連載第49回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(5)〜iTunesを超える革命へ。アクセスモデル誕生の物語

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2014/09/01 (月) - 21:00

スマートフォンを予見していたジョブズ

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連載第49回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(5)〜スマートフォンを予見 していたジョブズ。アクセスモデルの誕生物語
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「スティーブ、これはなんだい?」

執務室を訪れたスカリーがジョブズに尋ねた。マッキントッシュが誕生して間もない頃だ(※1)。

「これは未来だ。ぜひあなたに見てほしい」

そう答えると、ジョブズは立ち上がって机上のベルベットを取り払った。小さな端末らしきものが顕れた。キーボードはついていない。端末を覆うスクリーンを、直接タッチして操作できるのだろうか。HP社がタッチパネル式のデスクトップPCを商品化したばかりだった(※2)。

謎解きを試みるスカリーに微笑みながらジョブズは、これは未来の電話だと言った。「Mac Phone」とそのモックを呼んだという。

「いつの日かAppleは、こうしたプロダクトを創ることになるだろう」

あの日、29歳のジョブズがそういったのをスカリーは確かに覚えている。その頃のふたりは日がな語り合う仲だった。仕事だけでなく、芸術について、音楽について、人生についても語り合った。ある週末のことだ。

「自分は早く死ぬと思う」

ブランチのあとジョブズは、スカリーにそう打ち明けた。恋人やごく親しい友人にしか漏らしたことのない、理由なき不安だった(※3)。

「人生は短い。自分ができる本当に凄いことは、ごく僅かしかないと思うんだ」

なぜジョブズが駆り立てられるように働くのか。スカリーは理由に触れた気がした。同じ時期、ジョブズはインタビューでこう答えている(※4)。

「30代、40代になったアーティストが、もの凄い作品で寄与するケースは滅多にない」

人の脳はコンピュータのようなもので、何かを考える度に化学パターンが脳に刻み込まれている。できあがった神経回路は使うほどに強化され、人を有能にしてくれる。だが回路が太くなるに連れ、思考はレコードの溝に嵌ったようになり、自らの思考を根底から疑わなくなる。

そうして革命的なものづくりからかけ離れた中年ができあがるのだと、ジョブズは考えていた。人工知能(AI)におけるニューラルネットワーク論に基づいた洞察だったように思う。

後年、ジョブズはクリステンセン教授の『イノベーションのジレンマ』に出会うが、そこには似たようなことが書かれていた。

ベンチャー企業が成功して刻がたつと、みずからの創りあげたバリューシステム、自分たちに富をもたらしたエコシステムを捨てることが出来なくなる。新しいエコシステムが登場して、そちらが伸びると分かっていても、乗り換えできずに衰退するのだ、と。そこに社員や下請けの家族や生活がぶら下がっていて、無慈悲に捨てられないからだ。

20代の今しか、生きた証と誇れるものづくりはできないかもしれない...。

若きジョブズは生き急いだ。

要素部品の進化速度を無視して、次期Macの開発を失敗させた。過大な要求に疲れたエンジニアたちの大量退職を招いた。そしてスカリーたち経営陣と対立し、Appleから追放された。

「これから何をして生きればいいのか。何ヶ月もの間、私にはわかりませんでした」

20年後、スタンフォード大学の卒業式典でジョブズは語った(※5)。金ならあった。いっそシリコンバレーから逃げて隠遁してしまうか。結局、何かを創ることへの激しい愛をどうしても消せなかったので、ジョブズは再起を選んだ。

「そのときはわかりませんでしたが、結局、Appleから追放されたのは人生で最良の出来事だったのです」

新たに興したNeXT社とPixar社は、Appleの創立のようにはいかなかった。Pixarは2年でキャッシュが枯渇。NeXTは6年で累積2億5000万ドルの赤字となった(※6)。両社ともハードウェア事業から撤退を余儀なくされ、OSとコンテンツに向かわざるをえなくなった。だが、ジョブズは挑戦者であることをやめなかった。

