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−−加山さんの人生において一番の危機は、1970年にパシフィックパークホテルが倒産した頃だと思うんですが、あの出来事は加山さんには何の責任もない出来事だったんですよね。
加山:いや、責任はあるでしょう。なぜかと言ったら僕は「監査役」に入っていましたから。それから「加山雄三」という名前で叔父が大量に借り入れをしていましたからね。それは責任がないと言えばないのかもしれないけれど、結果的に関わりがあるということは僕の責任だと思います。結局、社長であった叔父もトンズラしちゃうし、みんな逃げてしまいましたから、返済能力がある、あるいはそれを処理する能力のある人間が僕しかいなかったということです。風当たりを一手に引き受けたのは僕一人ですが、これは別に自分が偉かっただろうと言いたいのではなくて、ものすごく攻撃の対象となったというのが実際のところです。
−−例えば、お持ちになっていた船もみんな取り上げられてしまったんですか?
加山:いや、その時持っていた船はみんなが守ってくれました。実はその前に税務署が守ってくれたんです(笑)。税務署が赤紙を貼ってくれたから、そのために債権者が来ても船を処理できなかったんですね。それから税務署が船を処分しようとしても、船に興味を持っている人が少ないから買う人がいないんですね。でも、もし高いお金で買ってくれる人が出てきたら、返済に回しますと約束をしていました。なぜかと言えば、税金も約2億円滞納していたからで、それを元通りにするために10年かかりました。これが一番大変でした。何故かというと、税金の延滞利息はものすごく高くて、金利分を払っていくだけで精一杯なんですよ。
−−税務署の金利だけで、ですか?
加山:そうです。それ以外に23億借金がありました。その分は会社更生法が適用されたので、会社としては営業を続けてその利益を返済に回していました。それで裁判所がホテルを競売に掛けた方が良いということで、最低保証価格はだいたい15億で設定していたところ、フタを開けたら17億9000万をつけた人がいて、最終的に17億で売却し、差額の6億をどうやって返済していくか四苦八苦したわけです。
−−それはまだ加山さんが30代の時にお話ですよね・・・。
加山:そうです。33歳でした。でも、若かったからできたとも言えます。今だったらとてもじゃないけど無理ですよ(笑)。
−−その逆境をよく乗り越えられましたよね。
加山:やはり人に助けられていますね。多くの人に支えられていますよ。
−−そこまで順風満帆できた加山さんが初めて大きな障害に出会ったわけで、それを乗り越えたことはやはり加山さんにとっても大きなことでしたか?
加山:「捨てる神あれば、拾う神あり」じゃないですが、僕を支えてくれた人たちがたくさんいたということです。業界の中にいた知り合いの大半が背を向けて去っていきました。そりゃそうですよね。こんな破産した人間とはもう付き合っていられないと普通は思いますよね。ところが「あいつ頑張っているから仕事をやらせてみよう」という人もいて、そういう人たちに僕は助けられたんです。だって東宝にすら随分冷たい対応をされましたからね。
−−東宝もですか・・・。
加山:藤本さんのところに行って、「何か仕事をください」と言ったときも、「お前みたいに高い奴を使わなくても、今は若くて良い役者が一杯いるんだ。使う気はないから帰りな」と、けんもほろろに言われて、僕は相当東宝に貢献したつもりだったので「なんて酷いことを言うんだろう」と、びっくり仰天しました。ところがその藤本さんの冷たい態度の原因がのちのち分かったんですよ。
−−何か理由があって藤本さんはそのように仰ったんですね。
加山:ええ。芝山さんという所長がいて、その所長がある東宝内部の人間に「加山が困っているだろうから」と言って、内々にお金をくれていたらしいんです。でも、僕は何も知らない。なぜならこの東宝の人間が全部着服していたからです。それが分かったのは黒澤さんが『乱』を撮影したときに馬に払うお金を同じ人間に渡したら、持ち逃げしたからなんです。幾らくれたのかわからないですが、何ヶ月かに一回「これを加山に渡せ」とくれていたらしいんですが、僕は知らないからお礼の一つも言っていないわけです。もしその場で知っていたら、土下座してでも感謝の気持ちを表しただろうと思います。それで、藤本さんはあんなにつっけんどんに当たったんだと理解しました。ただ、その事実がわかっても藤本さんや芝山所長もいらっしゃらない。
−−藤本さんも芝山さんもお亡くなりになっていて、生前その話はできなかったと。
加山:できませんでした。話を聞いたのは十数年前ですから・・・。それを聞いたときに「本当に悪い奴はどうしようもないな」と思いましたね。でも、藤本さんも芝山所長もきっと天国から見てるでしょう。わかってくれているだろうと僕は信じています。
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