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佐藤 剛氏


 今回の「Musicman's リレー」は、(株)ジャパン・ライツ・クリアランス 代表取締役 荒川祐二氏からのご紹介で、ファイブ・ディー(株) 代表取締役 佐藤 剛氏のご登場です。大学卒業後、週刊ミュージック・ラボの営業・編集に携わり、甲斐バンドのマネージメントを経て、ファイブ・ディーを設立後、THE BOOMを始め、数々のアーティストをプロデュース。ファイブ・ディーを、HEATWAVEや中村一義、ハナレグミといった個性的で、実力あるアーティストを擁するプロダクションへと育てられた佐藤氏に、ご経歴から音楽業界の現状に対するご意見など、お話を伺いました。
<目黒区下目黒 ファイブ・ディー(株)にて>
プロフィール
佐藤 剛(さとう・ごう)
ファイブ・ディー株式会社 代表取締役


1952年岩手県生まれ、幼稚園から高校まで仙台で育つ。1974年に明治大学文学部演劇科卒業後、週刊ミュージック・ラボの営業・編集・ライターを経て、1977年からアーティスト・マネージメント及びプロデュースに携わる。
1982年、ファイブ・ディー株式会社を設立。1988年から本格的にプロデュース業を開始。プロデューサーとしてTHE BOOM、ヒートウェイヴ、中村一義、SUPER BUTTER DOGなど多くのアーティストを手がけている。2002年、東芝EMI、ロードアンドスカイ・オーガニゼイションとともに株式会社ファイブスターズを設立。

<ファイブ・ディー株式会社> http://www.five-d.co.jp



::: INDEX
PART1
常に「裏側」を意識したおませな少年時代
入院生活から過激な文系高校生へ
大学入学早々、イベントプロデュース
営業から原稿書きまで八面六臂の活躍
甲斐バンドの成功とファイブ・ディー設立

PART2
音楽プロダクションの理想型を求めて〜THE BOOMとの出会い
勝負は死ぬまで終わりじゃない
フェアでポジティブな方向性の模索
今は問題解決の大きなチャンス
配信のスタンダードを確立しよう!

常に「裏側」を意識したおませな少年時代

−−まず、前回ご登場頂いた荒川祐二さんとのご関係について、伺いたいのですが。

佐藤:荒川さんと最初に会ったのは、彼がまだ電通にいる時だったんですが、直接会う前から、音楽ソフトに関して関心が高く、企画にまで積極的に関われる、非常に優秀な人が電通にいるという噂は聞いていました。また、ファイブ・ディーと同じビルにあるプロマックスとディスクガレージは、守備範囲はちょっとずつ違うけれど、中心にあるのは音楽ということで、連携して仕事をしていたので、プロマックスと荒川さんが非常にいい仕事をなさっていたのを遠くから眺めていたんですが、荒川さんが電通からプロマックスに移ってこられたことで、何度か直接仕事をするようになったんですね。
 その後、著作権法改正に伴い、新しい著作権徴収団体を考えていこうということで、僕も音楽制作者連盟(以下 音制連)の方々から誘われて、勉強会に参加していたんです。それで、ジャパン・ライツ・クリアランス(以下 JRC)として船出をしようとしたときに、吉田拓郎さんの歌じゃないですが、「新しい船を出すときには、新しい水夫の方が良いんじゃないか?」ということと、JRCを立ち上げたときに参加していたメンバーは、ある種、音楽制作者兼マネージャーという方々が中心だったので、それとはちょっと違う舵取りの方が良いんじゃないか? ということで、代表を荒川さんにお願いしたわけです。

−−ちなみに、明日(9月7日※取材当時)から宮沢和史さんの「Shima-Uta(島唄)」が、日本人として初めて、世界20カ国のiTunes Music Store(以下 iTMS)で同時配信されるそうですが、これも荒川さんのところでやるわけですよね?

佐藤:ええ、JRCの子会社であるグローバル・プラスがやります。僕のほうは良い音楽を作ることと、そのための環境を守っていくという点に特化して自分の会社をやっているつもりなので、そこから先の配信に関しては、JRC、グローバル・プラスと二人三脚という形で、宮沢和史の5曲を20ヵ国に世界同時配信します。しかも、それはCD音源の二次利用ではなくて、この配信のために録音されたものを使うんです。

佐藤剛氏 −−配信のために録音したんですか?

