第27回 盛田 昌夫 氏

2002年5月27日 19:00
盛田 昌夫

株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント
取締役/コーポレイト・エグゼクティブ

 

今回の「Musicman'sリレー」は、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントCE・盛田昌夫氏の登場です!高校生の留学がまだ一般的でなかった頃のロンドン留学生活、さらにアメリカでの大学生活など、多感な時期の海外生活が、氏のアイデンティティに深い影響を与え、生きる知恵を学んだと語る盛田氏。その知られざる留学生活とは?また、ソニー創業者・盛田昭夫氏の次男としてソニー(株)に入社後、携帯電話などさまざまな分野で活躍した盛田氏ですが、ハード業界からソフト業界であるSMEに転籍して感じたこととは?さらに、SMEでも次々に新機軸に挑戦する盛田氏が、今考えていることとは?楽しいながらも実のあるお話しを率直に伺うことができました。 

 
[2002年5月27日/市ヶ谷・(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントにて]

プロフィール
盛田昌夫(Masao MORITA)
株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント 取締役/コーポレイト・エグゼクティブ


1954年9月4日 東京生まれ。
1978年 モルガン銀行入行。
1981年 ソニー(株)入社。
1988年 ソニー・オブ・カナダに赴任。以後、ソニー(株)経営戦略グループ企画推進室長(1990年)、総合企画グループ事業戦略部門長(1991年)、オーディオ事業本部長(1992年)、さらにモービルエレクトロニクスカンパニー エグゼクティブ・バイス・プレジデント(1994年)、パーソナル&モービルコミュニケーションカンパニープレジデント(1996年)等を歴任。
1998年 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント 理事、のちに専務取締役に就任。
2000年 同社コーポレイト・エグゼクティブ就任。
2002年 同社取締役に就任、現在に至る。
 


 

1.初告白・名門小学校に行かなかった理由…

 

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--中井さんとはメール友達だと伺いましたが…何でも中井さんはかなりのメール魔だそうで…(笑)

盛田:あれはすごいですよねぇ(笑)…今日なにしたか全部わかりますよ。「何してますか?」「寝てます」とか言って(笑)。なんで俺は夜中にこんなことやってなきゃいけないんだと思いながらやってますね。

--使いすぎて携帯電話が半年ぐらいしかもたないそうですよ。

盛田:そうだよね。返事がすぐ戻ってくるもん。

--女子高生並ですね(笑)

盛田:ほんとそうだよ。時間かまわずなんですから。僕はアメリカから電話がかかってくることが多いから、携帯を枕元に置いてあるんですよ。ブーって鳴ってしょうがないから出るんだけど…(笑)。それで起きちゃったから返事打つかっていってまた始まるわけ。ほとんどボーイフレンド&ガールフレンドの仲だよね。女の子にだってこんな時間にメール打たないよ。

--若すぎますよね。しかも中井さんはそれを何人にもやってらっしゃるというのがすごいですよ(笑)。じゃあ中井さんとはメル友ということで、そんなに古いお知り合いではないんですね。

盛田:そうですね。まあ僕は元々が音楽業界の人間ではなくて、4年前にハードから移ってきたばかりだから。最初は洋楽担当だったし、うちもCS放送(Viewsic)をやってるから、ネット系をやるようになって知りあったんです。

--ではまず小さい頃のことをお聞きしてもよろしいですか。

盛田:かまいませんよ。なんでも聞いてください。でもぜんぜん覚えてないけど(笑)

--お生まれはどちらなんですか。青葉台ですか。

盛田:違いますね。生まれたのは世田谷で、その後ずっと青山。骨董通りってあるでしょ。生まれてすぐあそこに引っ越して、中学ぐらいまであそこにいたんですよ。骨董通りなんてあんなオシャレな通りじゃなくて、都電が走ってる所だったんですよ。青葉台に越したのは、僕が中学3年ぐらいの時だから、3歳から14歳ぐらいまで南青山。その間、1年間、親父の仕事の関係で小学校1年の時アメリカに行ってましたけどね。

--今も青葉台に住んでらっしゃるんですか?

盛田:いや、結婚して家を出て、それから10何年わりと近くのマンションに住んでたんですけど、おととし白金に家を建てて引っ越しました。

--小さい頃はどんな生活をなさってたんですか。

盛田:とある名門私立幼稚園にいたんですけど、そこに行った人達はみんなそのまま名門私立小学校に行ったんですよ。でも僕は、うちのすぐ近くに区立小学校があったんで、区立に行ったんです。

--骨董通りのわきの小学校ですか。

青南小学校なんですけど、うちの路地の突き当たりの壁を乗り越えて、郵政省を突っ切って行くと予鈴が鳴ってから家を出ても間に合ったんですよ。

盛田:ここで弁解したいんだけど(笑)、幼稚園の同級生と年に何回か飲む機会があるんですよ。でもみんなその幼稚園から小学校、中学、高校と、その名門学校に行くんですよ。それで大学は某学習院ってところになるんですけど、「ところで小学校はどこに行ったんだっけ?」って言われるわけですよ。僕は高校から家を出ちゃったから地元にいなかったし。「僕は家のそばの区立に行きましたよ」と言って…はたと気がついたのは、僕も受けたのに落ちたから名門中学に行かなかったんだろうって、みんなが30年ぐらい信じてたっていうことなんですよ(笑)

--誰の意思でそうなったんですか?

盛田:もともと幼稚園の園長先生が、うちの親とけっこう仲が良くて、幼稚園を始めるとき「じゃあ、うちの子もお願いね」みたいな感じで。ただそれだけの付き合いでその幼稚園に行っただけなんですよ。別に名門に行きたかったわけじゃないし。

--みんなに「禁句だよ」とか言われてたんですかね。

盛田:たぶんね(笑)。たしかに僕は中学受験したんですよ。これも変な話なんだけど、小学校の時に一番仲の良かった子が「受験する」と言い出したんです。僕は受験しないで区立の青山中学に行くつもりだったんですよ。チャリで行けるから。だからずっと受験勉強も何もしてなかったんだけど、その子に「一人で受けるの嫌だから一緒に受けてくれ」って言われて、こっちは行くつもりないから「いいよー」みたいな軽い感じで。普通、中学の受験って2月でしょ?12月の年末もしっかりスキーに行って。でも僕受かったんですよ。そしたら彼は他の学校も受かって、そっちが本命だからってそっちに行っちゃったんです。

--中学でリベンジしたと思われてたんですね。

盛田:そう。名門中学だったから(笑)

--中学はどちらだったんですか?

