連載第48回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(4)〜なぜiTunesは救世主とならなかったのか

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2014/07/05 (土) - 03:15

なぜiTunesは救世主とならなかったのか

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連載第48回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(4)
▲トニー・ファデル。「iPodの父」と呼ばれている。mp3プレーヤーと音楽配信を組み合わせた理想の音楽ビジネスをSony、サムスン、フィリップスに提案したが断られ、Appleに行ってiPodを創った。iモードや着うた、Walkmanケータイを調べるうちに「iPodが携帯電話に徹底的にやられる可能性」を感じたファデルは、携帯電話事業に反対だったジョブズを説き伏せ、iPhone計画が始動することになった。
Photo : flickr. 2012 Some rights reserved by @naro https://flic.kr/p/dyziMC


歴史は希望と失望が織りなすタペストリーだ。

iTunesミュージックストアがアメリカでブレイクした2004年。世界のレコード産業売上が例年通り軒並み下がる中、デジタル売上の急騰したアメリカのみが2.6%のプラスを記録した(※1)。

Naspterの席巻が始まった1999年以来、初めて見えた希望であり、ジョブズの提案するアラカルト販売は世界の音楽産業が選ぶべき方向に見えた。iTunesストアの上陸を待望するアーティスト、音楽ファンの声が各国で上がるようになった。

アメリカではデジタルのみならず、物理売上も回復した。ミュージックビデオを収めた音楽DVDが+45%の急成長を遂げたのだ。日本も音楽DVDは+25%(※2)、欧州も+21%となった(※3)。

これにはゲーム産業の貢献もあった。2000年に発売されたSonyのPlayStation 2は、累計1億5000万台となり、当時、家電史上最も売れた同一機種となった。PS2では、DVDが再生できた。若年層にインストールベースを得たDVDは、急成長していった(連載第41回)。

MTVの登場以来、音楽ビデオは制作費が膨らむばかりの上、音楽ビデオは売れなかった。MTVをVHSに録画すればタダだったからだ。音楽ビデオはCDの宣伝に使うほかなかった。

DVDはVHSには無いアピールポイントを持っていた。画質・音質が劣化しないだけでない。CDと同じように、一瞬で好きな曲を繰り返すことが出来たのだ。テープの巻き戻しは映像の世界でも遂に過去のものとなった。そして音楽ビデオは、一転してアーティストたちの新たな収入源になろうとしていた。

iTunesミュージックストアを立ち上げる際、米メジャーレーベルが最も懸念したのはCDそのものではなく、アルバム・ビジネスだったことを書いた。アルバムが完全消滅すれば産業規模は4分の1にまで縮小しうるからだ(連載第46回)。

だがこのままデジタルが伸び、音楽DVDも伸びてくれるならその心配はなくなるかもしれない。CDが死んだとしても、シングルはデジタルで買って、アルバムの代わりにDVDをコレクションする商習慣ができあがればよい。

だが、すぐにそのシナリオは崩れることになった。mp3が共有されるようになったように、音楽ビデオも共有される時代が来たのだ。

2005年、YouTubeが誕生した。

インターネット史上最速の成長を遂げたこの動画共有サイトのキラーコンテンツは音楽だった。MTVや音楽DVDから取ったコンテンツが数多くアップされ、ストリーミングでシェアーされた。結果、YouTubeの検索クエリーは、六割が音楽関連となった(※4)。

Napsterはロンチから1年3ヶ月で3000万人のユーザーを得たが、YouTubeは公開から1年半で5000万人を集めている(※5)。これに六割をかけた3000万人は、ちょうどNapsterのそれに相当する。YouTubeはわずか一年で世界第5位のトラフィックを誇るサイトとなった。

