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ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い

森田和幸氏

森田:織田君もだんだん知名度が出てきて、映画「彼女が水着に着替えたら」(1989年公開)でピックアップされて、それで僕らもさらに頑張ろうって気持ちになりました。それからはあれよあれよという間に役者として注目されるようになって、そして「東京ラブストーリー」(1991年)ですよ。この時期にナベプロでは吉田栄作くんを売り出していたんです。だから僕らは吉田栄作くんには絶対負けたくなかったですね(笑)。あと、「湘南爆走族」で一緒だった江口洋介くんもブレイクしてて、この3人で役者もやるけど歌もやる、っていうような役者ブームができましたね。

−−それでトレンディドラマ・ブームになったんですよね。

森田:そうですね。それで「東京ラブストーリー」のときに、僕はこのドラマにぴったり合った曲をつくりたいと思ったんです。ちょうど東芝EMIに移籍になったので、それを機に最初から発注も含めて全部しきらせてもらったんです。このときにも木崎賢治さんのことを思い出して、安藤秀樹さんに飛び込みで曲をお願いしました。まだ「東京ラブストーリー」の撮影が始まった頃ですから放映されていませんでしたけど、そのイメージにとにかく近づけたかったんですよ。とにかく飛び込みでいろんな作家にアタックしましたね。吉川晃司さんのアレンジをしていた松本晃彦さんのアレンジがすごく好きで、松本さんに編曲をお願いしたり…彼とはのちに「踊る大捜査線」でもいっしょに仕事することになるんです。僕が初めてディレクターまで務めたのが東芝への移籍第一弾、「歌えなかったラヴ・ソング(作詞:真名杏樹、作曲:都志見隆、編曲:松本晃彦/CW「永遠の灯」(作詞・作曲:安藤秀樹、編曲:松本晃彦)なんです。

−−あの曲がそうだったんですか。

森田:ちょうどCMもやることになって、CMでもあの曲を口笛で使ってもらえるようになったんです。最初クライアント側は別の曲を使おうとしてたんだけど、「今制作中の曲があるから、それでトライさせてください」ってお願いしたんです。社長もとても協力してくれて、口笛を使うことにおちついて……スズキセルボのコマーシャルだったんですけど、セルボのイメージ、東京ラブストーリーのカンチのイメージ、それと織田君の歌が重なって、結果的には70〜80万枚の大ブレイクになりました。

−−いきなり大ヒットでしたよね。

森田:役者としても大ブレイクしてすごいタイミングでしたね。でもそれまで嫌な思いもいっぱいして、門前払いも食らってきてましたから、妙に冷静ではありました。「歌えなかったラヴ・ソング」を作ったときも、もう1曲アップテンポな候補曲があって、東芝サイドではそちらを押していたんですよ。僕としては「歌えなかったラヴ・ソング」しかありえないと思っていて…社長と相談して、「この曲で3万売れなかったら僕は才能がないと思ってこの業界諦めます。だからやらせてください」って言ったんですよ。そしたら社長が「あなたがそこまで言うなら、こっちでやりなさい。東芝には言っておくから」って後押ししてくれて。自分自身の思い入れを信じて成功したので、曲でヒットを出せたのが嬉しかったです。

−−でも急に大ブレイクして、環境が変わったりしませんでしたか。

森田:ええ、あれで急に世の中変わっちゃいましたね(笑)。それまで見向きもしなかった人達から急に頭を下げてきて…40代50代の編集長やプロデューサーが手のひら返すようにやってきて「今度ぜひお仕事を…」って来るんですよ。だからすごく冷静にそれを見ることができて、その冷静な自分もがもう一人いたおかげでヘンに調子に乗ることもなかったと思います。

−−それまで苦労した甲斐がありましたね。

森田:そうですね。ただほんとに忙しかったんですね。ドラマを3本くらい掛け持ちして、平行して取材もこなしてレコーディングもやって…僕はマネージャーでもあり原盤ディレクターでもあったから、曲や歌詞の発注をし、打ち合わせをしてスタジオに行って…ようやく車も使えるようになったんで、朝会社の車で運転して織田君を迎えに行って現場に入れて、僕は都内に戻って音楽の打ち合わせをして夜終わる頃に戻ってきて送り迎えをして…そういう生活を送ってましたね。

