連載第38回 日本が世界の音楽産業にもたらしたもの

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2013/04/11 (木) - 22:00

連載第38回 日本が世界の音楽産業にもたらしたもの
▲Sony共同創業者の盛田昭夫と、Apple創業者のスティーブ・ジョブズ。カンファレンスの冒頭で、ジョブズは盛田の死を追悼し、「大きな影響を受けた」と讃えた。

Sonyスピリットを受け継いだApple

1999年10月5日。サンフランシスコのAppleカンファレンス。

前年にiMacで完全復活を遂げたジョブズは、熱狂に包まれ登壇した。スクリーンに映し出された巨大な林檎のロゴを背にして、彼は語り始めた。

「盛田昭夫氏は、私とAppleのスタッフに多大なる影響を与えました。先の日曜日、彼が世を去りました」

『Think different』のフレーズと共に、Sonyの共同創業者の写真が、林檎のロゴに変わってスクリーンに映し出された(* http://youtu.be/K7WmPz5kgjc )。

「スティーブはSonyになりたかったんだ」

Appleの二代目CEO、ジョン・スカリーの言葉だ。ジョブズが初めて盛田昭夫に会ったのは、初代マッキントッシュを開発したときだった。Sonyの発明した3.5インチ・フロッピーを初代マックに載せるため、Sony本社へ訪れていた。

そこでジョブズは、初代Walkmanを盛田からプレゼントされた。

Sonyのもう一人の共同創業者、井深大のインスピレーションで誕生したWalkmanは、盛田の類い希なるマーケティングで世界の音楽生活を変えた。初代Mac発売に5年先立つ1979年のことだ。

ジョブズは感激のあまり、盛田の目の前でWalkmanを分解し始めたという。

工場に案内されたジョブズは、Sonyのエンジニアがみな同じジャンパーを着ているのを不思議に思った。「あれは何ですか?」とジョブズが尋ねると、盛田は「絆みたいなもんだよ」と答えた。

「絆...。」そこでまた、ジョブズは感激してしまった。ジャンパーをデザインしたのは誰かと聞き出し、三宅一生にAppleのユニフォームをデザインしてもらった。

帰国したジョブズが「みんなで着よう」と社員たちに見せたところ、大ブーイングを受けた。そこで仕方なしに、自分だけの「ユニフォーム」をデザインしてもらうことにした。それがあの黒のタートルネックだ。

ジョブズがSonyから受けた影響は至るところに看て取れる。『Think different』という言葉からして、井深の言葉だ。洗練されたアップルストアは、盛田が進めたNY5番街のショールームと銀座のソニービルを踏襲している。

ブラックと削り出しシルバーの組み合わせ。最も目立つ箇所に輝く銀色のロゴ。

iPhoneとiPadのこのデザインは、CD時代を到来させた大賀典雄(Sony五代目社長)が60年代に定めたSonyの基本デザインそのままだ。

AppleはiPodで、21世紀の音楽生活を変えた。人真似が大嫌いなジョブズが「これは21世紀のWalkmanだ」と繰り返し自慢したのは、盛田たちへのリスペクトだったのだろう。

音楽とテクノロジーの関係を、20世紀前半から振り返ってきた。レコード産業と放送産業の先進国、アメリカが主な舞台だった。

音楽産業とテクノロジーの関係について、20世紀後半を語るにあたり、どうしても外せない存在があった。日本のSonyだ。


日本初のテープレコーダー

連載第38回 日本が世界の音楽産業にもたらしたもの
オープンリール式のポータブルレコーダー
Image : flickr ( http://bit.ly/12yGVFd )


盛田の家は、庭にテニスコートがあるような、名古屋の裕福な商家だった。高級住宅地で、向かいの家は豊田一族が住んでいた。居間には、父が輸入した蓄音機のVictrolaがあった。今の自動車に匹敵する値段だったVictrolaで、音楽好きの母はエンリコ・カルーソなどをよく聴いていたという(連載第36回)。

