲得と直結していた。技術とデザインがユーザビリティを決め、ユーザビリティがユーザー層の獲得と直結する新しいビジネスの仕組みを、よく理解できていなかった。

既存メディアにソーシャルメディアが買収されると、価値観の齟齬が発生し、イノヴェーションのジレンマに巻き込まれかねなかった。CBSに買収されたLast.fmも、ニューズ社に買収されたMyspaceも、そうやって衰退していった。

ザッカーバーグの学友で、Facebookの共同創業者だったエドゥアルド・サベリンも、テクノロジーの本質を理解できないビジネスマンのタイプだった。たとえば、Facebookをバナーで埋め尽くそうとしたり、廃れる前にとっとと会社を売却したいと考えるきらいがあった。

映画でも描かれているが、パーカーたちはこのエドゥアルド・サベリンを追放した。

「学生の考えそうなことさ。サベリンはビジネスこそ成功の鍵で、プロダクトデザインやユーザー・インターフェース、プログラミングなんてものは、エンジニアたちを部屋にぶちこんでおけば勝手にできあがるぐらいの感覚しか持ってなかった」

パーカーは振り返る(※2)。サベリンはハーバード大学で経済学を学ぶ傍ら、学生投資家クラブを運営していた。

「だがインターネット企業では、エンジニア集団、プログラミング、デザインこそがビジネスなんだ。そこをしくじったら、いくら広告営業だの事業計画だのを頑張っても結局、全部吹っ飛んでしまう」

音楽配信プラットフォームに勤しむ方々には、パーカーのこの警告を聞いておくことをお薦めする。この種の"ビジネスマン"にパーカーは手痛い目に遭ったことがある。ショーン・ファニングの叔父だ(連載第42回)。Napsterだけでなく米レコード産業も掻き回された。ザッカーバーグやソーシャルメディア業界が、じぶんと同じ苦しみを味わうことは絶対に避けたかった。

パーカーは法的なテクニックを駆使して、サベリンの株式を希釈化することに成功した。

映画では金にぎらついたパーカーたちがサベリンの株を奪ったように描かれている。映画の大ヒットが、パーカーには相当こたえたようだ。セルフイメージとは逆の人物像だったからだ。女性と破綻したこともあり、ホテルに半年、鬱々と篭って15キロ太った(※3)。心配した友人がシンガーソングライターの女性を紹介したら、復活し、結婚した。Napsterの章で書いたあのややクレイジーな結婚式だ(連載第42回)。

後の経緯を見ると、サベリンが会社に残っていたら、今われわれが享受しているFacebookのかたちは無かったと思われる。

Yahoo!がFacebookに10億ドル(約1000億円)の買収提案をしたとき、買収賛成派と反対派で、会社が分裂の危機に陥った。同時期、社会人向けのSNSである『ワークネットワークス』をザッカーバーグは立ち上げたが、全く人気が出なかったことで起こった危機だった。

「Facebookはビッグにならないのではないのか。所詮、大学生向けの流行を超えられないのではないのか」

そんな恐怖が会社を支配した。ならば、ここでYahoo!に売って区切りをつけるべきでないのか。ザッカーバーグは苦しんだ。同じ疑念を抱いていたからだ。

ザッカーバーグがSNSの流行に、途方も無いヴィジョンを見出していた。

人のつながりで、ウェブのつながりを包み込んでしまおう。そうすればインターネットに、ソーシャルグラフという名の上部構造ができあがる。そんなヴィジョンを彼は見ていたのだ。ウェブのつながりを扱うGoogle。人のつながりを扱うFacebook。共にグラフ理論(連載第49回)を発想の基にしている。理論のもたらす確信が、彼の創造意欲を支えていた。

だが、『ワークネットワークス』は失敗した。SNSは流行を超えて社会的インフラになりえない、それを示唆した実験だったのではないのか。ザッカーバーグは迷っていた。

「理想を実現するには、買収に応じず独立を保つべきだ」と彼をはげましたのは、エンジニア陣とショーン・パーカー社長だった。マスメディア的なYahoo!の元に新ユーザーを囲い込むのと、Webに上部構造を作るという所期の理想とでは、会社の在り方が全く異なって来る。世界に革命を起こすか否か、生き様の選択でもあった。

