第86回 秋元 康 氏

3. 移住したニューヨークで書き上げた「川の流れのように」

−−とんねるずのお二人とはどのように出会われたんですか?

秋元:28~29年近く前、日本テレビの『モーニングサラダ』という番組の構成を担当していたんですが、先輩の放送作家が笑いを入れようと。それで「今『お笑いスター誕生』で勝ち抜いている“とんねるず”っていうのが面白そうだから会ってこい」と言われて、日本テレビのリハーサル室にとんねるずの2人を呼んでネタを見せてもらったら、すごく面白かったんですね。それで彼らがその番組でコーナーを持つようになって、一緒に飲みに行ったり遊んだりしているうちにフジテレビで『オールナイトフジ』が始まって、そのブレーンとして入ったときに「とんねるずっていう面白いコンビが今、日本テレビの朝の番組でコーナーをやってるんですが、彼らでやりませんか?」と提案したら、ディレクターの港浩一さん(フジテレビ)が乗ってくれて、そこからとんねるずブームが起きたんですよね。

 その『オールナイトフジ』が結構話題になって、オールナイターズで歌を出したら売れて、そこで今度は女子高生スペシャルっていうのをやったんです。その女子高生スペシャルが盛り上がったので、じゃあ夕方に番組をやろうと始めたのが『夕やけニャンニャン』で、おニャン子クラブに繋がるんです。よく僕がおニャン子クラブの仕掛け人と言われますが、僕が仕掛けたんじゃなくて、フジテレビの笠井さん(笠井一二氏)や石田さん(石田弘氏)、港さんが仕掛けたものを具現化するのが僕の役割でした。

−−秋元さんはおニャン子クラブが大ブームの頃にニューヨークへ行かれていますよね。ノリにノッている時期にどうして日本を離れられたんですか?

秋元:当時20代後半で「SOLD-OUT」という会社を作って、そこに『TRICK』や『20世紀少年』を撮った堤 幸彦とか、みんな仲間を集めて好き勝手なことをやっていたんですが、当時おニャン子クラブやアイドルの曲が、オリコンに何十曲とランクインしていたので、もう何が何だかわからない状態になっていて…。自分はアルバイトでやってるつもりが、「大事になってきたな」という感じでした。このままじゃ多分浮かれて、祭り上げられて担がれて終わるなと思ったので、全部仕事を辞めてニューヨークに行ったんです。

−−『川の流れのように』はニューヨークで書かれたんですよね。

秋元:そうです。結局ニューヨークには1年半くらいいたんですが、1年くらい過ぎてだんだん望郷の念もあったりして、「俺は何やってるんだろう」と思ったんですね。僕は31丁目にあるコンドミニアムに住んでいたんですが、その部屋の下にイーストリバーが流れていて、それを眺めながら「この川をずっといくと海に繋がって、その海は日本に繋がってるんだろうな」とか、ぼんやり考えていたんですよ。

 そんなときに日本からひばりさんが東京ドームで不死鳥コンサートをやると連絡があったんです。それで急遽帰ってこいっていう話になり、東京に帰って、東京ドームでひばりさんとお会いしてプロジェクトが再開しました。当時30代の作曲家で演歌を書いたことがない後藤次利や高橋 研、林 哲司さんに曲を発注して、またニューヨークに帰るんですが、ニューヨークに送られてきた見岳 章のメロディーのテープとソニーのウォークマンを持って、カフェ・ランターナっていう当時僕らの溜まり場だったカフェで詞を書いたのが『川の流れのように』です。

 あれだけ波瀾万丈な半生を送っていらした美空ひばりさんのような方が、「あんた、人生なんて大したことないわよ。大丈夫よ」って言ってくれたら勇気づけられるなと。そういう応援歌を書こうと思っていたんですが、その曲を聴いて一行目に書いたのが「川の流れのように」だったんです。いつも、詞は全体を書いてから最後にタイトルを書くことが多いんですが、そのときは何も考えずに「川の流れのように」というタイトルから書いたんですね。それはなぜかと訊かれても僕には全然わからなくて、インタビューとかで訊かれる度に「多分それはずっとイーストリバーを見ていたからなんでしょう」と答えています。あのイーストリバーが自分の中にすり込まれていて、だから「川の流れのように」って書いたんだろうなと。

 その後、たまたま東京帰ったときにとんねるずの石橋君が「秋元さん、いつまでニューヨークにいるんですか。そろそろ日本に帰って来てくださいよ」って言ってくれて、日本テレビの『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』とか、また色々な番組をやり始めて忙しくなったので日本に帰ってきました。そのときはもう吹っ切れたと言いますか、あの美空ひばりさんが作詞家として認めてくださったんだから、「プロの作詞家って名乗っていいのかな?」ってそこで初めて思ったんです。

−−美空ひばりさんに詞を書かれていてバイトというわけにはさすがにいかないですよね。

秋元:ひばりさんに作詞家として認めていただいて、それを歌っていただいたということが、もしかしたら、自分の中でプロになった瞬間だと思うんですよね。

−−そう自覚されるまでに結構時間がかかりましたね。

秋元:高校生のアルバイト感覚でしたからね。その頃まで、アメリカの大学に入って勉強し直そうと思っていましたし、もう一回東大受けようかなと本当に思っていましたから。かみさんにも「勉強し直そうと思うんだよね」って言ったら、「いいんじゃない?」って言ってくれる人だったので、遠回りして、自覚を持てたということでしょうか。

−−ひばりさんは『川の流れのように』の詞に関して何かおっしゃられていましたか?

秋元:『川の流れのように』のレコーディング時に、僕の右隣にお座りになられて「いい詞ね」と。そして「人生っていうのは確かに川の流れのようなもの。流れが速かったり遅かったり曲がりくねってたり真っ直ぐだったり。だけど、どんな川も同じ海に注ぐのよ」っておっしゃったんです。そのときは「いいことをおっしゃるな」と思っていたんですが、今振り返ると、すごく深いお言葉をいただけたなと思います。

 僕はプロデューサーとして『ハハハ』という歌をシングルカットしようと進めてたんですが、直前にコロムビアの方から連絡があって「『川の流れのように』をシングルにしたい」と言うんですね。「なぜですか? いい曲だと思いますけど地味ですよ?」って言ったら、「ひばりさんがどうしても『川の流れのように』をシングルにしたいとおっしゃっている」と。ひばりさんはコロムビアに在籍されてから1回も自分の意見を言ったことがなかったそうなんですね。常にスタッフが決めたことに「わかりました」とおっしゃっていたそうなんですが、今回初めて自分の意見を言いたいと。それで『川の流れのように』のシングルカットが決まりました。あの曲には、何か運命的なものを感じますね。