第120回 篠木 雅博 氏 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長

2014年5月28日 22:00
第120回 篠木 雅博 氏 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長

篠木 雅博 氏

(株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長 

 

今回の「Musicman's RELAY」は、(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さんからのご紹介で、(株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長 篠木雅博さんのご登場です。1973年に渡辺プロダクションに入社し、渡辺音楽出版を経て、東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)に入社。制作ディレクターとして布施明、アン・ルイス、大塚博堂、五木ひろし等を手掛け、椎名林檎や石嶺聡子のデビューの仕掛人としても活躍されました。2002年に徳間ジャパンコミュニケーションズに入社後も制作マンとしての手腕を発揮し、リュ・シウォン、Perfumeと、次々にブレイクアーティストを輩出。音楽業界に新風を巻き起こし、現在もソナーポケットの躍進を導くなど、「ものづくりの徳間ジャパン」を牽引している篠木さんにお話を伺いました。

 

[2014年4月9日 / (株)徳間ジャパンコミュニケーションズにて]

 

プロフィール
篠木 雅博(しのき・まさひろ)
(株)徳間ジャパンコミュニケーションズ 代表取締役社長


昭和25年(1950年)9月21日生まれ。
明治大学文学部史学地理学科卒
昭和48年(1973年) 4月 (株)渡辺プロダクション入社
平成 3年(1991年) 2月 東芝イーエムアイ(株) (現ユニバーサルミュージック(合))入社
平成11年(1999年) 5月 リワインドレコ-ディングス(株)入社
平成14年(2002年) 6月 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ入社 第二制作本部 本部長
平成16年(2004年) 6月 制作本部 A&R S²Divisionプレジデント
平成17年(2005年) 6月 執行役員 制作本部A&R S²Divisionプレジデント
平成20年(2008年) 4月 執行役員 制作本部本部長
平成20年(2008年) 5月 取締役 制作本部長
平成21年(2009年) 5月 常務取締役 制作本部長
平成22年(2010年) 5月 代表取締役社長 制作本部長委嘱
平成22年(2010年) 9月 代表取締役社長 制作本部管掌
平成24年(2012年) 3月 代表取締役社長 制作宣伝本部管掌  (現任)

 

1. 歌が好きな家族に囲まれて


−−前回ご出演いただきました、ハンズオン・エンタテインメントの菊地哲榮さんとは、どのようなご関係なんでしょうか?

篠木:菊地さんは渡辺プロ時代の先輩です。出会ったのは菊地さんが天地真理のマネージャーをされていた頃で、非常に男らしくてリーダーシップがあり、憧れの人でしたね。フットワークも軽く、面倒見のいい人でしたから、僕ら新入社員を飲みに連れて行ってくれたりしましたね。それ以来のお付合いです。

−−ここからは篠木さんご自身について伺いたいのですが、ご出身はどちらでしょうか?

篠木:生まれたのは東京の堀切ですが、父は兵庫の丹波、母は三重の四日市です。小学校3年からは静岡県の富士市に転校しました。

−−お父様は転勤が多かったんですか?

篠木:父は東京で修行していて、ヘッドハンティングされて製紙工場の機械担当として静岡に引っ越したんですね。富士市には製紙や機械部品工場が多いんです。田舎ですから家には池もあり離れもありました。

−−その時代の想い出はありますか?

