【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩 氏インタビュー

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2016/02/24 (水) - 02:00
Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩

ー LIVING LEGEND シリーズ ー
【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である

Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表
麻田 浩 インタビュー


モダンフォークカルテット、ソロとアーティスト活動を通じて、60年代後半のアメリカを“実体験”した麻田浩さんは、トムズ・キャビン設立後、大手が手掛けない、でも音楽好きが支持する多くのアーティストたち(エリック・アンダーソン、トム・ウエイツ、エルヴィス・コステロ、グラハム・パーカー、トーキング・ヘッズ、B-52’s、XTC などなど)を次々と招聘。ロック文化・洋楽文化に大きく寄与されます。邦楽アーティストのマネージメントを開始後はSION、コレクターズ、コシミハルを手掛けられ、ピチカート・ファイブを海外での成功に導きました。また、昨年Perfumeも出演して話題となったSXSW(サウスバイサウスウエスト)での活動を通じて、多くの日本人アーティストを海外へ送り出し続けています。正にポピュラー音楽の歴史の目撃者とも言うべき麻田さんの、音楽愛に貫かれた活動と来月3月に開催が迫ったSXSW、そして今後の展望まで話を伺いました。


 

(インタビュー・山浦正彦、屋代卓也 / 文・Kenji Naganawa)
2016年2月23日 掲載

 

 

キングストン・トリオをきっかけにギターを手に取る

 

—— 麻田さんは44年生まれとのことですが、ご出身はどちらですか?

麻田:横浜です。最初、保土ヶ谷にいて、綱島に引っ越し、それからはずっと綱島でした。親父やおふくろは本牧に住んでいたんですが、戦争で焼き出されて、おふくろの実家の保土ヶ谷に移ったんです。

—— お父様は何をされていたんですか?

麻田:親父は日本郵船の船長だったんですよ。

—— 船乗りですか?

麻田:そうです(笑)。兄弟は下3人女の子だったので、話が合わなかったんですが、親戚が横浜にたくさんいたので、小学校5、6年になるといとこの家に一人で遊びに行っていました。音楽の一番最初の記憶は、親戚の家にあった手回しの蓄音機の音で、それでパティ・ペイジの「テネシーワルツ」とか聞いていたんですが、中でも「セブン・ロンリー・デイズ」という曲が凄く好きでしたね。

—— 聴いていたのは洋楽ばかりですか?

麻田:そこの家はほとんど洋楽でした。お金持ちの家で、結構新しい作品がありました。その後、FENというものがあると知って、中学校に入ってからはほぼ毎日のようにFENを聴いていましたね。あの頃のFENから流れる音楽は凄く面白かったですね。

—— その頃の横浜は最先端の文化が真っ先に入るような場所だったんですか?

麻田:文化的にはそうですよね。有名な映画俳優が元町に色々な物を買いに来ていたりしていましたからね。僕は小学校の頃そんなに友達がいなかったんですが、中学に入ったら音楽好きな子たちがいて、仲良くなりました。その頃からドーナツ盤を買い出して、みんなお小遣いがあまりないですから、「お前はこれ買えよ」とか、そういうことをやっていましたね。

—— その頃のヒット曲っていうと何になるんですか?

麻田:ポール・アンカやコニー・フランシスといったポップスですよね。僕はガールズ・グループ、ダイアナ・ロスのシュープリームスとか、そういうのが好きでした。あとアトランティックとか、ソウルですね。ただそういうものはFENではかからないんですよね。

—— 黒人音楽はかからなかった?

麻田:黒人音楽はほとんどかからなかったですね。あの頃はまだ「レース・ミュージック」って言っていたのかな。カントリーは必ずかかるんですが、僕はカントリーも好きだったから、それは嬉しかったですね。番組的には土曜日が一番良くて、一番最初はハワイの番組があって、その次がナッシュビル、一番最後はトップ40。ですから土曜日はずっとFENを聴いていました。

—— それが講じてギターを手にすることになるんですか?