ここでもし、サベリンが依然30%の株式を握っていたら、取締役会は買収派に押し切られた可能性が高い。Facebookは社会的インフラにならず、流行に終わっていただろう。

さて、パーカーの生活スタイルなのだが、Facebookの社長になってもロック・スター的なそれが変わることはなかった。というか、今でも変わっていない。

「締切を守る。約束の時間に来る。こうしたことが当たり前のふつうの人間にとって、彼はとてもフラストレーションのたまる相手です」

現在、パーカーと一緒に働くSpotifyのダニエル・エクCEOがトークショウでそう語ると、会場から笑いがさざめいた。しかも言葉に遠慮が全くないので会議中、まるで喧嘩を売ってるように見えるそうだ。インタビュワーが続けて尋ねた(※4)。

「ふつう30分で大遅刻といいますが、彼の場合、12時間遅刻すると聞きましたが?」
「はい。パーカーの場合、ほんとうに12時間遅刻します」

シリコンバレーでは、これを『ショーン・パーカー標準時』と呼ぶそうだ。パーカーと仕事をするときは時計を思い切りずらしておけという意味である。

「たぶんみんなが思ってるより、すまないと俺は思ってるよ。でも悪気があってやってるんじゃないんだ」とパーカーは別のインタビューで釈明している(※5)。

それでもパーカーは、かけがえのないパートナーだとエクはいう。誰よりも博識聡明で、常にユニークな見解を持っていて、才能を見つけるのに長けている。ザッカーバーグにとっても、パーカーはかけがえのない存在だった。だから、パーカーが警察沙汰を起こした時、ザッカーバーグは彼を庇った。

社長就任から1年して、パーカーは夏休みを取った。根っからのパーティ好きだ。海の側に借りた別荘で騒ぐうちに、いつしか海水浴の客が音に誘われ、勝手に入ってくるようになった。そして連日連夜のパーティだ。

たまりかねた近所の人間が通報したのだろう。ある日、警察が捜査令状を携えて別荘にやってきた。礼状には「対象者スコット・パーマー」と書いてあった。人違いだとパーカーたちは訴えたが、警察は構わず乗り込み、1時間後、警察官が白い粉の入ったビニール袋を見つけた。

別荘の借り主だったパーカーは逮捕されたが、身に覚えがなかったとパーカーはいう。人違いもあったのだろう。即日釈放され、警察は起訴しなかった。

すぐに会社に戻って事情を説明したが、パーカーを擁護するザッカーバーグたちと、辞めるべきだという出資者たちとで、会社は分裂の危機に陥った。会社から未成年の女性スタッフを別荘に連れていってたことも、事態を悪化させた。

パーカーは退き、三度目の追放を味わうことになった。

傷心のパーカーは、故郷のある東海岸に帰った。グレイトフル・デッドの作詞家、ジョン・ペリー・バーロー(連載第43回)はNapster裁判のときから、パーカーに目をかけていた。それで、バーローは自宅にしばらく、失業したパーカーを匿ったそうだ(※6)。

追放から2年後の2008年、FacebookはMyspaceを追い抜く。翌2009年、Yahoo!を抜いてGoogleに次ぐ巨大サイトとなった。ザッカーバーグに次ぐFacebookの個人株主だったパーカーは、巨万の富(2014年現在、評価額は3200億円超)を持つ存在になった。

そして、パーカーはSpotifyに出会う。

高校時代、Napsterに触ったダニエル・エクが創った全音楽の合法なシェア、それがスウェーデンのSpotifyだった。

すぐにパーカーはザッカーバーグにSpotifyを紹介し、エクには熱烈なメールを送った(連載第44回)。パーカーを尊敬していたエクは、彼の出資を受け入れた。Facebookで得た富をSpotifyに注ぎ、パーカーはSpotifyの取締役となった。

