リレーロゴ 森田和幸氏 BACK NUMBER

 ロードランナー・ジャパン(株)代表取締役CEO森田和幸氏のインタビュー後編をお届けします。ワーナーミュージッでクディレクターとして数々のアーティストのトータルプロデュースを手掛けたのちに独立、「踊る大捜査線」をはじめとするドラマ、映画の音楽プロデュースも行い、ディレクターとして絶頂期にあった2000年、突然の単身渡米で森田氏が得たものとは?アジアの一員として、アジアのミュージックシーンでトップを目指す森田氏が、次なるステップとして選んだロードランナーの今後とは?

森田和幸氏 初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと

−−ビーエーシーをやめられてワーナーに転職されるんですね。

森田:そうですね。転職にあたって声をかけていただいた会社は他にもあったんですけど、そこで寺林さんの言葉を思い出したんです。やっぱり最初に音楽業界で僕を認めてくださって声をかけていただいたのは寺林さんだったので…ちょうど寺林さんがワーナーで独立した別レーベルを作られるときだったので、「じゃあこっちに来るか」って言っていただけて、織田裕二君の音楽は続けるという条件ものんでいただいて、その新しいスペッキオというレーベルに入りました。 自分で見つけてきたバンドを担当しながらレコーディングやビジュアルのプロデュース、ライブのブッキングからフライヤー作りまで自分たちでやりました。1年ぐらいやってたんですが、結局そのレーベルは解散になり、寺林さんも辞められて新たなレコード会社を作られることになったので、僕も連れて行ってくれるのかと思ったら、「お前は一度メーカーのシステムの中で勉強した方がいい。だから会社に残れ」って言われて、僕はワーナーの邦楽本部に改めて入ったんです。レコード会社のディレクターとしての実質的なスタートはそこからですね。

−−念願のディレクター業務はいかがでしたか。

森田:ワーナーで自分で見つけてきたアーティストはけっこう失敗続きでしたね…ワーナーではその時期、邦楽のロックを全くやっていなかったので、僕はロックをやろうとしてたんですけど…。まだ自分の思い入れだけでメーカー側のシステムをわかっていなかったんですね。音楽が良ければ売れると思ってたんです。メーカーのシステムで勝ち抜かないと、どんなにいい音楽を作っても押してもらえない、売ってもらえない現実を知ったんです。2年ぐらい全くヒットを出せなかった。僕はアシスタントからプロデューサーになったタイプではなかったので、誰かの下についたりはしなかったんですけど、熱いタイプだったからか、年齢的に下だったからか、先輩のプロデューサーやアレンジャーさん、ミュージシャンの方々にもけっこう可愛がってもらったんですよ。その点では恵まれていたんですが、先輩たちに「いいものは作ってるんだけどね」って言われながらもヒットが出せなくて…コレではダメだ!と思いました。

−−具体的にはどんなバンドを手掛けられていたんですか。

森田:たくさんあるんですけど…当時はイカ天のバンドブームで、あまりにもテクニックのないバンドがどんどんデビューする現状に対するアンチテーゼのようなものをやりたくて…。エレガントパンクっていうジャズ畑出身のバンドを偶然見つけたんです。ミッシング・パーソンズの日本版のようなバンドで、ボーカルが女の子だったんですが、テクニックもあるしうまくてキャッチーなものができると思ってデビューさせたんですけど、売れなかったですね。ジャズ的なアプローチをする若いバンドも少なかったし、「Guitar Magazine」とか「Player」とか、音楽専門誌ではすごい高い評価をしてもらってたんですが、まだバンドブームだったのでなかなかうまくいかなかったですね。 それからDEEPっていうバンドも担当しました。最初に持ってきたディレクターが異動になったので、僕がやることになったんです。かっこよかったし、僕もやりたかったですし。けっこう鳴り物入りでデビューしたんですけど大きなブレイクまではいきませんでした。渋公を目標にがんばろうってやってたんですが、結果的にパワステ2DAYSまででした。 それから高橋克典君も担当しました。彼はすでにデビューしていて、ファーストが期待ほどはブレイクしなかったんですよ。それで1枚目がうまくいかなかったので、事務所サイドの意向もあって、メーカー側からも若いディレクターを用意することになって、僕がやることになったんです。平行してずっと織田君をやっていたし、役者も音楽もやるっていう場合のノウハウを持っていましたから。それで音楽制作からしきらせてもらうという条件で、CMのタイアップ曲をやらせてもらえることになったんです。それで伊秩弘将さんの曲を松本晃彦さんにアレンジしてもらって、詞は康珍化さんにお願いしました。康さんの歌詞が好きで、飛び込みで書いてもらって…。そのときもドラマのイメージと本人のイメージとリンクさせたんですが、そのドラマで彼が大ブレイクしたのでCMもうまくイメージが重なって、曲もヒットしました。

