連載第45回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの〜iPod編

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2013/12/27 (金) - 22:00

連載第45回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの〜iPod編
Image : Flickr. Some rights reserved by Mark Mathosian.
http://bit.ly/19RwEGD


受け継がれる革新の炎

ある炎があって、それが燃え移ると全てが変わってしまう。

薙ぎ払い、輝き、感動が広がっていく。ひとたび炎の勢いが失せると、世界は停滞の闇に包まれる。しかし、その炎が失われることはない。人類共通ともいえる精神の燭台に燃え続けていて、松明をかざして聖火を取り、世界に再び光を与える者が現れる。

若き日のスティーブ・ジョブズにとっても、そうした存在はあった。シリコン・バレーの礎を築いたヒューレット・パッカードの二人や、エレクトロニクス業界を先導したSonyの盛田昭夫たちだ。

90年代後半。Appleに帰ってきた理由をジョブズは語ったことがある(※1)。

「業界が混迷しているからだ。まるでボートにタイヤをつけたような車を作ってた70年代のデトロイトみたいだ」

マッキントッシュが切り開いたパーソナル・コンピュータ業界は、スペックと価格破壊の他に面白みのない「終わった業界」になろうとしていた。Windows 95の登場で、時代の中心はハードウェア業界からソフトウェア業界へ。そして休む間もなくインターネット業界へ革新のメッカは移動していった。ジョブズの起こしたパーソナル・コンピュータ産業は、無個性なコモディティ・ビジネスに成り下がろうとしていた。

ハードとソフトの融合はもう古い。Windowsと同じオープン路線を取らなければ、シェアの崩壊は防げない。世界中がそう言っていた。そして世間の言うとおりソフトウェア中心のオープン路線を選んだ結果、ハイエンド市場の優良顧客がAppleから互換機メーカーに流出。状況は更に悪化した。

Appleは、イノヴェーションのジレンマに喘いでいた。

毎年10億ドル(1000億円)の赤字を出し、「倒産の90日前」という惨状にあったAppleに復帰すべきか、最後まで迷った。3Dアニメーションの時代を切り拓いたPixerの成功で、ジョブズの名誉は十分に復活していた。40歳にして挫折を乗り越え、過去の人ではなくなったのだ。

結局、Appleはじぶんの子供だった(※2)。父として成長した彼は、苦悶にあえぐAppleを見捨てることができなかったという。あるいはコンピュータ産業そのものに対しても、父親のような感覚を持っていたのかもしれない。

「あなたはかつて『コンピュータ界のSonyになる』とおっしゃったことがある」

1999年2月。幕張メッセでカラフルな5色のiMacを発表したジョブズに、筑紫哲也が尋ねると「その通り」と答えた(※3)。

「私達はSonyを尊敬している。彼らは何度もイノヴェーションを起こしてきた歴史がある。そして、すばらしいデザインを繰り出してきた。現在のコンピュータ業界はイノヴェーションも消え失せ、美しいデザインも無い。革新と美をコンピュータ業界に取り戻したいんだ」

同年10月5日。サンフランシスコのAppleイベントで、ジョブズは2日前に逝去した盛田昭夫を讃えた(※4)。

「Sonyはコンシューマ・エレクトロニクス市場を創りあげた。トランジスタ・ラジオから始まり、トリニトロン・テレビ、ビデオ、Walkman、そしてCD...」

エレクトロニクス産業でイノヴェーションを次々と巻き起こした会社を創った盛田昭夫の人生に、ジョブズは自分の使命を重ね合わせようとしていた。現役時代の盛田が親しくした海外の若者は、マイケル・ジャクソンとスティーブ・ジョブズのふたりぐらいだったという(※5)。

「天国の盛田さんが、きょう発表することに微笑んでくれればいいと思う」

そう言って、ジョブズはFirewire端子を搭載したiMac DVと、映像編集ソフトのiMovieを発表した。今、振り返るとわかる。音楽産業をも覆す『ポストPC革命』はこの日、始まったのだ。

※1 『iCon』第10章
※2 『スティーブ・ジョブスII』第30章
※3 筑紫哲也×スティーブ・ジョブズ 「電脳社会の新世紀」 http://youtu.be/YNIAIovwkGg
※4 Apple Event Oct. 9, 1999 http://youtu.be/ngW5qCBRwxk
※5 『スティーブ・ジョブズは何を遺したのか』安藤国威・Sony元社長インタビュー



