−−まず、前回ご登場いただいた松本晃彦さんとのご関係からお伺いしたいのですが。出会いはいつ頃ですか?
内沼:昔から仕事はしてたんですが、ここ最近は映画のサウンドトラック作品で一緒に仕事させていただいていて、その中でも昨年日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞した『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』の仕事が一番印象深いかな。
−−松本さんに対して、どのような印象をお持ちですか?
内沼:映画のサウンドトラックに対して、彼は素晴らしいものを持っていると思います。『踊る〜』のサントラは音楽としても評価が高いんですよね。イントロを聴けば作品が思い浮かび、作品を見れば音楽が頭の中を駆け巡る。こんなにも人を惹きつけるサウンドトラックは松本さんの感性ならではじゃないでしょうか。
−−意外と細かい方なんですか?
内沼:細かいというよりも繊細。良い意味での「こだわり」が作品を盛り上げる。僕は1曲1時間ぐらいでバランスをとっちゃうんだけど、最終的にOKが出るまで6,7時間ぐらいかかったりすることもありましたね。
−−内沼さんの仕事は他のエンジニアに較べて早いという話をよく聞きますが。
内沼:早いのが唯一の取り柄ですから(笑)。
−−7時間かけた成果はやはりあったな、という感じなんですか?
内沼:そうですね。OKでるまで大変なこともありましたが細かく微妙なバランスを再現していると思います。
−−ご出身は群馬県だそうですが、どちらですか?
内沼:桐生です。静かで、非常にいい街だと思う。
−−夏暑くて冬寒いんですよね。
内沼:冬は、「からっ風」が冷たいですね。
−−お生まれになったご家庭はどのようなご家庭だったのですか?
内沼:桐生って繊維産業の街だったので、おふくろは自動織機の織工をやっていたんですよ。で、親父は僕の生まれる半年前に戦死しまして、母子家庭で育ったような感じですね。親父の実家というのが埼玉で、そこに「内沼」という名前があって、財産家なんですよ。でも、一銭も援助をしてくれなくて、おふくろがすごく苦労して育ててくれました。
−−お父さんのお家とはあまり交流がなかったんですね。
内沼:親父が四男坊で、当然今の代は親父達の次の代になっているのですけど、全然行き来ないですよ。1、2回程埼玉の方に行った憶えはあるんですけど。
−−内沼さんは子供の頃、どんな少年だったんですか?
内沼:いやぁ、箸にも棒にも掛からない子供だったんじゃないですかね(笑)。群馬県の桐生に居たのは小学校3年迄で。おふくろの姉が川崎で洋裁のお店をやってまして、その伯母が金の蓄えも出来て、川崎の方に家を建てたのを機に「川崎に来なさい」ということで、家族3人で上京したんです。以来、小学校の4年からずっと川崎なんですよ。
−−その伯母さんは内沼さんにとって父親代わりの存在だったんですね。
内沼:本当に親父代わりですね。残念ですが、昨年92歳で亡くなりましたが。
−−その伯母さんがいなければ、今の内沼さんはなかったということですね。
内沼:何やっているかね。野垂れ死んでいるかもしれない(笑)。
−−お生まれが '44年ということは少年時代は腹一杯食えない時代だったわけですよね?
内沼:もう、語るも涙っていう感じになっちゃいますよね(笑)。おふくろが煙草の紙巻きを内職でやっていて、小学校1年くらいの時かな? おふくろが「煙草買ってきて」って言ったのが、「卵買ってきて」に聞こえて、「今日は卵が食べられる!!」って卵買ってきちゃって、怒られたり(笑)。
−−川崎に来られてからはどうでしたか?
内沼:川崎に来てからは生活がコロッと変わって。別に裕福ってわけじゃないですけど、普通に戻ったってことでしょうね。川崎に来てからの方が、思い出は一杯あります。
−−音楽との出会いはいつだったんですか?
内沼:小学校6年くらいまでは、AMラジオの歌番組といったものを聴いていたので、ほとんど歌謡曲ですよね。洋楽はその頃聴けなかったし。洋楽との出会いは中学2年くらいかな? プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカなんかがラジオでかかるようになって、「これ、いいな」って思いはじめて。
−−それは単にリスナーとしてですか?
