第161回 サイデラ・パラディソ C.E.O. ミュージシャン / エンジニア オノ セイゲン氏【前半】

2019年4月24日 12:00
第161回 サイデラ・パラディソ C.E.O. ミュージシャン / エンジニア オノ セイゲン氏

今回の「Musicman's RELAY」は靑野浩史さんのご紹介でサイデラ・パラディソ C.E.O.でミュージシャン / エンジニア オノ セイゲンさんのご登場です。音響ハウスでキャリアをスタートし、たった2年でフリーになったオノさんは坂本龍一や清水靖晃、渡辺香津美、近藤等則、あるいはアート・リンゼイ、ジョン・ゾーン、ビル・ラズウェルといった日米の最精鋭アーティストたちの作品を次々に手掛けていきます。また、SACDやDSDレコーディング / マスタリング、高音質配信、DSDストリーミングなど、企画開発当初から関わるなど、同業者やクライアントからの信頼も厚いオノさん。加えて、84年にJVCよりアーティストデビューされてからは、「コム デ ギャルソン」のパリコレの音楽や、Seigen Ono Ensembleを率いて2年連続出演した「モントルー・ジャズ・フェスティバル」、またニューヨークやブラジルのアーティストたちとの交流など、アーティストとしてもご活躍されています。今回は「オノ セイゲン」という希有な存在を作り上げたキャリアから、今ご自身が手掛ける新しい技術までお話を伺いました。

 

ファーストアルバム『SEIGÉN』誕生秘話


ーー まず、前回ご登場頂いた靑野浩史さんとのご関係からお伺いしたいのですが。

オノ:靑野さんがビクター音楽産業の洋楽ディレクターで、JVCの新しいレーベルの無名の第1弾アーティストが僕でした。JVCがビデオ作品をつくり始めてその音楽監督としてできた音が、知らないところでソロアルバムになっていったんです。今でもランチやワインをご一緒する南青山のご近所の関係です(笑)。

ーー なぜビデオ作品だったんですか?

オノ:当時、パイオニア陣営のレーザーディスクに対抗して、日本ビクター、松下陣営はVHDというビデオディスクを作ってたんですよ。それは光ではなく静電容量方式で記録するものだったんですが、やはり作品がないとハードって売れないですから「ソフトを作れ」と予算が出たんでしょうね。つまりVHDを普及させるための『マンハッタン』という映像作品の企画がまずありき。それはニューヨークのマンハッタンのビル群、建築を映像化した作品で、監督はインテリアデザイナーとして初の紫綬褒章も受賞された内田繁さんとカメラマンの稲越功一さん。

「さて音楽をどうするか?」というときに、ミュージック・マガジン出身でビクター音楽産業の平田国二郎さんが、進歩的なミュージシャンたちと25歳の僕が、スタジオ空間と録音機器をまるで楽器のように扱うのをみていたようです。「音楽監督としてビデオにあわせた音楽を作れ」と。CMだと30秒とか長くても60秒ですが、長いバージョンですよね。人物は出てこない。映画でもない。ずっと建築だけの映像がゆっくり流れている。静止画に近いおしゃれな映像作品のシーンごとに音をデザインしていくイメージでした。WTCツインタワーの夕陽とかも綺麗です。それでマンハッタンを35ミリフィルムで撮りにいって。ぼくも一緒です。

ーー 曲も作られたわけですよね?

オノ:ええ帰国してすぐ取り掛かりました。自分だけで作ると自分のできる技量の枠に収まっちゃいますから、1曲1曲コラボレーターを選びました。例えば、冒頭の部分の「マンハッタン」という曲は笹路正徳さんにお願いしたんですが、CMの発注と同じで、具体的にコード感とか「ヴェニスに死す」のパクリですが、マーラー交響曲第5番から「アダージェット」そして「途中からビル・エヴァンス・ウィズ・ストリングスみたいに」とかそういうオーダーを打ち合わせしてね。

ーー 曲を発注するイメージですね。

オノ:その通りです。コード感とか楽器の編成とかまで指定して、あとはご自由にと。著作は作曲者のものですから。あと、白井良明さんのギターと一緒に僕がピアノを弾いたりだとか、そういうミニマル系のものをやったり、得意のテープループを使ったり、PrimeTimeというディレイマシンだけでコラージュしたり、60分の映像に十分な音楽を作りました。そして靑野さんたちの中で「音だけでも面白いからレコードを出さないか?」という話になったんです。僕の知らないところでね。

ーー ソロアルバムにしようとは考えていなかった?

