Musicman-NET TOPMusicman's RELAY第70回
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上原徹氏
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上原徹氏
 今回の「Musicman's RELAY」は屋敷豪太さんからのご紹介で、株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長 上原徹さんのご登場です。大学時代にフォー・セインツを結成し、『小さな日記』をラジオで歌ったところ全国からリクエストが殺到! レコード会社各社にも注目され'68年にメジャーデビュー。解散後に映像の仕事を志し、フジテレビの子会社だったワイドプロにアルバイトとして入社。「キタナイ」「キケン」「キツイ」の“3K”と言われる辛いAD時代をのりこえフジテレビ本社へ入社。『スター千一夜』『夜のヒットスタジオ』『ミュージックフェア』など音楽番組を中心に制作を担当。ロンドン転勤後もその手腕を発揮し、大物アーティストも多数出演する『ビートUK』や『ザ・ビート』を制作。億単位の売上をあげました。その功績から英国法人FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTDを立ち上げ社長に就任するなど、TV業界と音楽業界で成功された上原さんにお話をうかがいました。

[2008年2月14日 / 港区北青山 株式会社フジパシフィック音楽出版にて]
プロフィール
上原 徹(うえはら・とおる) 株式会社フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長

'47年生 東京都出身。
成蹊大学在学中にフォー・セインツを結成。ラジオで歌った『小さな日記』が反響を呼び'67年にデビュー。フォー・セインツ解散後、株式会社フジテレビジョンの子会社であるワイドプロにADとして入社。その後株式会社フジテレビジョン本社に入社し、ディレクターとして「夜のヒットスタジオ」「スター千一夜」「君こそスターだ!」など音楽番組を中心に担当。'89年にはロンドン勤務が決まり渡英。『ヒットスタジオインターナショナル』を制作。'94年にFUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTDを設立し、代表取締役社長に就任。ITV、チャンネル4などで『ビートUK』『ザ・ビート』などを制作した。'03年に帰国し、株式会社フジパシフィック音楽出版の代表取締役に就任。現在に至る。

株式会社フジパシフィック音楽出版 http://www.fujipacific.co.jp/

::: INDEX
学生時代にフォー・セインツを結成しデビュー
辛かったAD時代〜アーティストから映像業界へ
FUJI INTERNATIONAL PRODUCTIONS(UK)LTD設立
苦労が絶えなかったロンドンでの生活
あえて日本の手法でイギリスの映像業界へ
これからもずっとモノを作り続けたい


1.学生時代にフォー・セインツを結成しデビュー

−−前回ご出演いただいた屋敷豪太さんとはイギリスで出会われたということですが、その経緯や印象などをお聞かせください。

上原:最初に豪太さんと会ったとき、彼はシンプリー・レッドのドラマーであり、またBMGの社長だった寺島さんと一緒にレコーディングスタジオの経営をしていました。そこに何かのきっかけで遊びに行ったのか、もしくはロンドンで番組を作っていたのでその番組の司会を豪太さんにお願いしたのか、どちらにしてもそこでの出会いが最初だったと思います。

 それと豪太さんの上のお子さんと、うちの下の子が同じ歳だったのかな? 月〜金はお互いイギリスのローカル学校に通わせていたのですが、週末だけは日本政府がバックアップしている国語を重視して教える日本人補修校に通っていたんですよ。そこで週に1回は彼と会っていましたね。ロンドンからは僕の方が先に日本に戻ったんですが、そのあと数年して彼も日本に戻ってきましたのでたまに飲みに行っています。

−−公私ともにご関係があったんですね。では、上原さんのご出身、そしてどのような家庭環境でお育ちになったのかお伺いしたいのですが。

上原:出身は東京で、小学校2年のときから今も住んでいる杉並で過ごし、もう50年以上ですかね。(途中13年間は英国ですが)小学校から成蹊に通っていたので大学卒業まで受験勉強を全くしたことがなかったんですよ。

−−小学校から私学に通う子供は少ない時代ですよね?