盛田はそれがきっかけで、小学生時代、真空管ラジオの製作に夢中となった。大学では応用物理学を専攻。研究室の助手となった。授業を受け持つようになった頃、太平洋戦争で召集され、熱線誘導兵器の開発班に配属された。

そこに井深大がいた。少年時代、無線マニアだった井深は「光電話」と「走るネオン」を発明。パリ万博で展示され、「若き天才発明家」の評判を既に得ていた。盛田はインスピレーションの溢れ出る井深に私淑。終戦後、井深がベンチャーを立ち上げたことを朝日新聞のミニコラムで見つけ、事業に参加した。

東京通信工業、後のSonyは井深が勢いだけで創業したベンチャーだった。何を仕事にするかも決まってなかった。そこでとりあえず、当時高価だったラジオの修理で食べていくことにした。

それから4年後。NHKにあったGHQの部屋で井深は、テープレコーダーを初めて見た。時期的に、旧ドイツ軍から接収した軍事技術がアメリカのテープレコーダーに反映されだした頃だ(連載第37回)。井深はその圧倒的な高音質に驚愕した。

会社に駆け戻ると、井深は社員を集めて、日本初のテープレコーダーを創ると宣言した。何もない会社が、である。だが、盛田の資金調達で開発が始まり、わずか1年余りで製品を完成させてしまった。

まだテープがオープンリール式だった時代だ。当時、録音は専門知識を持つスタジオエンジニアだけのものだった。だが、後のSonyは改良を重ね、小型化と簡易な操作を実現。

その結果、専門知識のない新聞記者でも扱えるポータブル・テープレコーダーの製品化に成功した。今でもマスコミ業界はICレコーダーを「デンスケ」と呼んでいるが、これはSonyのポータブル・テープレコーダーの商標から来ている。

Sonyのテープレコーダーは、単にGHQを上手に真似たというレベルではなく、独創の領域に入っていた。オーディオの領域で「追いつけ追い越せ」をやってのけた瞬間だ。

イノヴェーションの専門家、クリステンセン教授の理論で説明するなら、改良に改良を重ねる「持続的イノヴェーション」が閾値を超えて、「新市場型の破壊的イノヴェーション」に変化した瞬間、といえる。

新市場、ブルーオーシャンはどのようにうまれるのか。鍵は非消費者層が握っている。これまで価格や専門知識の問題で使いたくても使えなかった非消費者層を、消費者に変える。それが「新市場型の破壊的イノヴェーション」だ。

とはいえ、音楽産業の立場から見ると、この段階ではイノヴェーションとは言えないだろう。この日本製テープレコーダーが世界の音楽産業にもたらした影響は、どちらかというと間接的なものだ。イノヴェーションは立場によって評価が変化する、相対的な性質を持っている。

テープレコーダーは序章に過ぎなかった。世界の音楽産業を変えたSonyの数々の破壊的イノヴェーションはこの後から始まった。


音楽がラジオを導き、ラジオが半導体を導いた

1952年。G型テープレコーダーの発売から2年後のことだ。

井深はアメリカに来ていた。音楽産業の本場、アメリカでテープレコーダーがどのように使われているか、視察するためだった。だがこの視察で井深はテープレコーダーからすっかり興味が失せることになる。

