6. 時代の先を行くトムス・キャビン

--ここからは麻田さんご自身のことを伺いたいのですが、アーティストとして活動されていた麻田さんが'76年にトムス・キャビン・プロダクションを設立されたきっかけは何だったのですか?

麻田:アーティストをやっていたんですが、あまり仕事もなくて、あの頃のマネージャーが現エムエスアーティスト社長の田中(芳雄)君だったんですが色々な仕事を持ってきてくれて、ある時から司会兼ロードマネージャーみたいなことをやるようになったんです。それで、やっているうちに「こういうのは向いているな」と思ったんですよね。シンガーはある種ハッタリとかがないと駄目じゃないですか?(笑) でも自分にはそういうものがないなと思っていて、逆にツアーマネージャーのような裏方の方がやっていて楽しかったんです。それで、その頃シンガーソングライターとかブルースとかが流行っていたので、いくつか企画書をウドーさんやキョードーさんに持っていったんですけど、「こんなの客が入るわけないだろ」とか言われて(笑)、でも僕らの回りではジャクソン・ブラウンを聞きたいとか、ジェイムス・テイラーを聞きたいという人が多かったんですよ。

--そういう人たちを大手が呼んでくれませんでしたからね。

麻田:あの当時はそうでしたね。あの頃のキョードーさんはポール・モーリアとか(笑)、あってもブラザーズ・フォーですからね。それで企画書が通らなかったので、「自分でやるしかないのかな」と思ってやり始めたんです。

--その当時私がトムス・キャビンに感じていたのは、「好きなアーティストを呼んでくれる」ということだったんですよ。「外国人アーティストは大手でないと呼べないのかな?」とも思っていたので、やる人がやれば呼べるんだとも感じました。

麻田:今は小さい呼び屋さんが一杯いますけど、あの頃は大手しかありませんでしたからね。あの頃プロモーター・ユニオンみたいなものがあって、集まりに出ると僕だけ若くてあとは有働さんや内野さん、神原さんとか錚々たる方々ばっかりでしたね。

--呼び屋さんは資金がないと始められないというイメージがありますよね。

麻田:「呼び屋」さんというくらいだから、半分賭みたいな商売じゃないですか? 当たったら凄いけども当たらなかったら夜逃げするみたいなイメージだったんですが、'67年に1年間くらいアメリカにいましたし、その前に会社をやろうと思って半年くらいアメリカにリサーチしに行ったんです。そうしたらみんな地道にやっていて、話を聞いてみるとギャラもそんなに高くないんですよね。あの頃日本でやるとなると2000人クラスの大ホールが殆どだったじゃないですか? そうなるとギャラも高くなりますよね。ただアーティストと話をするとライブハウスではパーセンテージでもらっていると話していましたからね。そのかわり飛行機代とかはこっちの方が高いんですが、色々見聞きしているうちに「できるのかも」と思いましたね。ただ、日本のライブハウスは外タレ公演をやったことがなかったので、説得して回るのが大変でしたね(笑)。「本当に外タレが来るんですか?」と言われたりね(笑)。

--場所を作らなくてはいけないし、大変ですよね。

麻田:当時、普通のコンサートは東名阪でしかやらなかったですし、もうちょっと色々なところに行きたいという気持ちがありましたね。

--結構色々行かれたんですか?

麻田:すごいですよ(笑)。トム・ウエイツなんか全国12カ所くらい行きましたからね。仙台、札幌、金沢、広島…。

--お客さんは結構入ったんですか?

