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−−高校は仙台の男女共学の学校に行かれたんですか?
佐藤:いや、仙台には男女共学の高校がないんです。一高、二高、三高と、一女、二女、三女と完全に別です。それで基本的にバンカラ。一高、二高というのが超受験校で、私は仙台の東部に住んでいて歩いて通える距離にあったので、一高を受験します。東部にある中学は、席次が1番から30番までは一高を受けろと言われるんですね。それで、僕は一高に入りました。
−−高校でも剣道をされたんですか?
佐藤:学校自体がバンカラなところですから、剣道や応援団は、いかにもむさいので(笑)、野球が好きだったこともあって、軟式野球部に入りました。それで、中学では不良ぶっていた僕が、高校に入って心機一転、部活動に打ち込んでいたんですが、10月の新人戦の直後に結核を罹って、2ヶ月半入院したんです。
−−何だか出鼻をくじかれた感じですね。
佐藤:またその2ヶ月半の入院が暇なんですよ。当時は病室にテレビがない時代でしたから、やることといったら本を読むか、レコードを聴くくらい。まあ病気なんだから本当は休んでいなければならないのですが、ちょうどその頃、大型のステレオを買ってもらったので、病室に持ち込んで、ヴァニラ・ファッジとか、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』とか、もちろんローリング・ストーンズからクラシックに至るまで、とにかく持っていたアナログ・レコードを徹底的に聴き込みました。小説は大江健三郎、石原慎太郎、三島由紀夫を同時に読んで…みたいな感じでしたね。
−−せっかく部活動でリフレッシュしていたのに…。
佐藤:そこでまたググッと文系に引き戻されちゃったんです(笑)。音楽、映画、本。その3つがやはり好きだったんですね。それで、退院しても学校へ行かなくなって、図書館へ行くか、パチンコ屋へ行くか、映画館にいるかでしたね。
−−なぜ学校には行かなかったんですか?
佐藤:バンカラでも進学校ですから、休んでいたことで学業に遅れが出て、追いつくのが大変で、そうなると単純に行きたくなくなる。他にもやりたいことがたくさん出てきましたしね。あとその頃は、もう学生運動が盛んになっていたので、集まりとかデモがたくさんあるんですよ。そちらに行く方が優先でした。村上龍さんの『69』という小説とほぼ同じ世界です(笑)。彼とは年も同じなので、身の回りに起こったことはあの小説の主人公達と同じです。
−−またまた大人っぽい高校生ですね。ちなみに、どんなところでたむろしていたんですか?
佐藤:「邪宗門」という大人びていて退廃的な、バロック音楽がかかっている店が仙台にあるんですが、そこに大学生とか詩人風の人とか一杯いるわけですよ(笑)。そういう人たちに若干憧れを持ちつつ、出入りしたりしていました。ちなみにそこにいつもいた女子高生が、1学年下の小池真理子さんでした。
−−あの直木賞作家の小池真理子さんですか?
佐藤:そうです。彼女は『邪宗門』というタイトルの小説も書いていますね。別に仲良かったわけではないですけど、顔と名前は知っていました。
−−大変綺麗な方ですよね。
佐藤:当時から神秘的な少女と言いますか、綺麗な人がいるという感じでしたね。そんな大人びたところに行きつつ、2日に1回は映画館で、70ミリ超大作のロードショーからヤクザ映画の3本立てまで、という生活でした。
−−映画は邦画を観ることが多かったのですか?
佐藤:邦洋問わずあらゆるものをです。「007」シリーズも好きでしたし、西部劇も好きでした。キューブリックの『2001年 宇宙の旅』には特に感銘を受けました。邦画ではクレイジーキャッツから相当に、生きていく上での影響を受けています(笑)。
−−お小遣いは結構もらっていたんですか?
佐藤:いえ(笑)。塾のテキスト代を使ったり、参考書代と言ったり、はたまた親の商売の目を盗んでは、お金をくすねて(笑)。
−−(笑)。ご両親は何の商売をされていたんですか?