篠木:父は技術屋でした。口下手な人でしたが、案外女性に人気がありましたね。女工さんに囲まれて、社員旅行に連れて行ってもらった記憶はありますね。あと寄席とか。それから僕をダシにして馴染みの小料理屋に行くんですが、帰ってくるといつもおふくろの機嫌が悪い。その理由に気づいたのは、成人式を迎える頃で「ああ、お気に入りの女性だったんだ」って(笑)。親父は結構モテたんですよね。

親父が非番のときに、学卒の青年技師が一升瓶とスルメを下げて「機械が壊れて仕事ができないから教えてくれ」って家によく頼みに来ていました。父は高等教育を受けているわけではないですが、工場長の次くらいに偉い技術者だったようです。父の家系は理系で叔父は一級建築士ですし、僕の従弟は金沢大を出てやはり一級建築士で、今は秋田の横手にいます。

−−お父様は高い技術をお持ちだったんでしょうね。

篠木:そうみたいですね。あと、父は楽器を集めるのが好きな人で、実際には弾けないんですが、ギターや古ぼけたオルガン、アコーディオンとか色々持っていました。そういう機械の仕組みを見るのが好きだったじゃないかなと思います。また、プラモデルなんか説明書を読まずに作ってしまうのをみて尊敬していましたね。夏休みの宿題で父が木の船を作ってくれたんですが、あんまりよくできているので、バレバレです。

母は、父とは反対によく口がまわり男勝りで、暮れの餅つきも母がやっていました。また、芝居を観るのが好きな人で、旅芸人が来る度に、率先して姉と兄と僕を連れていってくれました。林長二郎(長谷川一夫)が好きでした。姉と兄はキャーキャー言っていましたが、僕は意外と冷静でしたね。姉と兄は主人公というか主役に憧れるんですが、僕はセリフや舞台を作っている人に憧れていました。今で言う脚本家や舞台監督とか「裏はどうなっているのかな?」と思っていました。あと父は浪曲の広沢虎造が好きで、風呂に入ると唸ってばかりいました。

−−篠木さんご自身も浪曲がお好きだそうですね。

篠木:それは5年前にたまたま父が聴いていたレコードが出てきたので、聴いてみたら気に入ってしまって。

−−昔から、じゃないんですね(笑)。

篠木:昔からじゃないんですよ(笑)。みんなが「篠木は浪曲好きだ」って吹聴しちゃってね。この年になってから、親父の聴いていたものをいいと思うようになったという話を、僕がやっている雑誌に書いたりしていますから、それが間違って伝わったんでしょうね。

−−では、当時はどんな音楽を聴かれていたんですか?

篠木:父は非常に浪花節が好きで、あとは三橋美智也かな。小さい頃はずっと浪曲を聴かされていました。姉と兄はニール・セダカやポール・アンカ、ナット・キング・コールなんかをよく聴いていて、そういった音楽も耳にしていましたね。とにかく家族みんな歌が好きでしたね。兄が金髪のサンドラ・ディーの写真を食堂に飾っていました。僕は大人の中にいただけですね。「器用な子」とはいわれてましたね。

 

2. 恐い先生の一言がやんちゃな少年を変えた

 


−−篠木さんはどんなお子さんだったんですか?

篠木:小学校3年から野球小僧でしたね。小学校のときは、兄貴と二人揃って悪ガキでヤンチャばかりしていたんですが、小学校五年・六年生の時に「鬼の鎌田」と呼ばれていた、ものすごく恐い先生が担任なったんです。その先生に「君はできる子だ」と言われ、そのたった一言で、その気になって、オール3だった成績がオール5になったんです。

−−すごい先生ですね。

篠木:鎌田先生はどこか僕が転校生でいじけていると思ったのでしょうかね。目をかけてくれたのかな。先生はいつも放課後になると、都道府県の県庁所在地名、川、鉄道、山脈の名前を先生の机の上で指で示して答えさせられました。答えられるまで帰らせてくれないんです。

また学芸会でも主役に抜擢されながら、二度目には主役をはずされました。先生の生徒に対する配慮など考える頭もなく、僕は真っ白になり、子供心にもう二度と表に立つのはいやだと思いました。キャスティングされる側は辛い。裏方がいいと、この頃から本当に思ってしまいました。

中学に入ったときは、先生のおかげで地理や歴史は楽勝でした。あとは毎日便所掃除、庭掃除、それから日記を書くことを教えられました。出会いは人を変えますよね。

−−日記は今も続いているんですか?