麻田:そうですね。エリック・アンダーソンの時なんて拾得(注2)でやりましたからね。拾得だと100人入ったら一杯ですから、天井にへばりついているような状態でしたね。

--でも、そういうライブハウスを回るのはアメリカでやっていることと同じだから、アーティスト達が不平不満を言うような話ではなかったわけですね。

麻田:不平不満はなかったですね。難しかったのはキョードーさんがボニー・レイットやライ・クーダーをやり出して、取り合いになっちゃって、金額がつり上がっちゃったんですよね。お金では太刀打ちできないから、僕らはメンフィスのサザンソウルっぽいのをやったりしましたね。その後、アメリカが面白くないなと思ったときに、イギリスのSTIFFだとかニューウェーブが出てきて、「これは絶対来るぞ!」と思ったので一番最初にグラハム・パーカー&ルーモアを呼んで、エルビス・コステロやトーキング・ヘッズ、XTCを呼んだんですよ。例によって大手はそんなところを最初は呼びませんからね。

--ニューウェーブのアーティスト達もトムス・キャビンで呼んだんですか! その後SMASHの日高正博さんがやられるようなことを7年くらい前にされていたんですね。

麻田:そうですね。でもこれからというときに日刊スポーツに「トムス・キャビン倒産か?!」という記事が出ちゃったんです(笑)。僕はニューウェーブをやり出して「これからはニューウェーブが来るぞ!」と思っていましたし、現にトーキング・ヘッズもお客さんがすごく入ったので順調だったんです。でも丁度その記事が出る頃に資金繰りをしていて、その記事が出た途端にみんながぱっと手を引いてしまったんですよ。

--それでトムス・キャビンの活動が止まってしまったんですか…。酷い話ですね。

麻田:まあ、記事が出てお金も尽きてしまったし、どちらにしろこのまま続けていればキョードーさんやウドーさんが出てきて同じことの繰り返しかな? とも思いましたけどね。

麻田浩スペシャル7 --その後ジェニカ・ミュージックに入社なさっていますが、これはどういういきさつだったんですか?

麻田:実はゴダイゴのタケカワユキヒデ君は高校生の頃から知っていて、彼のデモテープを聴いた時に「才能のある奴だな」とすごく驚いて、レコード会社に売り込みに行ってたんですよ。ただその頃のタケカワ君は英語でしか歌を書いたことがなかったので話がまとまらなくて、その後ジョニー野村がマネージメントをしてゴダイゴでどでかく売れたんですよ。そのジョニーが「今何もしてないなら仕事しなよ」と言ってくれて、ジェニカ・ミュージックでブッキングをさせてもらったんですが、給料の他にパーセンテージを付けてくれて、そのお金で借金を返しました。その時に一緒に働いていたのが日高(正博)君で、2人で一緒に「めんたいロック」とか色々仕掛けたんですよ。でも社内で色々あって僕はジェニカを辞めるんですが、日高君もその後すぐに辞めちゃって、「麻田さん、何か一緒にやりましょうよ」と言うから、「2年か3年だったら昔のつてで呼び屋を出来るけど、もう呼び屋を続けるのは嫌だから、その2、3年で金になることを探そうよ」と言って(笑)、日高君と一緒にSMASHを作りました。その間も僕は日本のアーティストをやりたかったから、デモテープを聴いたりライブに通ったりしていたんですが、日高君の方はだんだん呼び屋に目覚めちゃったんですよ(笑)。それで日本フォノグラムにいた人がSIONのデモテープを1本持ってきてくれて、「これだったらやれる」と思ったので、SMASHから独立しました。

--そこで麻田さんと日高さんの今までの流れがひっくり返ってしまったんですね。

麻田:そうですね(笑)。日高君は日本のアーティストをやっていましたからね。

--SMASHにはどのくらいいたんですか?

麻田:2年くらいいましたね。その頃はドクタージョンを呼んだりしていました。あと、ジェームズ・ブラウン、ザ・バンド、ラウンジ・リザーズとかですね。それでSMASHから独立した当初は事務所もなかったので、細野(晴臣)君の事務所ミディアムの中に机を置かせてもらって(笑)、そのかわりコシミハルちゃんのマネージメントをやりました。SIONとミハルちゃんとそのうちにコレクターズをやりだして、細野君のところにいつまでも居候をしているのも申し訳ないので(笑)、事務所を設けました。

--その後、先ほどもお話に出てきたピチカート・ファイブを手掛けられ、SXSWへ繋がっていくわけですね。

麻田:そうです。

(注2)拾得(じゅっとく)
Coffee houseとして1973年にスタートした京都ライブハウス。