麻田:いや、ギターを手にするのはもっとずっと後ですね。僕らはずっとポップスを聴いていたんですが、ある日キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」という曲が聴こえてきたんですよ。それが凄く新鮮で「えー、こんなのあるんだ!」と思って、それからフォークにのめり込んでいくんです。それで僕らが高校3年のときに謝恩会で何かをやらなくてはいけなくなって、僕のクラスはなにもやるものがなかったので、友達3人を誘って、大好きだったキングストン・トリオのマネをしようよと(笑)。それがギターを買うきっかけですね。

—— キングストン・トリオがきっかけだったんですね。

麻田:そうです。僕は中学から明治学院の付属に通っていたんですが、その友達3人はすんなり大学への推薦をとったのに、僕は高校時代ずーっと遊んでいて、全然勉強しなかったので、「高校から大学に入れない」という通知が来たんですよ(笑)。友達とは「大学でバンドやろう!」と話していたのに、僕だけ推薦がとれなくて、結局、外部受験で明治学院を受け直したんです(笑)。そのときは必死でしたね。

—— 付属なのに外部受験ですか・・・(笑)。

麻田:そう(笑)。親父に本当に怒られてね。「なんのために中学から付属に通わせたんだ!」って。で、大学に入って、バンドを組んで、1人メンバーが辞めて、そこにマイク真木が加わって、4人でモダンフォークカルテット(MFQ)をスタートさせました。

—— 大学に入る目的もバンドやりたさですか?

麻田:うーん、そのときは音楽で飯を食うという意識はなかったですよね。だから大学でバンドやっている人たちも3年になると辞めて、4年になると就職活動をやるというような時代でしたし、僕らも「大学3年になったら辞めよう」と話はしていましたね。

—— そんな中、マイク真木さんがソロデビューしますよね。

麻田:実は真木は浪人していたので、僕らの一学年下だったんです。それで僕らは3年でバンドを辞めて、彼だけ1人ソロでやり始めたんですが、「これからはフォークが流行りそうだから」とハマクラさん(浜口庫之助)が作った曲のデモテープ作りに真木が呼ばれて歌ったら、「これでいいじゃん」という話になったらしいんですよね(笑)。

—— 真木君の歌でいいやと(笑)。

麻田:それが「バラが咲いた」ですね。


 

 

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【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である

Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表
麻田 浩 インタビュー


ショーで回ったアメリカの地を再び踏む〜ボブ・ディランの復帰ライブを目撃

 

—— 聴くものもフォークが主体になったんですか?

麻田:そうですね。キングストン・トリオを聴いてから、それまで集めていたポップスのレコードを売って、それでフォークのレコードのコレクションを始めました。それこそ銀座のハンターや新宿のオザワ、神田のミューズ社、あと渋谷にあった進駐軍の払い下げ屋さんが結構穴場で、中村とうようさんとかとしょっちゅうレコードの取り合いしていたんですよね。自分が「あっ、これ絶対欲しい!」というレコードがあっても、同時に2枚も買えないですから、そういうときは、それをクラシックの箱の中とかに入れちゃって隠しておくんですけど、翌日お金持って行っても、もう無いんだよね(笑)。分かっているやつがいるのか、お店の人が移しちゃうのか。

—— 結構姑息なこともしていたんですね(笑)。

麻田:そうですね(笑)。当時のフォークグループはキングストン・トリオかブラザーズ・フォーのコピー、あるいは小室等が最初にやったピーター・ポール&マリーとかそういうグループの曲を演奏していたんですが、僕らのレパートリーは全然人が知らないようなところから選んでやっていました。

—— MFQは人気でしたか?

麻田:人気はありましたね。それで65年にロビー和田が「アメリカにあるMRA(Moral Re-Armament:道徳再武装)という団体が世界大会をやるんだけど、そこに日本からのバンドを1つ招待したいって言ってきている」と言ってきて、あの頃アメリカにタダで行けるなんて夢のような話でしたから、僕らはすぐ乗っちゃって(笑)、アメリカに連れて行ってもらったんですよ。

—— そのときロビー和田さんは何をなさっていたんですか?