盛田:武蔵です。でも30年ぐらいずっと俺は落ちたと思われてたと思うと…さびしかったね(笑)

--じゃあ今回、このことはぜひ公表しておきましょうね。「落ちた訳じゃないぞ」と。

盛田:要は、うちの親はあまりそういうことを気にしないんですよ。

--教育パパ&ママじゃないんですね。

盛田:あんまり気にしないんですよね。それで中学、高校1年まで武蔵に行って、高校2年と3年がイギリスなんですよ。これもひどい話なんです。ウェールズのインターナショナルスクールで(今では世界10何カ国にある)、けっこう各国から選抜された人たちが行くっていう学校。そこの校長先生が「日本からの生徒を取るにはどうしたらいいか」っていうんで、日本に来て当時のイギリス大使に相談したら「盛田に相談しなさい」ってうちの親父にふってきて、それで親父が会ったんです。「日本からスカラシップ(奨学制度)で生徒を出すとしても、誰も知らない学校だから最初はたいへんだし…」ということになって。そのとき僕はたまたま試験休みとか用事があって親父の会社に行ったんですよ。それで呼ばれたら、その場で「とりあえず、息子を行かせましょう」ってことになっちゃったんです。武蔵って中学・高校だから大学受験しなきゃいけないし、頭いい奴たくさんいるからね。みんなと競争したら負けそうだなぁ、って思ってたから「いいよ」と言ってイギリスに行っちゃったわけです(笑)。だからね、親にもあんまり教育方針なかったし、自分も小中学生の頃はビジョンなんてなかったしね。小学校の頃、1年アメリカに住んでたから「やった、また外国に行ける!」みたいな感じで。

--じゃあ、お父さんは我が子に対しても「学歴無用論」だったわけですね。

盛田:うーん。あまり期待しても無理だと思ったんじゃないかな。我が子が学歴ないから、「学歴無用論」を書いたとは思わないけれども…。わりと大雑把で、ああしろこうしろって言われて育ったんじゃないんですよ。逆にあんまり言われないから、自分で何か考えないと。環境は与えてくれても、手取り足取り何かやってくれるわけじゃないから。そういう中で育ったから「行く?」「いいよー」みたいな感じでね。

--意外と軽いノリで行っちゃったんですね。

盛田:まあそうですね。

 

 

 

2.多感な時期の自由な海外生活…生きる知恵を学んだ留学時代

 

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--留学生活はどうでしたか。

盛田:高校2年から2年間イギリスに行ったんですけど、インターナショナルスクールだから、ありとあらゆる奴がいて結構おもしろかったですよ。年齢的にも16とか17でしょ。一人で向こうにいたから結構いろんなことを経験しました。要するに日本人の英語の学力が高いのは、大学受験をやるからですよね。でも僕は受験をやる前に出ちゃったから英語が全くできなくて、それなのに一人で行ったから、けっこう大変でしたね。でもおかげで「知恵」を使って生き残ることを覚えましたよ。

--細かいところでいろいろ苦労がおありだったんですよね。

盛田:楽しかったね。とにかく知恵を使わないとトイレがどこかでさえわからないんだから。世界中から生徒が来てる学校だったから、夏はみんなの家を訪ねて歩いていろんな所に行きました。

そうそう、たまたま夏休み日本に帰ってきた時に親父に言われたんですよ。「高校生なんだから、一番安い方法で、9月に学校始まるまでにヨーロッパに帰ってみろ」って。それで安い方法を探したら、当時で一番安かったのが横浜からバイカル号(ソヴィエト船)に乗って、ナホトカに行って…。

--シベリア鉄道ですか。

盛田:そう、シベリア鉄道。モスクワに行って、ポーランドに入って、そこからバスでベルリンに抜けて。あの当時はまだベルリンの壁があったでしょう。それで西側に出るのが一番安い方法だったから。だから僕の最初のベルリン体験は、チェックポイント・チャーリーを西から東に入って行くんじゃなくて、東からこっちに出てきたの。

--ユーラシア大陸横断ですね。

盛田:ソヴィエトにインツーリストっていう旅行会社があるんだけど、そこに行くとKGBみたいなおじさんが一緒についてきたりする時代でしたよ。シベリア鉄道も毎日窓の外の景色が変わんないし、不思議だよね。車内アナウンスってのがあまりないんですよ。だから訳わかんない所で停車してたりするわけ(笑)。1972〜3年頃だから、バングラデシュのコンサートとかあったじゃない?ジョージ・ハリスンがラヴィ・シャンカールとネパールに行って…とか、そういうのが流行ってたから、けっこう横浜から船に乗ってユーラシア横断して行く人が多かったですよ。そういう旅をしているのはみんな若かったけど…今でも覚えてますよ。「バイトをして60万円持ってきたんだ」っていう人がいてね。今から30年前の60万円だから、結構な金額ですよ。でもあの当時シベリア鉄道から行っても7万円ぐらいかかったから、その8倍ぐらいでしょう。「それでどれくらいカトマンズにいられるんですか?」「3年ぐらいかな」なんてね。僕はせいぜい半年ぐらいだろうと思ってたのに、お金だけ持って身一つで3年もいられるのかなぁ?って思ったりして。

--要するにヒッピーですよね。

盛田:だってあの頃はさ、もうカトマンズに行ってヒッピーになるか、カリフォルニアに行ってフラワーチルドレンになるかみたいな、そういう時代だったじゃない(笑)?だから「君は何しに来てるの?」って聞かれて、まさか「高校に留学してます」とは言えなくてさ(笑)。「ヨーロッパに行って自分の可能性を…」とかわけわかんないこと言ってごまかしてましたよ(笑)

--ヒッピーたちとも旅の仲間になっちゃったんですね。

盛田:当時兄貴もイギリスの別の学校に行ってたんだけど、兄貴は飛行機で帰ったんですよ。今思うと何で兄貴は飛行機で帰って、俺はシベリア鉄道なのかって…。親父が生きてたら聞いてみたいですよ。

まあ別にこういう性格だから、どこでも平気で行けたんですよね。日本にいてクラブ活動に熱をあげるでもなかったから、ずっとウロウロしながら。シベリア鉄道も楽しかったし。

そういえばイギリス留学の時にね、試験が終わって友達とテレビを見ていたら映画の「カサブランカ」を放送してたんですよ。「カサブランカに行くとイングリッド・バーグマンがいるのか…じゃあ行こう!」ってことになって(笑)。友達はバルセロナ出身だったんですよ。次の週に休みに入ったんで、もう一人イタリア人の女の子と一緒にバルセロナの彼の家に行って、彼のお母さんに「車借りていい?ちょっとドライブに行ってくるから」って。お母さんは1〜2日車借りるだけだと思ってたんだろうけど、それが3週間ぐらいかかったんですよ(笑)