「いずれテレビの時代が終わり、YouTubeの時代となる」と世界は興奮した。ファイル共有に続き、音楽が動画共有の時代を牽引していた。

「YouTubeは次世代のNapsterなのか?」

Mashableのような影響力の高いニュースブログが次々とそう論じていたが(※6)、YouTubeとNapsterには決定的な差があった。ユーザーが無断で商業音楽をシェアしても、YouTubeは運営の合法性が認められたことだ。

アメリカのデジタル著作権法では、権利者が削除申請を出して約二週間以内に削除すればサイト運営者は合法になる。

しかもストリーミング(※実際にはプログレッシブ・ダウンロード)のため、視聴者はダウンロードしないので法に触れない。

YouTubeならCDシングルやiTunesで買った曲のように、何度再生してもタダである。mp3と同じ便利さをストリーミングは、なかば合法で提供してくれた。2005年以降、世界中で音楽DVDのセールスは下降の一途を辿ることになった。

ファイル共有、デジタル販売、動画共有。

このみっつが揃った時、レコード産業の第三次黄金時代(連載第39回連載第41回)を支えてきたアルバムビジネスの崩壊は決定的となった。

連載第48回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(4)
▲米レコード産業の売上推移。iTunesミュージックストアの誕生した2003年からデジタル・シングル売上が爆発的に増加している。一方、アルバムのユニット売上はNapsterの登場以降3分の1に。合計すると一人あたりの売上も3分の1になった(インフレ換算済)。
source:RIAA, Graphのベース : Business Insider (http://read.bi/1oUMSKZ)


上の図を見てほしい。CDの全盛期である90年代には、アメリカ国民は一人あたり3.5枚超のアルバムを購入していたが、2009年には1枚/人に迫るまで下降している。

かわりにシングル売上は爆発的に伸び、同年、一人あたりの売上は3.5曲超となった。この時点では、デジタル・アルバムは鳴かず飛ばずとなっており、ちょうど購入数がアルバムからシングルに入れ替わった状態だ。

結果、アメリカのレコード産業売上は、ピーク時の76ドル/人から2009年には26ドル/人に。アルバムの売上は0にならず1枚/人でとどまったので4分1にはならなかったが、総売上は往時の3分の1にまで落ちこんだ。ほぼメジャーレーベルが懸念した通りの結果となったわけだ。

「まさか生きている間にこうなるとはね。タワーレコードも消えたよ」

サイアー・レコードの創業者シーモア・スタインが語るように(※7)、CDストアはアメリカで壊滅した。

2004年、HMVがアメリカから撤退。2006年末、タワーレコードがアメリカの全店を閉鎖。

2009年夏、ヴァージン・メガストアも全店舗を閉鎖し1000人を解雇した。今ではこの三社とも経営破綻しており、世界的な現象となった。CDストアは日本やドイツ、イギリスなどごく僅かな国にしか残っていない。ほとんどの国でCDは、Amazonの通販か、大型スーパーで買い物ついでに購入するものになった。

2008年4月、iTunesミュージックストアは大型スーパーのウォルマートを抜き、No.1の音楽販売会社になったとAppleは発表した(※8)。

2013年には、世界のデジタル音楽売上のうち75%をAppleが占めた(※9)。ランチェスターのマーケットシェア理論に基づけば、「独占的」な地位にまでAppleは辿り着いたことになる。

アメリカのメジャーレーベルはスティーブ・ジョブズに楽曲の一元管理を託した。それは、インターネットの普及で失った流通の手綱を取り戻したかったからだった(連載第46回)。背景には、音楽ストアのようなリテールの世界で、Windows OSのような独占状態は起こらないだろう、という予測もあった。

だがiPodとiTunesの組み合わせはデジタル流通で独占的なシェアに到達した。皮肉にも、それはレーベルがAppleに強く求めたDRMが一因だった。

iTunesで買った音楽はiPodでしか聴けなかった。そうなるとiTunesストアを一度でも使った音楽ファンは他で買わなくなる。それで自己組織化の作用が起こっていたのだ。この事象に気づいたメジャーレーベルは、今度はDRM撤廃を容認することになった。

