−−最初に前回ご登場いただいた加山雄三さんについてお話を伺いたいのですが。
谷村:加山さんは僕達の世代にとって憧れですし、加山さんの映画と音楽で僕らは青春を過ごしてきました。加山さんはスーパーの上にスーパーが付くスターだったんですね。大阪にいた頃に『若大将シリーズ』を観て、「東京の大学はこんなに華やかで、ラブロマンスに溢れているんだ」と思っていましたし、映画の舞台は京南大学という大学なんですが、真剣に「京南大学へ行きたい!」と思っていましたからね。
−−それは中学生ぐらいのときですか?
谷村::高校1年生ぐらいだったと思います。東京の大学に行くんだったら京南大学だなと(笑)。だから、京南という学校がないことに気づいたときは結構ショックでした(笑)。
−−実際に加山さんとお会いになるきっかけは何だったのですか?
谷村:加山さんとは子供の学校の繋がりで、父兄として最初出会ったんです。それでサマーキャンプで子供たちを喜ばせるために一緒に音楽やろうという話になって、小さなやぐらを作ってその上で一緒に歌ったりしたのが初共演です。そのときに「子供たちは一番シビアな観客だな」と感じました。毎年やっていて随分鍛えられましたね。子供達は大人のように気を使って無理して聴かないので、つまらないと寝るんです。その前の方で寝ている子供達をどうやって起こそうかなとか、子供たちが眠くならないように手拍子をこんな感じで打ってみようとか、加山さんとは色々と考えましたね。その後、決定的にご縁ができたのは『サライ』を一緒に作ったときです。そこからはより深いお付き合いになりました。
−−『サライ』での競作は加山さんのほうからお声が掛かったんですか?
谷村:もともと24時間テレビから企画が出ていて、加山さんが「詩だったら谷村」と仰ってくださったんです。僕にしたら加山さんと一緒に作品が作れるということはすごく光栄ですし、それは是非やらせて頂きたいと。それ以来、加山さんとの個人的なお付き合いがずっと続いています。今度の古希のアルバムの中でも2曲、「これは谷村君に詩を書いてもらいたい」と指名してくださって、すごく嬉しいです。
−− 加山雄三さんの素晴らしさはどこにあるとお思いですか?
谷村:僕はよく言うんですが、加山さんは「加山雄三」というジャンルなんですね。だからそのことに日本の音楽業界の人は早く気づいてほしいなと思います。歌謡曲だったりポップスだったり懐メロだったり、色々なところへ入っている加山さんはすごい人なんですよということをね。一枠で納まっている人は割とわかりやすいですが、みんなが理解しやすいけれど納まりきっていない加山雄三という存在は本当にすごいと思います。
−− 加山さんは「加山雄三」の一言でしか表現のしようがない感じですよね。
谷村:そんな加山雄三が70歳で走り回って歌っているというその格好良さですよね。まだ20代の子にはピンとこないと思うんですが、50代・60代の人間からすると、もう「すごい!」としか言いようがないんですよ。だから加山さんが走ってくれていると僕らも好き勝手に暴れていられる。そんな存在でもありますね。
−−私も小さい頃は「大人になったら加山雄三になればいいんだ」と思っていました。
谷村:みんな加山さんみたいになれそうだと思うんですが、やはり加山さんは多才な才能をもっていらっしゃって、そのそれぞれが加山雄三ワールドなんですよね。本当に素晴らしいと思いますね。僕は加山さんを日本の宝物だと思っていますから。
−−本当ですよね。早く国民栄誉賞をあげてほしいって感じですよね。
谷村:日本という国は特に文化に対しての感覚はかなり低いと思います。みんな「芸能人」みたいな捉え方をしている人が多いですからね。でも、ヨーロッパやアメリカではアーティストは敬意を表してくれる存在です。だから、僕は加山さんに対してはいつも敬意を表したいと思っています。加山さんはイギリスで言うところの「サー」ですよね。でも、加山さんは「そんなものどうでもいいや」と思っているから余計すごいんです。
−−あんなに素晴らしい曲を数多く作られているのに、「音楽は趣味だ」と仰っていますからね。
谷村:加山さんが「趣味」と言っているのは、プロを突き抜けてる方の「趣味」なんです。突き抜けた人は楽しんじゃっているから趣味と言える。プロのときは楽しむより「やらなくてはいけない」という意識の方が強いですから、まだそこそこなんですよ。
−−加山さんはすごい域の方なんですね。
谷村:
もう達人の域ですね。だから僕がいつも憧れているのは、加山さんのようなプロを突き抜けたスーパーアマチュアなんです。スピリットがアマチュアで技術とかもろもろのことがプロを超えてる存在。
−−一番かっこいいですね。
谷村:
そう、「趣味だよ」と言えちゃっているのが一番かっこいいんです。
−−ここからは谷村さん自身のことについてお伺いしたいと思います。まず幼少時代の家庭環境に関してお伺いしたいのですが、大阪で生まれたということは谷村さんに大きな影響を与えましたか?