彼は、新しいおもちゃをみつけた。

偶々、井深は、トランジスタなる新しい電子部品の製造権を、ベル研の親会社ウェスタン・エレクトリック社がライセンスしているという話を聴いた。

後にトランジスタは、現代産業の根幹技術となる。インテルのi7には、CPU1枚あたり7億個以上のトランジスタが搭載されている。

だが当時のトランジスタは、真空管と比べると耐久電圧が極端に低く、対応できる周波数も相当低かった。そのため、産業化にはほど遠い発明だった。

「今のところ、補聴器ぐらいにしか使い道はないんですけどね」

と、ウェスタン・エレクトリックの研究員は井深に説明した。その上、量産技術も確立できていない、という。だが、この説明を聴いた井深のボルテージは上がった。

当時、真空管はラジオとテレビの根幹的な部品だった。RCAやフィリップス、日本なら松下や東芝といった既存企業の家電は真空管に依拠していた。

トランジスタは真空管に比べ、遙かに小さい。

自分たちの手でトランジスタの性能を真空管並みにできれば、超小型のラジオが創れる...。井深は新しいチャレンジに夢中となった。

トランジスタの実用化は、盛田の義弟である岩間和夫(4代目社長)を担当にあてた。岩間はアメリカに3ヶ月残り、トランジスタ・テクノロジーを徹底的に研究。これを元に、発明したベル研究所すら諦めていた課題を解決してしまった。

(後に岩間はデジタルカメラの目となる半導体、CCDの実用化を指揮し、Sonyは成功に漕ぎ着けている。SonyのCCDはカメラ・フィルムを不要にする破壊的なイノヴェーションとなり、コダック社などを過去の会社に追いやった)

しかし量産化の問題がまだ残っていた。当初、トランジスタは生産した100個のうち5個ぐらいしか動作してくれなかった。にもかかわらず、井深は製品化に踏み切った。

「つくりながらの方がいろいろわかるだろう」という、ハード業界ではちょっとないベータ版の発想だ。歩留まりは悪いままだったが、何とか製品化に漕ぎ着けた。

世界初のトランジスタラジオ、となる予定だった。

わずか1ヶ月の差で、米リージェンシー社のトランジスタラジオが世界初の称号を取ってしまった。だが井深の読み通り、着実に量産化技術は上がっていった。

この時、Sonyでトランジスタの量産化を担当していた社員が江崎玲於奈だ。

江崎は、ある不良品のトランジスタに、量子力学で予言されていたトンネル効果が起こっていることを発見。これを元にエザキ・ダイオードを発明し、ノーベル物理学賞を受賞した。

1957年。井深たちはトランジスタの量産化に成功し、製品はさらに小型化した。そして、音楽文化を変える破壊的なイノヴェーションを、Sonyは引き起こした。


ロックンロールのブームを創出したトランジスタ・ラジオ

連載第38回 日本が世界の音楽産業にもたらしたもの
▲欧米で初の日本製ヒット家電となったTR-610。親のいる居間のラジオで聴けなかったロックンロールを、ティーンズたちは部屋で聴けるようになった

量産化の成功で、Sonyのトランジスタラジオは価格破壊を起こした。先のリージェンシー社製のラジオは49.95ドルだったのに対し、58年に出たSonyのTR-610は定価10,000円、27.77ドル。3年後には8,000円(22.22ドル)へ値下げした。半額だ。

価格破壊だけでない。「ポケッタブル」と盛田が命名したほどに、小型化に成功していた。そんな英語は無かったが、ひとつ前のモデルから、強引にそう名付けた。

実際にはYシャツのポケットには少々大きすぎたのだが、盛田は少しポケットの大きいYシャツを特注して、アメリカの販売スタッフに着せてポケッタブルラジオを売った。

ポケッタブルラジオは、欧米で大ヒットした初の日本製家電となった。

さて、この日本製小型ラジオだが、よろこんで買ったのはYシャツを来た大人たちではなかった。大人たちは、一流企業の真空管ラジオを買えたからである。図体はでかくて高いが、長年、品質向上の進んだ真空館ラジオは音がよかったし、リビングのラジオは当時、家族のための買い物だった。

Sonyのポケットラジオに飛びついたのはティーンズたちだ。

彼らはずっと、自分だけのラジオが欲しくてたまらなかった。一人で、どうしても聴きたい音楽があった。ロックンロールだ。だが、居間にデンと構える真空館ラジオではロックンロールは聴きたくても聴けなかった。親が嫌ったからである。