Napster以降、売上がほとんどゼロになったシングル売上を救ったのはiTunesだ。iTunesは1950年代を超えるシングルの黄金時代をもたらした。だが、iTunesではデジタル・アルバムはいっこうに売れなかった(図1)。

業を煮やしたメジャーレーベルは、シングルの値段を上げるようAppleに求めたが、強気の交渉は不可能だった。交渉が決裂してiTunesで売れなくなったら、デジタル売上の4分の3を失うのだ。ジョブズが値上げを拒否することは容易だった。

もっと大きな誤算があった。

2008年、IFPI(国際レコード産業連盟)は衝撃的なレポートを公表した。世界のダウンロードのうち、合法ダウンロードはたった5%だったのだ(※10)。

ブロードバンドは、中国・インド・ブラジルなど新興国へも普及しつつあった。5%のうちのシェア7割、すなわち3.5%しかiTunesは改善できなかったことになる。iTunesミュージックストアは違法ダウンロード対策にほとんどなっていなかった、ということを意味していた。

インターネットが普及すれば、音源のコピーを販売するビジネスモデルは崩壊するーー。90年代後半より米レコード産業で思想的リーダーを務めていたジム・グリフィンは、そう予言した(連載第44回)。デジタル・データが無数の端末に複写されていくのがネットの本質だからだ。

iTunesミュージックストアも、音源のデジタルコピーを販売するビジネスモデルにかわりはない。iTunesが革命を起こしたのは流通の部分であり、エジソンが創始したビジネスモデルの根本は変わっていなかった。

アラカルト販売の失敗を予言したグリフィン。定額制ストリーミングの失敗を予言したジョブズ。まずジョブズの予言が当たり、やがてグリフィンの予言が当たるという10年だった。

iTunesミュージックストアは世界一の音楽販売会社になった。iPodのヒットでAppleの時価総額は、iPhoneの登場を待たず10倍となった。音楽ソフトの販売をフックにハードで稼ぐAppleは成功を収めたいっぽうで、レコード産業は依然苦しんでいる構図だった。

音楽はソフトで稼げず、ハードが稼ぐ時代が来る。そう予測したふたりを紹介した(連載第46回)。

ジョブズと激しい交渉を繰り返したソニーミュージックのアンディ・ラック。もうひとりは傘下のアーティストを引き連れてジョブズとタッグを組み、iTunesミュージックストアの実現を強力に支えたインタースコープのジミー・アイオヴィンだ。

2006年、アイオヴィンはハードウェア・ビジネスを立ち上げる。Beats Electronics社だ。ポータブル・オーディオプレイヤーに匹敵する市場規模を持つヘッドフォン事業に、彼は傘下のアーティストたちと乗り出した。そしてインタースコープ・レーベルの読みは見事に的中することになる。


連載第48回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(4)

不況のしわ寄せは経済弱者に来るのが世の常だ。アメリカでは2000年から2009年にかけてプロ・ミュージシャンの30%が失業した。メジャーレーベルに金が回らなくなり、制作費が大幅に縮小されたのが響いた失業だ。

新人アーティストはもっと悲惨だった。

世界のデビュー・アルバムは、2003年から2010年にかけて売上枚数がマイナス77%となった。理由は同じだ。ベテランや人気アーティストが稼いだ金を、新人のデビュー予算に回し、ビジネスを循環させるのがこの産業の仕組だ。だが資金繰りが悪化し、新人に投資資金を回す余裕がなくなった。大不況で新商品を開発する余裕が無くなり、ジリ貧になる企業の構図だった。

