第159回 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏【前半】

2019年2月14日 12:00
ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏

今回の「Musicman's RELAY」は(株)Zeppライブ 青木聡さんのご紹介で、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー清水 浩さんのご登場です。早稲田大学の創部60周年になる「ニューオルリンズジャズクラブ」を経てCBS・ソニーに入社された清水さんは、EPIC・ソニーレコード(以下、エピック)に配属され、主に宣伝の立場から数々のアーティストと関わられます。また第二FM開局時には各放送局の開局に奔走。大阪営業所駐在時代にはデビューしたDREAMS COME TRUE(以下、ドリカム)の大阪での人気に火を付けるチームに参加しました。その後も元ちとせ、アンジェラ・アキ、JUJUなどと深く関わりをもった清水さんに、エピックの歴史とも言えるご自身のキャリアから、いまだ衰えぬ音楽への情熱までお話を伺いました。

 

クラシックギターを経てジャズの世界へ


ーー 前回ご登場頂いたZeppライブの青木聡さんとはいつ頃出会われたんですか? 

清水:私はエピックの新卒一期生ですが、クライズラー&カンパニーなどが所属するセクションにワーナーから青木が移ってきたときに出会いました。その後私がアンティノスレコードに異動になり、またエピックに戻ったときには、彼はバリバリ仕事をしていて、始めようとしていたのが元ちとせです。A&Rの青木、昼間(徹史)たちでプロジェクトのような形で動いていて、そこに私が加わりました。多分このことは青木が話していると思うのですが、何がすごいって元ちとせとの出会い方です。

ーー 元ちとせはテレビで見つけたとおっしゃっていました。

清水:そうです。偶然テレビで見つけて奄美まで飛び、直接交渉して、確かそのときはダメだったのかな。それで彼女から再度連絡があって、オフィスオーガスタの森川欣信さんと一緒にやるという。その直感力と執念と行動力がすごいんですよ。

ーー 素晴らしいですよね。

清水:本当に。それでデビュー曲の「ワダツミの木」が大ヒットですよ。実は青木も昼間も林(育大)も私もあんなに売れる想定ではなく「ワダツミの木」の次に出す曲で勝負と言っていたんですが、いきなりミリオンセラーで、すべてのことが駆け足になりました。ただ、青木が色々仕掛けていく感じとか、「100年に一人の歌声」みたいなキャッチコピーをつけたりとか、センスの良さを青木には感じていました。しかも彼はクラシックの造詣も深いですから、彼が洋楽セクションの時に「イマージュ」を企画したり葉加瀬太郎さんとMBS系列の番組「情熱大陸」のイベントも仕掛けていきましたね。

そういう彼に私ができたことは、一応上司であり先輩でしたので、「これは面白いからやったほうがいいと思うよ」と彼の背中を押してあげることだけでした。彼の着眼点とか、不思議な人脈をいっぱい持っているところも素晴らしいですし、なにより人間的な魅力にあふれたA&Rだと私は思います。昨夏の横浜クラシックフェスは素晴らしかったですね。

ーー A&Rの人間としては最上級の評価ですね。

清水:そうですね。偉大な大先輩たちは置いておくと、私が見てきた中で、最高のA&Rのひとりですね。

ーー 青木さんも「清水さんは大変お世話になった先輩」とおっしゃっていました。

清水:いやいや、そんなことはないです(笑)。あと青木の、あまり得意ではない分野の仕事や、色々トラブルを抱えている案件でも一生懸命、整理整頓しようとしてがんばっている姿は非常に偉いなと思っていました。逃げずに諦めずに立ち向かっていく青木は本当に素晴らしいと思いました。

ーー ここから先は、清水さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

清水:東京の東中野です。今も住んでいますので、幼稚園の時から全く住所は変わってないです(笑)。

ーー どのようなご家庭だったんですか?

清水:親父は普通のサラリーマンですね、もう亡くなりましたけど。お袋は専業主婦で、姉と私の2人姉弟です。

ーー 音楽につながって行くような環境はご家庭の中にありましたか?