内沼:もう単純に聴くだけですよ。
−−どういう経緯でエンジニアを志すようになったのですか?
内沼:そうですよね(笑)。僕は小さいときから鉄道が大好きで、今でも好きですけど、小学校の時は完全に鉄道の運転手になりたくて、高校は鉄道高校に行こうと思っていたのですが、音楽の方にだんだん惹かれていってね。中学3年の頃は家電メーカーが大きなステレオを作り始めた時期で、ある日、川崎の大きなデパートに各メーカーのステレオを集めたオーディオ・フェアを聴きに行って、それで音というものにすごく興味を持っちゃって、音を扱ったり音楽ができる仕事ってないのかな? と自分なりにリサーチしたんです。その時聴いていたのがブラス・バンドの音楽で、「ブラス・バンドやろうかな?」と思って、高校入学後すぐにブラス・バンドに入って、クラリネットを始めて、高校2年の後半からドラム始めたんですけど、2年くらいやって「演奏する方は才能ないな」と自分で思って、音自体も好きだから「これを録音する仕事があるのではないか?」と考えたんです。僕は中学の頃まで全然勉強しなかったんですけど、高校に入ってからすごく勉強するようになったんですよ。おかげさまで成績も良くなって、高校は法政大学の付属の工業高校だったのですけど、先生に「お前は成績がいいし、法政大学の工学部だったら無試験で入れるから、就職しないで工学部行け」って言われたんです。でも家も裕福ではないし、早く働くことを考えた方がいいなと思って、「就職します」と言って。それで先生が「お前何やりたいんだ」と言ったので、「こういう仕事があるはずなんですけど…」って相談したんです。でも先生もわからないので、職員室で電話帳を見ながら、片っ端から電話したんです。その時、一緒に電話しながら探してくれた同級生が、キャロルとかをエンジニアリングしていた日本フォノグラムの小林(敏夫)なんです。
−−Musicmanもなかったですしね。
内沼:情報なんてなにもない(笑)。電話帳頼りだよ。
−−その頃ミキサーという職業があったんですか?
内沼:ある、ってわかったんですよ。あるけどほとんど知られていない。学校の先生も知らないぐらいですから、就職だって来ないでしょ?
−−でも、ついに見つけたんですね。
内沼:「録音」というのを見つけたんです。それでそこに電話をして「2人なんですけど」って言ったら、「2人かぁ・・・。でもまあ来てみなさい」って言われて、行ったんですよ。
−−それがテイチクなんですか?
内沼:いや、テイチクではないんです。その前に2年弱、東京録音現像という会社にいたんです。映画のフィルムを現像して、録音スタジオも所有しているところですけど、そこで知り合ったのが現キュー・テックの社長の森本(義久)さんなんです。森本さんとか、その上に小山さんっていうTBS系のエンジニアがいて、その人たちには結構教えてもらったんですよ。
−−では、すんなり入れたんですか?
内沼:みんな年を取っているから、若いのを入れましょうということになって入れてくれたんですよ。
−−その時は何もわからないままですか?
内沼:何もわからないですよ。とりあえず来いと。
−−小林さんとお2人で(笑)。
内沼:そう(笑)。それで2年弱過ぎてから、小山さんが「ちゃんとしたレコーディング・スタジオに行って、やったほうがいいんじゃないか?」ということでテイチクを紹介してくれたんですよ。で、すぐ来なさいということで、次の日から行ったんです。
−−その最初の2年間でエンジニアの基礎を学ばれたんですね。
内沼:すごく教えてもらいました。森本さんとはたまに会うんですけど、非常に感謝しています。
−−専門学校ではなく、プロのスタジオで直に学ばれたわけですね。
内沼:当時そのスタジオでやっていたのが「シャボン玉ホリデー」とか、結構いいものをやっていたので、色々なことを教わりましたね。ラッキーだった思う。
−−高校の時点でそこを探し当てたっていうのがすごいですね。
内沼:今から考えると必死だったんでしょうね。
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