「重圧に苦しむ成功者から身軽な挑戦者に戻れました。物事に対する思い込みも薄れました」

失意が、30代の頭脳に出来上がったレコードの溝を消してくれた。PixarのCG専用ワークステーションは売れなかったので、大胆に業転してアニメ・コンテンツの製作に専念した。NeXTもワークステーションの制作・販売を捨て、次世代OSの開発に集中した。

ハードを捨てるなど、若きジョブズの思考パターンには無かった発想だ。

「おかげで私は解放され、人生で最もクリエィティブな期間に入ることができたのです」

やがてPixarは低迷していたディズニー・アニメの救世主となり、次世代OSの開発に失敗したAppleも、NeXT OSを求めてジョブズに復帰を請うこととなった。

それだけでない。今振り返ればわかる。この時期の仕事は、iTunesを超える革命を音楽産業にもたらすことにもつながっていた。

「将来を見ながら点と点を結ぶことなど誰もできません。出来るのは振り返って結び合わせることだけです」

だが、いつの日か点と点は結ばれる。そう信じた者だけが、異る結果を得るとジョブズは学生たちに語りかけた。すべてが結び合わさり、音楽産業にアクセスモデルが誕生する物語を、これから書いてゆこう。

※1 NHKスペシャル取材班編『Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言』(2012年) NHK出版, pp.152
※2 http://www.hpmuseum.net/display_item.php?hw=43
※3 『Playboy』1985年2月号
※4 http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
※5 Pixarについては、アイザックソン『スティーブ・ジョブズI』pp.383、NeXTについては、脇英世 著『IT業界の冒険者たち』ソフトバンククリエイティブ (2002)、スティーブ・ジョブズの章
※6 http://jobs.aol.com/articles/2011/08/25/timeline-of-a-revolutionary-the-rise-of-steve-jobs/



Androidの父、iPodの父を育てた伝説の会社

1972年。人類の目標がひとつ設定された。

「このエッセイでは、だれもが携帯できる情報端末の出現とその活用が、子供と大人に与える影響について考察します」

この書き出しから始まる論文で、アラン・ケイは、パーソナル・コンピュータの未来像を描いてみせた(※1)。子供でも簡単に使えるタブレット・コンピュータ、「ダイナブック」構想だ。

めざましく進む小型化・低価格化の流れを考えれば、ダイナブックは近いうちに実現するだろうとケイは結論づけたが、その予測はずいぶん外れた。携帯電話が発明される1年前、Apple IIが発売される6年前のことだ。

無理とわかるとケイは、理想への橋渡しとなる技術を手がけることにした。それがGUIだった。1979年、ゼロックス研究所でケイのGUIをジョブズとゲイツが見たことで、80年代にマッキントッシュとWindowsが誕生することになった。

ケイに影響を受けたふたりが、パーソナル・コンピュータの未来形を忘れるはずがなかった。

1985年。ジョブズは追放されてしまったが、Appleにはタブレット・コンピュータの構想が残った。1987年には映像デモが公開されている(http://youtu.be/JIE8xk6Rl1w)。

スカリーは、パソコン用のCPUではタブレット・コンピュータを創れないことに気づいた。小さな端末をつくるには、低電力のCPUがどうしても必要だった。それで、低電力CPUを設計するARM社をジョイントベンチャーで立ち上げた。

1990年の春には、ジェネラルマジック計画がApple社内で始動した。

タッチパネルを搭載した情報端末にアプリと電話の機能を収斂し、「クラウド」(これが語源だ)という名のサーバ群にアプリを同期してサービスを提供する。それはスマートフォンを予見したかのようなコンセプトだった。

ジェネラルマジックには、Macを生み出したエース級エンジニアたちが参加した。Mac OSのユーザーインターフェース(Finder)を手がけたアンディ・ハーツフェルド。そのGUIの基盤となった描画 API(QuickDraw)を書いたビル・アトキンソンがそうだ。

ジョブズが去って後、革新的な仕事ができなくなったふたりは苛立っていたが、再び情熱を傾けるに値する理想を見つけた。ウィザード(魔術師)と称されるこのふたりが参加したことで、シリコンバレーの事情通から注目されるプロジェクトとなった。