篠木:20歳過ぎまでですね。「正直に書け」と言われたのでそれを守っていたのですが、それをとある人に読まれて、えらい事件になって…。それでやめました(笑)。

−−(笑)。とにかくすごく勉強されたんですね。

篠木:勉強したというか、させられたというか、とにかく先生が恐かったんです。親も、人が変わったように家の掃除するものですからびっくりしていましたね。

それと鎌田先生はお話が好きな先生で、その話を覚えて近所のおじいちゃん、おばあちゃんに話すと喜んでお菓子をくれるので、味をしめちゃいましてね(笑)。中学校のときの石井先生もこまめな人で、歴史の先生なんですが、「新聞を読め」と課題を出し、それをホームルームの時間に発表するのですが、手をあげて発表するのは僕ばかりなのでなくなりましたが、とにかく新聞を読んでいましたね。因みに鎌田、石井両先生はお寺の嫡男でした(笑)。

−−それは博学な子に育ちますよね。

篠木:博学というか、おじいちゃん、おばあちゃんが喜んでお菓子や文房具をくれるものだから色々覚えたんですよ。それと遺跡なんかをめぐる探険クラブがあって、古いところを訪ねるのは面白くて好きでしたね。ロビンソン・クルーソーの世界ですね。

小、中学生の頃は東映や東宝映画の時代劇が全盛だったんですが、「本当にあんなチャンバラをやっていたのかな?」と疑問に思ったんですよ。それでチャンバラ本を読みだしたんです。新選組、幕末ものです。それをまた色々話すものだから、近所のお年寄りから「講釈師」というあだ名が付いちゃいました(笑)。大学生の頃になると、研ぎ師のもとに持ち込まれた刀の帳簿、例えば、いつ研ぎに来て刃こぼれが1つ、2つと書いてある帳簿と事件との背景を推理していくわけです。稲垣史生さんの歴史考証本がとにかく面白くて、段々深みにはまっていきました。

−−小、中学生でそれはすごいですよ(笑)。高校、大学に進学されますが、大学の頃はどのように過ごされていたんですか?

篠木:70年安保でほとんど学校が休講でなかったので、アルバイトばっかりですね。僕たちの世代が一番勉強してないですよ。学校が再開してからも、1年行ったかどうかですね。

−−大学時代はどのようなアルバイトをやったんですか?

篠木:飲食関係や出版社…、とにかくアルバイトはたくさん色々やりました。中でも飯場はギャラが良かったですね。「堀り方」と言って、山の上に送電線立てるための基礎を作るんですが、高校の同級生が現場監督の2代目でした。そもそも何でそこで働いていたかというと、そこのお姉さんを好きになって、現場に行けば毎日会えると思って。動機はいたって単純ですよ(笑)。

−−(笑)。ちなみに学生時代から音楽関係の仕事に興味があったんですか?

篠木:全くないですね。僕は真っ当なサラリーマンは無理だろうなとは思っていました。新聞社や出版社とかマスコミを志望していました。あとNHKの「事件記者」というドラマあったでしょう? ああいう、「ペンは剣よりも強し」という世界に憧れていました。

 

3. 「個性のあるやつを採れ」〜渡辺プロダクション入社

 


−−どのような経緯で渡辺プロに入社されたんですか?

篠木:学校の就職掲示板を見て、その後にマスコミ就職問題集の索引の「わ」のところに「渡辺プロダクション」と出ていたんですよ、テレビの「シャボン玉ホリデー」の制作や植木等さんたちが出ていた東宝映画も制作している、さらにはレコードも出していている。今でいう総合エンターテイメントみたいなことが書いてあった。これもマスコミなのかと。じゃあ受けてみようと。よくわかっていないんです。あの頃はナベプロ第二黄金期と言われていて、何千人も応募する人がいたんですよ。

−−ずいぶん競争率が高かったんじゃないですか?