清水:年末のレコード大賞とか紅白歌合戦とかを家族団欒で観たり、オリンピックとか万博とか節目のときにテレビや電化製品を買い替えていく典型的な昭和の家庭でした。小学生時代は珠算・柔道・ピアノ・学習塾とやたら習い事が多かったんですけど、ただ、深夜放送が好きでしたね。「オールナイトニッポン」や「パックインミュージック」。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が「オールナイトニッポン」で最初にオンエアされたのを偶然聴いていて、次の日に小学校で「すごい、すごい」と友達とはしゃぐようなラジオっ子でした。その後、グループサウンズも好きになって、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのシングル盤とか買いましたね。

ーー 世代的にはビートルズがリアルタイムですよね。

清水:そうですね。ただ、ビートルズ大好きと言うよりは洋楽全般が好きで、ニッポン放送で夜やっていた洋楽チャートの番組で、カーペンターズとかミッシェル・ポルナレフとかエルトン・ジョンとかも中学生時代に聴いていましたね。最初に買ったアルバムはサイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」でした。

ーー ご自分で音楽をやっていらしたんですか?

清水:はい。早稲田大学高等学院という上石神井にある高校に進学して、そこで「ラスギタルラス」というクラシックギター部に入って、ギターを弾いていました。

ーー そのとき始めてギターを弾かれたんですか?

清水:実は中学時代は硬式テニス部だったんですが、安いアコスーティックギターを買って「禁じられた遊び」とか典型的な曲を弾いていました。で、高校のときのクラシックギター部はいわゆる合奏で、バッハとかを4つのパートくらいに分かれて演奏していました。

ーー なるほど。

清水:高校ではクラシックギターを弾いていましたが、聴いたり観たりするのはロックやポップスで、高校一年のT・REX初来日の武道館には制服を着て観に行きましたね。高校二年の夏には、中学時代の友達に日比谷野音のジャズフェスに連れていかれて、山下洋輔とかジャズが好きになりました。それで早稲田大学に入って、初心者ということもあり「ニューオルリンズジャズクラブ」というサークルでベースを弾いていました。

身体と声が大きかったので部長もやりましたけど、学生時代は音楽中心というか、音楽とお酒と麻雀と、言わば「青春の門」みたいな生活でしたね。当時から、自分はプレイヤーとしての才能がないなぁ…と気付いていたので、レコード会社にスタッフで入りたいと思っていたら、「ニューオルリンズジャズクラブ」のOBにCBS・ソニーでジャズのプロデューサーをしていた伊藤八十八さん(故人)がいらしたんです。

 

 

合格の理由は「自然体」〜CBS・ソニー入社


ーー 入社試験のときに、伊藤八十八さんは面接会場にいらしたんですか?

清水:いえいえ、一年先輩の横内(伸吾)さんが先にCBS・ソニーに入っていて、その人が「後輩で、こういうのが入るのでよろしく」みたいに推薦しておいてくれたのが助かりました。

ーー ちなみに他のレコード会社も受けたんですか?

清水:レコード会社って、募集開始が遅いし、募集自体があまり無かったんです。で、受けたのが日本フォノグラムとビクター音楽産業とCBS・ソニー。東芝EMIは確か募集がなかったと思います。ただ、一般企業も一応受けていました。もう無差別に。レコード会社がダメだったら音楽を趣味に、みたいな発想ですね。

ーー うまくいったらレコード会社に行くけど、ダメだったら別に一般企業でもなんでも、とにかく就職しなきゃという。

清水:そうそう。「メシは自分で」というのがやっぱりありましたから。実家に住んでいるとはいえ。ですからCBS・ソニーに入らなかったら全然関係ない普通の会社に入っていたと思います。

ーー 受けたところはほとんど受かったんですか?

清水:いや、ほとんど落ちました(笑)。色々な業界の会社を受けましたけど、それぞれの業界をそれほど深く勉強できないですから、突っ込まれると弱かった(笑)。最終的には何社か内定はもらいましたけど。

ーー 一番たくさん受けられたのがレコード会社ということですね。

清水:そうですね。ビクターは落ちて、フォノグラムは最後の方までいったんですが、その前にCBS・ソニーが受かったので、フォノグラムは辞退させていただきました。

ーー その頃のCBS・ソニーって設立何年目くらいだったんですか?