「iTunesは音楽産業を破壊している」

この惨状にそうした意見は世界中から出るようになったのも無理はない。だが、そう言い切れるかどうか。

iTunesミュージックストアが無ければ、その売上分がごっそり無い世界が到来していた可能性もある。それはデジタル売上が7割減った世界だ。代替は登場したろうが、どこまで代わりが伸びたか想像はつかない。

iTunesの影響はプラスかマイナスか。それは事の本質ではないと考えている。

レコード産業が依って立つ複製権ビジネスの技術的基盤は、インターネットに破壊されている。音源のコピーを売るという点で、iTunesのビジネスはレコードやCDと本質的に変わらなかった。これこそ、iTunesが音楽産業の救世主になりえなかった本当の理由だろう。

「全く新しいもの」につながる何かが要るーー。

iTunesミュージックストアのブームが落ち着いた頃、レコード産業はそう希求するようになった。かつてiMacブームが下降に入った時、ジョブズが感じた情熱と同じものだったかもしれない。

iPod誕生のきっかけは1990年代後半、日本勢の起こしたデジタルガジェットのブームに、ジョブズが示唆を得たことだった(連載第45回)。点と点がつながるように、日本はふたたびAppleを動かし、革命へ連なってゆく。


丸山茂雄の危機感


▲佐野元春。丸山茂雄のEPIC・ソニーが輩出した和製ロックのパイオニア。1998年に、国内メジャー・アーティストとしては初の有料音楽配信を行った(※11)。

ことは1998年の早春に遡る。

80年代に小学生だった団塊ジュニア世代はファミコンブームに熱狂。中学・高校時代にはマンガの全盛期を買い支え、90年代に入って大学生となると、音楽を買う遊びに遭遇していた。中高年の遊びだったカラオケが小室哲哉の手で小さなレイヴとなった。

タイアップ・ソングをテレビで耳にして、CDシングルを買い、カラオケで盛り上がる。

黄金の方程式を見出したエイベックスは隆盛を極め、90年代後半にはポスト小室時代を目指すアーティストたちもミリオンヒットでチャートを埋め尽くしていた。

日本の音楽業界が史上最高の活況に沸く中、ソニー・ミュージックエンタテインメントの社長となった丸山茂雄は、危機感を募らせていた。

レコード・メーカーのシステムは今後、崩壊するのではないかーー

業界の盟主と言って差し支えない立場となった丸山だったが、社内だけでなく業界内でも、この焦燥感はなかなか共感を得なかったという(※12)。

この時点でのインターネットの普及率は10%に届くかという程度であり(※13)、ショーン・ファニング少年の頭脳にファイル共有のアイデアはまだ閃いていない。

EPIC・ソニーを立ち上げ、芸能界に対抗するかたちでJ-Rockの時代を切り拓いた丸山は、EPICに所属していた小室哲哉のマネージャーも務めた。いちインディーズだったエイベックスがたちまちソニー・ミュージックと並んでいく様を、丸山は横で体験した。

同時期、丸山は久夛良木健を助けプレイステーションを成功に導く。ソニーミュージックの子会社だったソニー・コンピュータエンタテインメントが瞬く間に1兆円ビジネスに育っていくのを体験した。

芸能界とロック、音楽とゲーム、インディーズとメジャー。丸山が体験したのはどれも、傍流が主流にとって変わる物語だった。

そうした彼の目には、1,500名のスタッフを抱え、巨人のように手足を動かすようになったソニーミュージックは、似合わぬ大企業病を患っているように写った。丸山は、業界No.1となったソニーミュージックを傍流にしてしまおうと思った。会社を50のレーベルに分断して、メジャーレーベルを解体してしまうのだ。社内では激論が巻き起こったらしい。

巨大化した組織にスピード感を取り戻すにはふたつしかない。専制を組んでトップの一意のままに組織を動かす道。ジョブズが取った手法がこれだ。リーダーの類稀なる資質に依存するのがデメリットになる。

もうひとつは組織をアメーバのように分解してしまう道だ。大局で一気通貫しがたくなるが、各組織は最速で現場対応することができる。丸山の取った道がこれである。50の分社化はさすがに出来なかったが、10数社に分社化したことで、2000年以降、ソニー・ミュージックは勢いを取り戻してゆく。