篠木:そうでしょうね。一次の筆記試験が五反田のTOCであって、面接はいったん渋谷で時間つぶして夕方からでした。二次試験は面接だけで35人くらいでした。三次試験は15人に絞られて、鎌倉の円覚寺で一週間集団合宿をしました。そこで毎日作文の発表会をやるんですね。ときには会社の方から課題が出されるんですが、専門的な経済用語とか全然勉強していなかったので答えられないんですね。「これは受からないな」と思いました。わからないから、自分の知っている話に切り替えました。学校の試験でよくやるやつです。最後の日に面接を渡辺美佐副社長から受けました。思わず「お綺麗ですね」なんて答えたんです。本当です。

−−(笑)。

篠木:一週間の合宿が終わって参道を出る頃には、専門的な経済用語も勉強してきた利口7人組とバカ8人組とに完全に分かれていたんですよ。でも、そのバカ8人組が受かったんですよね。後から聞いた話によると、「個性のあるやつを採れ」と渡辺晋社長から指示が出ていたらしいんですよ。一次試験の筆記試験は足切り点があって、あとは面接と集団討論会の丸の数が決め手だったらしいです(笑)。

−−面白い人が選ばれたんですね。素晴らしい採用方法ですね(笑)。

篠木:勉強ができる人は山ほどいますが、結局会社に入ってから仕事を覚えるわけですから。今、面接をやる立場になりましたが、皆マニュアル通りの喋りで面白くもなんともないんですよ。確かに勉強も大切な要素ですが、それが全てじゃないから難しいですね。

−−渡辺プロに入社されたあとはどのような業務に就かれたんですか?

篠木:僕らの時代は入社して1年間は研修生でした。タレントマネージャー、地方営業、CM企画といろいろやるんですが、マネージャー研修ではアイドルの化粧鞄を持ったり、付き人みたいな仕事をやらされたりして「冗談じゃないよ!」って(笑)。で、すぐ会社に電話をかけて「もう辞めます」と言ったら「とんでもない研修生だ」と呼び出されて、「馬鹿野郎!みんなこうやって経験して覚えていくんだ!」って説教されました(笑)。

あと地方で営業研修をやっていたときは、マニュアル通りな部分もありますから「ここは僕一人でやらせて下さい」と言って、研修中なのに「一人でできます」なんて生意気な新人ですよね(笑)。この程度なら自分一人で出来るし、その方がやりがいがあると思ったんですね。

ステージが始まって一週間もするとみんな疲れてくるから取っ組み合いの喧嘩が始まったり、旅帰りの本社の応接間ではタバコの煙ムンムンの博打大会だわ、そこら中で大声を張り上げてるわ、「これは入るとこ間違えちゃったな」と思いましたね(笑)。

−−とんでもない会社に入っちゃったと(笑)。

篠木:そうです(笑)。レコーディングスタジオや音楽出版の研修に行っても、譜面を見たらドイツ語を読んでいるみたいでさっぱりわからなくて「もう何をやってもダメだ」と思っているときに、ある人が「篠木はタイトルを付けるとか、物語を考えるのが上手いから音楽に向いているよ」と励ましてくれて、結局8人の新人の中で僕だけ音楽セクションの配属になりました。会社の中の“鎌田先生”がいたんです(笑)。

 

4. タレントがいなくても仕事になるのは企画モノ

 


−−音楽セクションではどういったアーティストを担当されたんですか?

篠木:最初はアシスタントですが、小柳ルミ子、布施明、藍美代子、秋庭豊とアローナイツです、だんだん一人前になると、自分で才能を見つけて、自分でディレクションしたいと思うようになるじゃないですか? 新人からやりだしたのは石川ひとみです。

−−石川ひとみさんのデビュー曲はなんというタイトルだったんですか?