連載第49回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(5)〜スマートフォンを予見 していたジョブズ。アクセスモデルの誕生物語
▲Sony製のマジック・キャップ端末。Mac OSを創ったビル・アトキンソンとアンディ・ハーツフェルドが『CDの父』大賀典雄にプレゼンして実現。これがいずれ携帯電話となることをふたりはイメージしていた。ジェネラル・マジック社にはAndroidの父となるアンディ・ルービン、iPhone開発責任者となるトニー・ファデルがいた。

秋、アトキンソンとハーツフェルドは御殿山に行き、Sonyでプレゼンをおこなった。出資を仰ぎ、スピンアウトしようとしていたのだ。

少し後だがふたりはインタビューで、SonyのCD Walkmanで進む小型軽量化と搭載ディスプレイの大型化を例にとって、来るべきデバイスの収斂を説明している。音楽もまた情報端末の上で花開く。そんな未来像だ。

「いつ日本を発つのですか?」

デモを見終えた大賀典雄社長(連載第41回)は、ふたりに質問した。火曜日だった。

「金曜日には帰国します」とハーツフェルドが答えると、大賀は振り返り、「木曜日までに社内の意見をまとめてくれたまえ」と部下に命じた。CDの父が見せた即断即決に、音楽フリークのハーツフェルドたちは思わず歎声を漏らした(※2)。

ジェネラルマジック社はApple70%、Sony10%、Motorola10%の株主比率で立ち上がったが、雲行きが怪しくなるのに歳月を要さなかった。

1992年1月。ビースティ・ボーイズがメジャーアーティスト初となるウェブプロモーションを行うことになるこの年、世界最大の消費者家電ショーCESの基調講演に登壇したのはスカリーだった。Appleは前年、IBMを抜いて世界一のパソコンメーカーになっていた(※3)。

スカリーは、デバイスの収斂が進み、コンピュータと消費者家電の融合が起こると予言。Appleの答えとして、PDAというコンセプトを世界に提案した。それはジェネラルマジックの製品(Magic Cap)ではなく、ニュートンを指していた。

ニュートンはもともとタブレット・コンピュータに近い計画で始まった。しかし技術的に商用化が無理だったため、機能をPDAに絞り込み、小型化・低価格化を目指すことになった。それでジェネラルマジックと競合する齟齬が起こった。

「携帯電話を再発明するんだ」

そうAppleのスタッフが言っているのを聞いたとき、アトキンソンは胸騒ぎがした(※4)。PDAと電話の融合で情報端末の正解は出ない。情報がシステム手帳程度に限定されてしまう。そういうものとジェネラルマジックの理想が混合されるのではないか。彼はそう危惧したのだ。

時を待たずしてAppleのニュートンとジェネラルマジックのマジックキャップは、共に混乱してゆく。

スカリーはAppleが世界一のパソコンメーカーになったあたりで、大統領選でクリントン候補の応援につきっきりとなり、Macに興味を失った。興味の残った事業は、ハンドヘルドのニュートンと次世代OSだった。しかし、どれも失敗へ向かっていった。

デルやコンパックといった価格破壊型のパソコンメーカーが登場し、低価格化のトレンドにさらされたマッキントッシュ事業は一気に収益が悪化。先の基調講演から1年でスカリーは退陣に追い込まれた。いま中国Xiaomiの台頭で、サムスンやSonyのスマートフォンに同じ危機が起こっている。

スカリーの庇護を失ったニュートンは開発が停滞。1996年、PDAの概念をさらにシンプル化して小型化に成功したPalm Pilotが出るとあっさり抜かれ、敗北した。次世代OSの開発も難航し、Mac OSの進化が停滞したところで、Windows95が登場。Appleは暗黒時代に陥ってゆく。

世界一達成から5年あまりで、ジョブズのいう「倒産60日前」に追い込まれていった。

次世代OSとハンドヘルドでイノベーションを目指したまでは正しかった。だが、プロダクトを磨き上げて完璧にまで導くクリエーター魂をスカリーは持ってていなかった。結果、あっさりイノヴェーションを後発に奪われた。