佐藤:果物屋さんです。
−−そこでお釣りをごまかして、懐へ…(笑)。
佐藤:そうですね(笑)。あと積極的に配達とか、店の手伝いをしましたし、いくらでもごまかせるんですよ。親もわかっていたとは思うんですが、半分、見て見ぬ振りでしたね。
−−ちなみにご兄弟は?
佐藤:3つ違いの妹が1人います。
−−ということは、兄弟から文化的影響を受けたとか、そういったことはなかったんですね。
佐藤:ほぼ自力でしたね。ラジオを聴いたり、図書館に行って本を読んだり、自分から情報を求めていったので、家族や先輩という影響はほぼ皆無だったんじゃないですかね。むしろ自分が影響を与える側だったと思います。
−−それは学校の友達に影響を与えるということですか?
佐藤:そうですね。高校に入ったときには、ようやくちょっと話をする仲間ができて、例えば、僕の後ろに座っていたのが佐藤康和といって、のちにYAS-KAZという名前でデビューしたんです。
−−パーカッショニストのYAS-KAZさんが同級生だったんですか。
佐藤:名前順だから、僕の後ろの席に座ってたんです(笑)。彼は学校に来ないことで有名で、その頃からジャズをやっていました。僕も授業に出ないし、彼も学校に来ないので、3年生の時に出席日数が全然足りなくて、僕と佐藤康和の名前が、ずっとトップに貼り出されていました(笑)。でも、実はそれでも相当に出席をごまかしてはいるんですよ(笑)。出席を取らない先生とか、代返をクラスメイトに頼んでいるとか。それでも出席日数が足りないと言われているわけですから、ほとんど学校に出てなかったんですよ。
また、同じクラスに長崎正稔という男がいて、彼は22歳からずっと仙台で「ピーターパン」というロック喫茶をやっていて、今年で30周年になるんですが、その店は矢野顕子さんや大貫妙子さん、ムーンライダースの鈴木慶一さんが仙台に行ったら、必ず行く店なんです。その3人が同じクラスにいるというね(笑)。
−−そういう時代だったんですか? それとも、そういう人たちがたまたま集まっただけなんですか?
佐藤:たまたまでしょうね。時代もあったのかもしれませんが、そんな例は他にはあまりないみたいですから(笑)。
−−仙台という街が、全体的にそういう雰囲気を持っていたわけではない?
佐藤:それはないでしょうね。そのクラスが珍しいケースだったんでしょう。
−−でも、最終的には高校を卒業できて、進学もされたわけですよね?
佐藤:ええ。それだけ映画とか音楽とか文学とかへ関心が行っていたら、当然東京に出たいじゃないですか? 実は高校時代にも夏休みは東京の予備校で大学入試の勉強をするという名目で、東京へ行ったりしていて、実際は映画とかデモの毎日でしたが、「東京にいなきゃ、話にならないな」と思っていたので、どうしても東京の大学に入りたかったんです。
父親は割と堅い人だったので、はじめはとにかく旧帝国大学しか認めないと言う。でも成績が成績ですから私立大しか狙えない。「早稲田、慶応なら許す」とやっと折れてもらえたので、「すべり止めに日大の芸術学部も…」と言ったら、親父が「日大なんて聞いたことがない。しょうがないから六大学だったら許す」と(笑)。それで慶応と明治は受かったんですが、一番行きたかった早稲田に落ちちゃって、結局明治に行くことになるんです。
−−なんで慶応に行かれなかったんですか?
佐藤:文学部には落ちて、合格したのは法学部だったんですよ。
−−なるほど(笑)。でも、慶応に受かっていたのに、何だかもったいないですね。
佐藤:明治は演劇学科だったので、そっちにしたんです(笑)。ところが大学には受かったんですが、今度は高校の出席日数が足りなくて、卒業が危ない(笑)。だけど高校側としては、僕に居てもらうと困るわけです。
−−それはなぜですか?
佐藤:僕はある種の「過激派」と思われていたので、早く卒業して欲しいんですね(笑)。で、同級生のバリバリ闘士は「来年以降も、ここでオルグする」と留年して学校に残る戦術をとっていた(笑)。彼らと僕に一緒に残られると困るんですよ。結局、春休みに7日間くらい連日全く同じ問題の試験を受けさせられて(笑)、僕は追い出されました。
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