SonyとApple。時代の交差点


▲Rolling Stones - She's A Rainbow (1966)。5色のiMacが登場した時、CMソングに使用された。後に、スティーブ・ジョブズを振り返る際、BGMによく選曲されるようになった。間奏のピアノを聴くと、ジョブズの様々なシーンが思い浮かぶ心地がする。

前CEOのギル・アメリオは在庫削減とプロダクト・ラインの絞り込みを進めていたが、ジョブズはこれをいっそう厳しく断行。伸び切った戦線を収束し、防御力を強化した。そこからジョブズ色を出し、『Think different』キャンペーンで大胆に攻勢へ。ブランドを再構築し、かつてのMacファンにふたたび火をつけた。その結果、iMacを発表するより以前に、すでに黒字化を実現していた。

『Think different』の炎は、社内へも燃え広がっていた。業界は斜陽化、会社は倒産すれすれ。それでも「Appleを復活させるんだ」と信じて残っていた優秀な社員たちを燃え上がらせた。

その中にはジョナサン・アイブがいた。

かつてMacintosh 128Kの愛らしいデザインは、パソコンが消費者家電になる近未来を顕示していた。しかしその後、PCはビジネス市場に主戦場を移し、コモディティ化の果てにデザインが崩壊。リビング、子供部屋にまともに置ける代物ではなくなっていた。アイブのデザインしたスケルトンカラーのiMacは、初代Macintoshの理想を復活させた。

消費者家電としてのパーソナル・コンピュータは日本勢も挑戦していたが、Appleほど上手くいってなかった。鍵はデザインの英知にあったのだ。それはスウォッチが、技術革新の終わった腕時計で起こした革新(セカンド・ウォッチ市場の創出)を彷彿させた(※1)。

デザインの卓越は、技術的な差異化にもつながる。

社内のエンジニアは当初、iMacの製造が不可能な理由を38個、並べ立てたという。ジョブズは「俺ができるといったらできるんだ」と押し切り、実際できてしまったわけだが、無数の技術的解決を要したデザインを、他社はすぐに真似できない。

インターネットが家庭に普及しようとしていた時代だ。ケーブル一本でネットに繋がる。シンプルで美しい家具のような家電パソコン、iMacは大ヒットとなった。100年前、エジソンの発明をVictorが美しいインテリアにしたフォノグラフの成功を思いこさせる(連載第35回)。

だがiMacは、Apple IIと初代Macの起こした破壊的イノヴェーションに並ぶものとは呼べなかった。会社は再建されたが、ジョブズがAppleに帰ってきた本当の理由は満たせていなかった。

「全く新しいもの」につながる何かが要る...。

ジョブズが目をつけたのは、日本のデジタル家電だった。

話は遡る。トランジスタを発明したベル研究所は、1969年に「トランジスタの目」と呼ばれるCCDも発明した。Sonyはトランジスタの量産化に成功し、トランジスタ・ラジオでパーソナル・オーディオの時代を切り開いたが(連載第38回)、CCDの量産化技術もSonyが実現する。

「トランジスタの目」はデジタル・カメラそしてデジタル・ビデオカメラに結実した。

95年以降、ネットとパソコンが普及すると、その相性のよさから爆発的に売れ始めた。日本のもたらしたデジタル・ガジェット時代の到来だ。余談だが、ベル研のCCD開発チームには若き日のギル・アメリオもいたそうだ(※2)。

盛田に気に入られたジョブズだが、復帰後も「今から行く」と電話をかけて、気軽にSony本社へ遊びに来ていたという(※3)。おもに応対したのは当時、VAIOを指揮していた安藤国威元社長のようだ。

連載第45回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの〜iPod編
▲New YorkのAppleストア。ジョブズは復帰後もよくSony本社に遊びに来たが、しきりにSonyの直営店についてたずねてくる時期があった。そしてSonyを超える店舗を世界に提示してみせた(※3)。1号店のアートディレクションは八木保、植木莞爾が手がけている(※4)
Image : Flickr. Some rights reserved by Mike Turner. http://bit.ly/1cR4pbT

「我々のやったことを超えて形にしてくるあたりは本当に感心する」

ジョブズが始めたアップルストアについて、安藤が評した言葉だ。ジョブズが安藤に、しきりにSonyの直営店についてたずねてくる時期があった後、2001年にアップルストアが誕生した。

iMac DVとiMovieの組み合わせもまた、iMacに先行していたVAIOを超えるために見出したように思う。1996年末に登場したVAIOは、パソコンをデジタル家電の中心に置く生活をコンセプトにしていた。そう、ジョブズが2001年から語り出す「デジタル・ハブ構想」の元型だ。