まずモロッコの田舎の村に行くでしょ。お金ないから安いホテルの1部屋に3人で川の字になって寝るんだけど、やっぱり共同トイレは嫌だからシャワーとトイレのある部屋がいいでしょう。そしたらシャワーはあるんだけど、トイレがない。「トイレはどこだ?」って聞いたら、シャワーの下に穴が開いてて「ここがトイレだ」って言うわけですよ(笑)。「トイレとシャワーが一緒って、こういうのがあるんだなぁ」って。やっぱりいろんな所に行ってみるもんだよ(笑)。トイレットペーパーがないからシャワーがあるのかなと思ったり(笑)。実はいつか行って謝ろうと思ってるんだけど、カサブランカに辿り着いて最初に3人でやったことは、いいホテルのロビーのトイレに行って、トイレットペーパーをくすねたことなんですよ(笑)。ホテルならいくらでもあるから。

--オイルショックの時の日本みたいですね(笑)

盛田:でも映画を見てカサブランカを目指したけどさ、イングリット・バーグマンなんかいるわけないじゃない(笑)。「なんか映画と違うな〜〜」とか思いながら、今度は当時CSN&Yの「マラケッシュ・エクスプレス」が流行ってたから、「これはもうマラケシュに行くしかない」と思って、3人で歌いながらマラケシュに1週間。

--動機が単純でいいですよね(笑)

高校生なんてそんなもんだよ(笑)。当時はいろんな所に目的なく行くこと自体が目的だったりしたじゃない。

--そのまま青春映画になりそうな感じです。

盛田:でもマラケシュまで行ってみたって…結局どうってことないんだよね。ただのモロッコの街。でも今でも覚えてるけど、海岸線がすごく真っ白で誰もいなかったんだよ。暑いからそこでみんな素っ裸になって泳いだりしましたよ。

--貴重な体験ですよね。モロッコっていうとアフリカ側ですか?

盛田:大西洋側です。僕とスペイン人の友達とイタリア人の女の子と3人だから、日本語と英語とスペイン語とイタリア語とフランス語とでしゃべるんだけど、モロッコではどれも通じないんですよ(笑)、アラビア語だから。まあこっちもテレビ見てカサブランカまで来て、CSN&Yの歌を歌いながらマラケシュまで来ちゃったっていう、それだけの理由なんだからしょうがないんだけどね(笑)

--やっぱり日本の高校生とはスケールが違いますね。

盛田:でもノリは普通の高校生と変わらないと思いますよ。ただその2年間の留学生活で、どんな状況になっても「まあ、なんとかなるかな」って考えるようになりましたね。

 

 

 

3.アメリカでの学生生活、そして初就職

 

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--じゃあイギリスでは楽しく自由な高校時代を送ったんですね。

盛田:ところがね、楽しく自由な高校時代を送っちゃった為に、日本に帰って来て普通に日本の大学に入ろうって雰囲気じゃなくなったんですよ。そもそも当時は高校生の海外留学が少なかったから、簡単には高校卒とは認められなくて、元の高校に戻らなきゃいけないとか、大検受けなきゃならないということになったんです。けっこうたいへんだな、他の留学生はどうしてるのかなと思ったら、みんなはアメリカの大学を受けると言う。じゃあ僕もっていうんで、今度はアメリカの大学に入ったんです。

アメリカの大学は、1年目は大学のキャンパスの寮にボンッと放り込まれるんですよ。だから他のアメリカ人と同じように、みんなが「ハジメマシテ」なんです。アメリカも広いからね、西海岸生まれの人なんて東海岸に来たことないし。いろんな人がいましたよ。

そういえばあの時もねあんまり小遣いがなくてね…。うち、もうちょっとお金持ちだったと思ってたのにな(笑)

--仕送りは人並みだったんですね(笑)

盛田:アメリカ人の学生は、基本的に親に金出してもらって大学に行く奴っていないんですよ。奨学金もらって卒業して就職してから返すとか、あるいは夏休みが4ヶ月ぐらいあるから、夏の間にバイトをして一生懸命学費貯めて、払うとかね。だからみんないつも金がないんです。彼らと一緒に寮にいたから、一人だけ親から金もらって生活してるのが格好悪くてね。

--たしかに一人だけそういうわけにはいかないですよね。

盛田:だから、親に「金いるか?」って聞かれても「いらない」って言ってました。

もちろん親の弁護のために言っておきますと、学費も払ってもらったし、ちゃんと下宿して困らないだけの仕送りもしてくれてましたけど…でもそういう生活してない学生と一緒にいたら自分だけ、ねぇ…みんなが週に20〜30ドルで生活してるのに、こっちは50ドルも100ドルもって、格好悪いからね。だから雪が降るとシャベルを持ってジョージタウンの街の家に行って、雪かき5ドルとかバイトしてましたよ。

それからアメリカ人の学生と同数の単位を学期内に取るのが僕にはちょっと辛くて、本来なら各期5教科ずつ取っていくところを、僕は4教科ずつ取って、残り2教科は夏休みの間にサマーコースを受けてたんですよ。ところが夏休みは寮生は寮から追い出されちゃうんです。寮はワシントンにあったんですけど、夏だけワシントンに来てバイトをする人たちのための安宿になるんですよ。それで僕は夏の間寮を出て、サマーコースを受けるためにどこかに下宿しなきゃいけなくなったんです。そこで寮の夜警バイトをやったんですよ。月曜から金曜まで夜中の12時から朝の7時まで夜警をやってるから下宿いらないんです。7時に仕事が終わってワシントンの友達の家に行く。友達は昼間バイトに行くから部屋があいてるでしょ。だからそこで2時間ぐらい寝て、シャワー浴びて、着替えて。着替えも車の中に放り込んでおいてね。夏の間はずっとそうやって過ごしてました。

--仰ってた知恵で生き延びるっていうことを実践されてますね(笑)

盛田:夏の間の下宿代がうく上に、ちゃんと給料ももらえるんだからね(笑)

--ぜんぜん普通の学生ですね。

盛田:そうですよ、普通の学生だったんだから(笑)

--その級友たちにはあのソニーの御曹司っていうのはバレてたんですか?

盛田:いやあ、あんまり関係ないですよ。そういうこと聞かないし、いくら「俺はソニーだぞ」って言ったって、「俺はケネディだぞ」っていうのがいくらでもいるわけでしょ?「負けたぁー!」みたいなノリですよ(笑)。そんなこと気にしないしね。だから2年間の高校生活と4年間の大学生活っていうのが、けっこう今日の自分の考え方にいろいろ影響してますね。

--そうですよね。日本とは自由度が違いますよね。もし日本でずっと大学まで過ごしていらっしゃったら、やっぱり違ったキャラクターだったと思いますか?

