−−最初はバックミュージシャンとして活動を始められた武部さんですが、その後アレンジャー、プロデューサーと活動の幅をどんどん広げられていきましたね。
武部:それもやはり人とのつながりが大きいですね。かまやつさんが偉いなと思うのは、バックバンドをやっていた僕みたいな若造に自分のアルバムのレコーディングでアレンジをやらせてくれたりしたんですよ。その曲が一番最初にレコードになった僕のアレンジで、今聴いたら恥ずかしい出来だと思うんですが、そういうチャンスをいただけたということがすごく大きかったです。
またユーミンからも、彼女がプロデュースする小林麻美さんのアルバムでアレンジを頼まれました。ですから、小林麻美さんのアルバムも僕のキャリアの中では早い時期のものです。この業界は常に若くて才能のある人を捜していますから、そのアルバムを聴いた人が「アレンジをしている武部君というのは誰だろう?」と(笑)、徐々に仕事を頼まれたりしつつ、だんだん広がっていった感じですね。僕のキャリアの中ではキーパーソンみたいな人がその都度いて、一番最初はかまやつさん、その次はユーミンだと思うんですね。
あと寺尾聰さんの『ルビーの指輪』を一年中弾いていたときに、当時寺尾さんの音楽は井上鑑さんが全部アレンジされていて、パラシュートというティン・パン・アレーからの流れのグループが演奏していたんですが、『日本レコード大賞』の授賞式で『ルビーの指輪』は「作詞賞」「作曲賞」「編曲賞」、そして「レコード大賞」と全て獲ったんですよ。それで「編曲賞受賞の井上鑑さんです!」とステージに井上鑑さんが出てきて、その姿をバックバンドのメンバーとして眺めながら、「いつか井上鑑さんよりも売れるアレンジャーになる!」とその時思ったんですよね(笑)。
−−次は俺だぞと(笑)。
武部:それが'81年の大晦日ですね。
−−以後、ものすごい数のアーティストとお仕事をされていますよね。
武部:500アーティストくらいやっていると思います。
−−約30年そのペースでお仕事をされているのは驚異的ですね。そろそろ疲れたなとかお感じになることはないんですか?
武部:うーん、このペースが20代の頃から染みついていますし、まだやり足りないことがたくさんありますからね。ただ、やり方はどんどん変わっていると思います。バックバンドからアレンジャーになって、アレンジャーとして自分でも成功したなと思う時期が、いわゆるアイドル・ポップス全盛の時代だったんです。それこそ、松田聖子さんや斉藤由貴さん、薬師丸ひろ子さんとか、'83年くらいから'88年くらいまでものすごくアイドルの仕事が多くて、その中でスタジオワークを効率よくあげる術と言いますか、短時間でクオリティーの高いものを作る技は身についたと思うんです。そこで日本で活躍しているスタジオ・ミュージシャンとはほぼ全員と仕事をしましたしね。
ただ、今日は誰々、明日は誰々、明後日は誰々・・・みたいな仕事をしていると、作ったものが売れようが売れまいが実感がないと言いますか、なんだか切り売りしているような、非常に無責任な気がしたんです。そこで僕はプロデューサーとしてアーティストとじっくり音楽を作っていきたいと思いました。それはものすごい数の仕事をした反動だと思うんです。一番仕事をした年で年に250曲アレンジしたんですよ。後に筒美京平さんには「甘い」と言われましたが(笑)、それでも結構な数だったと思うんです。
−−毎日アレンジしているような感じですものね・・・。
武部:そのやりすぎた反動で僕はアレンジとして頼まれる仕事から一旦距離を置いて、自分がサウンド・プロデューサー、プロデューサーという形で、例えば、1年間でアルバム何枚かをチームを組んでクリエイトしたいと思いました。
−−それはどのアーティストからですか?
武部:一番最初にそういうスタンスで仕事をしたのが本田恭章君の仕事で、アルバム何枚かをチームで作りました。またアイドルの中では斉藤由貴さんですね。当時のアイドル・ポップスは1作ごとに作家もアレンジャーも代えて、その時に一番よい人をチョイスするのが常識でしたが、当時ポニーキャニオンの長岡さんというディレクターの方と上手くコミュニケーションがとれて、作家はその都度変わっても、サウンドを作っていくのは全部僕がやるということで、非常にいいチームが作れました。結果、彼女の作品の8割は僕がアレンジして、アルバムで5、6枚、シングルは10枚以上やったと思います。
その頃からだんだんスタイルを変化させていき、本格的にプロデューサーというクレジットで色々なことを自分で決めていったのがKATSUMIです。それまでアレンジャーとして久保田利伸君や徳永英明君といった男性ヴォーカリストのデビューのタイミングに付き合うことが多かったんですね。久保田君はデビュー前からのお付き合いですし、徳永君もデビュー曲である『Rainy Blue』からのお付き合いですから(笑)。そういった中で自分で男性ヴォーカリストをデビューさせたかったんです。KATSUMIはパイオニアLDCというメーカー立ち上げのアーティストで、メーカーも力を入れてくれましたし、そこで結果を出したことがプロデューサーとしての第一歩ですね。それまではアレンジャーの延長としてのサウンド・プロデューサーでしかなかったですから。
−−同時に'83年からは松任谷由実さんのライブにおける音楽監督も務められていらっしゃいますね。
武部:バックバンドのミュージシャンとしては、'81年の『時のないホテル』というアルバムのツアーから参加しているんですね。そして、'83年の『REINCARNATION』というアルバムのツアーからコンサートの音楽監督を任されています。
−−ちなみに松任谷正隆さんとの仕事の分担はどのようになっているんですか?
武部:ユーミンの場合、トータルのプロデュースは松任谷さんで、全てにおいて彼が決定権を持っています。ただ、松任谷さんはライティングから演出まで全ての部分を見なくてはならないので、音楽の部分は僕が任されています。僕が音楽監督という形で松任谷さんと二人で曲構成などを決めて、僕がアレンジをし、リハスタである程度音をまとめた段階で松任谷さんが入ってくる形ですね。
−−実は先日『シャングリラIII』を拝見させていただいたんですが素晴らしいライブでした。
武部:ありがとうございます。あれはお金があればできるという問題ではなくて、それだけ長い間チームとしてやってきたからこそできることだと思うんです。その時集めたスタッフではあのステージはできないですね。
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