Sonyのトランジスタラジオは、ロックンロールを聴きたいティーンズにとって、救世主のような製品だったのだ。

ロックンロールとラジオDJ。そしてティーンズがレコード産業の黄金時代を再来させた、と書いた(連載第37回)。

もう、おわかりだろう。ロックンロールのブームは真空管ラジオでは起こし得なかったものだ。真空管ラジオは、ティーンズが自分の部屋用に買える値段とサイズではなかった。

ラジオから流れるロックを渇望するティーンズ。ラジオを買えなかった彼ら非消費者を、消費者に変えた「新市場型の破壊的イノヴェーション」。それが井深のトランジスタ・ラジオだった。

Sonyのトランジスタ・ラジオはハードウェアの側面からロックンロールの時代を開き、レコード産業の黄金時代を演出した。


ロックンロールとイノヴェーション

音楽と技術革新の関係を捉える上でも、トランジスタラジオの事例は非常に重要だ。先のクリステンセン教授も著作で取り上げている。

価格破壊で起こるイノヴェーションを、クリステンセン教授(連載第05回)は「ローエンド型の破壊的イノヴェーション」と呼んでいる。

「お客様は神様」という。一流企業は、顧客の声を聴き、製品に改良を重ねていく。特にハイエンドの顧客は、高い品質にプレミアム価格を支払ってくれる。しかしこの当然の企業努力が、裏目に出る瞬間が到来する。

満足過剰。あまりにも品質がよくなってしまうのだ。

品質向上を続ける内に、ローエンドの顧客にとっては、満足過剰のプロダクトになってしまう。彼らは、「もっと低い機能で十分だから、もっと安いのが欲しい」と考えるようになる。

ここに「ローエンド型の破壊的イノヴェーション」の機会が生まれる。生まれたばかりのトランジスタラジオは、歴史を重ねて品質向上が進んだ真空管に比べれば、高音質ではなかった。だが安くて、「そこそこいい音」だった。

本来、ローエンド市場はレッドオーシャンだ。利益率が極端に低い。企業にとっては、正直、お荷物の顧客である。

この市場で利益を上げるには、これまでのやり方では不可能だ。「ローエンド型の破壊的イノヴェーション」の成否を握る鍵は、価格破壊を実現する新たなビジネスモデルとなる。

さて、Sonyのトランジスタラジオだが、2つの側面から価格破壊を実現していた。まず技術革新で、トランジスタの大量生産を実現した。

さらに、米国に渡った盛田が流通チャネルに革新を起こした。

真空管はフィラメントが切れやすいため、専門のリペアマンが要る。だから、RCAや松下は真空管ラジオを、リペアマンの資格を持つ系列店で販売していた。一方、ソリッドステートなトランジスタはリペアマンを不要にした。

奇しくも当時、アメリカにはKマートのような大型量販店が登場し始めていた。前回、「インディーズレーベルは、ディスカウントストアを活用して独自の販売網を創り上げ、ロックンロールのレコードを売っていった」と書いた(連載第36回)。

ディスカウントストアは、リペアマン不要で売れるトランジスタラジオも歓迎した。ロックンロールのレコードと共に、Sonyのトランジスタ・ラジオが大型量販店に並んだのである。

RCAや松下、フィリップスが金払いのよいハイエンド市場向けに真空管ラジオを高音質化させていく中、Sonyはミニラジオで欧米のローエンド市場に進入していった。

当初、RCAやフィリップスは、Sonyを脅威とは感じなかった。レッドオーシャンと化したローエンド市場などお荷物でしかなかったからだ。この大企業のモチベーションの低さを盾にして、Sonyは市場に進入することが出来た。

そこそこの音が安価になれば、これまでラジオを買いたくて買えなかった非消費者層がよろこんで購入するようになる。真空管時代、ラジオは家族のものだった。家庭に一台、リビングにどんと構えていた。小型で安価なトランジスタラジオは、「一人一台」の時代を到来させた。