「利益があればこそ、すごいプロダクトを作っていける。でも原動力はプロダクトであって利益じゃない。スカリーはこれをひっくり返して、金儲けを目的にしてしまった」

晩年、この頃のAppleを振り返って、ジョブズはアイザックソンに語った(※5)。

「このわずかな違いが、全てを変えてしまうんだ。誰を雇うか、誰を昇進させるか、会議で何を話すか、全てさ」

現在、日本でも新たな音楽配信が次々と生まれている。ジョブズが正しければ、ビジネスだけで立ち上がった音楽配信はいずれ優位性を失うかもしれない。

国産ならなんでもいいというものではない。音楽配信もひとつの創作物だ。劣化版コピーをユーザーは無意識に見抜く。最後は、磨きぬかれたクリエイティブなサービスを音楽ファンは支持することになるのだろう。

ジェネラルマジックは「銀の舌を持つ悪魔」とまで呼ばれたマーク・ポラトの冴え渡る外交で、壮大な陣営を築いていった。Sony、松下(現パナソニック)、フィリップス、モトローラに加え、通信業界の巨人AT&TとNTTを自陣に引き入れた。

ジェネラルマジックの理想は高かったが、専用の通信環境とクラウド・サーバをいちから構築することを通信産業に求めていた。確かにプロジェクトの始まった1990年5月にはそうする他なかった。WWWはその半年後まで存在すらしていなかったからだ。

だが会社が上場した1995年には、わずか5年でWWWが情報インフラのデファクト・スタンダードを制していた。1999年には大量解雇が始まり、2002年にジェネラルマジックは破産した。

シリコンバレー史上、最も重要な倒産企業。2011年、フォーブズ誌はジェネラルマジック社をそう呼んだ(※6)。同社の解雇・倒産が、次の扉を開いたからである。

ジェネラルマジックの失敗で、とある二人の若い社員が再起をかけて独立した。

Androidの父となるアンディ・ルービンと、iPhoneの開発責任者となるトニー・ファデルである。アンディ・ルービンはApple社から子会社への移動組。トニー・ファデルは新入社員だった。

アンディ・ルービンはWeb TV社に転職。その後起業して、ブラックベリーよりも先に初期スマートフォンの傑作サイドキックを創りあげる。そして2003年にAndroid社を創業。2005年にGoogleに買収された。

トニー・ファデルは携帯デバイスが専門のコンサルタントになった。そして念願だった音楽配信とデジタル・オーディオ・プレイヤーをひとつにしたビジネスモデルを、Appleで実現した(連載第45回)。

ニュートンを支えたARMプロセッサが、音楽プレイヤーも可能な速度にたどり着くと、ファデルはiPodをこれに採用。ジョブズはiPodの上に、iTunesミュージックストアを築いた(連載第46回)。

後にARMプロセッサのパワーが、汎用コンピューティングが出来る閾値に達した段階で、iPhoneが誕生する。iPhoneの開発責任者もファデルだった。当然、ルービンのAndroid陣営もARMを採用している。スカリーが興したといってよいARMは、ポストPCの要石となった。

なお、アンディ・ハーツフェルドはGoogleに行った。Google News、その次にGoogle+を担当している。Google+はYouTubeの標準SNSとなった。定額制配信のYouTube Music Passが始まれば、音楽に最も近いSNSは、ハーツフェルドも手がけたGoogle+になるかもしれない。

ここ15年間、レコード産業のビジネスモデルは、CPUの技術ロードマップに沿って変革を経験してきたが、その背後には常にAppleチルドレンたちがいた。

ブログや翻訳ニュースを読んで新しい音楽サービスの明滅に一喜一憂しているうちに、何がなんだかわからない気分になるかもしれない。そのときは、技術ロードマップに沿って見直してみることをおすすめしたい。

