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松本晃彦氏 内定もらって就職せず〜大学4年の決断

−−大学に入られて、本格的に音楽活動を始められたのですか?

松本:学生のコンテストとかに出ると必ず賞をもらえたりして、「意外と俺いけるかな?」っていう感じがちょっとしたんですよね(笑)。その当時の早慶バンド合戦とか、マツダカレッジフェスティバルとかで、キーボード賞や優秀賞をもらったんです。もちろん、それとプロ・ミュージシャンとは全然違いますけどね(笑)。で、大学のサークルのバンドで、「ショコラータ」っていうのを始めたんです。

−−「ショコラータ」は大学何年くらいで始められたんですか?

松本:大学3年かな?

−−では、学生時代にデビューしたわけですね?

松本:実は、もう1つバンドをやっていたんです。ボーカルが崎谷健次郎で、ベースが有賀啓雄っていう渡辺美里とかをプロデュースしている人で、学生のときにポニーキャニオンからレコード・デビューしたんですよ。そのときにショコラータを辞めて、そっちでいったんです。だから、ショコラータは初期のメンバーではあるんですけど。

−−崎谷さんのバンド・メンバーみたいな感じですか?

松本:そうですね。崎谷君がソロ・デビューする前にバンドでデビューしているんですよ。「VIZION」という。当時、リバースター・レコードというのがあってそこから。

−−では、「ショコラータ」でデビューしたときは、メンバーでなかったのですか?

松本:デビューといっても、メジャー・デビューの前に「TRA」っていうカセットマガジンというか、今で言うインディーズ・マガジンみたいなところから出したときは、まだ参加していたんですけどね。

−−創業メンバーではあったけど、メジャー・デビューのときにはいらっしゃらなかったと。

松本:そうそう。そのときは二者択一といった感じだったので(笑)。

−−では、就職活動とかは関係なかったですか?

松本:就職活動は一応したんですよ(笑)。就職するんでも音楽の仕事の方がいいかな?と思っていて内定もいただいたんです。でも、このまま就職するよりも、やっぱりミュージシャンになりたいなと思ったんですけど、「やっぱりミュージシャンになりたいんで、就職しません」ってなかなか言えなくて、それで「留年してしまって卒業できなかった」って言おうと。僕、成績は良かったんですけど、テストさえ受ければ卒業できるっていう単位をわざわざ取らなかったんですよ。

−−すごい!

松本:でも内定もらったのに「やっぱりミュージシャンになるので、やめます」って言えないですよ(笑)。今みたいに音楽家として活動できるとわかっていればいいんですけど(笑)、当時はわからなかったですから、自分自身も決めかねてましたし…。試験のときは、大学のそばまでは行ったんですよね。みんな会社の資料かなんかを持って歩いている姿を見て「俺とんでもないことをしてしまったのかもしれないな」と思いましたね(笑)。

−−ということは、音楽家としての自分の未来に絶大な自信があったわけではないんですね?

松本:そのときはEPOのバックバンドをやっていたんですよ。

−−もうミュージシャンとしてお金は稼げていたんですね。

松本:でもね、そのことを思い出すと「なんでそっちへ行っちゃったんだろう?」って理由がわからないんですよね(笑)。冷静に考えれば就職した方が、本当はいいんだろうなとは思いましたけどね。卒論を出した教授とかにも「就職した方がいいに決まってるじゃないか」って言われました(笑)。

−−結局留年したんですね。

松本:大学は8年まで行きましたけど、6年から8年まで3回しか学校に行かなかった(笑)。でも、大学8年の頃にはわりとちゃんと音楽活動をしていたので、もうこのまんま…という感じでした。

−−ご両親は何も言わなかったですか?

松本:学費も自分で払えるようになっていたので。親は10年くらい前まで、本当に留年したと思っていたみたいです(笑)。

−−騙しきっていたんですね(笑)。

松本:実は違ったんだよねっていうのも、だいぶ経ってから話しましたけどね。

−−お父様は音楽系の仕事をなさっていたので、ミュージシャンという職業に対してもご理解があったんですよね?

松本:でも、叔父のように必ずしも誰もが成功するとは限らないので、難しいですよね。自分が無理矢理選んでしまったということでしかない。例えば、今僕も同じ状況だったら「音楽家を目指してみろ」とは、たぶん言わないと思うんですよ(笑)。上手くいくかわからないし。

−−でも、お父さんが公務員っていう人よりは理解があったでしょうね。

松本:でも、コンサート・ツアーの仕事を始めた最初の頃って年収が120万ぐらいだったんですよ。でも、プロミュージシャンとしてはキーボードやシンセサイザーを買わなければならなくて、当時オーバーハイムのシンセサイザーが150万くらいしたのかな?150万だけど、それを買わないと仕事にならないので、「男の60回払い」で買ったんですよ(笑)。そのとき父は保証人になってくれませんでしたね。それで、その当時EPOのバンドで一緒で、今もCHAGE&ASKAのバンドで一緒の鈴川(真樹)君のお父さんが保証人になってくれて(笑)。

−−バンド仲間のお父さんが保証人(笑)!?

松本:そう(笑)。だから僕は彼の父上には足を向けて寝られないんです。鈴川君は僕と同い年で早稲田のダンモ(モダンジャズ研究会)にいたギター・プレイヤーなんですけど、一緒にEPOのバンドのオーディションを受けたら受かったんですよ。そのときのバンマスが清水信之さんで、その後清水さんの所属するハーフトーン・ミュージックっていう事務所に所属させてもらったところから、プロっぽい活動になってきたんです。

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INDEX
音楽一家に育った少年時代
▼ 内定もらって就職せず〜大学4年の決断
年間100曲を手掛ける売れっ子アレンジャー時代
自分のカタチになるような音楽を作りたい〜叔父・松本英彦の影響
飛躍の「踊る大捜査線」
音響システムの進化──5.1chシステムの未知なる可能性
日本人ミュージシャンの使命〜世界進出の3本柱


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