大企業から見れば、ティーンズ市場などつまらないローエンド市場に見えた。だが実際には、パーソナルオーディオという新たな市場をSonyは切り開いていたのだ。

これまで高価な真空管ラジオを買えなかった彼らにとって、トランジスタラジオの競合は真空管ラジオではない。同じトランジスタラジオが比較対象になる。そしてSonyのトランジスタラジオは、米国製のものよりもずっと音がよかった。

Sonyは新たな市場、パーソナルオーディオの世界でプレミアム価格を実現した。

売り物がミニラジオしかない時代に、共同創業者の盛田はNYの5番街にSonyのショールームを開いた。当時、MADE IN JAPANは安いだけの粗悪品・模造品の代名詞だった。そんな時代にあって、盛田はSonyを一流ブランドにする野望に燃えていた。

当時、日本製品はアメリカの卸売業者に買い叩かれて、値段だけで勝負しているのが常だった。これを覆すために盛田は直接取引を試み、Sonyブランドの確立に挑んでいたのだ。

井深の製品開発と、盛田のマーケティング。ふたつの領域でイノヴェーションを起こしたSonyは、アメリカでブランドの確立に成功した。

NYにあった家電製品の倉庫が破られたとき、盗賊団は他社製ラジオには目もくれず、Sonyのポケットラジオだけ盗んでいった、という逸話が残っているくらいだ。

まとめよう。ここはクリステンセン教授の理論ではなく、筆者の見解になる。

一流企業がよく見落とすビジネスの盲点がある。ローエンド市場に起きたイノヴェーションは、新市場を生み出しやすい点だ。

ローエンド市場から非消費者層に横滑りして新市場が誕生した場合、破壊的イノヴェーションを起こしたプロダクトは、既存企業が油断している間に新市場のハイエンドを押さえてしまう。そして、ベンチャーは新市場でプレミアム価格を享受する。

これを「スライド・プレミアム」と呼んでおきたい。

当時の大手家電メーカーは新市場の開拓に向け、研究開発に励んでいたはずだった。テレビ時代の到来で、真空管テレビの開発に勤しんでいたのだ。真空管テレビは新たなハイエンド市場をもたらしてくれるはずだった。

しかし実際には、テレビの新たなハイエンド市場もSonyのものとなった。

まず、いつのまにか大型量販店が、系列の家電小売店を駆逐していた。そして大型量販店の棚はSony製品が大きなシェアを占めていた。

さらにSonyはトランジスタ・テレビを開発。技術的に極めて難しかったアパーチャグリル方式を独自のアイデアで実用化し、RCAなど大企業が先行していたテレビでも勝利を収めてしまった。

イノヴェーションで非消費者層を開拓し、新市場でプレミアム価格を取る。

これがSonyの勝ちパターンとなった。「ライフスタイルの提案」とは、理論的にはそういうことだ。

Sonyの技術革新はロックンロールをハード面から支援した。そしてロックンロールを求めるティーンズのSonyへの愛情が、初期のSonyブランドを創り上げたのである。


ブリティッシュ・インヴェイジョンとイノヴェーション

「1962年の夏、あなたはどこにいましたか?」

ジョージ・ルーカスの出世作、『アメリカン・グラフィティ』に付いていたキャッチだ。サンフランシスコ郊外で高校生たちが繰り広げる一夜のストーリーは、音楽と自動車が大切な小道具となっている。

アメリカン・グラフィティに出てくる高校生は、ちょうどベビーブーマーにあたる。

自動車から大音量に流れるロックンロール。これもまた、日本がもたらしたものといっていいかもしれない。

Sonyのトランジスタラジオが欧米で成功したことで、松下や東芝など日本勢の大手もフォローアップに出た。しかし、同じポケットラジオを創ってもそこはSonyがハイエンド市場を取っている。あまり、おいしくない。