佐藤:そうです。

−−つまり、ダウンロード・バージョンというわけですね。

佐藤:ダウンロード・バージョンというよりは、今、ダウンロード時代に入ったときに、一番いい音源といいますか、この楽曲に関するベスト・ヴァージョンを録れるのは今なんじゃないかと思ったので、録音し直そうと考えたんですね。
 つまり、今年の1〜2月に宮沢がツアーでヨーロッパを回ってきて、外国での『島唄』の反応にすごく手応えを持って帰ってきたので、そのときの演奏を、もう一回、世界に向けて『Shima-Uta』として出そうじゃないかということで、そのツアー・メンバーで全て録音しました。

−−逆に言うと、まだCDになっていない音源なわけですね。

佐藤:なっていないですね。まずはダウンロードがあるという考えで、CD音源の2次利用としてではないんです。いずれCDにもしようと思っています。

−−さて、ここから佐藤さんのお話を伺っていきたいと思いますが、まずご出身はどちらですか?

佐藤:生まれたのは岩手県 盛岡市の外れの都南村という山間なんですが、今は盛岡市に併合されてしまいました。

−−音楽との最初の関わりはいつ頃ですか?

佐藤:多分2、3歳の頃に、父親が運転する車でかかっていたラジオが、最初の記憶だと思います。曲でいうと、春日八郎の『お富さん』ですね。

−−春日八郎ですか(笑)。

佐藤:そうです(笑)。『お富さん』が大好きで、車の振動に合わせて歌ってはゴキゲンになっていたそうです(笑)。これは30歳くらいになって沖縄音楽に触れてから初めて気がついたんですが、『お富さん』という曲は、実は沖縄音階と沖縄リズムなんですね。

−−なるほど。確かに言われてみるとそうですね。

佐藤:作曲の渡久地政信さんは確か奄美の方で、あの曲のリズムは実はスカなんですよ。「ンチャ、ンチャ」というリズムがね(笑)。沖縄のカチャーシーと同じリズムですから、僕がその後、THE BOOMや喜納昌吉とチャンプルーズで沖縄音楽をやったり、レゲエやスカに興味を持って何度もジャマイカ録音に行ったりすることと、何か繋がっているなと思いましたね。

−−その後、好きになった音楽は何ですか?

佐藤:僕の家は、その後仙台に引っ越して個人商店を始めました。小学校1〜3年くらいまでは商売を始めたばかりなので、どちらかというと貧しい方で、小学校4、5年くらいでようやく人並みという感じだったんです。なので、小学校5年生くらいでテレビが家に入ってきて、小学校6年生でモノラルの電気蓄音機を父親が買ったんですが、そのときに近所の電気屋が試聴盤で付けてくれたのが、民謡『八木節』だったんです。

−−『八木節』ですか…渋いですね(笑)。

佐藤:でも、さすがに『八木節』1枚だけではもの足りないので、初めて買ったレコードが、梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』。つまり渡久地政信から、間に民謡を挟んで、永六輔/中村八大のコンビへと来るわけです。それとTVの歌番組は良く見ていて、そこで好きだったのが、舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦の元祖・御三家ですね。

−−御三家の中では誰がお好きだったんですか?

佐藤:僕は常に天の邪鬼なので、一番人気のあった橋幸夫よりも舟木一夫の方が好き、舟木より少し遅れて出てきた西郷輝彦の方が好きとなり、そして、かわいそうな三田明に一番同情がいくと(笑)。でも、橋幸夫と三田明は共にビクターで、作曲は吉田正さんですから古いタイプで、その点、西郷輝彦の方が詞も曲も新鮮で、レコードを全部集めたのは西郷輝彦。そこで僕は浜口庫之助さんと出会うんですね。

−−当時から佐藤さんは作曲者にまで意識が行っていたんですね。

佐藤:常に作詞家・作曲家で聴いていました。だから、「ジャンルを横断してヒット曲を出し、しかも一人で作詞・作曲をやっている。浜口庫之助という人はすごいな!」と思ったんです。

−−曲は何ですか?

佐藤:やはりラテン風アレンジが強烈だった『星のフラメンコ』が決定打でしたね。

−−先ほど「ロッテ歌のアルバム」のお話が出ましたが、TVの影響は大きかったですよね。

佐藤:NHKでやっていた大人向けの洒脱なセンスが売りの「夢で会いましょう」が大好きで、完全に中村八大さんで育っちゃっているんですね。もちろん「シャボン玉ホリデー」も「ザ・ヒットパレード」も見ていたんですが、やや子供向けに感じられて、僕の中では圧倒的に「夢で会いましょう」なんです。そこに出てきた渥美清さんとか、越路吹雪さんとかが持つ大人のエンターテイメント性みたいなものに、すごく惹かれていました。

−−洋楽との出会いはいつですか?