オノ:全く。アーティスト契約とか原盤契約とか、右も左も分からなかったですし、もう時効だから言いますが、そもそも契約書がないんです(笑)。

ーー (笑)。

オノ:それで『SEIGÉN』というアルバムが仕立て上げられてね(笑)。稲越功一さんにアーティスト写真も撮ってもらい、浅葉克己さんがデザインして、誰も知らない新人アーティストがデビューしたわけです。

ーー 一流のスタッフばかりじゃないですか。すごいですね。

オノ:乱暴ですよね、しかもレーベルの一発目ですよ(笑)。元は日本ビクター原盤の映像の音なんですが、こういった音楽って当時あまりなかったんですよね。その後、ニューエイジというジャンルも出てきましたが、僕はその呼び方が大嫌いでね。

ーー どうやって売ったんでしょうね。それまで聴いたこともない音楽でしょうし。

オノ:そこです。平田国二郎さんが「靑野やろう」と話を持ちかけて、入社5年目の靑野さんが「ミュージック・インテリア」とレーベル名前をつけて、無名の新人「小野誠彦」漢字でオノ セイゲンとは誰も読めないからアーティスト表記を『SEIGÉN』、セイジェンに発音されないようEの上にアクサン・テギュ=”é”をとつけてアルバムを出そうと平田さんと決め、ただ流石にこの1枚だけポンと出しても形にならないと思ったのでしょう。橋本一子さんのソロピアノも録って、2作揃えて レーベルの第1回発売にしたという経緯です。でも、そこからの靑野さんはすごかったんですよ。普通、洋楽部って海外でリリースされた作品を日本で出す部署ですが、その逆ルートで靑野さんが『SEIGÉN』のサンプルを海外に出したんです。JVCレーベルは世界でも有名だし、そうしたら1年も経たないうちにヨーロッパのほとんどの地域と北米でも発売されたんです。

ーー 洋楽部なのに外に売っちゃったんですね。

オノ:海外にそういうマーケットがあったんですね。イギリスに関しては、ヴァージンの中にあったEGレコードの担当者が『SEIGÉN』を気にいって、セカンドアルバムはヴァージンUKと契約になりました。

ーー ある意味、靑野さんがきっかけを作ってくれたわけですね。

オノ:そう南青山は、ブルーノート東京やコムデギャルソン青山店など「きっかけが起こるエリア」なんです。何がどうチャンスにつながるか分からないですよね。

ーー ポップミュージシャンがやろうと思ってもできないですよね。

オノ:売り込みでやってもできるものじゃないです。日本で作ったものを逆のルートで出せば、同じくライセンスができるという例ですよね。

ーー 同じ頃に佐久間正英さんの作品を作られていますね。

オノ:僕のアルバムができあがった頃に「このレーベルにプロデュースしたいアーティストはいない」ということで、CM録音を通じてよく知っている「佐久間くんだったら『ミュージック・インテリア』の企画に合いそうな曲をすぐ書ける」という確信があったんです。で、佐久間くんに「こういう企画を始めたんですが、次は佐久間くんのソロアルバムをプロデュースしたい」と話してね。それも契約書ないんですけど(笑)。

佐久間くんの盟友イラストレーターのペーター佐藤さんの静止画イラストを映像化して、そこに曲をわり付けて、アルバム全体を僕がプロデュースしました。佐久間正英ファーストソロアルバム『LISA』の誕生です。僕も共作した曲もあります。それで「これからは原盤をアーティスト自身が持ってなきゃダメだよね」ということで、佐久間くんとv.f.vスタジオという会社を作りました。

 

 

とにかく勉強が嫌いだった〜くぐり抜けて音響ハウス入社


ーー ここからはオノさんご自身のお話をお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

オノ:父親は横浜、母親は世田谷出身です。父親は住友金属鉱山という会社に勤めていた転勤族で各地を転々としていて、僕が生まれたのは福島で本籍は横浜、2歳から愛媛で小学校から高校は兵庫県の加古川で育ちました。ですから家のなかは東京・横浜の文化なんですがメンタリティは完全に神戸、関西人なんです。

ーー 東京と関西、どんな違いを感じられますか?

オノ:東京って本音を言わないというか。まぁそれが社会人なのかもしれないですが、関西はもう少しお気軽ですよね。

ーー (笑)。どんなお子さんだったんですか?