※1 http://www.mprove.de/diplom/gui/kay72.html
※2 『Wired』1995年1月号 Bill And Andy's Excellent Adventure II, by Steven Levy
※3 『Wired』日本版1997年6月号 霧の中の狂想曲(文:織田孝一)
※4 原文は「アップルが自分たちはパーソナル・コミュニケーターを作ることで電話を再発明するんだと言い始めた時、僕らは思ったね。『なんだ、連中はマークに言った話を変えちまったのか』って」 『Wired』1995年1月号 Bill And Andy's Excellent Adventure II, by Steven Levy
※5 Walter Isaacson(2011) "Steve Jobs", Simon & Schuster, pp.567
※6 http://www.forbes.com/sites/michaelkanellos/2011/09/18/general-magic-the-most-important-dead-company-in-silicon-valley/



iPodの開発中に練り上げていたポストPCのイメージ

1998年、iMacで復活の狼煙を上げたジョブズはこう語った(※1)。

「電話はずいぶん前からある技術だけど、最近の携帯電話は革命的じゃないか。コンピュータ業界も実は初期段階で、新しいこと、ワクワクすることは十分できると思っているんだ」

当時、パソコンは価格破壊でコモディティ化が進んでいた。様々なイノヴェーションが起こるインターネット企業に比べ、コンピュータ企業は黄昏ているというのが世論だったが、ジョブズはそうは思っていなかった。

「たとえば、コンピュータはまだまだ酷い出来だよ。操作が複雑すぎて、やってほしいことをやらせるのにひと苦労だ」

そこに革新の余地があると踏んでいた。

「みんな情報家電とか『ポストPC』とか言っているけど、ほんとうに上手くいってるのは2、3かな。Palmとプレイステーション、それと携帯電話ぐらいだ。」

2000年のインタビューだ(※2)。Palmの他は日本勢によるポストPCということになる。メール、ブラウザ、スケジュール帳を備えたiモード携帯は、アメリカでは初期スマートフォンにしばしば分類されているからだ。

「なぜ他はみんなダメになってるか、わかるかい? 今のインターネットはPCに最適化されてるんだよ。だからテレビにウェブを表示してもうまくいかないんだ」

同じポストPCでも、シリコンバレー、ニューヨーク、ハリウッドが躍起になっている方には手厳しかった。マイクロソフトが進めていたWebTVのことである。そこでは、後にアンドロイドの父となるアンディ・ルビンが働いていた。

ゲイツはテレビ業界で大規模買収を繰り返し、Sonyほかテレビメーカーとも提携した。「通信と放送の融合」は流行語になり、いよいよコンテンツ産業もITの大波に乗るかに見えたが、ジョブズの洞察通り消費者はついてこなかった。

「もしやるとしたら、1年たっても古くならなくて、フルでインターネットを体験できるデバイス。そういうものなら買ってくれると僕は確信できるだろう。インターネットJr.はやりたくないな」

iモード携帯やPalmを意識した言葉だ。iPodの開発を裏で進めていたこの時期、ジョブズは携帯電話に新たなユーザー体験をもたらそうとイメージを練りつつあった。iPodでWalkmanを超えるだけでなく、その新しい何かでiモードを越えようと模索していたことになる。彼の眼光に日本はロックオンされていた。

※1 『Fortune』 1998年11月8日号
※2 『Fortune』 2000年1月24日号



AppleとGoogle。王と、次の王との友情

連載第49回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(5)〜スマートフォンを予見 していたジョブズ。アクセスモデルの誕生物語
▲Google共同創業者のセルゲイ・ブリン。ブルーズギターが趣味で、クラプトンやキース・リチャーズ、ラルフ・マッチオから特別レッスンを受けるのが彼の贅沢だ。ジョブズは若きペイジとブリンの師匠となったが、特にブリンとの散歩を愛したという
写真:Tech Crunchのサイトをキャプチャ http://tcrn.ch/1q02b3i


1950年代、トランジスタが登場するとふたつの世界を変えた。

ひとつは音楽の世界だ。

Sonyの井深大が創造したポータブル・トランジスタラジオは、音楽をひとりひとりのものにするパーソナル・オーディオの世界を切り開いた。そしてポータブルオーディオは世界の10代にロックが広がるのを支え、レコード産業の黄金時代を再来させた(連載第38回)。