篠木:「右向け右」ですね。彼女はその後「まちぶせ」でブレイクしましたけどね。でも意見の対立で担当を外されちゃったんですね。とにかくおもいっきり突っ張っていたんですね。若さ、無知、無謀というやつです。色んなアイデアを出しても自分のアイデアのように言う人がいて、頭にきてね。ですから彼女のデビュー曲だけ僕のディレクションなんです。

−−人の手柄を持っていくな、と。

篠木:そうです。それで生意気言ったら「明日から一人でやれ」と担当ディレクターをクビになっちゃったんですね。会社に入ってすぐで作家の方も知らない中、半年で独り立ちしろ、と。担当するタレントもミュージシャンもいなかったんです。

−−それは困っちゃいますよね…。

篠木:音楽業界に入ったばかりですし、自分が学生時代にバンドをやっていたわけでもない。会社にいても暇で、あの時期は辛かったですね。それでどうしたかと言うと、企画モノを考えたんですよ。

最初にこころみたのはキャンディーズが出演していた「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!」という番組内の歌だった「しらけ鳥音頭」です。あれを観て「レコーディングしたいんですけど」と現イザワオフィスの井澤健さんのところへ行きました。それで実現したのがあのシングルで、小松政夫さんが歌って30万枚も売れたんですよ。

−−そんなに売れたんですか! すごいですね。

篠木:その後、「電線音頭」「タコフン音頭」と3部作出して、大当たりしました。そのご褒美で塩月弥栄子さんの「冠婚葬祭入門」を小松政夫さんでアルバム企画しました。結婚披露宴の模様を、小松さんが新郎から主賓挨拶まで30人役を演じたのです。

−−ベストセラーになった本ですよね。

篠木:そうです。僕は企画モノが結構多いんです。ただあんまり企画モノって言うとイメージが壊れると思って、今まで黙っていたんですけどね(笑)。あと、渡辺音楽出版で竹村健一さんの「僕なんかこれだけですよ。」というLPを作ったんですが、このとき初めてフジパシフィック音楽出版と組みました。

それから「阪神タイガース 架空優勝実況中継テープ」というカセットテープ。これは大当たりしました。阪神が19年ぶりに優勝するという架空の実況中継を録音した作品で、ピッチャー江川が9回の裏で、掛布にサヨナラ満塁ホームランを打たれて、阪神が逆転優勝するという内容だったんですが、進行は朝日放送のアナウンサー 植草貞夫さんにやってもらいました。そしたら2年後本当に阪神が優勝しちゃいましたね(笑)。

−−現実になっちゃったと(笑)。

篠木:ナベプロ以外のところでは日光猿軍団の「猿は勝つ」。チャーリー浜さんの「私は涙の花粉症」。あとヤクルトスワローズ 池山隆寛選手の「東京恋物語」。

−−人選が幅広いですね。

篠木:僕は一度、担当ディレクターをクビになっているので、アーティストがいない恐怖感がものすごくあるんです。いざやろうと思ったときに担当アーティストがいない悲哀を味わっていますから。タレントがいなくても仕事になるのは企画モノしかないんです。常になんか企画はないかと、今でもそうです。

−−なるほど…そういうことなんですね。

篠木:あの頃は4半期ごとにシングル出している時代ですから、先輩たちは猛烈に忙しくて、新人の同期は暇だろうと電話してみても「俺は忙しいんだよ」って言われて(笑)。もう担当アーティストのいない僕は肩身が狭くて会社にいられなかったですよ(笑)。一人で映画観たり、浅草の寄席に行ったり。まだ日劇がありましたから、日劇ダンシングチームの踊りを観たり、楽屋までいっちゃたり(笑)。

 

5. 若い人たちに賭けてみたかった〜Perfumeのブレイク

 


−−ナベプロの後は東芝EMI(現 ユニバーサル ミュージック)に移られますね。

篠木:ええ。ディレクターとして布施明さん、大塚博堂さん、アン・ルイスさん、あと3年くらいジャパンレコード(現 徳間ジャパン)にいて、五木ひろしさんもやっていました。