清水:設立10年目ですね。1968年設立で、私は入社1979年なので、11年目です。CBS・ソニーができて10年目でエピックが作られました。

ーー 受かった決め手はなんだったんですか。

清水:なんだったんですかね(笑)。入社した後に「自分が受かったポイントは?」みたいなことを先輩に聞いたら、当時受けてくる人はレコード会社で働きたい情熱でみんなギラギラしていて「僕は何でもできます!」「なんでもやります!」みたいな感じの人が多い中で、私が比較的淡々としていたそうなんですよ、今でもそうですけど(笑)。

ーー (笑)。

清水:かなり面接疲れしていたので(笑)。

ーー 肩の力が抜けていた?

清水:そうですかね。受かるも受からないも時の運だから、あんまり気負っても、と思っていたので、自然体でいられたのかも。最後までそんな感じでした。

ーー 清水さんは入社当時からエピックだったんですか?

清水:最初からエピックです。エピックが1978年10月にできて、79年4月に入社して、配属は制作管理課でした。そこに面接をしてくれた人が上司でいました。

ーー 面接のときに「入ったら○○をやりたい」みたいな意気込んだことはあまり言わなかったんですか?

清水:「宣伝・制作をやりたい」という希望は出しましたが、配属は制作管理で資材発注・進行管理・生産管理などの業務でした。工場とのやり取りやジャケットのデザイン関係、どういう宣伝・営業特典をつけるとかなどもやるセクションでしたので「勉強になるな」と思いました。

その後広告管理や宣伝費管理・マーケティング調査などもやりましたのでここで数年やって、制作なり宣伝なりに行けたらいいかと。そのときに先輩からは「コストとクオリティーのバランスを常に考えろ」とすごく言われたのが大変役に立ちました。

ーー 当時のエピックの印象は、思った通りのものでしたか?

清水:そうですね。淡々と始まりましたが先輩・同僚には本当に恵まれていました。管理セクションですから、レコーディングや深夜放送の立ち合いなどで徹夜になったりというのはまだなかったですね。ただ年数が経ってから市ヶ谷のCBS・ソニーと青山のエピックでは随分文化が違うことに気が付きましたけど。

ーー 制作関係ですと個性的な人たちがいっぱいいらっしゃったんじゃないですか?

清水:制作も宣伝もいっぱいいましたね。例えば、制作でいくと、CBS・ソニーで吉田拓郎さんを担当されて、エピックではばんばひろふみさんや内海美幸さんなどを担当されていた早稲田大学グリークラブ出身の前田仁さん(故人)という先輩が強く印象に残っています。

前田さんには「『歌の凄さ』分かるか?」みたいなことを言われて、アーティストルームみたいな防音室で、美空ひばりさんや都はるみさんと、新人の歌手の聴き比べみたいことをしてくれました。「ここが素晴らしいんだよな」とか言いながら微妙な歌い回しなど細かい息遣いを指摘されて勉強になりましたね。あとGONTITIやくじら、遊佐未森のディレクターの福岡智彦さんもスタジオですごく繊細な指示をされていたことが印象的でした。

ーー まさにザ・ディレクターですね。

清水:ええ。「ここから何小節目をどうこうして…」「トラックはここを…」みたいな指示をしている場面で私にはその違いが詳しく分からなかったですし、そういった前田さんや福岡さんの姿を見て、「僕の耳はそこまで無理」と思って、20代半ばくらいに制作をあきらめて宣伝を志しました。

ーー ディレクターを諦めた?

清水:そうです。前田さんも福岡さんもそれだけすごい耳と頭をお持ちでした。今でしたらA&R的な考え方がありますが、当時は制作と宣伝と営業みたいなシンプルな考え方が主流でしたから。宣伝の現場の最初の頃は先輩の足立達夫さん西岡明芳さんの背中から多くの事を学びましたね。三人とも口髭で髭トリオと言っていました(笑)。エピックは途中入社で映画・マスコミ関係やVAN JACKETなどのファッション関係の方など種々雑多な人達の集まりで面白かったですね。

 

 

FM802開局と大阪で火が付いたドリカム人気

 

ソニー・ミュージックエンタテインメント 役員室エグゼクティブルーム スーパーバイザー 清水 浩氏


ーー 素朴な疑問なんですが、レコード会社に入って、音楽を仕事にした瞬間から、それまで興味のなかったような音楽も死ぬほど聴くようになったりするんですか? そうでもないんですか?

