−−テイチクには最初何で入ったんですか?
内沼:アシスタントですよ。アシスタントで入って、デモテープを担当していたんです。もう亡くなったのですが、榊原さんという石原裕次郎さんとかをやっていたテイチクの名物録音課長が、エンジニアにはすごく厳しい人でしたが、そのデモテープを聴いて「お前は良い素質を持っているな。今度ちゃんとした本番やれよ」と言ってくれて、それで本番をやらしてもらえるようになったんです。それが結構評判が良くて。
−−右も左もわからずに、怒鳴られながらというような時代が内沼さんにもあったということですね。
内沼:もちろんそうですよ(笑)。
−−そのスタジオはマルチとかあったのですか?
内沼:ないです。まだモノとステレオだけですね。テイチクに入っても4CHはあったのですけど、多数のマルチはなかったです。テイチクに入ってからマルチ・チャンネルの発展と共にエンジニアの仕事が増え。そこからですね、朝から朝まで(笑)。
−−テイチク時代で一番思い出に残っていることは何ですか?
内沼:大映レコードというのが当時あって、大映の俳優さんを僕はほとんどやっていたんですよ。当時テイチクの基本給が2万7千円くらいだったと思うのですけど、勝(新太郎)さんが一日来て歌うと「心付け」をくれるんですけど2万円入っているんです(笑)。「こんなにもらっちゃっていいのかな」って感じですよね。しかも来る度にくれるんですよ。
−−今でいうと27万円の給料の人が、20万の「心付け」をもらっているようなものですね。
内沼:ビックリしちゃってね。で、課長に「こういうの頂いたんですけど、いいんですか?」って訊いたら、「まあいいだろう。もらっておけよ」って。おいしかったですよ。俳優さんってみんなするんですね、撮影所の中でも。だから、レコーディングのスタッフにもくれるんです。
−−今の人たちはないですよね?
内沼:ないですよ(笑)。
−−それに加えて残業代があったわけですか?
内沼:残業代はありましたよ。
−−そこが今のレコード会社と違うところでしょうね。
内沼:そう。今はもう全然。良き時代でしたね(笑)。
−−テイチクには何才から何才までいらっしゃったんですか?
内沼:入ったのが21才で、ビクターに移ったのが25才ですね。
−−テイチクからビクターという移籍はどのようないきさつだったのですか?
内沼:奥村さんというビクターの録音部長が是非来てくれというのでね。ビクターに外様で行ったのは僕だけだと思うんです。丁度RCAが事業部として発足するので、RCAをメインにやってくれないか? ということで入ったのがきっかけですね。
−−スタジオは青山ですか?
内沼:いやいや、築地です。で、一番最初にやった仕事が内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」ですよ。全然使い方もわからない頃にやったんです。
−−ビクタースタジオって築地にあったんですか?
内沼:日刊スポーツの真ん前ですよ。いま郵便局になっているところですね。もう平屋の汚いスタジオでね。築地のスタジオを知ってる人はなかなかいないかもしれないね(笑)。あの頃は森 進一さんとか青江三奈さんとか、みんなあそこで録音していましたからね。
−−まだその頃は会社からの給料と残業代だけだったんですか?
内沼:もちろんそうですよ。
−−たまに大スターからお小遣いをもらったりとかは?
内沼:それはもうなかったですね(笑)。
−−「長崎〜」の頃のビクタースタジオは何CHだったんですか?
内沼:6CHです。ビクターだけなんですけどね。昔のビクターのジャケット見ると「パーフェクト6」というロゴが入ってましたね。
−−それはビクター製なんですか?
内沼:いやいや、アメリカ製。AMPEXの300TYPEの6CH。ですから、8CH、16chに移行する前ですよね。
−−RCA所属のアーティストは全部手がけられたということですか?
