−− 一度外から見てみようと思われたわけですね。
森田:そうですね。20代の時に考えてたんですよ。オリコンで1位をとれたらアメリカに行こう、アメリカで頑張ってみようって。でも結局2位までは何度もいってるんですけど、1位にはならなかったんです(笑)。
−−1位にはなれなかったんですか。
森田:そうなんです。いつも偶然すごく売れてるものと当たっちゃったりして…2位は何度もとってるんですけどね(笑)。口惜しかったですね(笑)。それを思い出したんですよ。自分が世界に通用できるプロデューサーかどうか確かめたかったんです。オリコンでも言いましたけど、僕はずっと「ミュージックマン」という言葉にこだわってるんですよ。僕が憧れていたレーベルのトップはみんな世界に通用するミュージックマンとして君臨してるわけですよね。
−−そうですね。僕らもこの「Musicman」っていうタイトルには思い入れがあるんですが、最近ミュージックマンという言葉を使う人が増えたみたいで嬉しいですね(笑)。
森田:自分は世界に通用するミュージックマンになれているのか、なれるのか、知りたくなったんです。日本では通用しているけど、自分のことを知らないところに一度身を置いてやってみたいと思ったんです。結果的にそれは他の国に行くこと、客観的な立場で自分を見ることだったんですね。
このころには仕事でけっこうニューヨークに行くようになっていたので、ニューヨークだ!と思って単身ニューヨークに行こうと決めたんです。
−−どうしていきなりニューヨーク!だったんですか。
森田:日本のマスタリング技術に対する疑問が長年あったんですよ。ミックスまでは日本でもけっこういい音になるんですけど、マスタリングが全然違う。それで一度向こうの人達と全部やってみようと思って、クレジットを見ながら自分たちのやりたい人をピックアップしてやったことがあるんですよ。そうしたらほんとに音が全然違うんです。なんであんなに違うんだろうってくらい圧倒的に音が違うんです。マスタリングの重要性に気がついてからは、自分が手掛ける作品はニューヨークでマスタリングするようになりました。ヒップホップやR&Bのジャンルは特に「featuring〜」という形で海外のアーティストやDJとコラボレートしますよね。だからよけいに海外でやろうという気持ちが強くなりました。
−−たしかに最近は日本のアーティストが海外のミュージシャンとコラボレーションすることが珍しくなくなりましたよね。
森田:それも僕らの先輩たちがやりたくてもできなかったことだと思うんです。僕らの世代ではそういうことが普通に行われるように、スタッフもそうならないといけないですよね。だからやっぱり向こうに住んでみるべきだ!と思ったんです。生活してそのマーケットを感じで、生活の中で生まれる音楽を体験しなければダメだって。それで日本での生活を1回すべてリセットして向こうに行く決意をしたんです。
−−仕事も生活も全てリセットされたんですか?
森田:アーティストのプロデュースは続けてくれと言われていたので、いくつか削りながら続けて、もちろん自分の会社もアパートも東京に残したまま、ニューヨークにもアパートを借りて、東京で仕事のあるときは戻ってきて、行ったり来たりするようになったんです。
−−なにかツテを頼って渡米したんですか。ほんとうに新天地でゼロからのスタートだったんですか。
森田:ええ、コネとかはなにもなかったんですけど、住んでるうちにだんだん知り合いができて…久々に情報を自分で探して自分でコンサート・チケットをとったりしましたね。日本にいるとコンサート・チケットはだれかにとってもらったり、情報も自然と入ってきますけど、向こうでは自分で情報を収集しないとなにも入ってこないんですよ。いろんな人種といろんなジャンルが普通にごちゃまぜになってる、独特の自由さがありますよね。そういうフラットな生活の感じが自分にすごく合ってたんです。
−−渡米されていたのはいつごろの話なんですか?