上原:そうですね。今振り返ってみるとよかったなって思いますね。あまり受験だ受験だって感じませんでしたから。僕は団塊の世代でベビーブーマーだったんですけど、それでも小学校のときは東、西、南って3クラスしかないような非常に少人数の学校でした。

−−学生時代にのちのフォー・セインツにつながるような音楽環境はおありだったんですか?

上原:中学校の後半ぐらいにビートルズとかベンチャーズが出てきて、いわゆるエレキブームがありました。それでエレキギターを弾くようになってバンドを作りました。高校に入ってからは先輩に誘われて演劇部に入ったんですが、文化祭のときは演劇部の出し物もやりながら、当時流行っていたフォークソングを演劇部の仲間とバンドを組んで演奏したり。その後、学校にいくつかあったフォークグループが合体してフォー・セインツになったんです。

−−フォー・セインツはメンバー全員が成蹊の方なんですか?

上原:アマチュア時代は全員がそうでしたが、レコードを出したときは一人だけ違いました。大学に入りニッポン放送の『バイタリス・フォーク・ビレッジ』という番組に出演し『小さな日記』を歌い、その歌が後の『オールナイトニッポン』でも放送され「全国から『小さな日記』の譜面が欲しい」とリクエストが殺到して、それでレコード会社の方々に注目してもらい、最終的には当時東芝レコードにいらっしゃった高嶋さんに強く口説かれレコードを出すことになったんです。高嶋さんはビートルズを日本で最初に火を付けた方。ザ・フォーク・クルセダーズを担当していた方なんですが、実はバイオリニストの高嶋さち子さんのお父さんで、高島忠夫さんの弟さんなんですよ。

−−え!そうなんですか。それは知りませんでした。

上原:高嶋さんに「お前たちが出さないんだったら、他のやつらに歌わせてレコード出すことだってできるんだぞ」って脅かされてね(笑)。それで今は無いですが、溜池の東芝レコードの裏に大きなスタジオがあって、そこでレコーディングしました。

−−それは強引ですね(笑)。フォー・セインツはどのぐらい続いていたんですか?

上原:フォー・セインツは1年半ぐらいしか続かなかったんじゃないですかね。'68年に『小さな日記』が出て、そのあと'69年に『希望』っていう曲を出したんです。『希望』は岸洋子さんが翌年に歌ってヒットしたんですよ。僕たちも当時オリコンでいうと30位ぐらいまではいったのかな。

−−時代的にはグループサウンズブームとフォークブームの真ん中ぐらいだったんですか?

上原:そうですね。当時NHKに出るためのオーディションがありました。そのときに一緒になったのが「ヒデとロザンナ」や「欧陽菲菲」で、ちょっと後に「森進一」とかそんな頃ですね。高嶋さんに「アーティストだったら事務所に所属しなきゃいけない」と言われて紹介された事務所に入ったんですが、その事務所に所属していたアーティストがザ・ゴールデン・カップスやザ・ダイナマイツで、とてもフォークソングっていう感じじゃないんですね。あるとき「これから仕事をするんだから衣装を作れ」って言われて新宿の歌舞伎町に連れて行かれて買ったのが吊しのタキシードに先のとんがったエナメルの靴(笑)。それでグループサウンズやR&Bとかそういうバンドが出るジャズ喫茶で演奏していました。

−−フォークと芸能界を行ったり来たりさせられた感じですね。

上原:そうなんです。当然営業もするんですが当時はツアーなんてもんじゃなくてまさに巡業という感じで、四国、九州、北海道と色々な所に行かされました。当時はバンドボーイと言っていたんですけども、今で言うローディーが途中から付いたんですが、最初の頃は自分たちで楽器車を運転して、お客さんがいる前でセッティングして、セッティングが終わったら楽屋で着替えて、「みなさんこんにちはー!」って出て行くんですよ。終わったらまたみんなのいる前でバラしてまた運転して、その夜に横浜へ行って、またステージという感じです。昼間4回ステージ、夜4回ステージということもよくありました。酷でしたけど今となれば楽しい思い出ですね。

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