麻田:まだ学生ですよ。彼は僕より年下で、大学1年とかだったんじゃないかな。

—— でも、そういう美味しい話を持って来てくれたんですね。

麻田:ありがたいことにね。彼のお母さんは外国人で、そういうネットワークがたくさんあったんですよね。で、僕らはアメリカに行って、すぐ帰ってくるはずだったんですが、「Sing Out '65」というショーで日本の曲を演奏することになり、3ヶ月くらいアメリカ中を回ったんですよ。これは凄く良い経験になりました。

—— あの時代にアメリカで3ヶ月は凄いですよね。

麻田:あの頃ってビザを取るのも大変だったんですが、僕らはなぜか知らないですが数次のビザを貰えたんですよ。数次というのは1回だけじゃなくて3年間有効なんです。ただ、そのツアーは「道徳再武装運動」っていうくらいですから、男女の交際はダメとか色々厳しかったんですけど(笑)、それでも面白かったですね。若い子たちが100人くらい一斉に車に乗ったり飛行機に乗ったり、アメリカ中、いわゆるショーをして回るわけですよ。その中にグリーン・グレン・シンガーズという女の子の上手いバンドがいて、そのメンバーの1人が女優のグレン・クローズ(※)だったり。

本当に色々なところへ行ったんですが、それでもアメリカの本当の音楽シーンみたいなものは見られなかったので、数次のビザをもらえたし、これは絶対もう1度アメリカに行こうと思って、帰国してからアルバイトに精を出して、お金を貯めました。本来なら67年に大学を卒業できるはずだったのですが、卒業できず(笑)、でも、アメリカ行きを決行して、1年間アメリカをぶらぶらしていました。そのときに結構色々なミュージシャンを観ましたよ。

※グレン・クローズ・・・’47年生まれ。トニー賞を3回受賞、アカデミー賞には6回ノミネートの名女優。代表作に映画「ガープの世界」「危険な情事」など。

—— 例えば、どなたですか?

麻田:その頃、僕はフォークでも、いわゆるカレッジ・フォークみたいなものからブルースやトラディショナルな方にどんどん傾いていった時代で、アメリカでの1番の目標は「ニューポートフォークフェスティバル」に行くことだったんですが、とにかくライブはいっぱい観ました。マディ・ウォーターズも観ましたしね。

—— 1年間で全米中を回ったんですか?

麻田:ウエストコーストに行って、それからシアトル、シカゴ。シカゴは2ヶ月くらいいたのかな。それからニューヨークへ行って、ニューヨークは1番長くて多分7、8ヶ月いました。

—— 67年のニューヨークなんて、その後有名になる錚々たる人たちがいたんじゃないですか?

麻田:そうですね。ニューヨークのフォークロア・センターという楽器やレコード、本とかが売っている店があって、そんな有名な人は来ないんですが、週末になるとコンサートをやるんですよ。でも、僕はお金がなかったので、イジー・ヤングというそこの名物オヤジに「日本から来たんだけど、タダでライブを観させてもらえないかなぁ?」みたいなこと言ったら「センターを手伝えば観てもいいよ」と。そこは普段お店になっていますから、レコードの箱を運んだり、椅子を並べたり色々手伝うと、タダでライブを観させてくれたんです。そこではレコードデビュー前のジョニ・ミッチェルも観ていますし、ティム・バックリーも観ました。あと、凄くレアなグループもたくさん観ています。

—— 麻田さんはボブ・ディランの復帰ライブも観ていらっしゃるんですよね。

麻田:「ウディ・ガスリー・メモリアルコンサート」を観に行ったんですよ。結局、そのイベントが、ディランのオートバイ事故からの復帰ライブでした。僕もグリニッジ・ヴィレッジに通っていましたから、その情報は入ってきたんですが、チケットはすぐ売り切れて、でも当日券あるだろうなと、当日カーネギーホールの前に行ったら、周りにそういう人がいっぱいいてね(笑)。だからチケットは争奪戦だったんでしょうね。

