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梅津達男氏
 今回の「Musicman'sリレー」は、豊島政実さんのご紹介で、レコーディングエンジニアの梅津達男氏の登場です。ビクター入社から現在に至るまで絶えず第一線でご活躍される一方、現在は日本ミキサー協会の理事長としてレコーディングエンジニアという職業を取り囲む諸問題に取り組んでおられる梅津氏。ご自身のキャリアのお話から始まったインタビューは、エンジニアにとって「真に大切なこと」へと迫っていきます。
[2004年5月26日 / 世田谷区船橋 (株)ミキサーズ・ラボにて]
プロフィール
梅津達男(うめつ・たつお) 日本ミキサー協会(JAREC)理事長/レコーディングエンジニア

1949年 12月18日生。福島県郡山出身。
1968年 日本ビクター(株)入社。RVC録音部に所属。
1983年 フリーランスエンジニアになる
1986年 Sound Valley Studio設立とともにチーフエンジニアを務める。
1987年 DELTA Studio 設立に伴いチーフエンジニアを務める。
2003年 DELTA Studio 解散。
2003年 (株)ミキサーズ・ラボにスケジュールを預けるとともに取締役顧問となり現在に至る。
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1999年〜 日本ミキサー協会設立とともに理事長に就任。
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<主な作品(順不同)>
高橋真梨子、吉田兄弟、川井郁子、岩崎宏美、郷 ひろみ、KAN、ソルティーシュガー、チェリッシュ、はっぴぃえんど 他多数
<MIXER'S LAB> http://www.mixerslab.com/
-----INDEX-----
part1
ビクター築地スタジオへの道のり
内沼映二に追いつきたい!〜切磋琢磨のビクター時代
part2
自己責任としてのフリー
ホームグラウンド「DELTA STUDIO」誕生
part2
エンジニア=個人の力を1つに〜日本ミキサー協会

緊張感の持続といい演奏を引き出すエンジニアの力量
自分の目指す音を捉えよう!

ビクター築地スタジオへの道のり

−−前回ご登場の豊島政実さんとは、どのような出会いだったのですか?

梅津:僕が最初に就職したのは日本ビクターなんですが、入社後に2ヶ月くらい研修をして、配属先にスタジオを希望して、そして運良くスタジオに入れたんです。その当時、スタジオは築地にあって、メンテナンスは音研(日本ビクター音響研究所)がやっていたんです。それで豊島さんがAMPEXを修理に来ていたりして、それが最初の出会いですね。僕が18才くらいで、まだ詰め襟を着て会社に行っていたときです(笑)。

−−そこからのお付き合いが長いですね。

梅津:そうですね。スタジオの機械もそうですし、スタジオそのものもそうです。青山スタジオが出来て、その改修とか、やはり豊島さんにお願いして、「ああしたい、こうしたい」というわがままを色々聞いてもらいました。

−−豊島さんからだと、梅津さんは教え子じゃないですけれど、同僚という感じなのですか?

梅津:豊島さんは大先輩なので、「同僚」なんて言ったら大変失礼なことになってしまいます。ただ、一緒に仕事をすることは多かったです。

−−ところで、ご出身はどちらですか?

梅津:福島県郡山市です。僕が住んでいたところはわりと市の中心でした。

−−ご兄弟はいらっしゃるんですか?

梅津:僕は8人兄弟の末っ子です。僕は工業高校に行ったのですが、中学の時に父が亡くなったものですから、早く働きたいという気持ちがありまして、卒業後は放送局に行きたかったんです。でも、田舎の工業高校ですからそういう就職口がなくて、そんな中、日本ビクターから求人があったんです。その当時、日本ビクターはカラーテレビの工場を作ったばかりで、電気系の工業高校生を150人くらい採用した年なんですよね。

−−梅津さんのビクター入社は何年になるんですか?

梅津:昭和43年ですから、1968年です。

−−ビクター入社時からミキサー志望だったのですか?

梅津:「ミキサーになりたい」という気持ちは、ビクターに入ったときからありましたね。

−−それはいつ頃から思っていらしたんですか?

梅津:小学校5年の時に、子供児童館に遊びに行っていて、アマチュア無線をやっている方が催し物をやってくれたんです。その方が放送局を紹介してくれて、見学に行ったりしていました。あと、中学校2年の時にNHKで「放送局の仕事」みたいな番組を見たんです。その時に副調整室でMIXをしている姿を見て、憧れちゃいまして、それで放送局に入りたいなと思っていたわけです。

−−それは「音楽」というよりも、「放送」に対する憧れだったんですね。

梅津:そうですね。わりと技術関係に対する憧れでしたね。

−−ちなみにその当時、音楽はお好きだったのですか?

梅津:子供の頃から好きは好きだったんですけど、別に楽器をやっていたわけではなくて。まぁ、小学校の頃にハーモニカを吹いていたぐらいで(笑)。ただ、小学校6年生の頃 合奏団に入って、その合奏団が日本一になったような合奏団だったんですよ。でも、中学校に入ったときにそのままブラス・バンドに入るのは何か嫌で、結局入らなかったんです。僕はビートルズ世代ですが、「このグループが好きだ」といった具合に、深くのめり込みはしなかったです。

−−ビクター入社後、最初の配属先はどこだったのですか?

梅津氏 梅津:配属といいますか、最初に導入訓練があって、工場で研修しました。僕はラジオ事業部で研修をしたんです。ビクターの安いラジオ付きのプレイヤーのキットを買わされて、作るみたいなことをしましたね(笑)。

−−その後、配属が決められるわけですか。

梅津:そうですね。その当時スタジオの部門は「レコード事業本部 業務部録音課」とかそういう名前だったんです。でも、そこがそういうスタジオの部署だということは分からないわけですよね。それで人事の方と面談したときには、「東京スタジオに行きたい」と言ったんです。

−−放送局ではなく音楽のビクターだったので、そのまま音楽のミキサーの道へ進むようになったということですか?

梅津:そうですね。配属のとき敵が増えるのも嫌だったので(笑)、「東京スタジオに行きたい」とあまり口に出しては言いませんでしたが、でもその時に6人くらいスタジオに行きたいという人がいましたね。それで、僕も含めた6人が「ちょっと来なさい」と築地スタジオに呼ばれて、確か聴力検査とか、楽器の名前とか、ステレオで聞いてレベルの差とか、低音をブーストした、してないの差とか、そういったテストをやったんですよ。

−−耳の感性に対するテストといった感じですね。

梅津:まぁ、判断できるかということでしょうね。それでスタジオに配属になった1人が、運良く僕だったんです。僕なんか田舎の子なのに対して、周りの人たちは「若林(駿介)さんの本を読んでいます」とか、そういう人がいるわけですよ。ですから、そのテストをやった帰り道は結構暗い気持ちで、寮に戻りましたけどね(笑)。

−−でも、一番いい感性を持たれていたわけですよね。

梅津:感性というよりは、楽器の名前を結構知ってたから、意外とテストの点数が良かったとか、そんな感じだったんじゃないですかね。

−−それにしても、150人も採用となると入ってからが大変ですね。希望の部署に辿り着くまでが…。

梅津:3つぐらいまで希望を書くんですけどね。

−−ちなみに残りの二つはどのような希望だったんですか?

梅津:放送機器の関係と、実習へ行っていたのでラジオ関係です。放送関係のあるところに行きたいと思ったんですよね。でも、工場にいるときは「田舎の電気屋さんになったほうがいいかな?」と思ったりしました。

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