海外レコーディングとスタジオの現状とは
〜米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI “SUSHI” KOSUGI氏インタビュー
〜米N.Y. 「BEAT ON BEAT, INC.」プロデューサー/ディレクター ATSUSHI “SUSHI” KOSUGI氏インタビュー

2000年までアメリカ・ニューヨークのレコーディング・スタジオ「BEAT ON BEAT STUDIO」の経営、また、現在もプロデューサー/ディレクターとして多くの内外アーティスト作品を手がけているKOSUGI氏がアルバム・レコーディングのため日本に一時帰国。
今回、Musicman-NETでは、世界のレコーディング・スタジオでご活躍されているKOSUGI氏に、アメリカの音楽業界やスタジオ事情、海外から見た日本の音楽業界などについてお話を伺った。
今回、Musicman-NETでは、世界のレコーディング・スタジオでご活躍されているKOSUGI氏に、アメリカの音楽業界やスタジオ事情、海外から見た日本の音楽業界などについてお話を伺った。
1.
●SUSHIさんがアメリカでお仕事をされるようになった経緯は?
KOSUGI:僕は小さいときから音楽キチガイでしたが、日本の音楽業界で働いたことはありませんでした。この仕事を始めたのが30才の時で、当初はバークリー(バークリー音楽大学)に入学するために渡米しました。バークリーには、25〜28才までいて、そのあとニューヨークに出たんですね。その時は学生ビザの1年間のエクステンションで、1年経ったら帰国して作曲家かアレンジャーになろうと思っていました。ニューヨークに出たばかりは右も左も判らなかったので最初はとりあえずジャパニーズレストランでウェイターをやっていたんですが、その頃にMac+が発売されて、それを買って勉強し始めたのがコンピューターとの出会いでした。そんなことをやりつつ1年くらい経った頃に「グリーンカードの宝くじ」という制度がアメリカでできまして、それでグリーンカードが当たってしまったんですよ。
●そんな宝くじがあるんですか!?
KOSUGI:今でもやっているんですよ。でも、それの第1回目だったので「移民局の違法滞在者を捕まえる陰謀なんじゃないか?」とか言われていたんですが(笑)、僕は法を犯してまでアメリカにいるつもりは全くなかったので、ダメもとで27通応募したんですよ。
●何通出してもいいんですか?
KOSUGI:ええ。それで見事に当たったんですよ。突然グリーンカードが手に入ってしまって「じゃあ、どうしよう?」ということになったんですよね。その当時、アメリカに日系の音楽事務所なんてほとんどありませんでしたし、業界経験もなく英語も下手くそな日本人を雇ってくれるアメリカの会社なんて見つかりませんでした。それで「自分で会社を作るしかないだろう」と思ったんですが、アメリカで会社を作る方法がわからない。そもそも会社を作るということ自体よくわからない様な状態でしたからね。
それで一番近い業界に入って、勉強してみようと思って、日系のテレビ番組制作会社に入ったんですよ。仕事は番組のコーディネーターといいますか、そんなものです。それで、日本からディレクターやカメラマン、制作会社の方々が来るわけですが、その人たちと一緒にアメリカ中をうろうろ一年間くらいしていたんですよ。でも、一年経ったときに「やっぱりテレビって好きになれないな」と思ったんですね(笑)。
その時に18才の頃から付き合いのあるお金持ちの友人がいまして、その彼もジャズピアノを弾いていたので、「自分も音楽に何か貢献したい」と思っていて、「俺が資金を出すからお前何かやってみろよ」という話になって作ったのが今の会社なんです。
●具体的にはどのような内容の仕事ですか?
KOSUGI:最初の頃は何でもやりました。ラジオ番組の制作なんかもしましたね。それでバークリーで同級生だった人達が日本に帰っていって音楽業界のプロとなり、自分のプログラムでニューヨークに来てくれる様になったんですね。それまではバークリーを出て日本のレコード会社に入った人は一人もいなかった様です。
もともとバークリーは歴史的に見るとミュージシャンとアレンジャーの学校です。僕が入学した頃には学内に7つのビッグバンドがあって、昔のバークリーと言いますか、そんないい時代のバークリーの最後の頃だったと思います。僕はバークリーに3年いたんですが、卒業する頃には花形はシンセメジャーとMPE (Music Production & Engineering)というレコーディングメジャーに変わっていました。ですからレコーディングルームも3つくらいあって、そこで「ゲートリバーブの作り方」とか(笑)、エンジニア志望の子はみんなやっていたんですよ。
●それはなにか80年代っぽいですね(笑)。
KOSUGI:僕がバークリーにいたのは’83〜’86年ですから。そんな時代です。「ゲートリバーブ」ができれば一流のエンジニアになれると多くのエンジニア志望の学生は思っていました(笑)。話を戻しますと日本に帰国した同級生の中でディレクターになった人が4人いたんです。またプロのアレンジャーになった人も多く出ました。彼らのうちの何人かが初めの頃には仕事を持ってきてくれたりしたので、最初はほとんど現場コーディネーションをしていました。
●ミュージシャンのコーディネートをするときは、例えば、ミュージシャンユニオンなどを通したりするんですか?
KOSUGI:ミュージシャンユニオンを通すのは、私の場合、オーケストラかストリングス・セッションの時だけです。後は全部横の繋がりです。当時は「アーティスト・ディレクトリ」というサービスがありまして、多くのミュージシャンがそこに登録をしていました。そこに電話してメッセージを残すと返事が来ると。そういうようなことが多かったですね。直接知らない人はミュージシャン繋がりで探す感じですね。
●では、あまり日本と変わらないんですね。
KOSUGI:そうですね。それで’92年に先ほどの友人が「場所(物件)を買おうかな?」と言い出したんですよ。僕も「スタジオをやってみたい」と思いまして、当時タワーレコードの本店があるビルがあったんですけど、イーストビレッジ4丁目のビル、マンハッタンの中でも珍しいコマーシャル(商業施設)とレジデンシャル(住居)が一緒になっているビルでして、私のフロアは6Fだったんですが、7Fから上がレジデンシャルということで、後で騒音問題が起こってしまって大変だったんですが(笑)、そこにスタジオを作りました。
●それが「BEAT ON BEAT STUDIO」ですね。
KOSUGI:そうです。’92年から建設が始まって、’93年にオープンしました。そこでたくさんの作品を作りましたね。僕がこの仕事を始めたのが’88年ですが、そこから’94、5年までというのはリズムがマシーンで、その上にギター、ベース、ピアノ、コーラス、ホーン・セクション等のダビングをするのが主流だったんですね。また、ベーシックのリズムを他の大きなスタジオで生で録ったとしても、そこから重ねるのにものすごく時間がかかった時期でした。