佐藤:小学校6年のときです。あるクラスメイトが授業が終わって掃除をするときに、机の上に飛び乗り、ホウキを逆さに持ってギターを弾くマネをして、ビートルズの話をしたんですね。それでビートルズの存在を知って、ラジオで曲を聴いたとき即座に「いいな」と思ったんですが、それ以上にショックを受けたのは、ローリング・ストーンズの『テル・ミー』です。
 『テル・ミー』という曲のタンバリンが、スネアとずれている。タメがあるというよりもずれているとしか思えないんですが(笑)、そこにばかり耳が行くんですね。つまりずれているんだけど、何か面白くて、かっこいい。つまり、ビートが後ろにたまっているという感覚があって、それで「ビートルズよりストーンズの方がかっこいい」と勝手に決めて、それから「ストーンズ命」みたいになりました。もちろん同時進行でグループサウンズとかフォークソングも全部聴いていましたし、ビートルズにもメロディーやハーモニーの斬新さに打ちのめされていたんですが、ストーンズはもうちょっと不良っぽくて、サウンドも荒々しくて、そのグルーヴにずっと惹かれていたんです。
 それで、ローリング・ストーンズのアルバムをようやく買えるようになったのが、中学校2年生くらいだったと思うんですが、そこにプロデューサーのアンドリュー・オールダムがメッセージを書いていたんですね。その頃は「ミュージックライフ」や「ティーンズビート」といった音楽雑誌には全部目を通していて、マネージャーやプロデューサーが何をやっている人かというのを何となくは理解していたので、「そういう人たちが裏でバンドを形作っているんだな」と思ったんです。

−−つまり、バンドの裏側に興味が行ったんですね。

佐藤:僕は与えられたものを享受するだけでは満足できなくて、その裏側を知りたい方なんです。そうするとハーマンズ・ハーミッツにも、デイブ・クラーク・ファイブにも、それぞれに裏方がいて、作戦を考えているということがわかるわけです。バンドのメンバーだけでやっているとは思っていませんからね。だから、中学2年くらいにはもう、日記に「こういうバンドを作れたらいいな」と色々楽器編成とか考えて書いていましたね。

−−もうその頃からプロデューサーになることを考えていたんですね。

佐藤:ええ。エレキギターを買って自分達でバンドをやり出した友達もいたので、「コピーをするのなら、この曲が良いよ」とか、「この曲は難しくない割に、かっこよく聞こえるんじゃないか?」とか、アドバイスしていましたから。

−−つまり、佐藤さんは中学の頃からずっとプロデューサーをされているわけですか(笑)。

佐藤:多分そうなんですよ(笑)。あと、音楽と同時に映画を滅茶苦茶観ていましたね。小学校5年くらいから、2〜3日に一度くらい映画を観に行っていました。映画って面白い作品を作っているのが誰かすぐにわかるわけです。つまり、監督と脚本家とプロデューサーですよね。ただその当時は大映、東宝、松竹、日活、東映といったような会社が主で、プロデューサーも独立プロデューサーではないですから、そうすると監督と脚本家の名前を見ていれば、観なくても面白いか面白くないか、なんとなくわかるんです。結局、映画や演劇やショーみたいなものは、要するに総合芸術なんだなというようなことは、かなり前から思っていました。

−−おませな中学生ですよね。その歳でそんなことはなかなか考えませんよ(笑)。

佐藤: 5年くらい前に中学校の同窓会で30年振りくらいに同級生達に会って、自分の現在の仕事について話したら、女性陣が「わかる、わかる」と言うわけですよ(笑)。それで「何でわかるの?」と聞いたら、「昔から怖くて近寄り難かった」とか、「大人びていて、違う世界の人に思えた」とか言われました。

−−ちなみに学業やスポーツはどうだったんですか?

佐藤:中学の頃は剣道部で剣道をやってましたし、生徒会の副会長とかやってましたが、割と不良ぶってましたから、勉強はあまりせずに、いつも映画館に行ってましたね。

−−かっこいいですね。モテモテだったんじゃないですか?(笑)

佐藤:少しは(笑)。でも、同学年とは付き合ったこともないですし、多分敬遠されていたんでしょうね。

−−一言で言うと、頭がよかったんですね。

佐藤:頭がいいというのとは、ちょっと違うと思うんですよ。一言で言うと…ませていたんですね(笑)。

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