Musicman-NET SPECIAL REPORT 鹿野淳氏 FACT代表

激動の編集長時代

--話は遡りますが、前回Musicman-NETに出て頂いた2001年から3年間はいかがでしたか。

鹿野: いやもう、毎年激動ですよ!! とても刺激的な3年間でしたよ。僕は毎年新しい事業を立ち上げてきたんです。前回Musicman-NETでインタビューを受けたのはいつでしたっけ?

鹿野氏 --2001年の1月です。

鹿野:ハプニングに満ちたいろいろ考えさせられた第一回のロックインジャパン・フェスが終わって半年後という頃ですね。その時期は、ロッキング・オン・ジャパンのリニューアルを考えていました。
その頃、ロック・シーンがひとつの転換期を迎えていました。
ロックバンドがどんどん解散をしていったんです。ブランキージェットシティ、ジュディ・アンド・マリーから、ザ・イエローモンキーの活動休止まで。
このままロッキング・オン・ジャパンで今までやってきた人達とお付き合いをしていくだけではロッキング・オン・ジャパンも変わっていけないし、音楽批評としても見方が旧体然とした方向に偏っていくし、これはまずいな、と思いまして。ちょうどMusicman-NETでインタビューを受けた時期にあったのが…。


--浜崎あゆみの特集ですね?

鹿野: そうですね(笑)。
ロッキング・オン・ジャパンの変革を考える中で、ポップミュージックシーンですごく意欲的な、攻撃的な姿勢で物事を放っていって勝利者になっていく人達に、他のメディアができないようなクオリティの高いインタビューでいろんな裏にあるものを証明していくっていう事をやっていきたかったんです。あの現象の裏側には必ず何らかの大きなスピリッツや戦略を超えたドラマがあると思っていたし、そのテーマと向かい合っていけるのは自分が作っているロック雑誌しかないと。
その意志を明確に打ち出したのが浜崎あゆみと宇多田ヒカルの連続表紙です。


--その特集はすごく話題になりましたね。

鹿野:そうですね、ロッキング・オン・ジャパンを信じている読者に対してもとても挑発的なパフォーマンスにうつったでしょうね。
会社や編集部の中でもあれをやるのに3ヶ月くらいミーティングしましたから(笑)。
そういった中で会社からも「お前に任せる」と言って頂き、編集部からも「鹿野さんが旗を振るならついて行く」と賛同をもらってやった企画だったんです。
実のところ、僕は辞表を用意した上で行った取材だったんですが、結果的には大成功を納め、クオリティ的にも満足しています。
あれはクオリティが高くなければ、他の雑誌と違うものでなければ売れても売れなくても失敗なものだし会社や雑誌に傷をつけるものでしたから。


--では取材そのものや原稿作成も大変だったのでは?

鹿野:実は両特集とも原稿チェックはしていないんですよ。
実は片方の取材はインタビューが終わった後で、向こうのスタッフのみなさんと話していて、こんな大胆な事をおっしゃって頂いたんです。
「原稿チェックもいらないし反省会もいりません。この箇所を使わないで欲しいという事も一切ありません。その代わりに条件があります。このインタビューをやった50分間、一言一句変えないで原稿にしてください。それくらい素晴らしいパフォーマンス(インタビュー)でした」と。
僕はあの取材で新しいエネルギーをもらう事ができて、それをロッキング・オン・ジャパンの血と肉にする事もできました。それで結果は成功と言えると感じたのです。


鹿野氏 --素晴らしいですね。その大改革をふまえて次のステップというのが……。

鹿野:次の年からの月2回発刊ですよ!
以前から他の社員も、そして僕も副編集長時代にも考えていた事ではあったんですね。
イギリスではNME(NEW MUSICAL EXPRESS)なんて毎週出ているわけですよ。そういった音楽が街全体、そしてメディアという産業の必要性に根付いているという状態に対して憧れを持っていたんです。日本もこれだけ成熟し、ビジネス的にも発展してきた、じゃあ今がその時なのではないか。他のメディアもそれをやっていないので、ここでまた勝っていくんだという、会社をあげた一大リニューアルをかましたわけです。
ですが、3ヶ月やった時に「あ、まずいな」という事に気づいてしまいました。月2回発行というのは、月刊誌と週刊誌の間でありながら、どちらかというと週刊誌的なスピード感と編集スタイルで作っていかないといけないものだったんですね。当時は僕にもロッキング・オンにもそのノウハウがなかった上、読者もこれだけの情報を二週間で自分の血と肉にできないというズレが生まれてきてしまったんです。
それで非常に難しい局面を迎えてしまい、ここでもう一回戦線を整えなければロッキング・オン・ジャパンを勝てる雑誌にはできないだろう、何よりロック・シーンと格闘出来ないだろうと思って、再度月刊誌に戻したわけです。


--すぐに元の月刊誌の状態に移行できたのでしょうか?

鹿野:すべての物事はそうであるように、月刊に戻したからといってすべてが戻ってくるかというとそういう甘いものじゃないんですよ。
特に僕が作っていたロッキング・オン・ジャパンは非常に宗教性という言葉に近い、求心力とメッセージ性に対して賛同をもらっていて、それに対してユーザーがお金を払ってくれていたという雑誌だったので、一度その信用性を失ってしまうとそれを回復する為にゼロからではなく、マイナスからのスタートになるんですね。最初はとてもシリアスでしたし、何より当時のスタッフも大変だったと思います。あの頃共に闘ったスタッフが今のロッキング・オン・ジャパンを作っているんですよ。だからこそ僕は今のジャパンに頑張って欲しいんです。


--なるほど。

鹿野:その一方でフェスティバルはどんどん音楽ファンの間に定着していって、産業的にも成功を収めていきました。そして月刊ジャパンも半年間で軌道にのってあらゆるものが回復し、いったん落ち着いた時期がやっとできまして。
……そこで久しぶりに自分の事をポカンと考える時間ができたんです。そこで辞める決心をつけさせてもらうという時間を頂いたというか。それで退社に至るというわけです。


--たしかに激動の3年間ですね。
鹿野さんの後を継いだロッキング・オン・ジャパン編集長の古河さんはいかがですか?


鹿野:申し訳ありませんが、雑誌と他の人物の批評だけには答えられないです。
メディアというのは編集長のものでありますが、編集チームにとっては、ある意味ビジネスという乳児を持った家族だと思うんです。親よりも愛している人よりも膨大な時間を共にして、お互いに意見の交換をして一緒に生きている人間ですから。その気持ちは自分も強く持っていたし、そういう付き合い方を、少なくとも自分の部署ではしていたつもりなんです。
そういう人間が頑張って僕の後を引き継いであの雑誌を作っているという事に対しては、心の底から頑張って欲しいし、どんどん彼なりのやり方であの雑誌を覚醒させていって欲しいなあと思います。なのでその問いには安直に答えたくないです。


--別れた彼女の今後の人生には口をはさみたくないという感じですか(笑)

鹿野: どちらかというと、一緒に暮らしていたマンションから別居していったマブダチのようなものです(笑)。だから、いまだに精神的マブだと僕は思っています。



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