それでコンサートが始まったら微かに音が聞こえてくるので、それを聴きながら階段のところでずっと待っていたんです。そうしたら第一部が終わって人がドッと出て来て、あるおばさんが「あなたチケット持ってないの?」と声を掛けてきたんです。それで「持ってないです。観たいけど買えなかったんです」「なら、これあげるわ。私はもう帰るから」って言ってくれて、2部のちょっとは観られたんです。そこでディランを初めて観たんですよ。

—— 初めて観るディランはやはり凄かったんですか?

麻田:あまりに感激して、実はあんまり良く覚えてないんですよね(笑)。


 

 

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【前半】新たな音楽&才能との出会いは一種の“麻薬”である

Tom's Cabin代表、SXSW Asia代表
麻田 浩 インタビュー


「お金があれば誰だって映画を作れる」一攫千金を狙ってソロデビュー

Toms Cabin代表、SXSW Asia代表 麻田 浩氏


—— NYではどのへんに住んでいたんですか?

麻田: 65年に行ったショーで、そのとき一緒に回っていた黒人の女の子がいて、最初は彼女の実家に居候していました。場所は130丁目のハーレムで白人なんて誰もいないところで、そこには1ヶ月くらい住んでいたかな。その後、日本食レストランで働き初めて、お金が入り出したので、コロンビア大学の近くに移ったんですが、毎日のようにグリニッジ・ヴィレッジに行っていましたね。

—— 単身でそういうことができるって大変な行動力ですね。何も怖くなかったんですか?

麻田:あの頃は、小田実の『何でも見てやろう』という本がベストセラーになっていて、あの本には凄く勇気づけられましたね。でも、65年にアメリカを回っていたときに100人くらいと一緒に回って、みんなと仲良くなっていましたから、例えば、シアトルからシカゴ行く間にアイダホの知っている女の子のところに1日2日泊めてもらったり、あんまり怖いとかそういうことはなかったですね。とにかく本場でライブが観たい、「ニューポートフォークフェスティバル」に行きたいという想いの方が強かったですから。

—— 好奇心の方が勝っていたと。

麻田:ええ。とはいえ、お金を貯めたと言っても、貯めたのは片道の飛行機代と400ドルだけでしたから、よく入国できたなと思いますけどね。あんまりお金持っていないと税関に捕まりますから。やはり数次ビザのおかげかな?と今にして思いますけどね。

—— ちなみに英語はどのくらいできたんですか?

麻田:唯一の強みと言えばずっとFENを聴いていたので、聞く方はなんとかなったんですよ。でも1人で生活し始めたときに1番覚えたんじゃないですかね。自分がご飯を食べるのだって、なにをするのだって、自分で言わなきゃダメですから。団体で行動しているときは良かったけど、1人で住み出したら嫌でも必要に迫られちゃいますよ。

—— その後、68年に映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督をされていますが、それはアメリカにいるときに来た話だったんですか?

麻田:いや、それは帰国してからです。単位が取れていなかった簿記一科目のためにだけに日本に帰ってきたんですよ。一応親父の手前卒業はしなくてはいけなかったので。それで卒業後はちゃんと会社勤めしようと思っていたんですが、卒業する次の年の春まで何かアルバイトをしなきゃいけないというときに、黒澤明監督の息子の黒澤久雄はフォーク仲間だったから良く知っていて、親父さんが映画を撮るという話を聞いたので、親父さんに「手伝わせてくれないか?」とお願いしたら「良いよ」と助監督をやらせてもらったんです。

—— ちなみに映画もお好きだったんですか?