−−自分の寝る時間なんてないですよね。

森田:ドラマなんて夜遅いし朝は早いし…ほんとうに寝る暇もないですよ。マネージャーはほんとにキツイですね。スケジュール合戦になるし、携帯電話もまだ普及してない時代ですから。ほとんど公衆電話か、あとは肩掛けのボックスみたいな携帯ありましたよね?あれを持たされて使ってたんですけど、相当ストレスがありました。後半はさすがに忙しすぎて現場にもう一人マネージャーをつけてもらいましたけど、僕も現場にはずっと顔出してました。売れたからといって現場をおろそかにしてはいけないっていう永田社長の方針だったんです。永田社長自身、必ず現場に顔を出してましたからね。そういう基本的なことがやれない人は、いつまでたってもダメなんだよ、って言われました。

−−それもとてもいい教えですね。

森田:そうですね。ほんとうに基本的なことをたくさん教えていただきました。それで織田君がブレイクして役者としても音楽としても順調に進んで、僕も3年目ぐらいになったころに、アフリカに行く仕事があったんですよ。織田君が連載コラムをやって最終回はパリ・ダカール・ラリーをおっかけるレポートにする、っていうのを女性誌「Ray」に持ち込んだらOKが出てほんとうに行けることになったんです。スタートのパリから追いかけていって、全部追いかけるとちょっと時間も長いので、途中からアフリカに飛んでセネガル行って…それで精神的にもちょっと考える時間がとれたんです。息抜きになったというか…それまで馬車馬のように働いていて考える余裕もなかったのに、急にそれらから解き放たれて…しかもアフリカの人達は、太陽が出たら起きて、働いて、太陽が沈んだら寝るわけでしょう。その姿を見たときに、「やっぱり人間らしい生活をしなきゃいけないよなぁ」って(笑)。僕は何のためにこの業界に入ったんだろう、何のために仕事してるんだろう、って考えたら、やっぱり音楽をやりたいためにこの世界に入ったんですよね。もうなんとかここまでやってきたんだから、これからは音楽に専念してもいいんじゃないだろうか?って決心したんです。

−−アフリカで本来の自分を取り戻したんですね。

森田:そうですね。それで帰ってきてから社長と話しました。「あなたは入るときからそう言っていたし、いずれそう言うだろうと思っていたから」と言ってくださって…ただ条件として「織田裕二の音楽ディレクターは続けて欲しい」って言ってくれたんです。織田君は音楽でも軌道に乗ってきていたところだったんで、仕事として続けてくれないか、と。僕としてもやりたかったので、「ぜひやらせてください」と。

−−すばらしい円満退社だったんですね。


 スタッフとして働きたいという固い意志を認められて音楽業界に入り、実績を残して念願のレコードメーカー転職のチャンスをつかんだ森田氏。幸運な出会いが多かったことはもちろん、森田氏の類い希なる情熱と努力が実を結んだと言えるでしょう。
 さて、後編ではワーナーでディレクターとして仕事を始め、sugar soulや高橋克典のヒットを生み出したのちに独立。「踊る大捜査線」を初めとする新しい仕事も順風満帆とも思えた森田氏に訪れた新たな転機について、また、意外とも思えるロードランナー・ジャパンの就任劇の真相とに迫ります。ご期待下さい。

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INDEX

ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代
音楽生活を謳歌した大学時代 ロックの地位向上を目指してスタッフを志す
ナベプロに入りたい!熱意が通じて…
織田裕二との出会い〜共に苦労した下積み時代
▼ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い

初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
世界で通用するミュージックマンになりたい
 〜アメリカで出会ったKOREAN MUSICの衝撃

単身渡米で得た価値観 〜世界を目指すならアジアのトップを目指せ!
ロードランナーでの挑戦
世代交代の先陣を切って 〜パンクスあがりのCEOがめざすもの〜


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