第54回 中西健夫 氏

株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長
中西健夫メイン
 今回の「Musicman's リレー」は、ファイブ・ディー(株) 代表取締役 佐藤 剛氏からのご紹介で、(株)ディスクガレージ 代表取締役社長 中西健夫氏のご登場です。大学卒業後、ミュージシャンとしてメジャーデビューするも成功には至らず、アルバイトとしてディスクガレージ入社。以後、甲斐バンドやBOφWY、レベッカ、ハウンドドッグ、J(S)Wといった'80年代を代表するアーティストとの仕事を通じて、頭角を現した中西氏。音楽に限らず、業務領域を拡げているディスクガレージの秘密は、中西氏の軽快なフットワークにありました。
プロフィール
中西健夫(なかにし・たけお)
株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長

1956年12月11日生まれ。京都府出身。
1972年 京都にてバンド活動開始 
1979年 京都産業大学 経済学部 卒業 
 同年 バンドにてメジャーデビュー 
1980年 株式会社ディスクガレージにアルバイトとして入社 
1981年 株式会社ディスクガレージの社員となる 
1990年4月株式会社ディスクガレージ 取締役専務就任
1993年3月株式会社ディスクガレージ 代表取締役副社長 就任
1997年4月株式会社ディスクガレージ 代表取締役社長 就任

1. 反発した中西家14代目

−−前回ご登場頂いた佐藤剛さんとは、どのようなご関係なのですか?

中西:剛さんとの出会いは、甲斐バンドなんです。剛さんと甲斐バンドがシンコーミュージックから独立されて、「ビートニク」という会社を作ったんですが、ちょうどディスクガレージ自体がコンサート事業をやり始めた頃なんです。当時甲斐バンドのコンサートは、メロディーハウスという会社がやっていまして、今そこのスタッフはフリップサイドを作ったり、アミューズにいたりするんですが、八王子のライブだけ人が入らないというので、「これは狙い目だ」と思って、「八王子だけディスクガレージでやらせてください」とお願いしたんです。
 僕もまだ若かったですから、八王子に一週間くらい泊まり込んで、チラシを撒いたり、ポスターを貼ったりした結果、あり得ないくらい人が入って、大成功しました。それが剛さんに評価されたんだと思うんですが、そこから剛さんと甲斐バンドを一緒にやり始めました。

−−そして、今ではディスクガレージもファイブ・ディーも同じビルにあるわけですよね。

中西:そうですね。打ち合わせに行く時間ももったいないので、「一緒のビルに入りませんか?」と僕が剛さんを誘ったんです。そうしたら、剛さんも「あっ、いいよ」みたいな感じで(笑)。

−−中西さんが先にこのビルに入られたんですか。

中西:ええ。これは剛さんも話したかもしれませんが、THE BOOMを紹介したのも、僕らなんです。THE BOOMがまだ原宿の路上でライブをやっているときに、うちの会社のアルバイトが「ホコ天にすごくいいバンドがいる」と言うので、うちの黒木という社員が見に行き、トントン拍子に話が進んで、「プロダクションをどこにするか?」という話になったときに出てきたのが、剛さんだったんですね。実際、僕らが剛さんのところに持っていったアーティストって結構多いんです。「このアーティストは剛さんに合うかな?」と思ったら、すぐに剛さんに声をかけていますね。

−−THE BOOMは最初原宿のホコ天で演奏していたんですか。

中西:そうです。ジュンスカやTHE BOOMがやっていた時代です。そういう経緯もありまして、剛さんとは近しいんですけど、かといって飲みに行くという相手でもなかったですね。

−−それはなぜですか?

中西:剛さんと僕は飲み方が違うんです(笑)。

−−(笑)。

中西:もちろんたまには一緒に飲むんですよ(笑)。

−−「飲み方の違い」とは、具体的にどのような違いなんですか?

中西:剛さんは結構、語る飲みなんですね。僕も飲み始めは語るんですが、そのあとは弾けたいタイプなんです(笑)。ですから、僕が「この次行こう!」と言っているときに、剛さんはまだ語っている(笑)。「もう話がループしているんだから、いいんじゃないですか?」みたいな感じですね(笑)。だから、一軒目まではOKです(笑)。

−−なるほど(笑)。剛さんはとてもアカデミックな方ですからね。

中西:そうですね。もちろん僕にもアカデミックな部分もあるんですが、それをずっと続けられないんですよね(笑)。そういう違いですね。

−−中西さんから見た佐藤剛さんは、どのような人ですか?

中西:剛さんは音楽に限らず、色々な意味でプロデュース能力が非常に高く、人が理解できないものを理解できる方なので、そういう意味では新しいものを見つける視点が、他の人とは全く違う人だと思います。

−−ここからは中西さんご自身についてお伺いしたいと思います。京都のご出身ということですが、京都市内ですか?

中西:左京区というところです。

−−どのようなご家庭だったんですか?

中西:家はもともと庄屋で、実は僕で14代目なんです。土地持ち金なしの典型なんですが、父は京都市役所に勤めていて、母は教師という非常に堅い感じの家でした。ちなみに家はいわゆる「同志社ファミリー」なんですが、僕はそれに反発してしまって、大変なことになってしまったんですよ(笑)。

−−反発ですか…。

中西:はい。父に反発して、高校受験で勝手に立命館を受験したんですが、落ちて、怒られて…(笑)。つまり、同志社ファミリーにとって、立命館という選択はあり得なかったんですね。

−−早稲田と慶応の関係みたいなものですね。

中西:そうですね。しかも、受験直前にサッカーをやっていたら右手を骨折してしまって、試験を受けるときに右手が使えなかったんですよ(笑)。それで試験に落ちて、でも「高校で浪人は認めない」と父が言うので、2次募集で高校に入って、大学受験のときも当然「同志社に行け」と言われるわけです。でも、それも拒否して、一番行くなと言われていたのが立命館で、その次が京都産業大学だったので、僕は京都産業大学に入りました(笑)。

−−(笑)。なぜ、そこまで反発されたんですか?

中西:父も祖父も親戚も皆同志社で、そのエリート意識に反発したんでしょうね。今考えると無駄に反発したな、とは思いますけどね。

−−私はそういう立場になったことがないので、なかなか理解しづらい部分があるんですが、当時はかなりのプレッシャーだったんでしょうね。

中西:息子は同志社なのが当たり前で、その道を外したら息子じゃないみたいな扱いだったんですよ。ちなみに弟はちゃんと同志社に行きましたからね。

−−その弟さんは今も京都にいらっしゃるんですか?

中西:そうです。

−−ということは、14代目は弟さんが継がれると…。

中西:いや、14代目は長男しか継げないんです。

−−では、中西家はどうなるんですか?

中西:僕が京都に戻らない限り…潰れます(笑)。

−−そうなんですか…(笑)。すごいですね。

中西:いちおう由緒ある家系だったりするんですよ。実は去年父が亡くなったんですが、相続がまた大変で、僕は一切いらないと言ったら、「京都に戻らないということなのか?」と大騒動になってしまって…(笑)。

−−もう京都に戻る気はないんですか?

中西:全然ないですね。

−−傍から見ていると、京都に生まれ育って、バンドとかやって、鴨川のほとりとかを女の子と散歩したりと、なんだか滅茶苦茶楽しそうなイメージがあるんですが。

中西:全然無いですね。京都って、たまに遊びに行くからいいんですよ。僕もそのイメージで、たまに京都に行ったりするんですけどね(笑)。