丸山の危機感は、レコード産業全体に及んでいた。当時、10人に1人が使っている程度だったインターネットだが、いずれレコード産業のビジネスモデルに挑戦してくるように思えてならなかった。

インターネットの勃興期に、ソニー・ミュージックの取った施策はふたつある。ライブ事業の構造改革とデジタル配信の開始だ。

丸山は、ライブ産業の仕組みに疑問を持っていた。PA、照明、トランスポート、イベンター、サポートミュージシャンなど、コンサートをやれば様々な業者への支払いが発生する。業者は確実に売上を建てていく一方で、当のアーティストにはお金が残らないという事象がままあった。

ライブは赤字覚悟でツアーをやる。かわりに各地のラジオ局に取り上げてもらい、そのプロモーション効果によりCDを売って黒字にする。今とは真逆だが、そうしたケースを受け入れざるをえないアーティストも少なくなかった。

ライブで、もっと確実にアーティストが稼げるようにするにはどうすればいい…。そう思案していた頃に、赤坂ブリッツが誕生した。ブリッツには音楽に特化した照明とPAが常設されていた。

「楽器だけ持ってくればいい環境を全国に作れば、問題は解決するはずと思い、Zeppを全国につくりました」と丸山は言う。

その後、丸山の危惧はあたる。音源を売るレコードビジネスは落ち込んで行った。その一方で、ライブはアーティストにとって大切な収益源となった。ライブの収益性改善に不断の工夫を凝らすことが、アーティスト生命と直結する時代となったのである[2014.8.1 Zeppに関する説明を加筆修正]。

もうひとつの施策だが、ソニー・ミュージックは丸山時代にデジタル配信へ業界を先導する決断をした。それはSonyから丸山のもとにやってきた、ある人物の提言から始まったという。


盛田昌夫とレーベルゲート

「確かに音楽配信をやろうと言ったのは、Sonyからこちらに来た時で...」

盛田昌夫はそう振り返る。

盛田家の次男に生まれた昌夫は、父昭夫と井深大が小さなSonyを世界的な企業に育てていくのを見て成長した。日本の多くの少年がそうであったように、彼もまた「いつかSonyで働きたい」という憧憬を持って大人になったという。

武蔵高校からイギリスの高校を経てアメリカに渡り、クリントン元大統領などを輩出したジョージタウン大学を経てモルガン銀行に入行。東京に戻ってSonyに入社し、WalkmanとCDを育てたオーディオ事業部と、ITと携帯電話を手がけるカンパニーの執行役員を経てきた。

音楽ハードと通信事業をやってきた盛田には、音楽配信を進めるべきことは自明の理だった。

「みんな反対だったんですよ。得るものと失うもののバランスが誰もわからなかった」

かつてCD革命を起こしたソニー・ミュージックは世界最大のCDプレス工場を持ち、CDストアに強大な営業ネットワークを築き上げてきた(連載第41回)。デジタル配信は自己否定にも等しかったのだ(※14)。

だが盛田は、音楽産業みずから積極的にイノヴェーションを起こすべきだと社内で主張した。

「音楽業界って、基本的には保守的なところがあるでしょう。ネットの時代になると、パッケージにしがみついてても、時代がどんどん変わっていっちゃうのに」

保守的な印象とは裏腹に、結果的には、ソニー・ミュージックは世界に先駆けてデジタル配信を行い、他の国内メジャーレーベルも敏捷に賛同していくことになる。そうした事象が起こったのは、音楽業界にとって異端とも言える経歴を持つ盛田昌夫がソニーミュージックに組み込まれたからかもしれない。

「一番最初にやると何がいいかっていうと、一番最初に失敗できる。それは他の人よりも早く2回目ができるってことでしょ」

1999年、ソニーミュージックは自社の音楽を配信するbitmusicを立ち上げた。iTunesミュージックストアが始まる4年前にあたる。

そしてさっそく失敗で先行することになった。

音楽ファンからすると、各レーベルにそれぞれ配信されても困ってしまう。誰がどのレーベルに所属しているか、わからない。音楽ファンの立場を考えれば、配信はプラットフォームであるべきだった。