デビューしたVAIOデスクトップは、ビデオをパソコンに取り込み、ソフトで編集するデスクトップ・ビデオ(DTV)を目玉にしていた。Appleにはデジタル・ビデオカメラを創るノウハウは無かったが、ソフトウェアなら一日の長があった。DTP業界を作った自負もあった。

説明書も要らないくらいシンプルなビデオ編集ソフトをつくり、iMacの目玉にする。そうすればデジタル・ガジェットで勢いづくホーム・ビデオの世界に進出できる、と踏んだ。それがiMac DVとiMovieだ。iMacとデジタル・ガジェットを結ぶFirewire端子(i.Link,DV端子)はAppleの発明だったが、1997年からSonyが積極的に採用。他のエレクトロニクス企業も追従していた。

ジョブズとウォズニアックは、電子工作とボブ・ディランが共通の趣味で出会った。エレクトロニクスおたくだったふたりのスティーブは、トランジスタを集積した革新的なパーツ、マイクロプロセッサに出会った。そしてパーソナル・コンピューティングの世界を創った。

それから20年余りが過ぎ去った。40歳を過ぎたジョブズは、エレクトロニクス産業とコンピュータ産業の交差点に立とうとしていた。

それは時代が交差する瞬間でもあった。

※1 『アップルのデザイン』第6章
※2 Interview with Gil Amelio(March 24, 2000), Stanford University. http://silicongenesis.stanford.edu/transcripts/amelio.htm
※3 『スティーブ・ジョブズは何を遺したのか』安藤国威・Sony元社長インタビュー
※4 『アップルのデザイン』第4章



mp3ブームに出遅れる


▲1999年10月5日、サンフランシスコでのAppleイベント。冒頭(0分45秒)でジョブズは、Sonyの共同創業者 盛田昭夫を追悼した。盛田の写真には「Think different」のキャッチとAppleのロゴが添えられている。そしてiPod、iPhone、iPadへ向かうきっかけとなった製品群 (iMovieとiMac DV)を発表した。

iMac DVとiMovieは、ジョブズの狙い通りには火がつかなかった。

プロ用をシンプル化してアマチュア用に転化する、というのはイノヴェーションの常套手段だ。スタジオ・レコーディングが用途だったテープ・レコーダーは、再生専用のWalkmanにまでシンプル化した段階で、人類のライフスタイルを変えた(連載第38回)。

DTVの世界をシンプル化して家庭に降ろすのは、Walkmanの事例と同種に見える。だが実際には、似て非なるものだ。SonyのPCM-3348(定価3800万円)が創ったデジタル・オーディオ・スタジオの世界を、DAWソフトでホームスタジオに降ろすのに近かった。

年が明けて2000年。

ジョブズは、ハードウェアやマーケティングでも、大きな判断ミスを犯していたことに気づく。

iMac DVを発表した3ヶ月前にmp3.comが上場。EMIの時価総額(64億ドル。約6400億 円)を超えようとしていた。mp3再生ソフトのWinAmpは一気に普及し、ユーザー数は2500万人に。iMac DV発表の翌月にはWired誌でNapster特集が組まれた。

そして空前のmp3ブームが始まった。2000年の7月には、アメリカの大学生の70%がNapsterを使うようになり、Napsterのユーザー数は2000万人を超えた。

ネットでmp3をダウンロードして、パソコンで音楽を楽しみ、そのままCD-Rに焼いて、CD Walkmanで音楽を外に持ち運ぶ。新しい音楽生活が、大学生を中心としたPCユーザーに爆発的に広がりだした(連載第42回)。

Napsterの爆発的流行を見て、革命が起きているのをジョブズは悟ったという(※2)。

正解はビデオ編集ではなく、音楽だったのだ。

しかもCD-Rドライブの導入に障害となる指示を、自ら出していた。スロット・ローディングの採用だ。オーディオマニアのジョブズ(※1)は、スピーカーにWilson X-1 Grand Slamms(800万円ぐらいしたように思う)、CDプレイヤーにはSonyの最高グレードのプレーヤーを使っていた。そこに搭載されたスロット式ドライブの美しさに惚れ込んでしまい、反対を押し切ってiMac DVにスロット式を搭載させたのだ。

当時、CD-Rドライブはトレイ式しか無かった。HP社を始め、CD-Rを搭載したPCが飛ぶように売れていた。Appleはスロット式のCD-Rドライブが開発されるまで、史上初となったパソコン中心の音楽ブームを、指をくわえて眺めるはめになってしまった。