盛田:そうですねぇ…もっとお金持ちのお坊ちゃまっていう感じだったかな(笑)。もう少しオシャレだったかもしれないけど。

夏休みにね、日本に帰ってきて友達と夜遊びに行くとね、クラブじゃなくてディスコとかの入場料が5000円とか6000円とかでしょ。

--そうでしたね。

盛田:ねぇ。僕はたまげましたよ。5000円あったら僕らは1週間生活できますからね。一晩で5000円か6000円払ってさ、何か飲んで奇麗な所で踊って…。2〜3週間帰ってきてる時にお袋が小遣い3万円ぐらいくれたんですよ。こんなにあったら1ヶ月生活できるな、と思ったら、1週間もたなかったからね。

--東京はそうですよねぇ(笑)

盛田:日本人ってお金持ちだと思ったもんね。僕はアメリカはお金持ちだと思ってたのに、日本人ってすごいなって。みんな若いうちからこんな高い所でこんな楽しく遊んでるんだと思ってたまげた。それでこれは自分に向いてないと思ってアメリカに逃げ帰ったようなもんですよ。結局大学出てからアメリカに3年ぐらいいたんで、17から27まで10年ぐらい日本にいなかったことになるんです。

--帰国子女とかそういうレベルじゃななくて、高校からしっかり自分で生きてこられたってことですね。

盛田:うーん、確かに自信はできたかもしれませんね。

--最初の就職先はアメリカなんですよね。

盛田:そうです。モルガン銀行のニューヨークとロンドンに1年半ずついました。

--就職を考えたときに将来の夢とかやりたいこととかあったんですか。

盛田:僕はね、ソニーが好きだったんですよ。小さい時のソニーを覚えてるから、ずっと一緒に大きくなってきたソニーっていう会社が好きだったし。うちの親父だけじゃなくて、井深さん(井深大氏:ソニー(株)創業者)たちも小さい頃からずっと見てたから「あぁ…すごい人たちがたくさんいるな」って子ども心に憧れてたんでしょうね。ソニーを大きく創っていく人たちを子供の頃から知ってて、みんな強烈な個性の人たちがたくさんいたでしょう。大賀さん(大賀典雄氏:ソニー(株)取締役会議長)もうそうだし、田宮さん(田宮謙次氏:元(株)アイワ代表取締役会長)もそうだし。今スカパーの会長をやってる卯木さん(卯木 肇氏)は、ソニーの国際部の外国部長だった人ですからね。だからいずれ僕もこの会社に入って仕事したいなとは思ってたんです。

--たしかに普通は出会えないような人達が周りにいらっしゃったんですからね。

盛田:でも、アメリカの大学を出たから、そのまますんなり日本に帰って日本の会社に入っちゃうのはつまらなくて、それでアメリカの銀行に勤めたんです。一応アメリカの東部の大学出て、マンハッタンのウォールストリートで働くっていうと格好いいじゃない(笑)

--いや、ほんとにすごいですよ。

盛田:ねぇ。東大出て、丸の内や大手町で働いてるようなもんだからね。格好いいかな、と思ったんだけどね…頭使うより体使う方が向いてるみたいでねぇ(笑)

--モルガン銀行では何をなさってたんですか?

盛田:為替ですね。フォーリンエクスチェンジ・アドバイザリーグループっていって、お客さん相手に為替のアドバイスしたりとか、あとはインターナショナルマネージメントグループとか、コンサルタント系をずっとやってたんです。モルガンのお客さんは一流の大企業だから、大企業相手にいろんなアドバイザリーをやるチームの人と一緒にいて「世の中には頭いい人がたくさんいるんだな」と思いましたよ。自分は頭悪いけど、相手のお客さんはすごく頭いい。「すごいなー」って思って見てましたよ。

--じゃあ、そういう為替や税務などのことも全部勉強なさってたわけですか。

盛田:結果としてはそうなりますね。それでモルガンに3年、海外生活も10年になっちゃったから、親父が言ったのか僕が自分でが言ったのかよく覚えてないんだけど「そろそろ日本に帰ろうか」ってことになって。それで最後はモルガンのロンドン支店に移って、それから日本に戻ったんです。

 

 

 

4.まさかの国外退去!? 波瀾万丈の世界旅行

 

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盛田:そういえばここでまた面白い話があるんですよ(笑)。ロンドンから帰る前にね、「この10年間それなりに僕も頑張りました。このまま日本に帰って就職したら、あまり自由になる時間がないだろうから、最後に思う存分旅行させてください。」みたいなことを初めて親父に言ったんですよ。親父も「いいよ」って言ってくれて。それでロンドンからケニアに行ってエジプトに行ってインドに行って…ていう計画を立てたんです。そうしたら、当時の国際部外国部長の卯木さんがそれを聞きつけて「ぜひ中近東を見てくるといい。やっぱり世界が違うから」って言ってくれたんです。ところがサウジアラビアにはツーリストビザがないんですよ。要するに、仕事で来る人しか外国人は入れない。だからサウジアラビアのビザをもらうには、インビテーションレターを持って大使館に行ってビザを作らないといけないんです。だから日本からサウジのソニーのオフィスに手配を依頼して待ってたんだけど、僕がロンドンを出る日までに間に合わなかったわけ。しょうがないからとりあえずロンドンを出てナイロビに行って、そこで10日ぐらいいたのかな。ナショナルパークをガイドとドライバーと一緒に回ったんですよ。

--ハンティングですか?

盛田:ハンティングじゃないんですよ。なんて言うのかな、「富士サファリーパークが四国ぐらいデカイ」みたいなところ(笑)

--あはははは(笑)。よくわかりました。

盛田:「ゾウが見たい」って言うと、ゾウのいる方に、「シマウマが見たい」って言うと、シマウマがいる方に行くっていう。ずっと転々とキャンプ地を回りながらね。2泊3日とか4泊5日とか事前にチャーターするんですよ。僕は1週間ぐらいだったかな。もう一人友達がいたんで2人でドライバーとガイドを雇って。まあそれはそれでいろんな話があるんだけど、それは飛ばして…そのあとエジプトに行きました。もうサウジはダメだろうなと思ってエジプトのあとはニューデリーに行こうと思ってたんですよ。そしたらエジプトのホテルに日本から電話がかかってきて「大丈夫だ。全部手配はできあがってるから、ジェッダに来い」っていうわけ。しょうがないからカイロの日本航空に切符書き換えに行ったんですよ。ジェッダ経由にしようと思って。周りには「(サウジに入国するのは)そんなにうまくいくわけないからやめろ」って反対されたんだけど、ソニーが手配してくれたし、向こうのプリンスの手紙までもらっちゃったから、これで行かないわけにはいかないし、俺も行ってみたかったんですよ。それでジェッダに行ったらソニーのジェッダの支店長がジェッダのプリンスの手紙を持って待っててくれて、そのインビテーションレターのおかげでジェッダのインビテーションはなんとか入れたんですよ。ただ旅の疲れでけっこう熱っぽくて、調子悪いなと思いながらジェッダに2、3日いて、今度はリヤドに行こうっていう話になったんです。サウジってジェッダかリヤドしかないようなもんだからね。

