−−ミキサーズ・ラボ設立の経緯についてお話ししていただきたいのですが。
内沼:仕事についてはビクターに対して何の不満もなかったんです。ただ、33才くらいの時に管理職にされたんですよ。それで管理職として上と下の狭間にいるのが、本当に嫌で嫌でね。僕は管理されるのが嫌だったから、同僚というか、若いエンジニアを管理したくないんだけど、上はガンガン言ってくるし、こんなのやってられないなと思ってね。
−−その管理というのは、「朝遅刻するな」とかそういうものですか?
内沼:そうそう。1から10まで。加えてビクターに入ってからアルバイトをやり始めたというのもあった。その時代に、筒美京平さんと知り合ったのもすごくラッキーだったんですね。京平さんの後半の作品は、結構やらせて頂いたんです。それはソニーとかビクター以外の仕事が多かったから、ビクターの仕事が終わって、ソニーの仕事に行っての毎日でしたね。
−−それは「合法」だったのですか?
内沼:いやいや「違法」ですよ(笑)。始末書3回くらい書いたもの(笑)。一時は外の時間の方が多かったんじゃないかな。奥村さんは見て見ぬ振りをしていたと思うんですけど、結構表沙汰になっちゃってね。それで、当時の本部長の長野さんに始末書を持って行ったりしてね(笑)。
−−それでもう独立しかないと。
内沼:管理職をやるのが嫌だっていうのもあったし、当時アメリカのエンジニアがレコード会社を離れて、フリーになっていく状況だったんですよ。日本は5年か10年遅れでだいたいアメリカと同じようなシステムになるから、「日本も絶対そうなるな」と思って、当時ヤマハにいて僕と同じような状況だった清水(邦彦)と「5年ぐらいもてばいいか」ということで作ったのがミキサーズ・ラボなんです。そしてちょうど日音がスタジオを作ろうとしていることもあって、「こりゃタイミングがいい」と思ってね。日音がバックボーンとなれば、まあ仕事の量的には問題ないだろうし。
−−その時代はまだ日本でフリーのエンジニアはいなかったのですか?
内沼:フリーはいなかったですね。クラシック系だと若林駿介さんみたいな方はおられましたけど、本当にフリーという形ではなかったですね。
−−ということは、内沼さんと清水さんが、フリーとして名乗りを上げた草分けっていうことになるんですか?
内沼:そうなりますね。
−−ちなみに清水さんとはどこで出会われたのですか?
内沼:テイチクですよ。僕がテイチクを辞めたあとに清水が入ったんです。僕はテイチクを辞めたあとも仕事で結構行っていたのでそこで会って、それから一緒に旅行へ行ったりしていたんですよ。
−−ミキサーズ・ラボを作ったときは人をたくさん雇うとかは考えていなかったのですか?
内沼:全然。
−−管理職が嫌だというのと、自分たちが自由に色々な仕事がしたいという理由で作ったのがミキサーズ・ラボ?
内沼:そうです。
−−で、どうしてこうなっちゃったんですか?(笑) 率直に言って管理職よりももっと面倒臭いことをやってしまったのではないか? と思うのですが・・・。
内沼:僕もそう思いますよ。サラリーマンの方が良かったかなって。
−−そのほうがエンジニアとしては気が楽だったのかなと思うんですが?
内沼:1つの要素としてはね、ビクターにいたとき、スタジオ設計をやっている豊島(政実)さんとの出会いがありますね。豊島さんは飲むのが好きだから、その頃渋谷のキャバクラじゃない・・・アルサロで一緒に飲んだりしてね。
−−アルバイト・サロン(笑)。
内沼:そうそう(笑)。で、豊島さんと親しくなって。豊島さんが日本で最初に手掛けたスタジオは・・・テイク・ワンじゃないかな? テイク・ワンとか、名古屋の方の大きな電機屋さんの立派なスタジオを作ったりしてて、それで、日音スタジオを作る時「これは豊島さんに頼まなきゃ」ということで頼んで。そこからですね、豊島さんと色々作るようになったのは。
−−ざっとあげると?
内沼:まず、日音スタジオのA、B、C作って。Cがすごく評判よかったんです。豊島さんは豊島さんでタウンハウスのエンジニアが日本に来て、日音スタジオが気に入っちゃって、「これと同じものを作ってくれ」ということで、海外で最初に作ったのがタウンハウス。そこがまたロンドンで受けちゃって、ロンドンの有名なスタジオはほとんど豊島さんがやっちゃった。日本ではね、日音スタジオのあとにすぐ作ったのがサウンドバレー、小杉理宇造氏のスマイル・ガレージ、ウエストサイド、パラダイスの駒沢と渋谷、ON AIR麻布、ワーナースタジオを作って・・・そんなもんかな?