「自分がアホに思えたよ」

そう、ジョブズはフォーチュン誌に述懐している(※3)。

「ドジを踏んだ。必死で追いつかなきゃいけなかった」

まず、元Apple社員が作ったmp3再生ソフトのSoundJamを買収。WinAmp並みの高機能で人気を博していたこのアプリに、ジョブズ流のリニューアルを施した。機能をごっそりそぎ落とし、iMovieのデザイン思想を導入。誰にでも使える、シンプルで美しいアプリに生まれ変わった。
iTunesである。

「iTunesの最初のヴァージョンが出た時、びっくりした。NapsterのUIとそっくりだったからだ。あれは偶然ではないと思う」

Rolling Stone誌からNapsterに当時、転職したブランドン・バーバーは振り返る(※4)。デザインの洗練はiTunesが遥かに上だったものの、カラムで画面を分けたり、mp3タグの情報をずらりと並べるインターフェースは、確かにNapsterのそれを想起させるところがあった。

2001年2月。再び幕張メッセ。

VAIOを超えるノートを創りたかった、と述べてチタニウムのPowerBookを発表した。初代PowerBookをSonyが設計・製造したことを知るMacファンたちはどよめいた。次にジョブズはiTunesと、CD-Rドライブを搭載した新しいフラワーiMacを発表。

新しい流れに気づいてから、追いつくのに1年かかった。

その間に世界はドットコム・クラッシュを経験。音楽ブームに遅れを取ったiMacは冴えなかった。OSXの発売遅延やモトローラ製CPUの開発遅延もあった。2000年の10月〜12月期にはAppleの売上は57%も下がり、ふたたび赤字に転落。1年の代償は大きかった。

「iTunesで音楽革命に参加すれば、音楽プレイヤーを10倍楽しめるようになる」とジョブズは語ったが、「リップ、ミックス、バーン」のキャンペーンを打てるようになるまで、それだけの差ができてしまった。ビジネスの世界では、追いつくだけでは差は埋まらないのだ。

幕張メッセの基調講演を締めくくるにあたり、ジョブズはコンピュータ産業の新時代を提言した。デジタル・ガジェットの中心にMacを置く「デジタル・ハブ構想」だ。

「パーソナル・コンピューティングの進化が終わったとは思わない。75〜76年に起きた発明がふたたび起ころうとしているんだ」

その言葉は予言というよりも、未来を自ら連れてくる決意のような響きがあった(※5)。

※1 Vladimir Lamm interviewed by Fred Kaplan, Boston Globe magazine, March 26, 2000 http://www.lammindustries.com/INTERVIE/boston%20globe.html
※2 Discovery Channel 『アップル再生 iPodの挑戦』9:30
※3 "How Big Can Apple Get?"(Fe 21, 2005)Fortune Magazine
http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune_archive/2005/02/21/8251769/
※4 Alex Winters "Downloaded" 1:32-1:35
※5 "Steve Jobs as Apple's CEO: a retrospective in products" by Nilay Patel http://bit.ly/1ezwU4s



Sonyがくれたチャンスを掴む


▲ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの貴重な対談が映像に残っている。ここでジョブズは、なぜSonyが失敗しAppleが成功したか。その理由を語っている。『Post PC』時代が初めて宣言された場でもあり、この対談の全編を観たが最高に面白い。
Transcript (英語) : http://allthingsd.com/20070531/d5-gates-jobs-transcript/

ジョブズがMP3プレーヤーの製造を社内で主張し始めたのは、2000年の秋ごろだったという (※1)。本来、得意なことに集中し、苦手なことはパートナーを探すのが復帰後の彼のポリシーだ。デジタル・ガジェットの自社開発は信念に反していた。

「誰も助けてくれないなら、自分たちで創るまでだ」

かつてジョブズはそう言って、iMovieを自社開発した。動画編集ソフトのトップ、Adobeに開発を断られたからだ。同じような経緯がMP3プレーヤーの開発でもあったことは想像に難くない。

1998年、韓国でMPManという名のmp3プレーヤーが登場。ドイツからはRioも登場し、1999年にはコンパックからハードディスクを搭載したmp3プレーヤー(PJB-100)が出ていた。コンパックはiPodより2年早く、初代iPodと同じ5GBを搭載していた。

しかし、どのメーカーの製品もブレイクしなかった。

Rioは10曲しか取り込めないし、コンパックのはバカでかい上に、転送時間が死ぬほどかかった。USBですらなかったからだ。どちらも曲名の入力からプレイリストの作成まで小さな液晶でやらせようとするので、とんでもなくボタンを連射する必要があった。