それでジェッダから飛行機に乗ってリヤドに行ったんだけど、ビザがないでしょう?リヤドは「ダメだ」って言うんですよ。部族の国だから、ジェッダのプリンスなんてリヤドには関係ないわけです。それで一緒にいた支店長がジェッダのプリンスに電話してくれたんだけど、その日が木曜日で、アラビアでは金曜日が休みの日だから、ジェッダのプリンスは木曜の夜からどこかに行っちゃって連絡が取れない。リヤドは「ダメ」って言う。すったもんだしてるうちに、僕はね、疲れと興奮から熱が上がっちゃって「病院に行かなくてもいいから、とりあえずホテルで寝かせてくれ」って言っても「ダメだ。そこに部屋があるから、そこで寝なさい」って。小さな部屋にソファがボンと置いてあるだけなんです。さらに呼んでもらった医者がまた最悪で。サウジアラビアの医者っていうのは、サウジの人じゃない出稼ぎみたいな医者なんですよ。注射器だしてさ、アルコールで消毒もせずにいきなりバッと刺すんだから(笑)

--それは怖いですね(笑)

盛田:でしょう。とにかく、その部屋に入れられて一晩寝て、翌日の朝兵隊さんに起こされてジープに乗せられて、お客が全部乗った後の飛行機に乗せられて、離陸してサウジの領空出た後に機長からパスポートを返されたんです。

--強制退去させられたわけですね。

盛田:そうなんですよ(笑)。もう後にも先にもないですよ。何もしてないのに、国外退去。「もう二度とサウジには行くもんか」って今でも言ってますよ。根に持つタイプだから(笑)

--はははは(笑)

盛田:その飛行機でバハレーンに着いたんだけど、バハレーンって当時、唯一お酒が飲める地域だったんですよ。だからものすごく飛行機の接続がよくないんです。こっちはまだ熱があるのに、バハレーン空港でアブダビ行きが出るのをひたすら待ってたんですよ。やっとの思いでアブダビに着いたら、ソニーの中近東課の部長と課長がアブダビ空港で待ってて「いやー、盛田さん大変でしたね」って言ってニコニコ笑ってるしさ (笑)。参りましたよ。まあそんな感じで旅しながら日本に帰ってきたんです。

--世界一周したんですか。

盛田:そうですね、まあヨーロッパからずっと回って。

--世界を見て廻るのがお好きなんですね。

盛田:基本的に人の言うことは信用しないんです。やっぱり自分で見ないと納得できないっていうのが小さい頃からあったから、行ったことのない所には行ってみたいし、見たことないモノは見てみたいし、話したことのない人とは話してみたいんです。 …ああ、延々と話して、やっと日本に帰ってきましたね(笑)

 

 

 

5.ポリシーは「どうせやるならいちばん最初にやって失敗しよう」

 

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--高校2年生から10年間、一番多感な時期をそのように海外で過ごされて、その影響ってすごく大きいでしょうね。

盛田:基本的に、何が起きてもどこに行っても怖くないっていうのはありますね。「なんとかなるよ」って。

--その時期をどういう風にどこで過ごすかっていうのは、すごく人生にとって大きいですよね。

盛田:僕は基本的にものすごく楽天的なんですよ。うちの奥さんやいろんな人にも「君のその自信はどこからくるんだ」って言われるんだけど、やっぱりその10年間が大きいでしょうね。ぜんぜんわけのわからない所で、言葉も違って文化も違う所に行ってなんとかなったっていうのが。

--サウジで大変な目にあいながらも生きて帰ってくるわけですから自信になりますよね。

盛田:自信があるわけじゃないんだけど「なんとかなる」っていう非常に楽天的な性格はこの10年間で磨き上げられた感じはありますね(笑)

--そういう素質は小さい頃からあったんでしょうね。

盛田:そうかもしれないですね。何から何まで全部用意してもらうっていう育ち方はしてないから。

--同じ体験をしても悲観的になっちゃう人もいるでしょうからね。

盛田:たしかに「なんで僕だけこんな目に合うんだろう」って思う人もいるかもしれないよね。これ言うとみんなに笑われるんだけど、僕は毎日楽しくてしょうがないんですよ。夜寝る時には「あー面白かった。明日はどんな日になるかな。どんな人にあって、何が起きるのかな」と思いながらドキドキしながら寝るんですよ。

--素晴らしいですね。寝る前にはいいイメージしか浮かんでこないんですか。

盛田:そうですね。だって辛いこと考えたって何にもならないでしょう。ネガティブに考え始めると果てしなくネガティブに考えてしまう。そういうのは性格的にダメなんです。

--家族全員そんな感じなんですか?

盛田:わりとね…。うちはO型の集団ですからね。これがすごいんですよ。僕のじいさんとばあさんがO型なんですよ。ということは、うちの親父の兄弟ってみんなO型なんです。それでその連れ合いがまた全部O型なんです。だから僕のいとこまで3代、O型しかいないんですよ。すごいでしょ?

--それはすごいですねぇ。

盛田:僕らの代になって初めてほかの血液型が混じってくるんですよ。うちのかみさんがAB型で、兄貴のかみさんがA型なので…でもとにかく3代全部O型の一族なの。

--それは楽天的になりますね(笑)

盛田:うちの一族が集まると、ほとんど収拾つかなくなりますよ。なんていうか、とにかくすぐ盛り上がっちゃうんですよ。イベント好きみたいなね。

--名前も「盛田」ですものね。

盛田:すぐ盛り上がる。例えばスキーに行くとするとね、昼飯食ってる時に、晩飯なに食うかっていう相談をして予約を入れてるんだからね。「次のイベントは何だ」みたいな(笑)

--明るい一家ですね(笑)

盛田:ほんとにね。これはほんとに血だろうね。

--お子さんはいらっしゃるんですか?

