−−猛烈な受験勉強をされて中学はどちらへ行かれたんですか?
武部:麻布中学です。福田康夫総理と同じ学校ですね(笑)。麻布出身でミュージシャンというのは本当に少なくて、山下洋輔さんや神津善行さんくらいです。小学校の頃はその地域で1番勉強ができていたはずなんですが、いざ麻布に入るとそういう人たちが集まってきていますから、いきなり300人中150番くらいになってしまうんですよ(笑)。そこで一つ目の挫折を味わって、ましてそのまま高校まで行けますから勉強よりも音楽に行ってしまうんですね。
中学に入った頃はいわゆるサイケデリック・ロックやアート・ロックと呼ばれていた、例えばジミ・ヘンドリックスやクリーム、そしてウッドストックという時代で、そこをリアルタイムで経験したということは、ミュージシャンになる上で非常に大きかったと思います。
−−すでに中学からバンドを組まれていたんですか?
武部:ええ。クリームのコピーバンドを組んで、ギターを弾いていました。僕は中学・高校時代はずっとギターを弾いていたんです(笑)。学園祭で「EL&Pをやりたいからキーボード弾いて」と頼まれたときは弾いたりしましたが、当時のロックはギターが主力でしたからね。鍵盤楽器はドアーズ、あとEL&P、イエス、ピンク・フロイドといったプログレでは使われていましたが、レッド・ツェッペリンにしろグランド・ファンク・レイルロードにしろ目立つのはギターですから(笑)。今でも残っているようなロックの名曲をギターで完コピしたことは、プロになってからもものすごく役立っていますね。
−−ちなみにその当時は髪の毛を伸ばされていましたか?
武部:胸元まで伸ばしていました(笑)。僕が中学2年くらいの時からキョードーが『ロック・カーニバル』というイベントを始めて、ロック・アーティストが来日するようになったんです。一発目がジョン・メイオール、続いてBS&T、シカゴ、フリー、グランド・ファンクの後楽園球場、そして、ツェッペリンと僕はそれを全部観に行ったんですよ。それでそのパンフレットにあるミュージシャンの写真を持って、「これと同じ髪型にしてくれ」と(笑)。
−−(笑)。麻布は髪型・服装は自由だったんですか?
武部:僕が入ったときに麻布は学園紛争があって、制服が廃止になったんです。
−−対して開成はその当時はまだ坊主でしたよね。
武部:そうですね。ですから麻布は異端でしたね。自由な校風を売り物にしていたという部分もありましたが、色々なタイプの生徒がいました。制服が廃止になっても学ランを着てくる奴もいれば、ロンドンブーツを履いてラメのジャケットを着ている奴もいる(笑)。そういった生徒たちが一緒の教室で授業を受け、別に反発もせずに話している。すごくいい校風でしたね。
−−ちなみに異性とのお付き合いは?
武部:早かったと思いますよ。中3の頃から彼女はいました。モテるためのバンドという部分もありますからね(笑)。私立校は横のネットワークがあって、麻布だと近くに女学館や東洋英和がありましたからそこの生徒たちと仲良くなり、学生主催のパーティーみたいなところでよくバンド演奏をしました。
−−つまり、スターだったわけですね(笑)。
武部:そうです。当時はね(笑)。
−−高校生なのかミュージシャンなのかわからないような生活ですね(笑)。その頃にはお父さんが望まれたエリートへの道は見えなくなっていたんですか?
武部:全然なかったですね。ロック・ミュージシャンに憧れていましたから、そういう格好をしていましたしね。でも、プロになることに対してその時は現実味がなかったですから、単純に憧れとしてやっていただけですね。
−−そして、国立音大に進まれるわけですよね。
武部:ええ。要するに麻布で勉強せずにバンドばっかりやっていたので、入ったときは300人中150番だったのが、これは忘れもしないんですが、最後は324人中323番だったんですよ(笑)。それで「このままじゃ、絶対に大学に行けないぞ」と学校から言われて、高校3年のときに「潰しがきくから一応大学くらいは出ておいた方がいいのかな?」と考えまして、その時に入れそうなところが音楽大学しかなかったんです(笑)。普通の大学だと何教科か試験がありますが、音楽大学は音楽以外は英語と国語だけで、しかも簡単だったんですね。それで高校3年の夏休みくらいから課題曲だけ練習して、それで国立音大に入りました。ですから、別にクラシックを本格的にやりたかったわけでもなかったんですね。
−−音大というのはそんなに簡単に入れるものなんですか?
武部:僕が受けたのは「ピアノ科」のような特殊技能が必要な科ではなくて、「教育科」という音楽の先生になるための科で、音大の中では割と簡単な科なんです。でも、音大に行っても相変わらずバンドをやっていましたし、20歳のときからプロになっていますから、大学にはとりあえず行ってみたという感じです。
−−ちなみに卒業はされたんですか?
武部:卒業はしました。麻布に教育実習にも行きましたから、中学全教科と高校音楽の教員免許は持っています(笑)。
−−大学時代はどのような音楽活動をされていたんですか?
武部:中学・高校時代にやっていたハードロックみたいなものから、だんだんニューミュージックの前段階である日本語のロックに興味が移って、その中でもサディスティック・ミカ・バンドやはっぴいえんどといったバンドに憧れました。それで自分たちのバンドでやるんだったらオリジナルをやろうと、大学に入ってやったアマチュア・バンドではオリジナルを作って演奏していました。多分、その頃からキーボードというものを本格的に意識し始めたんだと思います。
あと、僕が18歳の時にそれまでロックバンドしか聴かなかったのがスティーヴィー・ワンダーを聴いたことで、「こんな音楽があるんだ」とものすごくショックを受けました。当時のスティーヴィー・ワンダーは『キー・オブ・ライフ』に向かっていく一番実験的で、色々なアプローチを試していた時期で、それがすごく新鮮でした。もし、スティーヴィー・ワンダーと出会っていなかったらキーボーディストになっていなかったくらい影響を受けたと思います。それでスティーヴィー・ワンダーの曲をコピーしながら、コード進行やヴォイシングを耳で探っていくことからクラシックやプログレのピアノではない、いわゆるポップスとしてのキーボードを学びました。
−−その頃からキーボードへ移行されていったんですね。
武部:これはプロになってからの話ですが、その当時出会ったギタリストは本当にみんな上手かったんですよ。その時に自分のギタリストとしての腕ではプロとして絶対に通用しないと思いました。今、ハーフトーンでマネージメントをしている鳥山雄司君と知り合ったのは20歳くらいのときなんですが、彼のプレイを見たときに「こいつは上手いな! とてもかなわないや・・・」と思いましたね(笑)。
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