−−「どんなスタジオに行っても同じ音が出る」という伝説をお持ちの内沼さんですが、「内沼サウンド」はどのように生み出されていったのですか?
内沼:(笑)「内沼サウンド」というかね、やっぱり京平さんなんですよ。京平さんは機械の知識はないですけど、先進的なアレンジをしていたし、京平さんは洋楽を腐るほど聴いていましたよね。日本のポップミュージックと洋楽の融合が天才的にうまくて、「沼ちゃんこれ聴いた?」って持ってくるんですよ。それで「今度こういうサウンドを作りたいんだけど」、「このサウンドいいね」とか、試行錯誤しながらもだんだんとカタチが見えてきたんですよね。そのままソックリ真似ている事はないのですけど、研究というか探求する事が好きだったから独特な音って言われるのかなぁ。
−−筒美京平さんとは年代的には同じですか?
内沼:京平さんが僕より5つ上です。
−−お知り合いになったのは30代ですか?
内沼:もうビクターに入った時は仕事をし始めていたので、20代後半かな。
−−アーティストでいうとどのあたりですか?
内沼:完璧にやり出したのは、ソニーの南沙織の全て、郷ひろみ「よろしく哀愁」まで全部。もちろんそれ以外にも単発で色々ありましたけど。
−−まさに筒美京平さんの全盛時代ですね。
内沼:全盛。それだけじゃなくて大橋純子、庄野真代、近藤真彦とか、少年隊、まあいろいろよくやってましたよ。
−−やはり筒美京平さんとの出会いが大きかったと。
内沼:大きいですね。出会う前まではサウンド作りというものに対して、あそこまで追求しなかったと思うんですよ。良い意味で言えば、昔の録音はそのまんま記録すればいい。だけど京平さんと知り合ってから、音を創らないといけないんだなと。音を創造していくということを京平さんには教わりましたね。
−−筒美京平さんとウマがあったのは何か秘訣があったんですか?
内沼:いやー、なんとなくでしょうね。最初に京平さんとやったテープを京平さんが行方さんのところに持っていったんですよ、「このエンジニアどう?」って。そしたら行さんが絶賛してくれたんです。京平さんはエンジニア同士を競い合わせるのがうまかったですね。
−−その当時内沼さんが自信があった部分というのはどういったところですか? 例えば「早さ」とか?
内沼:テイチクの時は同録が多く、早くまとめようというのは、その時鍛えられたんだろうけど。
−−音自体に対してはどうですか?
内沼:よくわからないなぁ(笑)。丁度エンジニア始めた頃、レコードはよく聴いていたんですよ。「これ、格好いいね」とかね、ヒントになりそうなものがあったら聴きまくっちゃうんですよ。そうすると結構頭の中にインプットされていて、それっぽいアレンジされたものだと、「あれやってみようかな?」と。そうするとまた受けてしまうというね。
−−別に音を作る上で苦労はしていないということですね?(笑)
内沼:苦労はしているんですけどね(笑)。どう言ったらいいのかな・・・仮に格好いいサウンドがあったとするでしょう? そうすると「どうやって作ったか?」ということが分かるようになってきたのかなぁ。「こうすれば絶対こうなるよ」っていう。それがだんだん分かってきた。
−−分かる前というのは試行錯誤されていたんですね?
内沼:そう、試行錯誤ですよ。で、だんだん分かるようになってきた。
−−でも、ずっと分からない人も一杯いるわけですよね?(笑)なんだか長嶋茂雄の話を聞いているみたいになってきましたね(笑)。スタジオの中ではありとあらゆることをやってきたんですか?
内沼:そりゃもう。ビクター時代はね、仕事が終わると今ラボにいる梅津君と「何かやろうか」ってマルチを引っ張り出して、朝までやったりとかしてましたよ、よく。
−−仕事で忙しい上に・・・好きなんですねー(笑)。
内沼:ねえ(笑)。
−−新しもの好きですか?
内沼:新しもの好きなんですよ(笑)。だから、角松(敏生)さんなんかとやり始めた時も、彼も結構新しもの好きだから、そのへんでウマがあって20年も一緒にやっているんですけどね。
−−内沼さんは早い時期からリミックスも手掛けられていますよね?
内沼:リミックスは結構好きでね。早かったと思いますよ。リミックスはね、角松関係でマイケル・ブロアーというエンジニアを日本に呼んだんですよ。それで、「東京タワー」という曲のテープを刻んでリミックスをするというのを実際に見て。それがとんでもないセンセーショナルだったんです。「リミックスってこうやるんだ」ってね。それからリミックスは角松さんと数多くやりましたよ。
−−その作品は持ってますよ(笑)。当時「格好いいなー」って聴いてました。
内沼:当時としては格好よかったよね、あのリミックスは。
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