盛田:いますよ。でも奥さんがAB型だから子供はA型とB型なんですよ。なんかねぇ…。

--ノリが違うんですか?(笑)

盛田:子供達にまで冷ややかな顔されて「パパ、なんでそんなに一人で盛り上がってるの」って言われますよ(笑)。だからね、やっぱりそういうのってあるんだよね。

そういう環境で育ったから、仕事をはじめても、自分ではすごくシリアスでも、あまり周りがシリアスだと思ってくれないし、わりと気楽に仕事を引き受けちゃう。「なんとかなるや」って思っちゃう。仕事やる時の考え方っていうのは「とにかくやるなら一番最初にやりましょう」。一番最初にやると何がいいかっていうと、一番最初に失敗できる。それは他の人よりも早く2回目ができるってことでしょ。人の後からやって失敗したらバカとか言われるけど…。

--その成果が「bitmusic」とか…

盛田:「MORRICH」とかね。とにかく「Think, before action」じゃなくて「Action, before think」だよね。とにかくまずやってみる。やってみたら失敗できるし。最初に失敗するのはしょうがないっていうのがあるじゃない。

--言い訳もできますしね。

盛田:でしょ?それで、人より先に2回目ができる。やっぱり先に2回目できる方が絶対に強いんだから。

--それに失敗しなきゃ一人勝ちですしね(笑)

盛田:だから、一緒に仕事してるみんなにも「とにかく思いついたらやろう」と。やってダメだったら、絨毯の下とかに隠して、闇から闇に葬って知らんぷりしちゃう(笑)

--「何かありましたっけ?」みたいな(笑)

盛田:そう。それですぐ次のことを始めてしまう。そのほうが人よりたくさんできて、たくさん失敗して、結果として、先に人よりたくさん経験をすることになるでしょう。

--失敗してくよくよするようなことは全くないんですね。

盛田:やっぱりね、過去をひきずったら次やる時に臆病になっちゃうでしょう。臆病ってとても大事なことだと思うけど、でも、始めなきゃ何も起きないっていうのもある。始めるから成功もするし失敗もするわけでしょう。だから「何もしなきゃ何も起きない」だったら、とりあえずやってみようと。そうすると、新しいことが起きて、新しいことが起きれば、新しいルールを作ればいいわけじゃない。

--人の後をくっついていくよりは、とにかく自分で道を切り開くということですか。

盛田:そんな格好いいものじゃないんだけどね。アインシュタインとか、ああいう頭いい人と違うから、先に全部読み切れないだけですよ。

--その強気なところとかはやっぱりお父さん譲りですよね。強気なだけじゃなくてちゃんと実現してみせるっていう。

盛田:そうですねぇ。うちの親父も自分で見てみなきゃ、触ってみなきゃっていうものすごく好奇心の塊みたいな人だったからね。だからじっとしてない人でしたよ。どこにでも行ったし、誰にでも会ったし。親父には人よりも多くのことを経験すると、答えが必ず人よりも違うっていう持論があったから。人よりも多くのことを経験するっていうことは、人よりも先にいろんなことをやっていかないとダメだから。だから新しいことをやることに対する怖さっていうのはないですね。

--盛田さんはSMEに'98年に移られたということで、4年前に初めて音楽業界に来られたわけですよね。

盛田:そうです。それまでは16年ぐらいずっと僕はハードで働いてたんです。事業部からカナダの営業販売会社、カーオーディオ、携帯電話…。わりといろんな所にいましたね。

--音楽業界でインターネット関連の動きが出てきたのもその頃ですけど、それも盛田さんの「先にやっちゃえ」っていう考えとタイミングが合ってたような気がしますが。

盛田:…音楽業界って、基本的には保守的なところがあるでしょう。ネットの時代になると、パッケージにしがみついてても、時代がどんどん変わっていっちゃうのに「とはいうものの」っていう雰囲気があるじゃない。僕は携帯電話とか通信をやってたから、「デジタルではどんどん世界中に飛び立っちゃうんだから、音楽配信を考えなきゃいけないですね」って言った時に、音楽産業ではネットのやり方は歓迎されないんだな、というのがわかったんです。「できる限りパッケージを売ってた方がいいんだ」っていうのがね。そういう雰囲気は外だけじゃなくて、SMEのなかにもありましたね。今でこそ、何でそう思うのかもすごくよくわかりますけど、来たばっかりの頃なんて知らない世界だからね。世の中どんどん進んでっちゃうんだから、人にやられるよりも、自分たちでやった方がいい。その頃音楽業界以外のネット系の、特にベンチャー系の人たちが、我々よりも早くインターネットのことをよく知っていて「音楽配信、音楽配信」って言ってたでしょ。だから「よその人達に自分たちが今までやってきたビジネスを取られて、新しいルールを作られるぐらいだったら、自分たちでやって、自分たちでルールを作った方がいい」って提言して「bitmusic」をはじめたわけです。

--考え方がロック的ですよね。シンプルだしストレートだし。

 

 

 

6.ハードの側から眺めてみると…音楽業界の難しさ

 

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--ハードからSMEに移るにあたってはご自分の意志で手を挙げられたんですか。

盛田:いいえ、ある日突然出井会長(出井伸之氏:ソニー(株)代表取締役会長兼CEO)から電話がかかってきて「次はソニーミュージックに行きなさい」って言われたんです。

--自ら志願してってことではなかったんですね。

盛田:そうではないですね。僕はそれまで、歌というものは自分で歌うものだと思ってたから。

--そうなんですか(笑)

盛田:そしたら、いきなりここで人の歌う歌を売らなきゃいけなくなって、ちょっと釈然としないところがありましたよ。けっこうカラオケ好きですからね。僕はすごいですよ。週に3日ぐらいカラオケに行くんだけど、そうすると年間50週だと150回でしょ。そこら辺のアーティストよりライブの本数多いんですよ。

--ほんとですね(笑)。どの辺のジャンルを歌われるんですか。

盛田:もう幅広く。演歌から浜崎あゆみまでね。丸山さん(丸山茂雄氏:(株)ソニー・コンピュータエンタテインメント取締役)がね、「レコード会社の人間がカラオケやっちゃダメだ」って言うんですよ。「何でですか?」って言ったら「自分が下手だったらアーティストに歌い方悪いって文句言えないだろう。代わりに歌ってくれって言われたらどうするんだ」「歌います!」って言ったら「バカ」とか言われて(笑)

--ハードからソフトに移ったときに、いちばん違和感を感じたところはどこですか。

盛田:ハードっていうのはわりと先が読めるんですよ。特にこてこてのハードは。例えばソニーと松下と東芝のテレビを並べると、インチサイズが大きいとか、画素数が多いとか比較できるでしょ。それから49,800円のテレビのマーケットが日本で年間何台あるかもわかりますよね。仮に200万台のマーケットだったら、絶対に300万台売れることはない。そうすると代理店でも販売の際に自分たちがとれるポジションがわかってて、そこのしのぎ合いが問題になるわけ。ある意味、負けた時の負けた理由もわかるわけですよ。「向こうの方が値段が安くて性能が良かったとしたら、それは絶対向こうの製品を買うよなあ」っていう理由ね。だから、わりとハードっていうのは、最初からターゲットプライスや、ターゲットフィーチャーを決めてかかれるんだけど、音楽は…

--なにがどうなるかわからない(笑)