オノ:勉強しなかったぁ。高校時代から特にひどい。転勤で家族が東京へ戻ってしまったので、僕は高校2年から加古川で下宿生活をしていたんですが、親には「大学の受験勉強をしてます」と言って、下宿代とか出してもらってるのにね。

ーー なぜオノさんは残られたんですか?

オノ:東京のどの高校の編入試験を受けても絶対に入れない成績だった(笑)。450人中、僕は最後の10人というか(笑)。とにかく成績だめでね。でも体育だけはずっと5で、背がもっと大きかったら体育大学でしたね。まあ、行けなかったから今の僕があるんですけど。

ーー 運動神経が良かった?

オノ:体育は全般的に良かったんですよね。中学のときに水泳をやっていたんですが、高校では水泳部よりも自分の方が早かったですし、ラグビー部なんか部員が足りないから試合のときだけウイングに加わったり。バレーボールはさすがに背が低いと不利ですが、バスケットボールはスピードでカバーできますから結構やれました(笑)。

ーー オノさんにスポーツマンというイメージはなかったです。でも高校は卒業できたんですよね?

オノ:一応。よく卒業できたなって感じですね。それで実家は東京ですから「卒業したら東京に戻ってバンドできるかな」って思ったら、もう全然レベルが違ってお話にならない(笑)。

ーー 東京のバンドの方が上手かったってことですか?

オノ:東京はやっぱりレベルが高かった。地方都市のビアガーデンで演奏したり、セッションしたり、ギターを教室で教えたりしてお小遣いをもらってとか、そんなんじゃ話にならない。東京に来ると例えば、ピットインに行ったら、渡辺香津美さんとかが演奏しているわけですよ。

ーー あぁ…(笑)。

オノ:そういう人を観ちゃうと、もう「すみません…失礼しました」って気分です。オリンピック選手と県大会くらいの差というか。スポーツと同じで世界一とか目指す人たちってやっぱり別格なんですよ。それでも何か音楽に関する仕事をしたいと思いつつ、2年間くらい喫茶店のバイトとか中途半端にバンドもやったりして、音響ハウスの入社試験を受けました。そのときに音響ハウスの江間さんが「プロほどではなくても、楽譜が読めるミュージシャンを入れてもいいんじゃないか? PAみたいなこともやっていたというし」と僕を推してくれたらしいんです。今だとそんな人っていっぱいいると思うんですが、あの当時のエンジニアって工学部系の大卒か専門学校卒しかも推薦を獲れるような優秀な人ばかりでね。

 

 

すぐに「これできます!」という調子の良さとサービス精神


ーー オノさんは音響ハウスの現場でレコーディングの知識と技術を身につけたんですね。

オノ:そうです。音響ハウスに入ったら分かったんですが、大学とか専門学校で勉強してきた知識は現場では役に立たないです。そういう意味では、成績がいいからじゃなくて「その人が何をやりたいか」を見てくれた江間さんは鋭かったと思います。

音響ハウスって新人は最初映写室に入るんですよ。それで30秒のCMのループを切ったり組んだりするので、16ミリフィルムの編集ができるようになるんですね。そこがスタートで、次にテープの編集にいくんですが、映像の編集、ビデオじゃなくてフィルムの編集をしたことが、今思えば役に立っているんですよ。

ーー どういったところが役に立っているんですか?

オノ:音楽しか扱ってないレコード会社あがりの人は、例えばテープを切るにしても、編集ブロックのスリットでカミソリで切るんですね。でも、CMの場合はナレーションとかテープにしるしをつけたらハサミでスパっと切っていく。で、24コマ/秒の中で「3コマ上げて」とか「1コマ上げて」とか、そういう会話が出てくるので、感覚的に時間の長さとテープの長さが身につくんです。

当時のCMって、今と違ってナレーションのテープレコーダー、音楽のテープレコーダー、SEのテープレコーダーって4台くらい同時に回すんです。で、同時にスタートすると、ミキサーの人が「音楽2コマ下げて」とか言うと、音楽のテープレコーダーのスタートポイントを2コマ分後ろにセットする。ナレーションも「ここ1秒詰めよう」とか「10コマ詰めよう」とかコマ数で言ったり、もちろん秒数でいうときもあるんですが、そのナレーションの流れが変わったときに、実際に台詞を切ったり、入れ替えたりとか、とにかく早さが大事だったんですね。スパッと切ってすぐ戻すというね。