森田:「WHITE OUT」(織田裕二主演映画/2000年・森田氏は音楽プロデュースを担当)のあとだから…2000年ぐらいですかね。
−−けっこう最近なんですね。
森田:そのときはロードランナーに来る事なんて決まってませんでしたから、ある程度人脈もできて、仕事もできていたので、本気でグリーンカードを取ろうと思ってました。ニューヨークでいちばん衝撃を受けたのは、韓国の音楽に出会ったことなんです。自分の中でこれに気が付いたのは大きかったですね。タワーレコードとかアメリカの普通のCDショップだと日本のCDは個別に扱ってなくて、「WORLD」のコーナーの「ASIA」のなかに入ってるんです。どんなに日本の音楽がすすんでいようが、ヒップホップをやっていようが、日本でどんな音楽が流行っているかなんてほとんどのアメリカ人は知らないし、音楽業界人だって一部の人しか日本の現状はつかんでないのが現状なんですよ。でもあるときコリアンタウンで「KOREAN & J-POP」という看板を見かけてレコードショップに入ったら、僕がそれまで手掛けたDJ HASEBEやsugar soulとかが面出しして置いてあったんですよ。だからカタコトの英語で、これは僕がプロデュースしたんですよって店のオーナーに話しかけたんです。オーナーはコリアンなんですけど、韓国ではR&Bとかヒップホップ、日本の音楽もけっこう好まれていて、sugar soulとかみんな好きでよく知っていますよって教えてくれて…韓国の音楽はそれまであんまり知らなかったんですけど驚きましたよ。それで彼と友達になっていろんな話をしましたね。
−−意外なところでJ-POPが支持されていることを知ったんですね。
森田:それから、(株)ロボット(踊る大捜査線などを手掛ける制作会社)のスタッフが韓国の音楽が面白いからなにかできないか、って日本に持ち帰って来たんです。聞いてみたらすごい格好良くて衝撃を受けましたね。「紫雨林(JAURIM)」をはじめ、韓国にはいいアーティストやバンドがたくさんいることがわかって、どうせやるなら韓国音楽のレーベルを作ろうと言うことになったんです。それで当時ソイツァーミュージックに在籍していた藪下さんと一緒に、「NUKES」というレーベルを立ち上げたんです。
−−それは日本国内のレーベルなんですか。
森田:そうです。アンティノスレコード内のレーベルです。藪下君とは年も同じだし、ずっと一緒に仕事したかったんですけどなかなかチャンスがなくて、「NUKES」でやっと実現したんですよ。ちょうどワールドカップの1年前で、韓国と日本の交流が盛り上がっているころで、「NUKES」の制作プロデューサーとしてニューヨーク、日本、ソウルを行ったり来たりする生活が始まりました。けっこういろんな作品を出すことができましたよ。アーティストごとに全部レーベル違うんですが、韓国のトップアーティストと全部直接交渉して、韓国では成立しない豪華なメンツのコンピレーションなんかも作りましたね。レーベルを超えた作品でしたから、韓国では発売できませんでしたけど。
−−その直接交渉はうまくいったんですか。
森田:うまくいきました。月に1回か2回ソウルに行って1〜2週間滞在するんです。それでレコードショップでジャケ買いでいろんなアーティストを聞いたり、ハングル読めないんですけど店頭のポップやフリーペーパー等のレコ評を雰囲気で読んで、情報収集して…気になるものはピックアップしてクレジットを見て直接オファーしていきましたね。アーティストがアーティストを紹介してくれたこともありました。
−−直接交渉してもけっこう大丈夫なんですね。
森田:最初は身構えられるんですけど、僕がそれまでsugar soulやDJ HASEBEを手掛けていたことがすごくよかったですね。みんな知ってたんですよ。あとはいろんなジャンルの音楽の話で盛り上がって信用してもらえましたね。日本人の悪い所は、海外に日本のやり方を持ち込むところだと思うんですよ。僕はまずその国のやり方でやってみて、そのなかで日本のやり方を提案してみるんです。彼らの意見を尊重しながらでもこうやったほうがいいよって説得すると納得してくれるし、情熱でぶつかっていって、結果的にみんなが理解してくれて形になったというのは、僕にとってはすごい財産になりました。今でも韓国のアーティストとは仲よくしてますし、日本に来たら必ず連絡してくれますよ。
−−とてもいい形で交流が続いてるんですね。
森田:僕は代わりにDJ HASEBEにトラック作ってもらったり、KEN ISHIIや小西(康陽)さんにリミックスしてもらったり、日本のミュージシャンとコラボレーションさせて日本でもジョイントイベントをやったりして、日本のアーティストも韓国の音楽に興味を持ってくれるし、韓国の音楽カッコイイじゃん、って新しい交流も生まれるんですよ。
−−素晴らしいですね。
森田:韓国は日本の技術のすばらしさを知ってるんですよ。日本のいいエンジニアを紹介したり日本でレコーディングしたり、そういう技術の交流が今後はもっとあるべきなんですよ。いいエンジニア、いいスタジオがあればロンドンやニューヨークでレコーディングするでしょう。日本はほんとに技術が優れてるし、エンターテイメントの分野はすごくすすんでるから、技術の輸出はできると思うんです。韓国はパフォーマンスや歌、ラップでは、とてもレベルが高いんですよ。だからそれらをミックスすれば全然世界に通用すると思うんです。そういうこともビジネスチャンスとしては日本にとっていいチャンスだと思うんですよ。
−−日本の技術と韓国のパフォーマンスがあれば世界に通用するということなんですね。
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