麻田:NYでアルバイトしていた日本食レストランが56丁目くらいにあって、そのすぐそばにMoMA(ニューヨーク近代美術館)があるんですよ。それでMOMAの会員になるとタダで映画が観られたんです。だから、ほぼ毎日のように映画を観に行っていました。とはいえ映画を志していたわけでもなく、ただ観ていただけですけどね。

—— アメリカから帰って来て、自分はどうしていこうかなというときにアルバイト感覚でやったのが映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督ですか。これも凄い話ですね(笑)。

麻田:そうですね(笑)。それで映画の仕事も結構面白くなって、そのあと勅使河原宏監督の大阪万博の映画とかもやったんですよ。ただ、ちょうどあの頃、映画産業もダメになってきて、例えば、若い助監督とかみんなCMをやりだしたりしたんですね。日本って助監督を何年かやって1本撮らせてもらうみたいな、そういう世界じゃないですか。徒弟制度みたいな世界。アメリカにはそういう仕組みはなくて、助監督は助監督で、監督は監督という別の仕事なんですよね。要は「お金があれば誰だって映画を作れるんだよ」という話なんですが、「そうか! お金を作ればいいんだ!」と思って、まぁ真木もソロで売れたし、僕も歌をやればお金が入ってくるかなと、単純に思ったんですよ(笑)。

—— それで72年にアーティストデビューされるわけですね。一攫千金を狙って(笑)。

麻田:そうですね(笑)。全然ダメでしたけどね(笑)。

—— 麻田さんのデビューアルバム『Greetings From Nashville』はナッシュビルで録音されていますよね。しかも凄いメンツで。

麻田:当時って、ディランもニール・ヤングもエリック・アンダーソンも、みんなナッシュビルに行っていたんですよね。だから僕も「ナッシュビルでやりたいんです」とシンコーミュージックの草野昌一さんにお願いしたら、すんなりOKになったんですよ。そんなこと言う人がいなかったのかな(笑)。でも、ナッシュビルって凄く仕事が早くて、制作費的には実はそんなにかかっていないんです。日本でわがまま言っている奴よりよっぽど安いんですよね(笑)。

—— (笑)。レコーディングは何日で終わったんですか?

麻田:それこそ5日くらいで終わっちゃっています。1日リハーサルをやって、みんなが例の数字の番号を譜面に書くわけですよ。Cが1で「1-6-5」とか、そういうのもナッシュビルで初めて知りました。ちなみにナッシュビルへは石川鷹彦と僕の二人で行ったんですが、アーティストとして売れて金儲けに繋がることはなく、その後、キョードー東京でアルバイトをしながら司会とかツアーマネージャーとか色々なことをやるようになるんです。


 

 

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麻田 浩 インタビュー


自分の好きなアーティストを呼んでライブハウスを満杯にする

 

—— コンサート・プロモーターとして「トムズ・キャビン」を始めるきっかけは何だったんですか?

麻田:例えば、ジャクソン・ブラウンは2枚目のレコードを出している頃でも客席が2〜300のところでしかやっていないし、そういった状況をアメリカで観て「なぜこれが日本でできないのかな?」と単純に思ったんですよね(笑)。それで永島達司さんや内野二朗さんに相談したら「そんなの日本で客が入るわけがないだろう」と言われて(笑)。

—— ビジネスにならないから大手は手を付けていなかった?

麻田:そう。でも極端なことを言ってしまうと、僕らの周りってみんなそういう音楽が好きだったわけじゃないですか。だから、日本のライブハウスを一杯にするくらいはできるだろうと。大手の呼び屋さんはビジネスですし、社員もたくさんいますが、僕らは最初2人くらいで始めましたしね。

でも、あの頃、招聘業務は凄く難しくて、ちゃんと株式会社にしないといけない、銀行にお金が入っていないといけない、外貨は日銀に行って許可を得ないといけないとか大変だったんですけど、そういったことはキョードーでアルバイトしていたので何となく分かっていたのと、あと、新聞社で比較的マニアックな招聘をしているところがあって、そこの人に「ちゃんと会社を作ればできるよ」と教えてもらいました。