盛田:でしょう?エイベックスの浜崎あゆみと、ソニーミュージックの元ちとせを比べて、曲の時間がこっちの方が長いとか短いとかそういう問題じゃない。浜崎好きな人は浜崎買うし、元ちとせ好きな人は元ちとせ買うし。両方好きな人はどっちも買うし、嫌いな人はどっちも買わない。例えばうちもエイベックスさんも両方で浜崎あゆみを売ってて、ジャケットの色が違うからどっちの浜崎がいいかとか、そういう問題じゃないからね。

要するにハードから来ると、そういう感じになっちゃうんですよ。ハードはマーケットサイズ、プライスターゲットっていうのがわかってるし、よその実力もこっちはわかってるから、そのターゲットによそがどんな商品をぶつけてくるかっていうのもわかる。秋葉原に行って、ソニーのテレビ、東芝のテレビ、松下のテレビって並ぶわけじゃない。ところが、音楽業界っていうのは、それぞれがみんな専属のアーティストだから。要するに元ちとせと浜崎を比べてどっちがいいか悪いかっていう評価の問題じゃないですよね。

--分析しにくいですよね。

盛田:商品企画もハードのようにはたてられないでしょ。例えば元ちとせ担当のディレクターは、自分やアーティストがいいと感じたものを一生懸命作って、FM局やなんかにプロモーションをしていくわけでしょう。だから全部が(アーティストによって判断基準が) 違うわけですよね。ずっとハードで生きてきて、そういう意味でのディシジョンするよりどころが僕にはないから、どう判断したらいいのかなって気持ちは最初多少ありましたよ。別に僕が制作やってるわけじゃないけど…。

--じゃあ、盛田さんがSMEに来た以上、ここだけはこう変えてやろうっていうところは何かありますか。

盛田:そんな大げさな意気込みはないですよ(笑)。ただ音楽っていうのはこれまでパッケージでしか届けられなかった時代から、今みたいにデジタルでいろんな形で受け取れる時代に変わってきているでしょう。インターネットや携帯電話、衛星放送、デジタル放送とか…そういうものがどんどん増えてくると、同じアーティストの楽曲を届けるのでも、いろんな形態が出てくる。その時に、今までのビジネスのやり方に縛りついても、世の中の方が変わっていっちゃうし、一番肝心なのは、それを買うユーザーの生活環境とか、ダイナミズムが変わってきてることですね。

やっぱり我々のビジネスっていうのは、コンシューマダイナミズムが変わってきてる中で、どうやってアーティストの楽曲を届けていくのか、自分たちでそれに合わせて模索していかなきゃならない。そうすると単純に今までみたいな権利関係とか印税の分配だとか、今、非常に問題になっている著作権保護の問題が出てくる。著作権は確かに守らなきゃいけないアーティストクリエーションだけど、今まではパッケージという形が基本としてあって、完全に売り切る形でお金を取れたけど、これからは、例えば聴く権利だけっていうのも出てくるわけでしょ。その楽曲は持っていなくても聴ければいいっていう。いろんな音楽の楽しみ方が出てきた時に、それをどういう形で保護しながら、かつ、ユーザーのダイナミズムに合った届け方をできるか。そういうことを考えたときに、今まで面々と守ってきたものが、必ずしも今の技術やユーザーの環境に合わなくなってきたとしたら、やっぱりそれは変えなきゃダメだよね。

--そうですね。そういうハードの判断に強いソフトの人の登場が待たれていたんですから、盛田さんがSMEにいらしたのはグッドタイミングだったんですね。

 

 

 

7.ブロードバンドの普及がもたらすもの

 

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--そういった状況について、だんだん変わりつつあると思いますが、どの程度手応えを感じていらっしゃいますか。

盛田:そうですね、急速にここ1年ぐらいで変わってきてるし、これからはもっと急速に変わっていくでしょうね。インターネットの普及率の伸び方もさることながら、ブロードバンドの環境の伸びはアメリカなんかより日本の方がはるかに高いですよ。韓国ではブロードバンドの利用者が何百万人と言われてますけど、今やそれに迫る勢いで日本は増えてるでしょう。ブロードバンド環境になると何が違うかって、「高速回線」ということよりも「常時接続」になることが大きいんですよ。いつもつなぎっぱなしの環境…

一番便利なのはナップスターだよね。要するにファイルシェア。我々にとっては目の上のたんこぶみたいな、親の敵みたいな存在だけど、でも常時接続っていうのはダーっとファイルを探しに行けるってことでしょ。いちいちダイアルアップしてたらダイアルアップでつながってない人のファイルは探しにいけない。そういう意味ではね、ブロードバンドは「常時接続」の環境にあるということがものすごくインパクトが大きいと思うね。今までみたいにパッケージを買ってもらった時に初めてお金が入って印税分配するという考え方は、そういう環境の中では、すごく説明しにくくなってくるからね。その人からどうやって印税取ろうかっていう話でしょ。売ってないのに、聴く権利に対して、どういう印税をチャージして分配すればいいのか、今までと考え方を変えないとね。レコード会社にとっても大変な時代だけど、アーティストや事務所も、そういう時代の中で権利の分配をどう考えるかっていうのをやっぱりみんなで考えないと。ただ単にナップスターがいけない、何がいけない、ダメだよダメだよって言ったところで、盗む方が買うよりも簡単だったら、絶対みんな盗みますよ。

--(笑)

盛田:そうでしょう?今までは、盗んでも捕まるし捕まったら大変だから、だったら買う方が簡単だって言って買ってたわけじゃない。ところがネットの世界になると、盗む方が買うより簡単だから。そうではなくて、むしろそういう環境で権利を守るということは、我々がどういうビジネスモデルを世の中に出して、そのビジネスモデルがどれぐらい受け入れやすいかっていうことにかかってると思うんです。

--その方が前向きですね。

盛田:だから、レコード会社や事務所やアーティスト…要するに身内がああでもないこうでもないって言い合ってる場合じゃないですよ。やっぱりアーティストにしてみれば、自分の曲が広くみんなに買ってもらって、お金が入ってきた方がいいわけでしょ。レコード会社だって同じだよね。要するにみんな同じ興味を持ってるんだけど、我々にとっていいビジネスモデルが、必ずしも今の環境に置いてユーザーに受け入れられるビジネスモデルではないということなんです。だから、いかに我々のビジネスモデルをユーザーに受け入れられるモデルに近づけられるかっていうところが大事。どんなに著作権法の技術を駆使しまくって、ガチガチにして、お金を取りますって言ってもダメだよ。いくらそうやったってそのビジネスモデルをユーザーが受け入れなかったら誰もそんなことしませんよ。そうでしょ?