ーー 運動神経が生きましたね。

オノ:そうですね。頭も鍛えられました。とにかくテープを切って貼るのが遅いとダメな現場ですね。音楽スタジオでは編集のときに「ここでいいのかな」「大丈夫かな」ってカミソリで慎重に切るんだけど、僕はCMのスピード感に慣れているので、ハサミでスパッと切ってポンと貼るだけの話なんですよ(笑)。それってCMのテープ編集のトレーニングをやっていないとできないです。カミソリで編集ブロックしかやってない人はそんな早さでは絶対にできない。その速さは僕の武器になっていて、リアルタイムで物理的なテープを編集させたら、今でもものすごく速いと思います。

ーー すごい。

オノ:今、そんなチャンスないですけどね(笑)。

ーー 音響ハウスには何年在籍されたんですか?

オノ:実は2年間しかいなかったんです。20歳で入って22歳でフリーランスになっているので。ですから音響ハウスではミキシング・エンジニアにはなっていなくて、アシスタントしかやってないんです。音響ハウスでの会社員時代、森本八十雄さんのアシスタント・エンジニアとしてクレジットされた唯一のレコードがユーミンの『SURF&SNOW』です。

ーー なぜ2年で音響ハウスを辞めたんですか?

オノ:音響ハウスに勤めているときも、ミュージシャンから「今晩、ピットインでライブがあるけど遊びに来ない?」とか言われたら、会社が終わってすぐ行って、朝まで付き合う。その当時、六本木ピットインには結構出入りしていましたね。それこそ香津美さんとか清水靖晃さんとか「遊びに来ていいよ」って言われたら、タダで入れるわけじゃないですか。お酒なんかもタダでいただけるしね。こっち側の世界がスタジオより面白かったんでしょうね。

で、そういうところに行ったときは、スタッフじゃないんだけど、なんか手伝ったりするわけです(笑)。楽器周りのことでもなんでも。バーの洗い物とか全然嫌じゃなかったですよね。別にそこでお金もらっているわけじゃないですが、好きなところに出入りできますし、そうこうしているうちにステージ周りとかPAのミキシングをやらせてもらえるチャンスも出てくる。そうすると音響ハウスの2年間の基礎が役立つんです。ケーブルのつなぎ方とか巻き方とか、マイクのチェックとかね。しかも「マイクはこう扱ってはダメ」とか絶対にやってはいけないことも叩き込まれている。結果、そういう若者は現場ですごく役立つんです。あと、機械のことだけじゃなくて、すぐ飲み物を持ってくるし、ギターのセッティングもできる。

ーー 現場で使える若者だったと。

オノ:「ステージ周りもPAもできるじゃん」って言われましたね。あとフットワークの軽さ、これ大事なんです。

ーー 要するにオノさんは可愛がられる性格だったんですね。

オノ:やっぱりミュージシャンもちょっと下くらいのほうが使いやすい。だからちょっとお兄さんくらいのアーティストから声かけられたんです。一回り違うと離れすぎかもしれないけど、5、6歳下って使いやすいんですね。

あと関西人気質はそこで役立ちましたね。言い方は悪いんですが、チャラいというか何でもすぐ「できます!やらせてください」って。最近も、若い子たちには言うんですが「これできる?」と言われたときに「できません」って応えた時点でその仕事のチャンスはない。「やったことないです」もダメ。

ーー だから、やってたことなくても「できる」って言うんですね。

オノ:そう。3人くらい若い子いたら、調子いいやつに頼みますものね。その子に仕事の成果を期待しているわけじゃなくて、何か頼んでも、楽しそうにやってくれるか。

ーー ものを頼むのに、頼みやすい奴と頼みにくい奴っていますよね。

オノ:いるでしょう? インターンの子にも「まずは笑顔。ここでは楽しそうにやって」って言ってます。コーヒーを持ってくるときでも何でもね。一言、洒落とか冗談を言っておくほうがいいよって。名前も覚えてもらえるし。

ーー 明るく、フットワークが良くて、きちんとやることはやると。

オノ:嫌なことでも、楽しそうに振る舞えばそのうち上手くなります。

ーー すぐにスタジオの外に出ていったというのはすごいですね。

オノ:ちょうどその頃に、ビーイングがスタジオを作るという話があって、僕の好きなようにやらせてくれるというので「そんな面白い話ないな」と思って。それがビーイングのバードマンスタジオですね。

ーー バードマンを立ち上げたのはオノさんだったんですか?