清水:もちろん仕事では色々聴きますよね。「シングルどれにする?」みたいな話をするときに制作だけではなく宣伝にも意見を求められますから、当然聴きますし、「これどう思う?」と新人のデモテープも来ますから、聴く機会ははるかに多いですね。

ーー ライブを観に行くとかそういうのもありますよね。

清水:ライブも多いですね。特にエピックは、ライブを中心にアーティスト活動をやってなんぼみたいなところがありましたから。ライブで最初の衝撃は1982年の6月20日THE MODSの大雨の日比谷野音ですね。これは嵐の中のライブで凄かった。とにかく四六時中ライブに行くロックのエピック丸山(茂雄)さんという人の存在とライブで育てる、という大きな流れがあったからとにかくよく行きました。

ーー 自分の担当しているアーティストはほとんど全部。

清水:当然、担当しているアーティストのライブは観ますし、担当していなくても社内で面白そうなのは観ますね。宣伝として、例えば、ニッポン放送担当とかNHK担当となった場合に、やっぱり全てのアーティストに関して答えられなきゃいけないという気持ちがありました。アーティストや担当しているメディアに対して失礼になりますから。

ーー 宣伝マンとして一番苦労なさったことは何でしたか?

清水:やっぱり思ったよりも売れないときは困りましたよね。あとトラブルというかアクシデントですよね。ダブルブッキングとか。とにかくメディアの人にはよく謝りました。メディアの人が「エピックの○○くんって嫌いなので担当変えてくれ」みたいな話。そういうのは一番参りました…。

ーー (笑)。

清水:宣伝の仕事って相性が大切なところもありますからね。人と人との摩擦熱が炎上すると鎮めるが大変でした。

ーー この頃はとにかくメディアに通うのが仕事ですか?

清水:そうです、四六時中ですね。雑誌も担当しましたし、ラジオ・テレビ・有線も担当しましたし、色々やりました。一番印象に残っているのが1988年の第二FM開局ブームのときです。このとき全米放送事業者協会が主催しているラジオ番組のコンベンションのために、アメリカへ行かせてもらいました。「向こうのFM局を研究してこい」と。

で、英語できないんですけど、当時丸山さんが外国人のスタッフを採用していたので、彼と一緒に行って、彼は日本語を勉強、私は英語を勉強しようとして、二人でワイワイガヤガヤ話しながら興味深く楽しくコンベンションに出ました。

ーー 88年から89年って第二FM局が続々開局して、世の中的にはバブルで滅茶苦茶景気のいい時代ですよね。

清水:その通りです(笑)。開局する局はほとんど担当したような気がします。88年にNACK5が開局の時は、ちょうどエピックが設立10周年だったので開局24時間&EPIC10周年特番を木根尚人と大江千里にそれぞれ12時間メインDJをお願いして、エピック邦楽全てのアーティストにいろいろな形で出演してもらいました。

その後89年に大阪へ転勤になりまして、FM802とKiss FM KOBE、α-STATIONの開局を担当していて、FM802開局のときは802分間の開局特番生放送をやりました。メインDJは鈴木雅之で、AMAZONSの3人がサポート。当時KISSコーポレーションでディレクターをされていた冨田雅夫さん(故人)の指示の元、FM802のスタジオ内で生放送の台本を書いて、初めて放送作家を体験したのが懐かしい思い出です。

ーー 大阪でのお仕事はいかがでしたか?

清水:楽しかったですね。FM802で開局当時のことをご存知なのは代表の栗花落光(ツユリヒカル)さんしかいないと思うんですけど、FM802の有名な夏フェス「MEET THE WORLD BEAT」の第1回目をお手伝いさせていただきました。

あとは、ヘビーローテーションの取り組みやバンパーステッカーの制作( FM802ロゴ入りの車のバンパーステッカーを作りそれを使った施策)、局のチャートを作るための売上データ提供の協力をレコード店にお願いするために栗花落さんと一緒に廻ったり、まさにステーション作りに参加させてもらっている感覚がありました。そう言えばFM802は今やFMcocoloとの二極体制ですけど丁度今年が開局30周年ですね。

ーー 当時、日本のラジオ局にヘビーローテーションってなかったんですか?