だから、1959年に富士通テンが日本初のトランジスタ・カーラジオを創ると、これに他の日本勢も続くことになった。

真空管は繊細な上、電気食いだ。正直、カーオーディオに向いている部品ではない。一方、ソリッドステートなトランジスタは、カーオーディオにぴったりだった。

当時、カセットテープはまだ登場していない。かわりにTOP40専門ラジオが、ロックンロールをかけまくってくれた。

さらに日本のカーラジオには、自動車向けに新たな機能が備わっていた。プッシュボタン方式だ。ダイヤルを回して選曲するのは、車の中では骨が折れる。だがプッシュボタンなら選曲も一発だ。

そしてこれが、AMラジオで起きていた「ナローキャスティング」(連載第37回)の流れにピッタリ嵌った。ジャンルや年齢層で細かく専門局化したたくさんのラジオ局を、次々とザッピングして好きな音楽を探せるようになった。

そしてちょうどこの頃、中古車ブームが起こっていた。

終戦後に生まれ、高校生となったベビーブーマーは、自分らの親が中古車屋に売った車を安価で入手。日本製の安価なトランジスタ・カーラジオをオプションで載せた。

カーラジオもまた、非消費者を消費者に変える「新市場型の破壊的イノヴェーション」にあたる。無音だった車内に、音楽の新市場が生まれたからだ。音楽生活は、これまで車の中に存在しなかったが、このときから車の中は、人類の音楽生活にとって重要な場所となった。

以降、インターネットの普及した今でも、カーラジオは、アメリカにおける音楽生活の中心となっている。21世紀のPandoraは、カーラジオとして歓迎された。

Sonyのトランジスタラジオはパーソナルオーディオ市場を創出し、音楽生活の「パーソナル化」を推し進めた。その後に続いたトランジスタ・カーラジオは、音楽生活の「モバイル化」をもたらした。

「パーソナル化」「モバイル化」。ふたつの流れは共に、やがてWalkmanそしてiPodの登場によって極大化するベクトルだ。

アメリカン・グラフィティの舞台から2年後の1964年。

ベビーブーマー世代が20歳にさしかかる頃だ。BeatlesとStonesが米国に上陸し、ブリティッシュ・インヴェイジョンが始まった。そして、1920年代のラジオ登場で壊滅したメジャーレーベルに、ようやく黄金時代が再来した(連載第37回)。

ブリティッシュ・インヴェイジョンにコンテンツパワーがあったことは論を待たない。その上で経済的な大成功を収めた背景には、(1)ベビーブーマー、(2)中古車ブーム、(3)ナローキャスティング、そして(4)トランジスタ・カーラジオがあった。

以降、トランジスタから始まった半導体の進化は、音楽生活の進化に繋がってゆく。

後にSonyとフィリップスからCDが誕生する際、トランジスタの集積回路、LSIが大きな役割を果たすようになる。

iPodはPCをゲートウェイとした音楽生活を実現した。PCは、トランジスタが億単位詰め込まれたCPUが中核となっている。

スマートフォンの登場には、CPUとGPUを統合した上で低電力化したAPUの登場が密接に関わっている。PandoraとSpotifyのようなストリーミング音楽配信は、スマートフォンの登場でビジネスモデルを手に入れ、持続可能な音楽文化となった。

音楽も、半導体製品を牽引してきた。今で言えばPandoraが、キラーアプリとなってiPhoneのエコシステムを牽引したことは説明したとおりだ(連載第23回第30回)。


ラジオ番組とイノヴェーション

ラジオのコンテンツの方の話をもう一度しておこう。

1950年代は、アラン・フリードたちカリスマDJによる自由な選曲が、音楽番組のフォーマットだった。

レコードを放送に使うディスクジョッキー番組は、「新市場型の破壊敵イノヴェーション」だ。DJが新しい音楽を紹介するレコメンデーションで、ロックンロールという新市場が誕生し、放送でレコードをかけるという、今では当たり前となった番組フォーマットが登場した(それ以前はレコードの放送はタブーだった)。