谷村:
もちろんどこで生まれたかということはすごく大きいですし、大阪から東京へ出て来たときには「違う国に来た」と思うくらい、東京と大阪では気質も人との接し方も真逆です。この間、作家の浅田次郎さんと対談したんですが、浅田さんは江戸っ子で、侍の気風がずっとある町に生まれ育ったので、「武士は食わねど高楊枝」と言いますか、バッと見栄を張る。そういうのが関西からすると「あんな風にやられたらかっこええな」と思いますね。ところが大阪は町人の文化なので全部本音なんです。その本音のエリアから割と立て前のところに入っていったときのとまどいというのが最初はありました。だから今でも大阪に戻るとホッとします。
−−お父様が事業をなさっていたそうですが、何をされていたんですか?
谷村:
父は洋服の付属品を作っていたんですが、一方で株の相場師もしていまして、そっちの方が好きで主力でやっていたみたいです。
−−今風に言えば投資家ですか?
谷村:
投資家と言うと全然ニュアンスが違うんですね。相場師としか表現できない。投資家ってお金だけが目的みたいになってしまいますが、相場師は僕が子供心に見ても、ちょっとロマンがあったんですよね。そんなに上がらない株だけど、その会社に惚れ込んだりしちゃってる、みたいなね。
−−個人的ディーラーですね。
谷村:
そうですね。そこで損しても「こういう会社は出てこんといかん」みたいなことを父はポツリと言っていました。そういう父親像というのは子供心にかっこいいなと思っていました。
−−お話だけ伺うと豪快なイメージの方を思い浮かべるんですが、どんなお父様でしたか?
谷村:
父は明治の人ですからどちらかと言うと無口で繊細な人でしたね。もともと父は奈良の人間だったんですが、大阪へ丁稚奉公で出てきて、商売の暖簾分けみたいな形で自分のお店を持ち、母と出会いました。両親は二人とも明治生まれなので、あまり馴れ初めとだとかは一切しゃべらなかったんですが、晩年、酔っぱらっているときに「見合いだったの?」と聞いたら、「いや違う」と言ったときに、「おお、恋愛だったのか」とびっくりしたことがあります(笑)。二人揃って結構モダンなんですよ。
−−家庭環境は普通の家庭とは一風違った家庭だったんですか?
谷村:
全く違いましたね。母親が長唄の三味線をやっていましたし、姉は6歳から地唱舞をずっとやってたので家に帰ると三味線がいつも鳴っていて、姉が中学で名取になってからはお弟子さんが20人ぐらいいました。だから不思議な家だったんですよ。周りの子たちは日曜日になるとお父さんに連れられて動物園や映画館、デパートに行ったりしていましたけど、うちは遊びに行くのがだいたい祇園街でしたからね。舞子、芸妓の世界。みなさん芸者と芸妓を混同して、遊郭と一色単に見ているんですが、実は全く違う世界なんです。
−−いわゆる祇園のお茶屋さんですか?
谷村:
そうです。そういう場所と遊郭は外から見ると一色単に見えるんですけど、芸を自分たちの拠り所としている世界というのはものすごく厳しい世界なんです。僕は小学校の頃からそういう世界を見て育ちました。
−−お茶屋さんに家族で行って歌や踊りを見ているわけですか?
谷村:
ええ。僕以外はみんな端唄や俗曲をやったりしながら、芸妓さん、舞子さんと一緒にわいわい遊んでいるんですが、僕は子供でしたから退屈でしょうがなかったです。そして「舞子さんと隣の部屋で遊んどき」とか言われて、出たての舞子さんと2人で遊んでいたんですが、気がつくとその舞子さんの膝枕で真剣に寝てるみたいな感じでしたね。
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