−−ここからは佐野さんご自身のことについてお伺いしたいんですが、大阪のご出身でいらっしゃるんですよね。今に繋がるような音楽的な環境でお育ちになったんですか?
佐野:いや、家庭環境はあまり音楽とは関係ありませんでした。僕は3人兄弟の末っ子で兄と姉がいるんですが、2人ともピアノを習っていたんです。でも僕だけピアノを習わせてもらえなかった。それが逆によかったようで…最終的に音楽に携わっているのは僕だけなんです。
−−「逆によかった」とはどういうことですか?
佐野:もしピアノをやっていたら、音楽大学に行って歌手を目指していたかもしれないので。小・中・高という長い間コーラスをやっていて、まわりの多くの友人たちは音楽大学へ行きました。でもなかなか演奏だけでご飯を食べていけないじゃないですか(笑)。
−−確かにそうかもしれませんね(笑)。ちなみにご両親も音楽関係だったんですか?
佐野:音楽とは全然関係ありませんでした。父親は学校の教師です。音楽に親しんだのは、小学校のときに大好きだった素晴らしい音楽の先生からたまたま「コーラス部に入らない?」と言われて始めたのがきっかけです。
−−コーラスはいつまで続けてらしたんですか?
佐野:大学までです。僕の通っていた高校はNHKのコーラス・コンクールの近畿大会で優勝したりする、割と優秀な高校だったんです。そのコーラス部の先輩で音楽業界に入った人がいて、アルバイトにこないかと声をかけてくれたことがクラシック音楽業界に入るきっかけになったのです。
−−では、コーラスを通してクラシックの世界に入られたんですね。
佐野:そうですね。ただ、こう言うとよく「コーラスをしていたからクラシック」って思われるんですが、そんなことは全く考えてもいなかったんです。クラシック音楽は嫌いじゃなかったし、よくレコードを聴いたり演奏会に行ったりしてはいましたが、クラシック音楽の業界に特別な憧れがあったわけではありません。ただ、小澤征爾さんやバーンスタインは好きでした。小学校5年生の時に『ウエスト・サイド・ストーリー』を観て感動したんですが、中学1年のときにバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのレコードを聴いて、『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲者と同じ人だとわかったときは本当に嬉しかったですね。それ以来バーンスタインのことはすごく好きで、今でも一番好きなアーティストの一人なんです。
−−でも、佐野さんはビートルズやベンチャーズ、あとグループサウンズといったような世代ですよね?
佐野:そうですね。ビートルズは大好きで、ずいぶん聴いたし演奏もしました。僕自身もギターをやっていましたしね。でもジャンルでどうのこうのって思った記憶がないんですね。だから色んな分野に好きなアーティストがいたんです。
−−以前葉加瀬太郎さんにインタビューした時、大学に入るまでクラシック以外は聴いたことがないとおっしゃっていましたが…。
佐野:僕は全然そんなことはなかった。興味がなかったのは演歌とハードロックぐらいですかね。だからビートルズがロックだと言われてもちょっと困っちゃうんですよ。未だに何がロックかわからないという感じですね。
−−先ほどギターをやっていたと仰っていましたが、どのような音楽を演奏していたんですか?
佐野:フォークのグループを組んでいたんです。でもギターの真似ごとをしていた程度です。最近、ウクレレを始めようかなと思ってますけど(笑)。
−−大学卒業後にお入りになったのが梶本音楽事務所ですか?
佐野:はい。僕は学生時代に大阪国際フェスティバル協会で、「大阪国際フェスティバル」という、今は朝日新聞が主催でやっているクラシック音楽のフェスティバルでアルバイトをしていたんです。大阪にフェスティバルホールができた後、1960年代、70年代は、きら星のごとくクラシックのアーティストを海外から招聘し、国際音楽祭をしていたんです。それが「大阪国際フェスティバル」。それこそ東京からもたくさんの人が聴きに来るコンサートだったんです。そこで5年間アルバイトをしていたんですが、大学卒業と同時にアルバイトも辞めたときに、梶本さんから「うちにこないか」っていう話がありました。クラシック音楽が好きだったのと、小澤征爾の所属会社ということもあって、なんとなく。
−−梶本音楽事務所には長く勤めてらしたんですか?
佐野:梶本音楽事務所は3年ぐらいですね。その後、大槻楽器店の常務から一緒に会社作らないかと誘われて大槻プランニングという会社を作ったんです。その会社が大阪の全てのコンサート会場でレコードを売る権利を持っていて、それこそ演歌からロックまで色々なレコードを売りながら、ついでに会場で生の音楽を聴いたんですよ。
−−コンサート会場でレコードを売ってたんですか?
佐野:そうなんです。その当時は大槻楽器店が大阪のコンサート会場を全部仕切っていたので。それから1年ほど経ったときに、いくつかの事務所から東京に来ないかっていう話をいただいたんですね。結局27歳のときに東京に出てきて、高柳音楽事務所にいれていただいた。それで3年ぐらいしてナサ・アーティスツ・ビューローという会社を立ち上げました。
−−ナサ・アーティスツ・ビューローを立ち上げられたきっかけは?
佐野:当時は日本人アーティストでチケット収入だけで生計を成り立たせてる人がほとんどいなかったんです。日本人アーティストをもっとプロモートする方法はないかと思って立ち上げました。当時、若手のアーティストはどんどんうまくなっていましたから、無名のアーティストをプロデュースしていったんですね。その当時のクラシック音楽のアーティストは、レコードが3,000枚売れたらすごい売れたって言われていたんです。でも、他のジャンルだったら3,000枚ぐらいで売れたなんて言わないだろうと思って、なんとか1万枚は売ることを目標に、色々な策を講じました。そうしたら当時クラシックのチャートTOP10中8位くらいまでをうちのアーティストが占めるようになりました。
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