もうひとつはコンピュータだ。トランジスタの登場でコンピュータの進化は一気に加速した。

ユーザー・インターフェースの定義をご存知だろうか? それは本来、操作画面の設計・デザインのことではない。そのもっと奥にあるもの、すなわち「コンピュータと人間の相互作用」をとらえた言葉だ。

1950年代、ユーザー・インターフェースの未来、あるいはコンピュータと人類の将来像をめぐってコンピュータ科学の天才たちは二派に分かれた(※1)。

優勢だったのがAI(人工知能)派だ。コンピュータはやがて人間に等しい知能を持つ。人工知能こそが、計算機械と人類の間にあるべき正しいインターフェースだとAI派は信じた。SF小説のようで夢がある。AI派は人気があった。

ユートピア的なAI派に対し、「機械が知能を持つことは無い。コンピュータは人間の知能をサポートする道具、インテリジェント・アシスタント(IA)であるべきだ」と唱える現実派がいた。IA派だ。人気がなかった。

続く1960年代、研究開発の実権を握ったのはAI派だったが、結果は惨憺たるものとなった。プログラムが知能をもつことはなかったのだ。

それで1970年代は現実主義のIA派が主導権を奪い、人類は実際的なユーザー・インターフェースの開発に勤しむことになった。その結果生まれたのが、アラン・ケイのGUIだ。

1980年代、ジョブズやゲイツたち起業家の活躍でGUIは商用化され、コンピュータは「頭脳労働を助ける道具」として世界に普及した。Macの登場時、ジョブズは「脳の自転車」という比喩を好んで使った。

音楽でも同じことが起こった。

作曲するAIプログラムは使い物にならなかったが、作曲を助ける道具、シーケンサーをミュージシャンは重宝した。ほとんどの音楽家にとってVisionやPerformerとの出会いは、魔法のようなGUIに感動した最初のできごとだったろう。

やがてDAWがソフトウェア化すると、ミュージシャンの傍らで、コンピュータはレコーディングを助ける道具にもなってゆく。余談だが、Digidesignの創業者ピーター・ゴッチャーは、Pandoraのエンジェル投資家になった。ミュージシャンのみなさんはProTools代を通じて、パーソナライズド放送の誕生を助けていた訳だ。

「AIが人間のように心を持つ必要はないのではないか」と考える現実的なAI派があらわれたのは、1980年代の終盤だった。

完璧に作ったプログラムに、完全なデータをインプットする。そうすればコンピュータは世界を正確無比に理解し、人類は一点の曇りなき正解を得られる...。こうした演繹的なUIがコンピュータの目指す世界だと、古典的なAI派は信じてきた。

しかし、そもそも知性というのは不完全さが本質ではないのか。人間は正しいと信じて間違い、修正してようやく正解に辿り着くではないか。

知性が持つ根本的な欠陥をポジティブに捉えたジュディア・パールは、AIに演繹的な完璧性を求めるのではなく、「だいたい合ってる」答えに、すばやく到達する存在にすればよいと気づいた。

コンピュータに、不完全でもいいから大量のデータを与える。そして主観的なだいたいの統計処理でデータマイニングして、「だいたい合ってる」ぐらいの感じでナレッジベースを構築してゆく。

そうすれば質問にたいして、AIはだいたい合ってそうな正解の候補群を見繕えるようになる。答えの候補リストを人間に返すユーザー・インターフェースのできあがりだ。

お気づきと思うが後のWeb検索エンジン、そしてPandoraやiTunes Radioを支える楽曲レコメンデーション・エンジンはこの実用例である。

パールは考えた。これならAIが心を持つ必要はない。AIは主観的統計法(ベイジアンネットワーク)にしたがって確率計算しているだけだ。帰納的なアプローチで、心のないAIの方を作ったほうが人間の役に立つという寸法だった。