1960年代は、放送局の広告ターゲットに合わせ、編成部が選曲を固めるTOP40フォーマットが席巻した時代だった。

DJの選曲は幅広く、職人芸で様々ないい音楽を紹介してくれた。だが、ライトな音楽ファンにはそこまで求めてなかったと言える。

人気曲だけをひたすらかけるTOP40フォーマットは、「ローエンド型の破壊的イノヴェーション」になるだろう。

既存のプロダクトの品質改良が進み過ぎ、ローエンド層に「満足度過剰」の顧客が出てくる。その潜在需要を対象に革新を起こすのが「ローエンド型の破壊的イノヴェーション」だ。

トッド・ストーズは、ジュークボックスに入ったヒット曲を繰り返しかけるティーンズを眺めていた。そして、ライトな音楽ファン層のこうした潜在需要に気づいた。

ヒット曲に選曲を限定し、編成が決めたとおりに制作プロダクションが番組を創る。番組のアセンブリーライン化だ。そして最もボリューミーなセグメントを対象に「ナローキャスティング」し、広告売上を最大化する。

このシステマチックな放送ビジネスは、またたく間に全米を席巻し、放送業界を塗り替えた。TOP40ラジオはメジャーアーティストのマーケティングと相性がよく、60年代のメジャーレーベル黄金時代を助けた。

どのマーケットもそうだが、ハイエンド層よりもローエンド層の方が人口が大きい。広告モデルをベースとする放送の世界で、ローエンドに強いTOP40でラジオが塗り固められるのは時間の問題だった。

本来儲からないローエンド層でイノヴェーションを成功させる鍵は新しいビジネスモデルだ、と紹介した。

TOP40専門局がもたらした新たなビジネスモデルは、セグメント・マーケティングの最大化を狙ったナローキャスティングだ。

しかし、どこもかしこも最大公約数のとれるセグメントを狙いに行けば、多様性は失われナローキャスティングの概念は崩壊する。70年代に、それは起こった。

このパターンはターゲティング広告を売りとするインターネット・メディアでも進行するかも知れない。


 


FM革命に見るイノヴェーションの失敗

「ジングルだらけだ。そしてヒステリックに陽気なDJ。お決まりのイケイケなテンポ...。この10年、TOP40が席巻してAMラジオは死んだ。電波で死臭が垂れ流されている」

ベテランDJのトム・ダナヒューはローリング・ストーンズ誌でこう言い放ち、革命運動に入った。といっても、政治運動ではなく、音楽放送の革命だ。

1960年代末になるとTOP40フォーマットは供給過多となった。これは、ヒット曲に対する「満足度過剰」をもたらした。

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【目次】
■FM革命に見るイノヴェーションの失敗
■Walkman。別格のイノヴェーション
■ヘッドフォン(イヤフォン)文化のもたらしたもの
■ミックステープ文化とソーシャルミュージック
■Walkmanから見たパーソナライズ放送
■カセットテープと新興国の国産音楽
■ジョブズへ連なる盛田の言葉

「未来は音楽が連れてくる」電子書籍 第1巻


●次回は<2013年5月20日>更新予定!
【連載第39回「メディアが音楽を救うとき〜MTVの物語」】


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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
 


1974年 東京都生
上智大学英文科出身。大学在学中から映像、音楽、ウェブのクリエイターとして仕事を開始。2000年、スペースシャワーTVとJ-Wave, FM802、ZIP-FM, North Wave, cross fmが連動した音楽ポータル「ビートリップ」にて、クロスメディア型のライブ・ストリーミング番組などを企画・制作。2003年、ぴあ社に入社。モバイル・メディアのプロデューサーを経て独立。現在は、エンタメ系の新規事業開発やメディア系のコンサルティングを中心に活動中。
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