だが音楽業界はこれを恐れた。デジタル配信では再販制度が適用されない。だから配信側に価格を強制すれば公取法違反となる。だが無料化の圧力が蔓延したインターネット上で、配信業者に値付けを丸投げするのは、レーベルにとって危険に見えたのだ。この反応は日本に限った話ではなく、アメリカでもそのためiTunes以前のダウンロード配信に楽曲が集まらなかった。

この状況が続く限りまともなデジタル配信はできない。音楽業界が一丸となってこの状況を打破する必要がある。bitmusicの立ち上げで学んだことで、新たな展開をしかけることに繋がった。

盛田はSonyグループの力を結集した。Sony本社とSo-netの技術を集め、ソニーミュージックが身銭を切って配信プラットフォームを開発。このシステムのDRMを提供しようと、白金のビルにいた盛田の元へIT業界の巨人たちが押しかけたという。

次のステップでは全レーベルに出資してもらい、配信プラットフォームをみんなで所有した。そしてこの配信プラットフォームでレーベル各社が直接、音楽ファンにダウンロード販売する形を創りあげた。

こうすれば各社、価格決定権を保持できるし、配信プラットフォームを独自開発できない小さな会社も参加できると各社を説得したのだ。先進国の中でも、世界的にはインディーズに分流されているレーベルが「メジャーレーベル」として数多く活躍しているのが、日本の特徴だ。小規模なドメスティック・メジャーレーベルへの配慮は欠かすことが出来なかった。

何より大事なのは音楽ファンへの配慮だった。どのアーティストがどのレーベルに所属しているか、知らなくてもいいようにした。そのために同じユーザー・インターフェース、同じID、同じ課金決済、同じ検索システムで統一したゲートウェイを創ったのだ。かくして2000年に日本にレーベルゲートが誕生した。

メジャー・レーベルの音楽が一同に揃ったダウンロード配信は、世界でも初だったように思う。盛田たちソニー・ミュージックは「いちばん最初に失敗した」経験を活かして、リーダーシップを発揮することができた。

いっぽうアメリカでは、当時ダウンロード配信はレーベルから警戒され、メジャー・アーティストの楽曲はまばらだった。日本の音楽業界がまとまったいっぽうで、アメリカのメジャー・レーベルは2001年、PressPlayとMusicnetの2大陣営に分裂。アメリカでは音楽配信に敵対的陣営の楽曲がないという、音楽ファンを無視した混迷へ嵌っていく。

結局2003年にスティーブ・ジョブズの調停を受けるまで、音楽配信で米レコード産業がまとまることはなかった。アメリカの音楽業界はデジタル配信を避けて失敗を先延ばしにしたことで、主導権を失った側面もあったように思う。

iTunesミュージックストアは一曲99セント(99円)の値付けで始まった。違法ダウンロードに慣れた音楽ファンはそれくらい安くないとお金を払わない、というジョブズの主張に基づく。

日本の音楽業界は違う観点から値付けが行われた。

CD時代と変わらない収入をミュージシャンがデジタル配信から得るには、逆算すると350円/曲にする必要があった、と盛田は言う。

後年、米ソニー・ミュージックがiTunesミュージックストアに楽曲を提供したのに対し、日本のソニ・ーミュージックがiTunesに音源を出さないことが批難を集めた。アメリカのソニー・ミュージックと日本のソニーミュージックに上下関係は無く、姉妹会社の関係にあり、それぞれの判断で動いていた。

日本のソニーミュージックが主張する350円/曲。これにiTuneミュージックストアの手数料30%を加えた400円/曲は、Appleには受け入れがたい数字だった。(※15)。そしてAppleの希望価格(150円〜250円)は、ソニーミュージックの受け入れられる条件ではなかった。