オノ:立ち上げたのは僕です。アシスタントからいきなりスタジオチーフエンジニア兼フリーランスです。

ーー さしてミキシング経験がないのに。

オノ:ないのに(笑)。

ーー 出世早いですね。

オノ:ですね(笑)。そこから進歩してませんけどね(笑)。なんか頼んだら一緒にビールももってくるとか(笑)。そういう気配りというか「こうしたらお客さん喜ぶかな」みたいな。

ーー サービス精神ですよね。

オノ:そう。レストランやバーでは当たり前になっているけど、調子いいやつって褒められるじゃないですか。「お、なかなか気が利くね」「俺の好きなのよく覚えていたね」とか。そうすると覚えてもらえるし。チャンスをいっぱいもらうこと。それに尽きるとも思いますね。

 

 

スタジオを楽器のように使いたいアーティストたちとの交流〜坂本龍一、渡辺香津美、清水靖晃 etc.

 

ーー 普通に考えて、なぜ2年でフリーになれたのか全く分からなかったんですよね。

オノ:「2年くらいアシスタントをやって、将来エンジニアになる」とか、22歳だからそんなこと考えてないんですよ。将来のことなんて何も考えてない。今、僕は面接で若い子たちに「目標は変わってもいいから、将来何になりたいの?1年後と10年後」って聞くんですが、そのときの自分は何も考えてなかった(笑)。無謀ですよね。せっかく音響ハウスに入れて給料ももらえているというのに。

ーー フリーになって、生活は成り立ったんですか?

オノ:フリーランスのエンジニアのギャラってCMだと、時給5,000〜8,000円だったんです。ですからあっという間に音響ハウスの給料を越えました。全部使っていましたけどね。フリーランスのエンジニアとして目標を立てて計画的になんてそんなの全然なかったんですよ。

ーー マネジメントはどこかにお願いしていたんですか?

オノ:22歳でバードマンスタジオを作って(笑)、ビーイングにマネジメントしてもらっていました。その後、レコーディングエンジニアとして田中信一さんのスーパースタジオに移り、同時に制作仕事は僕と佐久間くんとで立ち上げたv.f.v スタジオでやっていました。プロデュースとか制作はv.f.v スタジオ、エンジニアのブッキングはスーパースタジオですね。

田中さんとは坂本龍一さん、ヨロシタミュージック、ムーンライダース、あと大森さんのON・アソシエイツとクライアントが重なっていたので、田中さんから「事務所一緒の方が便利だよ」って誘われたんです(笑)。確かにチームだと連携もいいし、クライアントも田中さんか僕だったらOKということだったので。シフトが組まれていて、今日は何の仕事だか分からないんだけど、とりあえず音響ハウスに通う。するとCMの仕事だったり坂本さんのアルバムだったりするわけです。その後、マネジメントはインスパイアという広告代理店に移りました。

ーー 80年代のオノさんというと坂本龍一さんや渡辺香津美さん、清水靖晃さんといった方々とのお仕事が印象深いです。

オノ:82年頃からですね。坂本龍一さんとは清水靖晃さんの日本コロムビアBETTER DAYSレーベルでのソロアルバムに坂本さんが参加したときに知り合いました。当時の僕は、若手でライブを2トラックダイレクトで録るのが上手いということで、来日アーティスト含めてジャズの仕事が多かったんです。あとはバカテク天才でありながらソロを全部テープでランダムに編集したり変なことトライするのが渡辺香津美さん、清水靖晃さん周りの仕事でした(笑)。坂本龍一さん含めてスタジオを楽器のように使いたいアーティストたちですよ。近藤等則さんと出会ったきっかけは渡辺香津美さんが83年、近藤さんの『空中浮遊』をプロデュースして録音、ミックス、マスタリングまできた段階で「ダメだ」というので、ミックスやり直しからの仕事が僕に回ってきたんです。

ーー 錚々たるアーティストたちですよね。坂本龍一さんの『戦場のメリークリスマス』のときで25歳?

オノ:そうです。坂本龍一さんの『戦場のメリークリスマス』も、話題になったのは後からですよね。

ーー 『ラストエンペラー』もセイゲンさんだったんですか?

