Musicman-NET TOPMusicman's RELAY第64回
リレーロゴ 谷村新司氏 BACK NUMBER

3.後先考えずにひたすら音楽に打ち込んだ学生時代

谷村さん −−高校に入られてからはもう音楽中心の生活だったんですか?

谷村:そうですね。勉強が好きじゃなかったので、絵を描いているか音楽をしてるかですね。

−−絵も描かれていたんですか。

谷村:絵を書くのが好きだったので、大学は美大に行きたかったんです。でも、調べてみるとすごい競争率でしたから、これは無理だなとすぐわかりました。今の子たちには想像つかないでしょうが、倍率が52倍とか58倍とか当たり前だったんですよね。100人ぐらいが一斉に試験受けて、そのうち通るのが2、3人だとわかっていましたから試験受けながら「こりゃ駄目だな」と思いましたね。結局一次で落ちて浪人するのが嫌だったので2次を受けたんですが、その時に受けた桃山学院大学でも倍率は28倍ぐらいでした。

−−受験の厳しさが現在とはまるっきり違いますね。

谷村:今の受験は僕らの感覚からすると受験でもなんでもない感じがします。それぐらい強烈な時代でしたからね。だから今、「団塊の世代はこれからどこへ行くのか」と心配されますが、心配してもらわなくても全然大丈夫だと思ってます。僕らは「人と比べられないように自分をどうすればいいか?」としか考えられなかった環境の中で、ずっと生き抜いてきた連中ですから、「ほっていてくれて大丈夫だよ」とみんな思ってると思います。それは多分、僕らより下の世代の人が心配してるだけなんじゃないかなと思いますね。

−−本格的な音楽活動はやはり大学に入ってからですか?

谷村:そうですね。大学にさえ入ってしまえば、学校に行かなくてもいいと思っていましたから。これで好きなことが思う存分やれるとひたすら音楽に打ち込みました。でも、それで生活していくなんて発想もなく、ただ何かに憑かれたように音楽をやってました。

−−後先何も考えずに。

谷村:ええ。だから今の子たちは先を考え過ぎているというか、先を考え過ぎて先を心配し過ぎて、だからやめようとなってしまっているように感じます。僕らは後先考えずにひたすら音楽に打ち込んでいました。大人の人からは「そんなことやってて将来得するの?」とかよく言われましたが、そういったことを一切考えなかった奴が今残っている奴ですよ。

−−後先考えなかった奴が今残っている・・・これは強烈な言葉ですね。

谷村:そのうちにそれによって少しずつ生活ができ始めていることに気づくみたいな感じですよね。そもそも、こういう風な生き方をした人がこうなっているという前例がなかったですからね。遥か遠くに加山雄三さんがいたぐらいで。

−−何も不安を感じなかったわけですよね。

谷村:はい。きっと何かを信じていたんですよね。

−−今から考えるとそれは何だと?

谷村:こんなに打ち込んで心を込めてやっているんだから、良くないわけがないといいますかね。僕らの代には「残ろう」と思ってやっている奴ってあまりいないと思います。「残ろう」というネガティブな発想ではなく、みんな「この次はどうしようかな?」とポジティブに考えていたと思います。

−−では、大学4年間の思い出はひたすら音楽活動のみですか?

谷村: 音楽活動のみですね。あとは他の学校の文化祭に死ぬ程たくさん出ていました。まだアマチュアですから、出演料じゃなくてみんな交通費という名目でお金をもらったんですが、交通費だったら往復1,000円もあれば済みますから、実際はかなり多くもらっていたと思います。そのうちに口コミで色々な学校から出演依頼が来るようになりました。

−−谷村さんは大学入った瞬間から今日までアーティスト活動以外のことは何もやってないっていうことですよね。

谷村: それに近いですね。でも、友達を助けるためにアルバイトをしたりはしましたけどね。

−−それは何をされたんですか?

谷村: 歌を歌ってたお友達の女の子のお父さんが突然亡くなられて、家が大変な状態になったときに、彼女をボーカルにして、僕ら二人がギターで初めてナイトクラブへ歌いに行きました。で、ギャランティは全部彼女に渡していました。

−−それもミュージシャンとしての稼ぎですよね。

谷村: そうですね。ナイトクラブという大人の世界で僕らはフォークソングを歌っていました。そのときにたまたまそのナイトクラブで僕らの歌を聴き「あなたたちの歌とてもいいですね」と仰ってくれて、休憩のときにジュースをごちそうしてくれた人がいて、それがデビュー当時の西川きよしさんです。だから、きよしさんとはすごく長いお付き合いなんですよ。

−−今でも西川きよしさんとは深い交流があるんですか?

谷村: そんなに頻繁にはお会いしませんが、「あのときの男の子が谷村さんですよね」と、そこで出会ったときのことをきよしさんも覚えてらっしゃいます。あのときジュースをごちそうになったことは、僕らにとって何よりも嬉しい出来事でした。

−−やはりお聞きしたいのが細川健さん(現(株)ポリスター 代表取締役)との出会いなんですが、最初の出会いはどこだったんですか?

谷村: '70年の大阪万博です。彼はカナダ館にアマチュアバンドを仕込んでPRしていたんですよ。僕らは歌える場所はどこでも行きましたから、そこで歌って、そして歌い終わって楽屋にいたら彼がきて、「スマン。俺はお前らを騙そうと思ってた」と僕らに謝ったんです。そんなに本音で喋る奴ってあんまりいませんから、もうそこで「こいつはすごい奴だな」と思いました。それで「お前らの歌ええな。お前らの歌をアメリカ人に聴かせてやろうやないか!」と彼が言って、その年の夏にはもうカナダのバンクーバーに居たんですね。そこから僕の人生が音をたてて変わっていきました。

−−では、細川さんにとってもやはり谷村さんとの出会いは大きかったと。

谷村: 二人にとって大きかったはずですよ。二人が出会ってなかったら彼もポリスターを作ってないでしょうし、今のアップフロントの前進であるヤングジャパンというのも二人で作った会社ですからね。「ヤングジャパン」という名前には、自分たちが日本を背負うという意識が込められています。それはアメリカをずっと回って、たくさんの人に助けられて日本に辿り着いたときに感じた二人の本音なんです。

−−どのくらいの期間アメリカをツアーされていたんですか?

谷村: 2年続けて夏場40日間です。移動は全部バスで、ほとんど行き当たりばったりに近かったですね。

−−その度胸ってすごいですよね。英語で歌っているわけではないんでしょう?

谷村: ええ。自分の歌をアメリカの人たちに聴かせに行っているんだから、なんで英語で歌わなくちゃいけないんだと思っていました。実はアメリカ・ツアー中にたまたまジャニス・ジョップリンのステージを観たんですよ。僕はそのときまでジャニス・ジョップリンのことは全く知らなかったんですが、彼女の声を聴いた瞬間「すごい!」と感激しました。やっぱり国だとか言語だとか、あとロックだとか、フォークだとか言っているのってバカじゃないのと思いましたね。音楽は感じるか感じないか、それだけの問題だと思いました。



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後先考えずにひたすら音楽に打ち込んだ学生時代
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