−−何のドラマですか。

森田:…なんだったかなぁ…中山美穂ちゃんが出ていたんですけど…(1995年フジテレビ系ドラマ「For You」)。そのときに出した曲(「君のKissしか欲しくない」)が売れて、初めてメーカー内でも評価が出たんです。ヒットが出ればメーカー内でもいろいろ条件出せるようになりますよね。予算も使えるようになるし。そのときにこれが「メーカーのシステム内で制作する」っていう術なんだなと初めてわかりました。自分がヒットを出さなければ自分が抱えているアーティストも幸せにできないなと。

−−寺林さんはそれを経験しろと言っていたわけですね。

森田:そうですね。「音楽バカ」になるなということだったんでしょうね。それで高橋克典君が当時のワーナーの邦楽売上の一部を担うところまで来てくれたんで、僕もある程度いいポジションで仕事ができるようになって、そろそろ次のシーンの音楽をやりたいと思っていたときにニューワールドの後藤さんと出会って、THE BIG BAND!!をやることになったんです。いしだ壱成君は当時は名前も売れていたし、ソロでレコードも売れてましたよね。でも役者のいしだ壱成よりTHE BIG BAND!!に興味を持ったんです。最初ビデオを見せてもらったのかな?すごいかっこよくて、クラブミュージック以降のロックっていうのを考えていた時期だったから、僕がやりたいと思っていたニュアンスにすごく近くて、ライブを見に行ったらやっぱりすごくよかったんです。後藤さんはそのときにライブのブッキングとか彼らのサポートをしていて…デビューにあたって何社か争奪になってたときに、メンバー自身が僕とやりたいって言ってくれて、それでワーナーから出すことになったんです。

−−THE BIG BAND!!はいしだ壱成がメンバーというだけではなくて、音楽的にも話題でしたよね。

森田:そうですね、かなり鳴り物入りのデビューだったので、いろいろやれましたね。目玉のステッカーをいっぱい貼って、渋谷でストリート・プロモーションもやりました。当時はストリート・マガジンみたいなもができはじめたころなんですよ。「Warp」が創刊された頃ですね。だからストリート・プロモーションもほとんど行われてなかったんだけど、海外の状況とかを見ていて、僕はずっとそういうことをやりたかったんです。それまではテレビ局と雑誌社だけ行けばプロモーションになってたんですが、MTVやスペースシャワー等音楽チャンネル、ストリート雑誌とか、それまでだれもプロモーションしてなかったところに声をかけたり、ユーザーに近い感覚でプロモーションを展開していきました。THE BIG BAND!!は大ブレイクはさせられなかったけど、ここでやってみたプロモーションのノウハウはSugar SoulやDJ HASEBEのときに生かせました。

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ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代
音楽生活を謳歌した大学時代 ロックの地位向上を目指してスタッフを志す
ナベプロに入りたい!熱意が通じて…
織田裕二との出会い〜共に苦労した下積み時代
ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い

▼初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
世界で通用するミュージックマンになりたい
 〜アメリカで出会ったKOREAN MUSICの衝撃

単身渡米で得た価値観 〜世界を目指すならアジアのトップを目指せ!
ロードランナーでの挑戦
世代交代の先陣を切って 〜パンクスあがりのCEOがめざすもの〜


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