オノ:僕と田中信一さんがやっています。坂本さんとの80年代は『戦場のメリークリスマス』『音楽図鑑』『ラストエンペラー』ですね。『音楽図鑑』はレコーディングだけで1年以上かかっています。僕と田中さん、音響ハウスからスーパースタジオに移った中越くんと3人のリレー仕事、3ヶ月で終わるというのが全然終わらなくてね(笑)。

また、85年頃からニューヨークのダウンタウンのアーティストたち、ラウンジ・リザーズやアントン・フィアのゴールデン・パロミノス、あとジョン・ゾーン、アート・リンゼイといった人たちの間で僕の名前が結構あがっていて、ニューヨークに呼んでくれるプロジェクトが増えたんです。だからニューヨークと東京を行ったり来たりしていたのが80年代の中頃です。

ーー どのくらいの頻度でニューヨークに行っていたんですか?

オノ:ニューヨークに移り住んだことはないんですが、当時は年に半分くらい行ったりしていましたね。長くても1ヵ月、短いと3日間とか1週間居て帰って来たり。そうすると3日だとホテルですけど、1週間だとアパートを借りて、1ヶ月だったらもうロフトを借りちゃっていました。そんなわけで毎回滞在する場所が違うので、ダウンタウンだけは詳しくなって、ミュージシャンとの繋がりも増えました。

ニューヨークって、さっきの東京と大阪の話じゃないですけど、大阪的なんです。「これが欲しい」「これいいね」とはっきり言わないといけないんです。お世辞も含めて、とにかくコミュニケーションしないと、タクシードライバーも行きたいところにたどり着かないような街なんですよね。

ーー 自己主張しないといけない。

オノ:そう。何かやろうというときに、ニューヨークのハングリーな感じが僕はすごく好きで、「こういうのをやるんだったら、このミュージシャンいいよ」って人をどんどん紹介されたりするんですよ。それが結構面白くてね。80年代は南佳孝さんや溝口肇くんとかニューヨークでレコーディングしたいプロジェクトをコーディネートとプロデュースもしていました。人によっては「オノくんはニューヨークがベース」と思っている人もいるくらいでしたね。

ーー なぜニューヨークのアーティストたちから指名されるようになったんですか? 

オノ:まずは音決めとか2chダイレクトのレコーディングが早いこと。それを僕はテープの編集でスクラッチするとかそんなことが得意だったんですよ。テープ編集が楽器演奏みたいになってきてね。80年代ってゲートエコーとか音楽の録り方に色々な手法が生まれて、昔の方法じゃない録り方になっていたんですよね。

ーー そこでフィルムの編集技術が生きたんですね。昔からある作業なのに、時代の先取りみたいな技術になっちゃったと。

オノ:テープの編集でサンプリングやってました。その当時イミュレーターやフェアライトといったサンプラーも出てね。ニューヨークではビル・ラズウェルがやっていて、ロンドンではトレヴァー・ホーン、そして東京だと僕だったんです。しかもテープだったら僕が一番早い(笑)。

ーー (笑)。

オノ:あの頃は音楽のスタイルもどんどん変わっていましたが、例えば、20代のミュージシャンが40歳くらいのチーフエンジニアに「もっと過激な音を作りたいんですけど」って言いにくいですよね。チーフエンジニアって自分の音は「こうやって録音する」とポリシーもあるし。僕はまだ若いからポリシーも自分の音とか完成された姿が全くない、ミュージシャンが責任もってOKならOKですよ。

ーー ここでもオノさんは非常に使い手のある男だったんですね。

オノ:ニューウエーブではそれまでにない「変な音」が求められる時代だったんです。ミュージシャンからベテランのエンジニアに、例えば「マイクを逆に向けてみたいんだけど」とか言いたいんだけど言えない。でも、僕はそんなことばかりやっていましたから。マイクの正面の音なんてどんなマイクでも大体同じ。でも90度の音とか180度逆側の音はみんなあんまり利用しないんだけど、そういう置き方を積極的にやっていたので、壁や床の初期反射音によりそれがどのような音になるか熟知していったんですね。変なマイクの置き方ばかりですよ(笑)。それで多分ミュージシャンの間で「あいつ変なマイクの置き方で面白い音を作る」みたいな話が拡がって、次のミュージシャンの仕事に繋がっていくんですよね。

ーー エンジニアにちょっと変わったことを言うと「え?」って顔をされるのが嫌で自分でスタジオ作ったってミュージシャンもたくさんいますよね。

オノ:いますね。僕は今でも「こういう録り方で録る」「こういう風に仕上げたい」というのはないんです。いや、今はあるかな(笑)。

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