--CCCDの問題も含めて、著作権を扱う側とユーザーの双方が納得するような方法を考える必要があるということですね。その辺のルール作りがまず今後の大きな課題だと思いますが、何か具体的なルール作りの目標はお持ちなんでしょうか。

盛田:いやあ、それがあったらもうやってるよね(笑)。難しいよ、とっても。このルール作りは、レコードメーカーだけじゃできないし、レコードメーカーとユーザーの間だけでもできないんですよ。これは、コンシューマ機器を作るメーカーさん、それからコンピュータを作ってる業界も関わってくる。ソフト側から見るとハードって一言だけど、コンシューマ機器とコンピュータ機器って業界が全く違うんだよね。今まではCDやレコードを作るだけなら、わりとコンシューマ機器のメーカーと音楽業界が話をしてればできあがったけど、今やコンピュータ機器がコンシューマ機器の役目をしますからね。CDがかかったりDVDが見られたり。そうすると、コンピュータ業界の人達も一緒にテーブルについて話をすることをやっていかないと、抜け穴ができちゃうし。その抜け穴を閉じるために、いろんな技術を放り込んだり、一緒に成長しようと思ってるコンシューマメーカーとの矛盾が出ちゃうわけでしょ。だからやっぱりね、ハードの世界もソフトの世界も、著作物を守るという中で、どういう考え方をユーザーに受け入れてもらうか話合うことをね、まずみんなでやらないと。それぞれの人がテーブルに着かないかぎり、どこにも落としどころがないと僕は思ってるんです。

--じゃあその話についてはまだこれからという感じなんですね。

盛田:PC業界はPC業界で「ファイルを作ってファイルを飛ばすことは、パソコン業界では当たり前なんだから関係ないよ」って考えることもあるわけでしょう…たしかにその通りなんだけどね…。そのうちアーティストが「パッケージはもういい。ライブでしかやらない」って言うかもしれない。だって音楽なんて昔は全部ライブだったんですから。モーツアルトの頃なんて録音機がなかったでしょう。そうするとまた100 年や200年前に戻っちゃう。エジソンが蓄音機を作ったからこういう風になっちゃっただけで、その前に戻れば音楽は全部ライブだったんだからね。「それでいいよ」って…そういうわけにはいかないでしょ。

--その辺をまとめる役割が盛田さんに期待されてるんでしょうね。

盛田:どうかな、期待なんかしてないと思うけどね(笑)

 

 

 

8.囲碁の宇宙観にハマってます

 

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--最後に個人的なご趣味とかプライベートな生活なんかをお聞きしてもよろしいでしょうか。

盛田:趣味はですね、これ言うとみんな笑うんだけど…。あのね、ゴルフやるんですよ。ずっとゴルフやってたんだけど、ちっともうまくないんです。それは何故かというとあんまりゴルフがうまくなりたいとは思っていなくて、どちらかと言えば広いところをポコポコ歩いてるのがすごく楽しくてゴルフをやってたんですよ。それがね、最近携帯電話を持つようになってから人の電話番号を覚えないし、パソコンを打つようになってから漢字が出てこない、あんまりいろんな人と会うことが多いから、昨日誰と昼飯食ったのかさえ思い出せない…これはちょっとやばいかなぁと思って (笑)。携帯がないころは指の動きで人の電話番号とか覚えてたでしょう。そういえば最近はすごく集中して何かを覚えるとか打ち込むとかしてないなあと思って、それで囲碁をはじめたんですよ。まだ3ヶ月ぐらいなんだけど。そうしたら以外と囲碁の宇宙観にハマっちゃったんです。

僕は小学校の頃には将棋をやってたんだけど、将棋は基本的にこっちから攻めていくだけで、王様を追い込むって話でしょ。囲碁はどこに打ってもいいし、白玉と黒玉しかない。将棋のように飛車とか香車とか桂馬が突然ビューと飛んでくるんじゃなくて、1個ずつ打っていくしかないんですよ。ちゃんと先生について習ってるんだけど、理屈がものすごく簡単なのに、コロっと負ちゃうんですよ。先生は6歳の頃から27年間ずっと囲碁をやってきてるから、 3ヶ月の僕がかなうわけがないんだけど。でも理屈はね、線の上に置いていくわけでしょ。だから僕にしてみれば「なんであの人には読めて僕には読めないのか」って。それがすごく口惜しいんですよ。

--なるほど。

盛田:だって自分で置いていくだけで、どこに広がってもいいわけでしょ。そこで、う〜〜んと考えるのね。そうやって考えることを最近仕事でもしてないんですよ。中途半端に偉いから自分で資料作らないし、どちらかというと、上がってくる資料をバーッと読んで会議で出てくる議題を判断して…そういう仕事してるとなんとなく頭の使い方が雑になってきてるなっていう感じがすごくするんです。だから最近囲碁ね、もしかしてゴルフより好きかもしれないですよ。なんか宇宙観がある。それは確かに一点一点を読むんだけど、あっちの方は黒、こっちの方は白って、なんとなくパターン的に見るでしょ。僕の今までのやり方もね、あんまり細かいことは気にしないんですよ。なんとなく川の流れてる方向が正しければOKみたいな感じで。だからいけないって怒られるんだけど、仕事なんかでも、確かに細かいところも問題あるけど、細かいことを先に心配してたら何もできなくなっちゃうじゃない。「とりあえずやっちまおう」っていうのと同じで、わりとバーンと話を聞いたり、モノを見た時に「なんとなくこっちの方かな」っていうのが自分の感性に合うのね。それで囲碁も白と黒で、なんとなくあの辺、白かなって思ったりして。そういうところも自分の性格に合うんだよね。

--囲碁にハマってらっしゃるということで、これは長い趣味になりそうですね。

盛田:朝はね、オークラからここまで歩いてくるんですよ。だから、うちの秘書に「盛田さんの趣味、朝の散歩と囲碁って言ったらただのオジイサンですよ。言わない方がいいですよ」って言われてたんですけどね(笑)

--今日は楽しい話をありがとうございました。m.gif

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)



---あのソニーの盛田氏ということで、お会いする前はどうしても緊張してしまっていたのですが、とても気さくでユーモアのある方で、楽しいお話しを伺うことができました。淡々と、とりわけ特別なことなどないように仰りながら、「とにかくいちばん最初にやって失敗してみることですよ。そうすると2回目が人より早くできるからね」という言葉に象徴されるように、端々にかいま見える自信と余裕は、恵まれた環境にあった故の人知れぬ苦労と努力のたまものであるように思えました。

さて、幅広いご人脈のなかから盛田さんにご紹介いただいたのは、(株)スマイルカンパニー代表取締役社長 小杉理宇造氏です。音楽業界でも屈指のサクセスストーリーを生きてきた小杉氏ですが、どのようにしてその幸運をつかむことができたのか?ご期待下さい。