−−つまり、ご自分たちで作ったスタジオには責任を持ってエンジニアやアシスタントを送らなくちゃいけないということですか?
内沼:そう。結局それから人数が必要になってしまったということですよね。「作ったら、ちゃんとしてくれますよね?」という要望があったのでね。
−−「技術的な面倒を見てくれるんだよね?」ということですね。
内沼:そういうことですね。当然ラボとしてもスタジオを独自に作ったし。面白い話があって、またここで小杉理宇造が出てくるのだけど、彼がワーナーの会長をやっていた頃、ワーナーのスタジオを作って欲しいって依頼が僕と豊島さんにあってね。当時、六本木にワーナーのスタジオがあったんだけど、外観がなかなかでしてね(笑)。小杉さんが下見に行ったとき、入り口見た途端、「俺はもういいや」って言って、Uターンして帰っちゃったらしいのですよ。(笑)。
−−六本木のあそこですか?
内沼:入り口がラーメン屋の(笑)。それを見て「いいよ、いいよ、俺はもう」って(笑)。ワーナーはかっこいいスタジオが欲しかったんだろうね。
−−現在、ミキサーズ・ラボにエンジニアは何人いらっしゃるのですか?
内沼:54人くらいいるんじゃないかな。
−−すごい人数ですね。内沼さんはミキサーズ・ラボの経営にはどの程度タッチされているのですか?
内沼:現場もやりながら、清水と二人三脚でなんとかやっていますよ。清水は主に総務経理関係の方をやってますね。
−−清水さんが右腕としてそういうことをフォローしてくれていると。
内沼:そうですね。
−−続いてディスク・ラボ創設のお話も伺いたいのですか。
内沼:ON AIRができた年だから…あの頃まだCDのマスタリングというのがレコード会社の編集室でやっていたような時代で、アメリカには独立したマスタリングのスタジオっていうのがすごく増えて、「日本もこうしないと駄目なんだな」と思って作ったのがディスク・ラボなんです。エンジニアもロスにいたボビー(・ハタ)を呼んで、ソニーから原田(光晴)さんを呼んで始めたんですけど、最初はすごくよかったんですよ。でもこれはウチの責任もあるんだけど、継続して力を入れていけなくて、他にも色々できてきて、仕事の取り合いになっちゃって、結局ON AIRの方に預けたんですよね。その後、ワーナーが録音部を廃止にしたいということで、それに伴い「ラボさんで全部受けてくれないか?」という要請があってね。あの頃はオーディオだけのマスタリングだったので、責任者の菊地(功)と話して「これからはDVDやっていこうよ」っていうんで、いち早くDVDにも取り組んだんですよ。それで、手狭な事もあり場所を代えようという話になって、無理して六本木から南青山の方に移ったんです。
−−そこはオーサリングもやっているんですね。
内沼:やっています。それがなかったら結構今厳しいかもしれない。
−−そこの名義はワーナーなんですか?
内沼:ラボの事業部の1つなんですが、ワーナーさんとの業務提携のなかで、契約条項にワーナーの名称を使用するというとなっているんですけどね。
−−外部の仕事もなさっているのですか?
内沼:してますよ。今後、外部の仕事をどんどん取り込んでいきたいと思っているのですが。
−−「e-Mastering」も業務提携されてますよね。
内沼:DDP(注)のワム・ネットというセキュリティのしっかりした単独のネットなんですけど、それがワーナーの洋楽はワム・ネットでやるようになっているんです。で、それを生かせることはないか? ということで「e-Mastering」に繋がったんです。
−−「e-Mastering」とは、具体的にどのようになっているんですか?
内沼:スタジオで作ったものを海外に送って、マスタリングしたものをまた送り返してくるんです。
−−専用回線でですか?
内沼:そう。でもその音の比較をこの前したんですけど、全然問題ないですよ。
−−凄い時代ですね。
内沼:今のところ工場でそれがあるのはソニーだけなんですよ。だから、ワーナーのものでソニーの工場でプレスしているものは、洋楽の場合、向こうから送ってくるでしょ? それでワーナーで検聴し、DDPファイルを作って、そのままソニーに送って、ソニーはそのままプレス。
−−物体移動がない!
内沼:そう。DVDも含めてその辺をこれから展開させていこうと思っています。
(注)DDP(ディスク ディスクリプション プロトコル)
光ディスクを製作する際に個々のエレメント(オーディオ、マルチメディア、ISRCおよびPQなど)がどのように組み込まれるかを正確に定義するための命令セット。 1996年にヴァージョンアップされたDDP2.0は、DVDマスターの標準配信フォーマットとなっている。
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