内沼:そうですね。当然RCAのアーティストは全部やりました。クールファイブ、和田アキ子、藤圭子とか。
−−自動車レーサーでいえば「ファクトリー・ドライバー」ですね。
内沼:昔は1作品にかける時間が今よりも短かったからね。
−−その当時、ミキサーと呼ばれる人は何人ぐらいいて、何人で仕事を分け合っていたのですか?
内沼:数えたことないけど、そんなに多くなかったのじゃないかな。でも、今より制作は数段多かったからね。
−−ちなみにビクターにはエンジニアは何人いたのですか?
内沼:出来るエンジニアは6人くらいですね。
−−今その中で現役の方は、内沼さん以外にいらっしゃいますか?
内沼:しいていえば、梅津(達男)君・高田(英男)君くらいですかねぇ。
−−では、同年代の方で今もポップ・ミュージックを手がけられている方は?
内沼:そう考えるといないですよね(笑)。
−−40年間常に第一線で活躍されているというのはすごいですね。 この記録はどこまで更新され続けるかと・・・。
内沼:(笑)でも、僕の好きなエンジニアだけどブルース(・スウェーデン)っていうマイケル・ジャクソンをやっているアメリカのエンジニアは65才ですからね。
−−まだ5、6年は軽いなという感じですか?
内沼:いや、そんなにはできないでしょう、おそらく。
−−当時は無我夢中でやっていたという感じですか? それとも仕事が楽しくて仕方なかったという感じですか?
内沼:その両方ですね。テイチクでも色々な仕事が出来たんですけど、ビクターに入ってもっと色々なジャンルが出来るようになったので、それが今すごい財産になっていますよ。あの頃のビクターは洋楽がすごかったから、日本に外国人アーティストが来ると必ず録音していたのですよ。ジャズ、ラテン、クラシック系ほとんどやりましたね。結構いい作品も残っていますよ。
−−それが出来たっていうのは、運がいいですよね。
内沼:本当に運がいいですよ。
−−内沼さんがあと10年遅く生まれていたら・・・。
内沼:おそらく無理ですね。高校の先生の言う通り、大学の工学部に行っていたら・・・まあそれもわからないんですけどね。やっているかもしれないし。
−−内沼さん以前のミキサーというのは、歌謡曲とか演歌とか放送局の録音技師みたいな人しかいなかったわけですよね? そういった人たちは音楽をミキシングによって表現するみたいなことを要求されていなかったのですか?
内沼:うーん、されてなかったですね。「エンジニア」とかそういう名前が付いたのは、ずっと後ですからね。だから最初は録音技師とか、地方へ行くとみんな電機係ですからね。地方の公会堂とかホールだと音声ではなくて電機係の人が片手間でやっているという状況がずっとありましたからね。
−−レコード会社に録音部というのが出来ていて、録音技師さんがエンジニアになっていったわけですよね? 内沼さんはそのハシリと言うことになるんでしょうか?
内沼:まあ、僕なんかより大勢先輩がいらっしゃるわけですから。ハシリというか・・・。
−−今いらっしゃる方で内沼さんの先輩というと、どなたになるのですか?
内沼:行(行方洋一)さん、コロムビアの岡田(則男)さんでしょ、あと元ポリドールの前欣さん(前田欣一郎)とか、テイチクの時にいた伊豫部(富治)さんとか、先輩は一杯いますよ。
−−皆さん少し系統が違いますよね?
内沼:でも、ビクターの後半なんですけど、行さんが「レコード会社のタテはあるけど、ヨコがないじゃない」って言って、「月に1回でいいから集まろうよ」ということになって、月1回話し合っていたんですけどね。
−−そこでヨコの繋がりが出来たんですね。
内沼:そうですね。
−−それは何年頃の話ですか?
内沼:行さんが東芝の後期の頃だから、'75年頃かな? 一番良き時代じゃないかな。エンジニアというか録音技術や機材が一番上昇カーブを描いていた頃なので。だから、僕なんかタイミング良く生まれて、いい時代に過ごしているんですよ。
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