「僕らは友達からのおすすめで、音楽に出会うよね。趣味の合う友達が増えると、また新しい音楽の発見につながる。このプロセスは音楽体験の大部分を占めているんだ」

Napster社にいた21歳のころ、ショーン・パーカーがMTVに語った言葉だ(連載第43回)。あの時の夢を実現するため、パーカーはFacebookとSpotifyの特別パートナーシップ締結を目指す。点と点を結べる立ち位置に、彼は遂に辿り着いた。

実現のためには、まずiTunesが支配するアメリカにSpotifyを上陸させる必要があった。今度は全精力を注ぎ込んで、米メジャーレーベルと交渉を重ねた。そしてパーカーにとってすら偶像であったスティーブ・ジョブズに、やがて彼は挑むことになる。

なお、本シリーズで度々登場するU2のボノは、Facebookに出資している。2009年に投資した9千万ドル(約90億円)の株はそのまま持っていれば現在、約30億ドル(約3000億円)の価値がある[90億ドルを90億円に訂正 2014.11.28]。ボノは慈善事業にこれを回したようで、「ビートルズよりリッチになったなんてことはない」とメディアに答えている(※7)。

Spotifyのイギリス上陸時、U2が独占先行配信をやったのは、Facebookへの出資でパーカーと縁ができたためかもしれない。

※1 http://youtu.be/ByFHGH7AL2I
※2 David Kirkpatrick (2011) "The Facebook Effect: The Inside Story of the Company That Is Connecting the World", Simon and Schuster, pp.135
※3 Idem.,pp.59
※4 http://youtu.be/ByFHGH7AL2I
※5 http://www.forbes.com/sites/stevenbertoni/2011/09/21/sean-parker-agent-of-disruption/
※6 Idem.
※7 株価77ドル(2012.9.18)で計算。 http://www.cinematoday.jp/page/N0042308



 


Android社の設立。アクセスモデル誕生へ連なるルビンの構想

連載第50回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(6)〜NaspterからFacebook、Spotifyへ。そしてiPhone計画の始動
▲アンディ・ルービン(左)。2003年にAndroid社を設立。サード・パーティを取り込んだモバイル・アプリのエコシステム構築、モバイル・アプリのストアといったルービンの構想は、当初クローズド志向だったジョブズのiPhoneに方向転換を促し、音楽産業にアクセスモデルを到来させる影の立役者となった。
Photo : flickr https://flic.kr/p/5uApDW https://flic.kr/p/83UYAF Some rights reserved by Joi Ito (伊藤穰一), Niall Kennedy


アンディ・ルービンがAndroid社を設立したのは2003年の8月、かつて勤めていたAppleで極秘のタブレット計画が進んでいた頃だった。

通信キャリアの専制を嫌気したジョブズは、携帯電話を作りたがらなかった。かわりにタブレット計画を始動したのだが、当時のARMプロセッサーではタブレットの大画面を動かせず、座礁した(連載第49回)。

だが、携帯電話の小さな画面なら話は違った。

>> 完全版を最新刊で公開予定!

【目次】
■Android社の設立。アクセスモデル誕生へ連なるルビンの構想
■iTunesケータイの失敗


 



●次回は<2014年10月31日>更新予定!
【連載第51回「スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(7)〜ジョブズの決断/10周年を迎えるYouTube誕生の舞台裏」】


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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
 
1974年、東京都生まれ。上智大学英文科出身。大学在学中から映像、音楽、ウェブ制作の仕事を始める。2000年、スペースシャワーネットワークの子会社ビートリップに入社し、放送とウェブに同時送信する音楽番組の編成・制作ディレクターに。ストリーミングの専門家となる。2003年、ぴあに入社。同社モバイル・メディア事業の運営を経て現在は独立。作家活動とともに、音楽メディア・音楽配信・音楽ハードの戦略策定やサービス設計を専門とするコンサルタントとして活動中。京都精華大学非常勤講師。東京都、自由が丘在住。本連載を書籍化した全六巻の大作「未来は音楽が音楽が連れてくる」( http://otocoto.jp/otobon/mirai.html )の刊行が始まっている。
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