−−織田裕二さんはまだブレイク前だったんですか。
森田:当時の織田君はデビューしてまだ数ヶ月でまったく芽が出てない状態で、僕と年も近かったんです。永田社長は社長でありチーフマネージャーでもあって、基本的なことは社長が決めて、現場は僕がやるっていう形で…永田社長は僕と織田君を同じように育ててくださったんです。だから織田君とはほんとに同期みたいな感じでしたね。僕は芸能界も初めてでさっぱりわからないし、ドラマの仕事ももちろん初めてで、朝、駅で待ち合わせしていっしょに現場に行くっていう日々でした。タクシーなんて使えない頃ですから。
−−そういう時代もあったんですよね。
森田:はっきり言って売れてない新人タレントのマネージャーって言うのはすごい仕打ちを受けるわけですよ。いじめられますし、箸にも棒にもかけてもらえなくて…当然毎日忙しい訳じゃなく、結構暇だったので会社で座ってると、「あなたタダで給料出してるわけじゃないのよ、なにか考えなさい。この業界は自分でやらなくちゃダメなの。待っていても仕事はやって来ないし、自分で取りに行かなくちゃ。人をよく見て、良いものは人から盗みなさい」と怒られました。それまではなにか教えてもらえるものだと思っていたんです。とても口惜しかったんですね。畜生!って思いました。もちろん私生活は音楽漬けで、もらったお給料は全部レコードやライブにつぎ込んではいましたけど、仕事は音楽からまったく離れていたので、自分が目指していた音楽中心の生活と、現在自分の置かれている状況のギャップがあって、それが歯がゆく思っていた時期でもありました。
−−確かにそういう意味でもつらい時期だったんでしょうね。
森田:もちろん社長には「いずれは音楽に専念した仕事したいです」とは言ってありましたし、社長もその点は理解してくれてました。「いずれはそうすればいいんじゃないの」って言ってくれてたんですが…仕事上僕も煮詰まってたんでしょうね。それから半年〜1年くらいたったころかな…仕事でたまに音楽業界の人に会うとことがあったんですが、若かったしわりと音楽はわかってるほうだったから先輩たちに飲みに連れてってもらったりしてたんです。それである音楽事務所の先輩に言われたんです。「オマエが今やってることをちゃんとやらないと、オマエの存在価値はないんだよ。オマエがどんなにロックを知ってようが、いろんなアイデアがあろうが、関係ないんだよ。だから今担当してる子をちゃんとやれ。それが仕事なんだよ」って。「そりゃそうだよな」って、そこで目が覚めたんですよね(笑)。
−−とてもいいアドバイスをもらえましたね。
森田:そうですね。それまでは煮え切らない毎日で、役者のマネージャーがやりたい訳じゃないとか、期待されて入った割には自分が担当してる役者は誰も知らないし、当然親も知らない。自分は何やってるんだろう。いよいよ日本のロックもビジネスになってきて、BOOWYに始まりレベッカとか…俺がホントにやりたかったことが形になってきてるのに、俺はまだこんな事をしている…そういう歯がゆい思いもありました。でも社長に言われたこと、その先輩に言われたことで初めて「じゃあ織田君のことをもっとちゃんと、自分で考えよう」と思って、企画書を作って、コンセプトを作ったんです。企画書の書き方なんて全然知らないんですけど、自分で「キーワード」「キャッチフレーズ」「売り文句」みたいなのを作って…今では別にどこのプロダクションでも普通にやってることなんでしょうけど。
−−自分がすべき事に気が付いたんですね。
森田:赤城圭一郎さんとか小林旭さん、石原裕次郎さんも、スターと言えば役者も歌もやっていましたよね。ハリウッドスターもそうでしたし。でも当時の芸能界にはそういう「スター」がいなかったんですよ。それで役者で歌もやっている、昔のスターをコンセプトにしようと思ったんです。小林旭さんだったら「マイトガイ」とか石原裕次郎さんなら「太陽族」とかキャッチフレーズがありましたよね。だからそういうキャッチフレーズを考えて、ビジュアルはこういうファッションで、音楽はこういうサウンドで、歌詞はこんな感じ…ってかなり細かく考えて具体的に書いたんです。
−−ずいぶん具体的だったんですね。
森田:けっこう細かく作りましたね。雑誌社はこういう雑誌にアプローチしたい、テレビはこういう番組に出したいって…それで会社でひとりでワープロで企画書を作って、社長の机の上に置いておいたんですよ。社長がそれを見て「コレは貴方が自分で書いたの?それなら自分の思うようにやってみなさい」って言ってくれたんです。それまではスケジュールとか上の先輩の指示を待ってやっていたんですけど、そこから自分で動くようになったんです。
−−森田さんの企画が認められたんですね。
森田:嬉しかったですね。それで自分でいろんな雑誌社に持ち込んで話したり、テレビ局もあたってみました。もちろんアポすら取ってくれないところもたくさんありましたけど、そのなかでも時間を割いて話を聞いてくれたり、取り上げてくれたところにはとても感謝してますし、今でも長い付き合いになっていますね。でもほとんどが売れない役者なんかには時間をくれないし、ヒドイ扱いを受けていたんで、「ちくしょう、いつかあいつら土下座させてやる」って当時は思ってました(笑)。 そのうちに織田君にチャンスが回ってきたんですよ。当時はワーナーに所属していてレコードが出せることになったんです。まだレコードメーカーのディレクターが強い時代で、ディレクターが中心になって仕切っていました。歌謡曲の作り方として作詞家・作曲家・編曲家それぞれに発注しますよね。僕はレコーディング自体僕は初めてだったし、どうやって曲を集めるのかっていうことも知りませんでしたから、先輩に教わりながらやっていたんですが、ちょっと不満もありましたね(笑)。「俺ならこんな風にしないのに」とか、「こんな歌詞はイヤだな」という思いはあって…でもビジュアルにはこだわりがあったんで、このカメラマンでこういうイメージでやりたいということはお願いしました。 売れない頃はスタイリストとかもつけられないので、全部僕が自分でスタイリングしてました。お金をもらってお店へ行って服を買ってきて…ジーンズに白いTシャツっていうイメージを作ったんですよ。
−−そうだったんですね。
森田:プロモーションも画期的なことをやろうとがんばりました。小さなミニ看板の前を通ると曲が流れるようにしたり、役者で音楽もやるっていうのを利用して、ビデオとCDを同じパッケージにして商品として売りたかったんです。ミュージックビデオとかまだそれほど売られてなかったんですよね。ビジュアルと音楽を一致させることによって総合的にブレイクさせたかったんです。当時はワーナーに寺林さんがいらしたんですけど、(寺林晁氏:現ユニバーサルミュージック(株)執行役員)がいらっしゃって、そういう企画を出したら「これ森田君が考えたの?この企画くれない?少年隊でやりたいんだけど(笑)」って興味持ってくださったこともありました(笑)。「僕は織田君のために一生懸命考えたので…」って言いましたけど(笑)、でも僕のことを評価してくださって、冗談まじりに「君は面白いね。いつかワーナーに来ないか」って誘ってくださったんですよ。あれは嬉しかったです。そのときはまだ織田君がブレイクしてなかったから、今は無理ですけど、織田君がうまくいったらお願いに上がるかも知れません、って言いましたけど。
−−やっと認めてもらえたんですね。
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