−−EMIでは椎名林檎さんも手掛けてらっしゃいますよね。

篠木:椎名林檎は後の方ですね。最初に自分で手掛けたのは石嶺聡子ですね。林檎さんは1998年くらいから始めて、「ここでキスして」「幸福論」とか10曲くらい録って彼女をデビューさせて、99年にEMIを辞めました。

−−その後、リワインドレコーディングスに移られたんですね。

篠木:リワインドレコーディングスは、ビクターとアミューズで作ったレーベル会社で、ヒップホップをメインでやろうということで大里洋吉さんに誘われました。僕は長年、流れに逆らわずにしているだけで、そんな大きな大志で動いているわけではないんですよ。EMIを辞めてリワインドレコーディングスへ来たら「先見の明があるね」なんて言われましたけど、そんなことはこれっぽっちも考えていませんでした。たまたま人のご縁で来ているだけです。

−−その後、徳間ではPerfumeをブレイクさせていますね。

篠木:そうですね。僕が彼女たちと出会ったのは2004年です。もともと彼女たちは小学校5、6年の頃から、アミューズに入って、トレーニングを積んでデビューしていたんです。その後、徳間からメジャーデビューしたんですが、出会った当初、正直言って何を歌っているのか全然分からなかったんですよ。でも、僕のような年齢の人間が分からないということは、若い人には良いのだろうと。自分の違和感は若者には受けるかも、と。

−−実際に反応はどうだったんですか?

篠木:徳間では初めてのケースだったと思うんですが、ネットから徐々に人気が拡がっていったんです。ネット時代のアイドル誕生といえるかな。
メジャーデビューして2年目くらいでしょうか。シングルを3枚出して、その後、コンピレーションアルバムを出したら、すごく反響がありました。

−−中田ヤスタカさんがプロデュースをするきっかけは何だったんですか?

篠木:当時、アミューズに入りたての若い社員がテクノ好きで、是非、中田さんとやりたいと。リワインド時代のつき合いで僕のところに話を持ってきてくれた、中村チーフ、石井君が最初のきっかけです。そのアイデアに新しいものを感じましたし、そういう人たちに賭けてみたかったというのが、本当の話ですね。こういう仕事は人間関係が大きいんですね。

−−現在も制作にはタッチされているんですか?

篠木:最近は、日本の音楽シーンを彩ったヒット曲を同年代のアーティストがカバーした「THE REBORN SONGS」シリーズをやっていますが、社長業が中心ですから制作はなかなかできないですね。社長という立場上、全体的な企画と大きい方向性、ビジョンを打ち出さないといけないですから。でも僕は編成会議でも感情むき出しのところがありますからね(笑)。どんどん企画あれば出していきますよ。

−−篠木さんはどのようなビジョンを掲げてらっしゃるんですか?

篠木:まずはいいアーティストを作る。もう1つは、日本はどうしても"若者音楽至上主義"みたいなところがあるので、もう少しシニア向けにもレコード会社は力を入れなくてはいけないと考えています。去年は伊東ゆかりさんや菅原洋一さんなどベテラン勢の作品をたくさんリリースしました。シニア向けも頑張ってほしい、挑戦してほしいという意味も含めて、ですね。でも、良い数字を出しています。ネット時代に音楽商品パッケージは苦しんでいますが、どんな企業も生き延びるために時代の商品づくりしかありません。あの老舗さんだって赤字ってのがよくあるじゃないですか。時代の担い手になるスタッフづくりも大きな仕事ですね。

−−篠木さんは一貫して制作畑を歩んでこられていますよね。

篠木:今のレコード協会で「コテコテのディレクター上がりは君だけだな。ヒット曲作ってよ」と先輩方からよくいわれます。嬉しいような複雑ですね(笑)。

 

6. ヒット曲とは「唯一無二」のもの

 


−−インターネットでのいわゆる聴き放題サービスとか、海外の売上が多少回復しているっていう話もありますが、デジタルやフィジカルについてどのように考えていらっしゃいますか?

