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FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立

森田和幸氏

−−たしかにプロモーションの方法もここ数年でずいぶん変わりましたよね。後藤さんとはその後もいろいろなプロジェクトをいっしょにやられてますよね。

森田:そうです。僕自身、次のシーンとして日本でのヒップホップ、R&Bというジャンルを考えていて…海外ではレーベル単位でプロデューサーがきちっとしていて、きちんとサウンドを作っていくっていう動きがありましたよね。そういうことに興味があったし、一時J-RAPブームみたいなのがありましたけど、もっと本格的な日本語のヒップホップが来そうな波を感じていて、今後はそこがメインストリームになるだろうなと感じていたんです。後藤さんともそういう話をたくさんして、意見が一致したので、じゃあそういうレーベルをやろう、ということになって、ワーナーのなかにFLAVA RECORDSっていうレーベルを設立したんです。

−−FLAVA RECORDSはワーナー内のレーベルだったんですね。

森田:そうです。ただ実験的にメジャー内のインディーレーベルのような形で予算管理から全部自分たち管理してやるという条件だったので、予算はほんとになかったです。最初の作品は100枚くらいからのスタートだったと思います。それでも1年ちょっとで1万枚近くになりましたけどね。…バンドが小さい地方のライブハウスを回るのと同じように、DJと歌で全国のいろんなクラブを回っていると、メディアでは全然取り上げられていないのに、どこのクラブもいっぱいで、みんな一緒に歌ってくれるんです。いつのまにかこんな風になってるんだ、とクラブカルチャーの浸透度に驚きました。

−−いつのまにか浸透していたんですね。

森田:そういうトラック優先の曲作り自体は日本ではなかったですし、カラオケ全盛でわかりやすい楽曲が流行っていたころは、R&Bはサビがないし、絶対に日本では売れるわけがないと言われていたんですよ。僕もそれまでロックを手掛けてきたけどヒットにはめぐまれてなかったし、ロックも型にはまっていて面白くなかったんです。それよりはプロデューサーのあり方も含めてR&Bのほうにロックスピリットを感じちゃったんです。絶対に日本でもR&Bやヒップホップがメインストリームに来るよね、と後藤さんと話していて…今日本にそういうものがないなら自分たちでやろうということで、sugar soulをやりはじめたんです。

−−そういう流れだったんですね。ワーナーにはいつまでいらしたんですか。

森田:ワーナーはsugar soulのブレイクの手前でやめました。それまでもずっと1年更新の契約社員としてやっていたんですよ。 社員にならないか、とは毎年言われていたんですけど、ずっと契約でしたね。それまで大ヒットを飛ばした先輩達が管理職になって現場を離れたり、ヒットを作れなくなって追い込まれて営業に飛ばされたり…そういうのを見てきたんで、イヤだったんですよ。それから僕らの仕事はある種の特殊技能ですよね。ディレクターは全てを仕切ってやらなければいけない。それも才能なのに、アーティストがいくら売れてもディレクターになにも還元されないというのがすごく不満だったんです。売れてない、ヒットを出してないディレクターとどうして同じ給料なんだろうって。だから毎年契約条件を交渉できる立場にいようと思ったんです。

−−それはたしかに言えますね。

森田:それで早く印税をもらえるようになりたかったですね。なかなか認めてもらえませんでしたけど、やめる前にはほぼディレクター印税のようなものをもらえてましたね。

−−そこまでいくとディレクターというよりもうプロデューサーですよね。

森田:結果的にはそうですね。それに35歳くらいには現場からは引退しようとも思ってたんです。

−−早いですね。どうしてですか。

森田:音楽的な感性には限界があると思ったんですよ。自分たちが20代のときに、「30過ぎたオッサンにガタガタ言われたくない」って思ってやってきたんで(笑)…売れる売れないとか、ジャケットや歌詞がどうのとか、ダサイオッサンにわかるのかって思ってましたからね(笑)。買うユーザーはもっと若いんだし。でも自分がそうなったら、やっぱりそのときの20代とは感性が違ってきてしまうだろうし、自分の現場としてのピークは36、37でいい、そのときにはスパッと引退しようと決めていたんです。

−−潔いですね。

森田:だからそれまでに自分ができることは、若い才能を引き上げること、後進を育てることですよね。そのためにプロデューサーとしての地位、権威をもっと上げたいということだったんです。印税のこともそうですね。売れたときにはみんなでシェアできる状態にしておかないと、いい才能が入ってこないでしょう。僕がそう思っていたタイミングで、高橋克典君がコロムビアに移籍することになって、移籍して担当してもらえないか、って言われたんです。本人からもマネージメントサイドからも。僕としても高橋君を完成させていなかったし、ぜひやりたいと思ってました。それでワーナーを辞めることにしたんです。

−−それで独立なさったんですね。

森田:そうです。でも最初ワーナーを辞めると決めたときは、フリーのディレクターになるつもりはまったくなかったんですよ。フリーでやることはそれなりにリスクも負いますし、対会社という信頼もないですからね。…いろんなプロダクションとかから声をかけていただいたりして、どうしようか考えていたときに、ビーエーシーの永田社長に報告したんです。「ワーナー辞めることになりました」って。そしたら「協力してあげるから会社作っちゃいなさいよ」って言ってくださったんです。僕は会社の作り方なんてまったくわからなかったし、そのつもりもなかったんですけど、個人でやるより、会社にしたほうがいろいろ便利なことが多いから、会社にしちゃいなさいって。それで作ったのが(有)ボーダー・グランドなんです(笑)。

−−そういう経緯だったんですね。

森田:ワーナーを辞めるときも、いろんなアーティストさんから続けてやってくださいと言われてたんで、それぞれのアーティストごとにプロデューサーとしての契約をすることになって…ちょうどsugar soulもメジャーに上がるときでしたしね。そのかわり、僕がやる場合はビジュアルからライブ、レコーディングまでトータルプランニングで担当させてください、全部やりますからっていうプロデューススタイルでやってました。

−−プロフィールを見ると、(有)ボーダー・グランドを設立した年にドラマ「踊る大捜査線」の音楽プロデュースがあったんですね。独立してからも順調に仕事をなさって…

森田:そうですね。仕事をバンバンやりつつ、独立して2年目ぐらいですかね…sugar soulがブレイクして、やっとクラブミュージックっていう自分たちの世代のカルチャーをメインストリームに持って来られた、という感慨はありました。でも自分の中でひとつ達成してしまうと、次のことをやりたくなるんです。精神的に余裕があるときにそうなるんでしょうけどね。ある程度sugar soulをブレイクさせることができて、次に僕は何をやればいいんだろうと考えてしまって…

−−次なる目標に向かっていったわけですね。

森田:今は自分の名前で仕事も来るようになったし、ある程度の評価もしてもらえるようになった。でもこのまま2、3年ぐらいしたら、いずれ自分にとっては目標を失うときが来るだろう。自分がほんとにプロデューサーとして確立できているのかどうか、確かめたくなったんです。それで一度日本を離れよう、と思ったんです。

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初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
▼ FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
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