Napster革命に参加した数千万人は、mp3をアールに焼いて、CD Walkmanで聴いていた。mp3プレーヤーは新しもの好きのギークが試し買いする、ニッチな周辺機器に過ぎなかった。

Sonyでも様々な試作機が制作されていたようだ。

当時、Sony本社によく遊びに来ていたジョブズは、様々な提案を持ちかけていた。VAIOにOSXを載せる提案もあった(※2)。デジタル・イメージングでの提携は実現し、2005年にはAppleイベントに安藤国威が登壇した。

だから音楽プレーヤーの分野で何らかの提携を、ジョブズがSonyに持ちかけていたとしても不思議ではない。Sonyはデジタル・ガジェットを製造するノウハウがあり、Appleはソフトウェア開発のノウハウがあった。

結局、Sonyはハードディスクではなくメモリースティックを、mp3ではなくATRACを選択。1999年12月に、64MBのメモステを付けてメモリースティックWalkman(NW-MS7)を発売した。

『iCon』には復帰以来、全く新しいものへの起爆剤を探し続けていたジョブズが描かれている(※3)。「チャンスがあるなら、必ず見つけ出してやる」とジョブズは希求していた。

「Sonyにはmp3プレイヤーがありませんでした。ジョブズは、これなら市場を独占できると考えたのです」

『iCon』の著者、ジェフリー・ヤングはディスカバリー・チャンネルでそう答えている(※4)。発想の転 換だった。Sonyがmp3プレーヤーをやらないなら、自分がやればいい。ジョブズはクリステンセン教授の愛読者だったが(※5)、目の前にあるのは、『新市場型破壊的イノヴェーション』のチャンスだった(連載第38回)。

mp3プレーヤーがニッチなのは、ごちゃごちゃしてギークでも操作できないからだ。シンプルで使いやすいUIにすれば、ふつうの音楽ファンがmp3プレーヤーを買うようになる。非消費者が転じて、巨大な新市場になる。GUIのときと同じ構図だった。

Appleに復帰したほんとうの理由、再び宇宙に衝撃を起こすチャンスが訪れようとしていた。

※1 『スティーブ・ジョブスII』第29章
※2 『スティーブ・ジョブズは何を遺したのか』安藤国威・Sony元社長インタビュー ※3 『iCon』第10章
※4 Discovery Channel 『アップル再生 iPodの挑戦』13:00
※5 『スティーブ・ジョブスII』第30章



 


iPodの父、ファデル登場


▲iPodのはじめてのCM。記念すべき1番目のタイアップソングは、The PropellerheadsのTake California。ロック好きなジョブズは気に入らなかったが、若手の意見を受け入れた。例のシルエットのCMはこの2年後、iTunes Musicストアが誕生して以降だ。

2001年2月。幕張でiTunesと共にデジタル・ハブ構想が発表されて間もない頃だ。

一匹狼のハイテク・コンサルタント、トニー・ファデルは冬の休暇をスキー場で楽しんでいた。リフトに乗って心地よい冷風が頬を撫でると、携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。相手は、Appleのハード部門を統括するジョン・ルビンシュタインだと名乗った。折り入って急ぎの相談があるという。

林檎のロゴを敬愛していたファデルは、休暇を早めに切り上げ、クパチーノのキャンパスに赴いた。

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【目次】
■iPodの父、ファデル登場
■iPod誕生のきっかけとなった東芝のHDD
■iPodのプロダクト・プランニング
■iPodの開発。統合モデルの進化
■「すごい会社」のアイデアをiPodの開発で実行
■音楽生活を変えたジョブズのアイデア
■iPodのデザイン 〜シンプルは洗練の極み
■音楽への愛情、プロダクトへの愛情
■iPodの命名

「未来は音楽が連れてくる」電子書籍 第2巻


●次回は<2014年2月10日>更新予定!
【連載第46回「スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(2)〜iTunesとミュージックマンたち」】


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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
 


1974年 東京都生
上智大学英文科出身。大学在学中から映像、音楽、ウェブのクリエイターとして仕事を開始。2000年、スペースシャワーTVとJ-Wave, FM802、ZIP-FM, North Wave, cross fmが連動した音楽ポータル「ビートリップ」にて、クロスメディア型のライブ・ストリーミング番組などを企画・制作。2003年、ぴあ社に入社。モバイル・メディアのプロデューサーを経て独立。現在は、エンタメ系の新規事業開発やメディア系のコンサルティングを中心に活動中。
2012年6月より「Musicman-NET」で連載「未来は音楽が連れてくる」を執筆開始し、その内容が業界内外の注目を集めている。
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