−−−−まず、前回ご登場いただいたユニバーサルミュージックの寺林 晁さんとのご関係を教えていただきたいのですが。
石田:僕は亡くなられたシンコー・ミュージックの草野昌一さんと仲が良くて、『ミュージック・ライフ』と連動してアメリカの音楽シーンを取材してテレビで紹介したんですね。そのときはL.A.、サンフランシスコ、ナッシュビル、メンフィス、ニューオリンズ、ニューヨークとフィルムを撮って回ったんですが、L.A.でニッティ・グリッティ・ダート・バンドが取材を受けてくれることになって、僕らがハリウッドのハイランドにあるホリデイ・インにいると言ったら、夜中でしたが「行ってもいい」ということで、ホリデイ・インのラウンジの椅子を全部どかして、そこで生演奏してもらってフィルムで撮ったんです。
その一年後くらいかな? 日曜の夕方にやっていた『リブ・ヤング!』がオイルショックとかいろいろな理由で夜11時になったんですよ。そのときにウドー音楽事務所がニッティ・グリッティ・ダート・バンドを呼んだんですね。実はアメリカで取材したときに「日本に来たら番組に出てくれ」と言っておいたので、僕らもニッティ側も『リブ・ヤング!』に出るつもりでしたし、最初スケジュールはOKだったんですが、直前になって寺ちゃんが「ごめん! その日は静岡で公演が入ってる・・・」と言い出して、大騒ぎになったんですよ(笑)。
−−番組としては大ピンチですよね。
石田:ここからが寺林 晁の素晴らしいところなんですが、彼もバンドと一緒に静岡へ行って、開演6時半のところを6時15分くらいから音を出し始めて、あの頃のコンサートって間に15分のインターバルがあったんですが、それも飛ばして8時過ぎにコンサートを終わらせて、その日のうちに新幹線で東京に戻ってきてくれたんですよ。それで11時からの生放送に10時50分位にスタジオに入ってきて、あれがエレキものだったらできなかったんでしょうが、アコースティックですからセッティングも簡単で、そのまま生放送で演奏しちゃったんです。その件で寺ちゃんにはすごく感謝しましたし、僕にとって寺林 晁という男の存在がすごく大きくなって、それから今までずっと付き合ってきています。
−−それは寺林さんらしいエピソードですね。
石田:ドゥービー・ブラザーズの武道館公演のときも「テレビで撮らせてほしい」と頼んだら、寺ちゃんが「うちは有働さんに言うと高いよ」って言うもんだから、色々と相談して、撮ったビデオをアメリカで使ってもいいということをバーターに交渉してみたらドゥービーがOKしてくれたんですよ。あと、ちゃんとミックスダウンするためにサンフランシスコからレコーディング・ミキサーを呼ぶための渡航費用を出すという条件でね。結局、撮ったものを夜中に4回に分けて放送しました。寺林 晁という男はそういうことを色々とやってくれたんですよ。
−−『リブ・ヤング!』は洋楽を扱ってくれる貴重な番組でしたよね。
石田:あの頃、洋楽を扱って色々なことができたのは、まだビデオクリップがなくてフィルムもなかなか手に入らない時代だったからなんですよ。つまり、素材がないからこっちから撮りに行かざるを得なくて、そうなったときに草野さんがタイアップしてくれて海外へよく行かせてくれたんです。その代わりに僕たちは『ミュージック・ライフ』を番組で色々な形で紹介すると。やっぱりシンコーの草野さんのお陰というところがすごくあると思いますね。
−−『リブ・ヤング!』には面白いエピソードがたくさんありそうですね。
石田:そうですね。キョードー東京がジェームス・テイラーを呼んだときに「テレビに出させてくれ」とお願いしたんですが、今でこそ『めざましテレビ』とかにも来日した外タレが出演したりしますが、当時のプロモーターは簡単にはアーティストをテレビに出してくれなかったので(寺ちゃんは例外ですが)、どうしてもダメだと言われたんですね。そのときに奥さんのカーリー・サイモンが一緒に来日していて、しかも「うつろな愛」が全米でNo.1だったので、「奥さんのカーリー・サイモンでもタイムリーでいい」と思って、今度はプロモーターではなくレコード会社の人に「本国に連絡してカーリー・サイモンをプロモーションで出演させて欲しい」とお願いしてもらったんですよ。それでスタジオにピアノを置いて生放送で「うつろな愛」を歌ってもらったんですが、その時ジェームス・テイラーもついてきて、スタジオの隅で座ってたので「インタビューだけでも出ないか?」と言うと、「僕は契約があるからダメ」って(笑)。あの頃の『リブ・ヤング!』は本当に面白かったですね。
−−ここからは石田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?
石田:杉並区の高円寺北で昔の馬橋です。映画『三丁目の夕日』で青梅街道を都電に乗って母親に会いに行くシーンがあるじゃないですか? 馬の橋と書いて「まばし」と読むんですが、そこが出生地です。
−−どのようなご家庭だったんですか?
石田:僕は阿佐ヶ谷の割烹料亭の息子だったんですよ。住み家は中野の鷺宮にあったので、いつも家に帰るとずっと鍵っ子でした。だから小学校の頃から小銭だけはもっていて、当時の阿佐ヶ谷オデオン座とかそういうところで映画を観まくっていましたね。
−−すべて封切りと同時に体験されていたんですか?
石田:いや、あの頃、阿佐ヶ谷オデオン座は三番館で、ロードショーは日比谷や築地でしかなかったんです。新宿もみんな二番館で、さらに阿佐ヶ谷に来る頃には三番手になってたんですね。それでグレン・フォードとシドニー・ポワチエの『暴力教室』、ジェームス・ディーン作品、西部劇だとジョン・スタージェス監督の『OK牧場の決斗』、『ガンヒルの決斗』、『ゴーストタウンの決斗』とか2本立てを観まくってましたね。あと、当時はSP盤からドーナツ盤に変わる時代で、高円寺とか阿佐ヶ谷の新星堂で映画音楽、特に西部劇の主題歌をドーナツ盤で買い出しました。また、兄貴の影響でビング・クロスビーやペリー・コモ、ドリス・デイ、アンドリュー・シスターズ、マクガイア・シスターズとかスタンダードなものも集めてましたね。
−−音楽や映画を通じてアメリカ文化にどっぷりだったんですね。ちなみに邦画もご覧になっていたんですか?
石田:もちろん観てましたよ。東千代之介や中村錦之助が大好きで、『笛吹童子』や『紅孔雀』、そのあと日本最初のシネスコ・カラー映画『鳳城の花嫁』の大友柳太朗とかあの辺はだいたい観てます。邦画全般を観ていましたが、僕は東映マニアで高円寺の東映専門エトワール劇場で東映映画をたくさん観ました。その中でも松田定次監督の映画が大好きでした。今から考えるとチープな映画なんですけどね(笑)。
−−それはおいくつ位の頃のお話ですか?
石田:小学校3〜5年位だったかな。
−−ずいぶんませてらしたんですね。
石田:本当、ませガキですよ。
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