アーティストの収入を守るか。無料に慣れた消費者の感覚に合わせるか。

以降、ストリーミング時代の今でも続いている課題である。いまでは「150〜250円/曲のデジタル配信ではスタジオ費用が賄えないのでCDアルバムを買って欲しい」という声が邦楽アーティストからも発されるようになっている(※16)。

さて、レーベルゲートだが、iTunesミュージックストアのように華々しいことにはならなかった。価格のせいばかりではないだろう。その後、レーベルゲートと同じ価格帯の音楽配信、着うたフルが人気を博しているからだ。

PC配信のレーベルゲートが当時うまくいかなかったのは、他の理由に収斂できるだろう。

ひとつは日本にはCDレンタルがあったことだ。350円でCDレンタルしてPCにリッピングする。これでアルバムの十数曲がぜんぶデジタルで揃えることができた。パイロットメディアだったCDレンタルは、PCの普及でmp3のマスター音源にかわったのである。

もうひとつの理由は、技術ロードマップに基づく。レーベルゲートの始まった2000年。PCの普及率は、アメリカでは57%あったのに対し、日本は35.5%にとどまっていた(※17)。アメリカでは会社員も確定申告を必要としたこともあって、世界に先駆けてPCが普及していた。

ブロードバンドの契約率に至っては日本が16.6%という段階だ(※18)。ナローバンド時代、レーベルゲートから一曲をダウンロードするのに16分もかかった(※11)。

PCは気軽なものではなく、ダウンロードにはストレスがある一方で、CDレンタル店は歩いてすぐという状況が日本だった。

カオの法則というものがある。

光ファイバーの伝達する情報量は、ムーアの法則よりも速く増えるという法則だ。ムーアの法則は12ヶ月を1単位としているが、それより速いカオの法則にしたがえば、ナローバンドの28.8kbpsは4年を待たずブロードバンドの500kbpsになるという予測が立った。だがPCとブロードバンドの両方が、若年層に普及するまでどれくらいかかるだろうか。

しかもレーベルゲートの誕生した年には、Napsterの席巻がアメリカで始まっていた。ブロードバンドの普及とともにファイル共有が世界中に広がるのは目に見えていた。

PCと音楽の間に、正しい関係を見出すのは至難の業となったのだ。さいわい、答えはPCとはべつの業界からやってくることになった。


カー・ラジオから携帯電話へ

1973年、NYのとある交差点で、人びとはぎょっとするものを見た。

スーツに身を固めた紳士が、レンガほどもありそうな白い何かを耳に押し当て、大声でひとりごとを喚きながらこの上ない笑顔で交差点を渡っていったのだ。

携帯電話を発明したマーティン・クーパー博士の電話先は、NYのラジオDJだったともいうし、AT&Tにいるライバル研究者だったともいう。8人の仲間と6ヶ月の突貫工事で開発し、通信業界の巨人を出し抜いてやったのだ。

電話をかけつつNYの交差点を渡ったのは、人生で最も危険な瞬間だったと博士は笑う。だが、携帯電話を見つめながら歩きまわる危険な人びとであふれる未来を垣間見ることができたのなら、きっと博士もぎょっとしたことだろう。

リープ・フロッグという言葉がある。

先行者がある技術をコアに、周辺の事業者を巻き込みエコシステムを築き上げる。繁栄を極めているところに、エコシステムに囚われのない後発者が、カエルのように先行者の集団を飛び越えて未来へ進む様を言う。

クーパー博士の会社は、1930年に初の量産型カーラジオ「モトローラ」を売り出して創業した。モトローラはリビングを根城としているラジオメーカーを出し抜いたのだ。1970年代に入るとモトローラ社は、巨人AT&Tと車内電話で競っていたが、勝負は完敗の気配を見せていた。