篠木:日本には再販制度がありますからね。ということは、私はパッケージにチャンスがあると思っているんです。今が底だとか言う人はいるかもしれませんが、売れない、売れないとぼやくだけだったら、この制度そのものが危ういと思います。「商品が売れない原因はネットだ」の何だのって色々おっしゃる方はいますが、このコーナーで菊池社長もおしゃっているようにメデイアは進化すればするほどゼロに近くなると。原点回帰かな。

それに戦後60年経っていますから、流行歌も供給過多なんですね。60年も供給していたら曲が似たり寄ったりになりますし、新しいテーマを見つけるのも大変でしょう? 今、若者の音楽ってどれを聴いても同じようなやつばかりですものね。

私に言わせたら、レコード業界が100年も続いていること自体が大変なことだと思いますし、いつまでも右上がりで行くなんてありえないです。日本だってそうじゃないですか。1回成長してお金持ちになったからって、また成長だなんて難しいと思います。成長の先のビジョンが見いだせていないのです。我々だって成長しきったら、それ以上背は伸びないでしょう?(笑)

−−そうですね(笑)。では、今の不振はある意味当たり前というか自然なことだと。

篠木:それはどんな世界でも同じじゃないですか。だから、若い人は若い人で、成長しているところを見ていないから、そういう若い人たちがどうしたらいいかというと、私の独断ですが、これから成長するところへ行って、一からに頑張ったらいいと思うんです。成長が終わって残りわずかな人たちが、もう1回「成長、成長」と言っても、それは無理でしょう。身体もついていかないし、頭もついていかない。そこで若い人の出番ですよ。それの繰り返しだと思いますね。

−−では、若い世代には大いに期待していると。

篠木:そうですね、ただ、若い世代が日本で頑張ろうとしても、ありとあらゆる産業が淘汰されているわけですから、溢れちゃうのは当たり前ですよね。60歳以上が4,000万人って言いますが、お金だって何千兆持っているわけでしょう? 国が1,400兆の赤字って言ったって、みんながいっぱい持っているわけだからどうしようもない。皆ご苦労されてきて、二度と苦労をしたくないもんだから持ってるわけで。持っていないのは私だけで(笑)。

−−(笑)。

篠木:経済は回らなきゃダメと言いますが、若い人はもっとお金がないわけでしょう? 金は持っていないわ、企業は淘汰されているわ、かわいそうなのは若者ですよね。

−−本当にそうですよね。

篠木:TOYOTAでも何でもやっぱり新しい売り場、マーケットを開拓するからまた再興できますが、再興できなかったらダメでしょう。だから何もレコード業界に始まったことじゃないんです。どの産業もみんな一緒です。アジアで商売すると、言うのは簡単ですが、中国に行ったってどうやって商売するの?って思いますね。まず著作権に関して、教育をしっかりしてくれと(笑)。

−−(笑)。

篠木:これを飛び超えた実演の世界はある。日本は高齢化社会と言いますが、高齢者の方々はお金を持っているわけですから、そういった方々に向けた作品を生み出すことは今後重要になります。そういった高齢者の方々に音楽を購入してもらうには、きちんとしたデリバリーと、もう一回聴きたいと思わせる曲ではないと難しいです。

−−そして、そういった曲が生まれ辛くもなっていると。

篠木:そうですね。でも、その高齢者の方々が買う曲もやはりあるわけで、例えば、スーザン・ボイルや秋川雅史さんの「千の風になって」とか、強い個性があればヒットは出るんです。よく「ヒット曲って何ですか?」と訊かれますが、ヒット曲って唯一無二なんですよ。一個しかない。

−−本日はお忙しい中ありがとうございました。篠木さんのご活躍と徳間ジャパンコミュニケーションズの益々のご発展をお祈りしております。m.gif(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)