聞くところによると当時はキョードーも大変な時代で、一つ前の世代の呼び屋さん、例えば、神彰さんとか強烈な個性のプロモーターさんたちの時代から、キョードーやウドーのように会社としてプロモートするようになる転換期だったんです。そんな頃に、誰でも知っている大物ではなくて、僕たちが好きなアーティストを呼ぼうと。僕らはそういった音楽が好きな人間でしたし、そういう音楽のファンがいるということは知っていましたからね。

—— 麻田さんご自身もミュージシャンですし、海外のミュージシャンのお友達も多かったんじゃないですか?

麻田:そうですね。ほとんど日本に来たことがない人たちだったから、「日本に行きたい!」と言ってくれる人たちは凄く多かったですね(笑)。みんな日本の文化に触れたいみたいなところがあって。

ただ、呼び屋を始めたといっても、交渉する伝手はなかったですから、まず3週間くらいロスアンジェルスに行きました。当時「McCabe's」というギターショップがあって、そこでは売れる前のジャクソン・ブラウンやデヴィッド・リンドレー、JDサウザー、あとニューヨークからハッピー・トラウムとかが演奏しに来ていたんですが、そこでボビー・キンメルという男と出会ったんですね。彼は最初リンダ・ロンシュタットのバンド「ストーン・ポニー」のリーダーだったんですが、彼もずっと長いことMcCabe'sのブッキングをやっていて「そろそろ違うことをやりたい」と。それでMcCabe'sとかけ持ちで、日本にアーティストを呼ぶブッキング・エージェントをやってくれることになったんです。

最初にロスに行って、その次にサンフランシスコにもマーケットがあるんですが、ボビーと二人で行って、彼の友達だったデヴィッド・グリスマンに会って、グリスマンの家でやっていたリハーサルを見学したんですが、とにかく凄い演奏でね(笑)。ちなみにギターはトニー・ライスだったんですが、「こういうアーティストたちを呼ばなきゃな!」と思ったんですよね。彼らもまだレコードを出していないときだったけど圧倒されました。

—— そのときの麻田さんは「ミュージシャンの顔」をしていたんですか?

麻田:いや、もうその頃は完全に「呼び屋に賭けよう」と思っていました。僕が呼びたいと思ったアーティストで商売になると思っていましたし、結局、そこが隙間だったんですよ。誰もやっていなかったですから。

—— 勝算はあった?

麻田:勝算はありましたね。最初のエリック・アンダーソンだって満杯になりましたし、トム・ウェイツだって凄く入りましたしね。

—— それを見てキョードーの先輩たちは何とおっしゃったんですか?

麻田:途中から今度、加わりだしましたね(笑)。

—— やめとけって言っていた人たちが。

麻田:やめとけって言っていたのに。結局ジャクソン・ブラウンもとられちゃったし、ライ・クーダーもとられちゃったしね。だから僕が今までやってきたのは隙間ですよ。それが今度キョードーとかと取り合いになると負けちゃうから、他にやっていないのは何だろう?と考えたときに、次に浮かんだのがブルースとサザン・ソウルです。あの頃O.V.ライトをPヴァインが大売り出ししていて、みんなが「いい」と言うので、「やろう!」と思ったらO.V.ライトが体調不良で来日できなくなって、代わりにオーティス・クレイをやったら凄くうけたんですね。だからそれ以後も結構やりました。シル・ジョンソンだとかメンフィス系が多かったですけどね。

—— 麻田さんは音楽の引き出しが多いですよね。

麻田:そうですね。音楽的には僕、節操ないんですよ。それでシンガーソングライターをやって、ブルース、ソウルとずっとアメリカの音楽をやってきたんですが、だんだん「今アメリカの音楽あんまり面白くないな」と思うようになって、そう思っていたときにイギリスのスティッフというレーベルの存在を知ったんです。

 

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