この場合モトローラは、AT&Tが独占する車内電話のエコシステムを飛び越えて、携帯電話の新市場を創出しようとした。

携帯電話の技術的な本質は2WAYのラジオだ。

ラジオの黄金時代だった1940年代にはすでにそのアイデアはあったが、実現には、コア・パーツとなる半導体の集積回路が進歩するのを待たなければならなかった。

カー・ラジオを開発し、車のなかに音楽を持ち込んだモトローラはトランジスタ・ラジオに進出した後、トランジスタ技術を発展させて半導体メーカーになっていた。モトローラが携帯電話を発明したのは、けだし自然な成り行きだったといえよう。

だが携帯電話の本格的な普及期が訪れるのに、それから16年の歳月を費やすこととなった。ひとはレンガほどもある電話を持ち運びたくなかったのだ。1989年、LSIをいっそう小型・省電力化できたおかげで、モトローラはようやくポケットに入る携帯電話「マイクロタック」の販売に漕ぎ着けることができた。

ここからアメリカは、PC産業に加えて、携帯電話でも世界を先行していくことになる。遅れを取った日本勢がリープ・フロッグを仕掛けたのは、携帯電話がアナログからデジタル回線に移行したタイミングだった。


iモード。ポストPCの先駆け

テクノロジーが音楽産業を変えてゆく物語を、エジソンのむかしから語ってきた。

90年代も後半になると、近未来を予測するのは比較的容易になってくる。新ビジネスのタイミングは技術ロードマップに支配されるようになったからだ。半導体の進化はムーアの法則で予測可能になった。通信速度の進化も、光ファイバーが基幹回線となったことで、カオの法則に沿うようになった。

榎啓一がNTTドコモの社長室に呼ばれたのは、1997年の1月だった。ジョブズがAppleに復帰してひと月後にあたる。

これからは通話ではなくデータで稼ぐ時代が来る。だからドコモは携帯電話でマルチメディア事業を起こす、と大星社長(当時)は榎に語った。

面白そうだ、と榎は直感した。

ちょうど携帯電話の回線は、アナログの第一世代からデジタルの第二世代(2G)へ移行しようとしていた。固定電話の電話回線を通話だけでなくデータ通信に使うようになったとき、インターネットの時代が始まった。このとき大星が榎に手渡したマッキンゼーの分厚いレポートには、固定電話の回線に起きたことが携帯電話にも起きるという予測が綿密に述べられていただろう。

だが、「きみ一人でやれ」という社長命令にはひっくり返そうになった。


 


部下はいないから外から募集しろ、という。

「無茶苦茶ですよね」

当時を振り返り、榎は松永真理に語った(※19)。しかし大星社長の話は筋が通っていた。携帯電話といえば、外回りするビジネスマンが使う他なかった時代だ。ドコモに情報ビジネスを知る社員はいなかった。

>> 続きは電子書籍で!

【目次】
■着うた、あるいはモバイル音楽配信の先駆け
■都度課金、そしてWalkmanケータイへ

「未来は音楽が連れてくる」電子書籍 第2巻

 


●次回は<2014年9月1日>更新予定!
【連載第49回「スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(5)〜iTunesを超える革命へ。アクセスモデル誕生の物語」】


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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
 
1974年、東京都生まれ。上智大学英文科出身。大学在学中から映像、音楽、ウェブ制作の仕事を始める。2000年、スペースシャワーネットワークの子会社ビートリップに入社し、放送とウェブに同時送信する音楽番組の編成・制作ディレクターに。ストリーミングの専門家となる。2003年、ぴあに入社。同社モバイル・メディア事業の運営を経て現在は独立。作家活動とともに、音楽メディア・音楽配信・音楽ハードの戦略策定やサービス設計を専門とするコンサルタントとして活動中。京都精華大学非常勤講師。東京都、自由が丘在住。本連載を書籍化した全六巻の大作「未来は音楽が音楽が連れてくる」( http://otocoto.jp/otobon/mirai.html )の刊行が始まっている。
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