清水:なかったですが今週の歌とか今月の歌みたいのはありましたね。アメリカのFM局のようなヘビーローテーションシステムの話は他のFM局などにも説明に行きました。あと、大阪時代の思い出としては、大阪までは簡単に新人バンドがライブに行けないので、当時心斎橋にあったミューズホールにエピック関係のバンドと、他社や地元のインディーズバンドの5、6バンドで「ハートビートパレード」というイベントを3ヶ月に1回くらいエピックが幹事をしてやっていました。このイベントをOBC(ラジオ大阪)で栗花落さんが以前制作していた番組でオンエアしてくれまして、関西ぴあが告知やイベント現場を手伝ってくれていました。

要は「文化を育てる」「新人バンドを育てる、紹介する」的な感覚でやっていたイベントで、毎月、サウンドクリエイター、夢番地、キョードー大阪、SOGOといったイベンターの皆さんと新人の話をして、「ちょっとこのバンド出したい」とか、みんなで相談していました。ですから大阪に根付いて仕事ができている感がすごくありましたし、当時は大阪で新人を見つけて、東京に連れて帰ってデビューさせるという目標がありました。

ーー その目標は達成できたんですか?

清水:できなかったですね。実は大阪からバンドを連れて「イカ天」(三宅裕司のいかすバンド天国)に出演したことがありました。ちょうどBLANKEY JET CITYがずっと勝ち進んでいるときで…(笑)。

ーー 勝ち進んでいて(笑)。

清水:勝ち進んでいて、結局彼等(BLANKEY JET CITY)がチャンピオンで、こちらのバンドは準優勝みたいな。で、大阪に帰ってから結局解散しちゃいました。

ーー 同じタイミングでめちゃくちゃ強いチャンピオンがいたんですね。

清水:もう圧倒的に強いチャンピオンが。BLANKEY JET CITYをエピックでやりたいとすら思いましたから。

ーー タイミングが悪かったんですね。

清水:そうです、残念でした。ただタイミングが良い話で言えば、ドリカムはデビュー前に東京でライブを観て「面白いな」と思いましたね。吉田美和は手作りの、すごくかわいらしい衣装で歌っていて、自分の言葉を持っていましたし、なにより彼女の声がすばらしかったので、DJのデモテープを作りましょうと。で、そのデモテープを大阪転勤後に栗花落さんに聴いてもらったところ、一発で「やってみましょうか」と言ってくれました。本当に嬉しかったですね。

ドリカムは1989年3月21日デビューで、FM802の開局は6月1日だったのでギリギリ間に合うかどうかってタイミングで、デビューの日に「ハートビートパレード」のミューズホールでライブをしてもらい、その姿を栗花落さんに観てもらって、最終的にレギュラー番組が決定しました。番組は6月の開局から、番組スタッフも東京エンタテイメントの木津さんと小西さんに東京から来てもらいスタートしました。吉田美和は毎週月曜日に大阪へ行って、22時から24時の生放送をやって、大阪で一泊して帰るという生活をしばらくしていました。

ーー ドリカムって東京より大阪で先に火が付いたんですか?

清水:そうかもしれません。「吉田美和を毎週大阪に」と提案したときに、当然事務所は難しい顔になるじゃないですか。そこで大阪におけるマーケティング戦略の企画書をつくって、一年後には、当時の大阪厚生年金会館、大ホールは無理だけど中ホールは一杯にしますから、とお願いしました。エピックの大阪営業所も凄く応援してくれまして、全国で最初に「ドリカム DAY」という店頭キャンペーンを関西地区のレコード店頭で実施してくれました。そうしたら予想通り人気が出て、中ホールが完売、全国的にも人気が広がって。

皮肉な話ですが、売れていけば毎週大阪通いというのはもう無理になるので、残念ながら番組自体は一年で終わりました。その後私は1991年に東京に戻りまして、ドリカムの担当になりミリオンセラーの経験ができたことは非常に有益で感謝しています。今でもライブは欠かさず観ていますね。そして今年デビュー30周年です。

▼後半は2月21日公開!