帰納法は演繹法と違って、間違える。だが、間違えたら修正を施せばいいのだ。チューニングは機械学習で追々進めてゆけばよい。

彼ら「杜撰なAI」派の考えはプラグマチックであったが、実用化には瓶首があった。莫大な費用だ。機械学習が精度を高めてゆくには、途方も無いビッグ・データと、基地のごとき情報処理施設が要ったのだ。

歴史は繰り返すという。

ゼロックスの研究所でジョブズやゲイツがアラン・ケイのGUIに出会ったように、1990年代なかばに、ジュディア・パールから始まる「杜撰なAI」に出会った若者がいた。ユーザー・インターフェースを専攻していたラリー・ペイジだ。Appleにいたインターフェイスの導師、ドナルド・ノーマンの名著『誰のためのデザイン?』を彼はバイブルにしていたという。

ある日、教授のところに来たペイジは言った。

「ウェブをダウンロードして、インターネットの構造を解析してみたいのです」
「大学のネットワーク管理者に申請しよう。ディスクでいうと何枚分のデータが必要になるかね?」
そう教授が尋ねると、想定外の答えが帰って来た。
「インターネットのウェブすべてをダウンロードしたいのです」

途方もないことを事も無げにいう大学院生に、教授は眼を丸くした。

ウェブはリンクが張り巡らされている。このリンクを「ウェブの構造」として捉え、解析できればいい。ウェブの構造すべてを機会学習してナレッジベースに落とし込めば[2014.9.2 ナレッジグラフを訂正]、すごいAIができあがる。そうペイジは着想したのだ。幼少時から、途方も無い理想を本気で言い出すのが、ペイジの気質だった。

同じ研究室には、史上最年少でスタンフォード大学院に進学したセルゲイ・ブリンがいた。

「百万年ぐらい飛び級した感じ」と評した同級生がいたように、ブリンには天才的な数学力が備わっていた。博士論文の課題を探していたブリンは、ほとんど夢想のごときペイジの課題を聞きつけ、共鳴した。

それでペイジのアイデアは、ブリンの天才的頭脳によって、5億の変数を持ちつつも極めてシンプルで美しいアルゴリズムに結実した。ペイジリンクの誕生である。

この時、世界にコペルニクス的転回が起きた。

それは30年間、GUIを代表とするIA派に打ちのめされてきたAIが、ようやく「使える」ユーザー・インターフェースとして復活した瞬間であったのだ。


 


当時からAltaVistaなど検索エンジンはいくつかあったのだが、本質的な欠陥があった。

世界にウェブが増えるほどに検索速度と精度が落ちていったのだ。対してビッグデータを機械学習する手法を確立したGoogleでは、データが増えれば増えるほどに精度と速度が上がる仕組みを確立できたのである。

われわれはここに、歴史を画すイノヴェーションを巡り、繰り返されるパターンを認識できる。「世界を変える」と本気で言う理想家と、天才的テクノロジストの出会いだ。

>> 完全版を最新刊で公開予定!

【目次】
■ジョブズ、携帯電話をあきらめ、タブレット計画を始動させる
■ふたたびLast.fm。ビッグデータが起こした放送の革命
 



●次回は<2014年10月2日>更新予定!
【連載第50回「スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(6)〜NaspterからFacebook、Spotifyへ。着うたからiTunesフォン、iPhoneへ」】


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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
 
1974年、東京都生まれ。上智大学英文科出身。大学在学中から映像、音楽、ウェブ制作の仕事を始める。2000年、スペースシャワーネットワークの子会社ビートリップに入社し、放送とウェブに同時送信する音楽番組の編成・制作ディレクターに。ストリーミングの専門家となる。2003年、ぴあに入社。同社モバイル・メディア事業の運営を経て現在は独立。作家活動とともに、音楽メディア・音楽配信・音楽ハードの戦略策定やサービス設計を専門とするコンサルタントとして活動中。京都精華大学非常勤講師。東京都、自由が丘在住。本連載を書籍化した全六巻の大作「未来は音楽が音楽が連れてくる」( http://otocoto.jp/otobon/mirai.html )の刊行が始まっている。
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